うたうたい

私は、戸惑いながら小さな扉の前に立っていた。あの公園にまた行こうと思って、電車を降りたのは覚えている。
気が付いたら、ここに立っていた。前に綴に連れて来られた、スタジオ。
何故だろう。分からない。
立ったは良いが、中に入る気は全く起きないのも不思議だ。でも確かに、私のような人間がこんなところに居ても迷惑だろう。
そう思って後ろを向くと、薄暗い階段を降りて来るシルエットが見えて、壁ぎりぎりに寄った。
「入らないの?」
聞き覚えのない声。知らない人だ。客だろうか。
「…はい。帰るところなので」
「そう。じゃあ、失礼しますね」
見え透いた嘘を吐いた私の前を通り抜けて、彼が扉を開く。
眩しい世界が、少しだけ見える。
「あ、透夏(とうか)さん。おかえりなさい」
綴の声。あれ? と思う。
おかえりなさい、と言ったか、彼は。
「ただいま。何だかんだ、久しぶりだね」
「ですね。あ、歌だ!」
その声が聞こえて間もなく、綴が扉から勢いよく顔を覗かせた。私はびくっと肩を震わせる。逃げるにも逃げられない。
「友達?」
透夏という人が、綴にそう訊ねる。
「はい。歌、来たの? 入って来れば良かったのに」
躊躇なくそれができたら苦労はしない。
「……久しぶり」
「久しぶり。ほら、外寒いでしょ。透夏さんも」
綴に促されて、流れに乗ったまま中に入る。今日は客らしき人間は見当たらない。透夏さんが流れるように部屋の奥に入っていくのを見て、やはり店側の人間だったのだと理解した。
「歌、さっきの人がここのオーナーさんね」
「えっ」
カウンターに寄り掛かってそう言った綴の言葉に、少し驚く。歳は20代前半ほどに見えた。とてもじゃないが、自分の店を経営しているようには見えない。
「……そうなんだ」
「うん。前は透夏って名前で音楽活動してたらしいから、俺も維月さん達も透夏さんって呼んでるけど、本名は日向(ひゅうが)さん。若く見えるけど28歳」
訊いてない。
「よくもまぁ人の個人情報をペラペラと」
奥から戻ってきた透夏さんが、綴の頭を軽く(はた)く。「いたっ」と痛くなさそうな声を上げて、綴が頭をさすった。あとな綴、28だって若いんだぞと言いながら、透夏さんがカウンターに寄りかかった。丁度、それを挟んで私の斜向かいに立った格好になる。
「えっと……歌ちゃん、だっけ? 俺…あ、僕、日向と言います。さっき綴が言ってた通りだから、透夏って呼んでもらっても良いよ」
ひと呼吸置いて、彼が「よろしくね」と笑った。ふわふわとした印象を受けるそれに、少し戸惑う。
「……よろしく、お願いします」
微かに、頭を下げた。
「透夏さんもう一向に癖付かないんだから、頑張って一人称変えるの()めたらどうですか?」
カウンターの前に並ぶカウンターチェアのひとつに腰掛けて、綴が頬杖を突きながら言う。彼に促されて、私もその2つ隣の椅子に座った。
「これでも癖付いてきてるんだよ。それに一人称が『俺』の人の前で恐縮だけど、客商売の人間が『俺』って怖くない?」
急に内輪らしい話が始まって、すうっと消えたくなる。
「そうかな。どう思う?」
綴がふと此方を見て首を傾げた。私に話を振らないで欲しい。
「……どっちでも、良いと思います」
「そっか。じゃあ透夏の一人称を真似してるってことにしよう」
透夏さんがそう言ったのを聞いて、少し頭が混乱する。
「透夏、って……」
「あ、透夏はね、僕の友達のユーレイ」
ユーレイ。幽霊。理解するのに時間がかかった。
「また言ってる。創作でしょう、それ」
「まさか。あ、歌ちゃんはみえる人?」
みえる、というのが『視える』だと分かる。
「視えない人です」
「歌ちゃんもかー。綴も維月も星來も、視えないって言うんだよね。もう10年近く前に会ったユーレイなんだけど、仲良くしてくれたからさ。僕が彼に付けた名前を借りてるの」
