うたうたい

たたん、という振動が、手すりにくっつけた額を通して身体の中に伝わってくる。
たたん。
次は、かいがい公園入口、かいがい公園入口──
駅名の「かいがい」が「海崖(かいがい)」の平仮名表記だと知ったのは、いつのことだっただろうか。
風が吹く、あの崖を思い浮かべる。そしてふとあのスタジオの存在が頭を過って、ふっと息を吐く。
電車が減速して、私はぐーっと右手側に引っ張られた。がくんという反動と共に、電車のドアが開く。
かいがい公園入口、かいがい公園入口。
維月さんのあの話を聞いてから、例の公園からは足が遠のいている。
スタジオも、あの眩しさを思い出すと足を運ぶ気にはならない。また行く日はあるのかもしれないけど、それはたぶん、今日ではない。
今日では。
だって私は。私には。
あの場所は。
間もなく、ドアが閉まります。ご注意ください──
こつんと、ローファーが音を立てる。
床に置いていた荷物を引っ掴んで、走り出す。
風の中に走り出て振り返ると、目の前で音を立ててドアが閉まった。プラットフォームに呆然と立ち竦んだまま、溜息を吐く。声が混じる。
「……あぁ」
もう、という呟きは、風に攫われて私の耳には届かなかった。

からん、という音が耳に響く。この前と同じようにカウンターに向かっていた綴が、椅子に座ったまま私の方を振り返った。
「あ、歌。久しぶり」
久しぶりというほど間は開いていない気がするけど、「久しぶり」と返しておく。
「またあの公園行ってきたの?」
「……いや、今日は真っ直ぐここ来た」
「そっか」
綴がぽんと椅子から飛び降りながら、ひとつ頷いた。その横顔がどこかほっとしているように見えて、苛立つ。
「………ほっとした?」
「え?」
「あの崖に私が行ってなくて。安心した?」
「……安心は、したよ」
彼は、嘘を吐かない。知っていた。
知っていたから、痛かった。
「………なんで」
綴が、此方を向く。『なんで』は俺の台詞だとでも言いたげに、首を傾げる。
「なんで、生きているのが良いことなの」
「……歌は、なんで飛びたいの」
探るような、気遣うような目が、私を見た。見当違いな優しさが痛くて、目を逸らしてしまう。
「勘違いしないでね」
息を吸い込む。一息に、言ってしまおうとする。
「別に家庭環境が悪いとか、虐められてるとか、そういうので死にたくなってるわけじゃない」
じゃあなんでと、綴の目が問う。
その純粋さに、(わら)ってしまう。
「暇なんだよね」
私の嗤いを含んだ声に、彼が顔を上げた。
「退屈って言うの? 毎日変わり映えがしなくて、希望とか夢とか無くて、未来が見えてくる気がしない。自分から何か動くような度胸もない。気付いたら、檻の中にいる」
「………歌」
綴の声がする。私の声が、勢いを失っていくのが分かる。
「……生きようと死のうと、どっちだって良いでしょ」
「良くないよ。友達だもん」
じゃあ、どうして私に声を掛けたの。
どうして、わざわざ友達になんてなろうとしたの。
「…私は友達だと思っているとは限らないのに?」
「じゃあ、歌はどう思ってるんだよ。分かんないよ、言ってくれないと」
違う。
「歌にとってはさ、俺はどういう存在なの?」
そうじゃないでしょう。
相手がどう思ってるかなんて分からない。
私は貴方のことを、友達だなんて思っていないかもしれない。
そう突き付けて、私は貴方に。
諦めて欲しかった。
対話を諦めて、放っておいて欲しかった。
なのに。
「ねぇ、歌」
綴の声が続く。わんわんと頭に響く。
放っておいてよ。
お願いだから。
私を照らさないで。
明るい方に引っ張って行こうとしないで。
「歌、俺は、」
ぐらっと揺れる。あぁ、まずい。
「…………ほっといてよ」
息を吸い込む。怒鳴りつけたくなる。
怒鳴って、叫んで、傷付けて。
嫌われて、放っておかれて。
ここに来ることも、できなくなって。
そしたら。
そうしたら、迷いなく──
「綴」
維月さんの声。
息が切れる直前に水面に顔を出した時のような、ひゅっという呼吸音。私と綴のそれが、重なった。
「綴、こっちおいで」
穏やかだけど有無を言わせない、不思議な声。
「………っ」
彼が何か言おうとしたのが分かった。
はい、と返事をする気にはならない、かと言って私に捨て台詞を吐けるわけでもない。
迷って、揺れて。
唇を噛み締めて、綴は黙ったまま歩いて行った。
周りが静かになって、はぁと息を吐く。震えているのが、癪だった。

からん。
扉が開いて、透夏さんが入ってくる。タイミングとしては出来過ぎていた。
「ただいま」
にこっと笑う。その柔らかさに、揺れた。
「………透夏さん」
「うん?」
「なんであの人は、私なんかに拘るんですか」
脈絡も何も、あったものじゃない。
だから、人に感情を揺らされるのが、私は嫌いだ。
「さぁね。…僕には分からないけど」
今までの会話を全部聞いていたかのように、でもあくまで飄々と、透夏さんが答える。不思議と、突き放すような冷たさは感じない。
「助けようとした」
すっと、背中が冷たくなる。
「だけじゃ、ないと思うよ」
顔を上げた。
「純粋な善意で人を助けられるほどの余裕は、あの子には無い気がするから」
ひと呼吸置いて、透夏さんが続ける。
「だからきっと綴には、歌ちゃんじゃないとだめな理由があったんだろうね。それは詩の感性かもしれないし、その優しさかもしれないし、別の何かかもしれない」
「優しくないですよ」
そうかな? と透夏さんが首を傾げた。
優しくない。優しくなんて、なれない。
「人の優しさが痛いのは、自分がそう出来ないのが苦しいからじゃない?」
「違いますよ。優しくされる価値なんてないからです」
「…どうして?」
威圧感は全くない。それが、痛かった。
優しくなれない。私は優しくない。
そう信じて逃げていたものを、透夏さんは優しく突きつけてくる。
優しくなりたい。本当は、私も。
「………すみません、帰ります」
扉に向かう。手を掛ける。
そのまま、駆け出してしまいたくなる。
「歌ちゃん」
ぴたっと、動きかけた足が止まった。
静かな声。でも、耳に真っ直ぐ届く。
「……またおいで。待ってるから」
振り返る。透夏さんは、此方を向いてはいなかった。
でもその背中がどこか寂しそうに見えたのが、妙に印象に残った。