「…そうなんですね」
根掘り葉掘り訊くのも突っ込みを入れるのも面倒で、ただ頷く。うん、と素直に頷く透夏さんを、不思議な心持ちで眺めていた。
「あ、あれ? 透夏さん帰ってきてる」
星來さんが奥から顔を覗かせて、驚いたような声を上げた。
「歌ちゃん。いらっしゃい」
「……お邪魔してます」
その挨拶が適当なのか分からないまま、頭を下げる。星來さんは笑って頷くと、奥に向かって「維月ー」と声を掛けた。
「私たちの雇い主が帰ってきたよ」
「雇い主って」と呟いて、透夏さんが笑う。
「透夏さん? 今日こそここに看板を付けましょう、何の店か分からないの大問題ですよ」
奥の方から此方に歩いて来ながら、維月さんが言う。確かに看板が見当たらないとは思っていたけど、本当に無かったとは。
「えー、ここ何の店なの? 僕もよく分かってないんだけど」
「音楽スタジオ兼ライブハウス兼カフェとかじゃないですか」
「カフェ作った覚えなーい」
透夏さんが子供のように駄々を捏ねる。
「でも、実際に飲み物も出してるじゃないですか」
「でも僕カフェ作ったつもりないもん」
こんなの、埒が開かない。
「そんなに嫌がらなくても。カフェに何か恨みでもあるんですか」
「あるよ。前に地元のカフェで彼女に振られた」
「透夏さん、それ何年前の話?」
看板を付ける話から脱線している。もう戻って来なさそうだ。
「10年以上は前かな」
「大分前じゃん」
呆れてふっと溜息を吐く。でも不思議と、居心地の悪さは減っていた。以前から知っている人の割合が増えたからだろうか。分からないまま、頬杖を突いた。

「透夏さん、カフェオレちょうだい」
綴が透夏さんにすっと手を伸ばした。店なんだから、お金を払わないと出てこないだろうに。
「タダで渡すとうちは潰れるよ」
「それくらいは流石に分かりますよ。幾らでしたっけ?」
「450円」
「高いです」
「個人経営なんだから文句言わないの」
横から星來さんが突っ込みを入れてくる。でもその表情は楽しそうに笑っていた。無造作に結われた一つ結びが揺れる。この前はステージに立つからあの髪型だったのかと思い至った。別に、特段の興味もないけど。
財布を取り出す綴を尻目に、透夏さんが私に目を向ける。
「歌ちゃんは? 何か飲む?」
「いえ、大丈夫です」
「りょーかい」
透夏さんが軽く笑って奥に入っていく。深入りされないのが、ありがたかった。
「歌さん」
維月さんに声を掛けられて、振り返る。
「ギターの手入れしてるんだけどさ、ちょっと触ってみない?」
維月さんが、手に持っていたそれをちょっと掲げた。艶々とした、アコースティックギター。
私とは交わらない、眩しい、あちら側。
「……いえ、大丈夫です」
「せっかくだから触らせてもらったら?」
綴の声が横から飛んでくる。
「………壊したら、いけないから」
綴が首を傾げたのとは対照的に、維月さんはふわっと笑って言った。
「おっけー。そこにあるから、気が向いたら言ってね」
そう言って、部屋の奥に入っていく。
黙って、見送った。
ごめんなさい。
やっぱり私は、ここにいるべきじゃないのかもしれない。
「…あの、私、帰ります。ありがとうございました」
カウンターから後ずさるように、扉へと向かう。それに手を掛けたところで、後ろから星來さんに声を掛けられた。
「歌ちゃん」
少し俯きがけに、振り返る。
「ここ、水曜と日曜以外朝の10時から6時までは開いてるから。またおいでね」
透夏さんと綴もひらひらと手を振っているのが、眩しい光の奥に見えた。
はい、とは言えずに。
ぺこりと頭を下げて、私はスタジオを出た。
からん、という扉の上に付けられた鈴の音が、妙に耳に残った。