キーボードを始めとする機材を広げる音が、床を這うように聞こえてくる。手際が良い。慣れているんだろう。
さっさと設置を終えた綴が、私を見て手招きした。
「歌、こっち。ここ」
黙って彼の右隣に膝を抱えて座る。特に事件が起きているわけでもないのに真隣に座るのは気が引けて、綴とは綺麗に正反対の方向を向いて腰を下ろした。丁度、彼と私の肩が触れないくらいの距離感。
「……なんで反対向きなの?」
「何か不都合でも?」
「いや、……無いけどさ」
呆れたように綴が笑って、一瞬の間を空けてすっと息を吸い込む。
そのまま数秒時間が止まった。彼が吐く息と共に、それが再び動き出す。
「どうしたの?」
綴は黙ったままだ。彼の右手が力尽きたように床にぱたりと落ちる。
「………怖くて」
無理だな、と思う。
私には、どうすることも出来ない。
「……ねぇ、歌」
「何」
「俺、大丈夫かな?」
知らない。
私にそんなこと訊かないで。
「……分からない」
右手で膝を抱えたまま、もう片方の手を静かに床に置く。私と彼の指先が、静かに触れた。
「でも、維月さんは嘘を吐かない人だとは、思う」
「……そうだね」
ふっと綴が笑った声が聞こえた。
「ねぇ歌」
「なに」
「俺、歌っても良い?」
だからさっきからそう言っている。
「……お好きなように」
すっと息を吸い込む音が聞こえた。
私はそこまで手が温かい方じゃないのに、この人に触れているとそう錯覚してしまいそうになる。彼の手が冷たいのだと理解するのに、数秒掛かった。
手が冷たい人は心が暖かいのだと言う。
初めて聴く彼の歌声にこんなに安心してしまうのは、そのせいかもしれなかった。
「そういえば、歌」
くるっと振り返った先、思っていたよりも近くに綴の横顔があって、慌てて人1人分の距離を空け直した。
「この曲のタイトルって何?」
本番で歌うなら考えておかないと、と彼が続けて、確かにと思った。特に何も考えていなかった私を、馬鹿に思う。
「貴方が考えて良いよ。歌うのはそっちなんだから」
「だぁから」
綴が私の目を覗き込むように見る。私は近付いた距離の分、後ろに下がった。
「歌の曲でもあるって言ったじゃん。それに俺、歌みたいに文才無いし。この詩に合うタイトル付けられるのは、歌だよ」
私にも文才と呼べるほどのものはない。
「だからさ。ね、何が良いと思う? 別に今すぐ考えろとは言わないけど」
ふっと鼻から軽く息を吐いた。仕方がない。少しは真面目に考えてやろう。
とは言え、私の中では既に候補が2つに絞られていた。無意識のうちに考えていたんだなと、自分に少し呆れる。
「……ねぇ」
綴が顔を上げた。
「貴方は、どんな風にこの曲を歌うの?」
彼が首を傾げる。抽象的過ぎたか。言い方を変えてみることにした。
「月明かりと、このスタジオの空気。どっちを連想しながら歌うの?」
綴の双眸が僅かに大きく広がった。
「……スタジオ、かな」
「分かった、じゃあこっちにしよう。『共犯』ってタイトルも考えてはいたんだけど、この方がよく似合う」
書くもの、と首を巡らせていると、綴がシャーペンを手渡してきた。よく分かっていらっしゃる。
カリカリと音を立てて、五線譜の上に文字を書く。綴が微かに息を吐いて、笑った。
「……良いね」
「それなら、良かった」
2人で顔を見合わせて、笑った。
人集りと言えるほどの規模なのかも分からない人々の後ろに、黙って立つ。床板が軋んだ音を立てた。人集りから少し離れたところに置かれたピアノの横に、綴が立っている。
星來さんと維月さんの発表の後に歌っていた透夏さんが、舞台を降りたところだ。彼が歌うと知った時には驚いたけど、その曲を聴いてもっと驚いた。『幻影』。悲しくて、綺麗で、優しい曲だった。
綴が透夏さんからマイクを受け取って、ピアノの前に立つ。すっと息を吸い込む。
「『うたうたい』です。聴いてください」
綴が少し堅い、でも優しい声で言った。柔らかい拍手が、ありがたかった。
綴の目線がふっと観衆を撫でて、その後ろに立つ私を捉える。ふっと笑う。
少し、笑ってしまった。泣きたくもなった。
ピアノの音がする。
彼が、再びすっと息を吸い込む。
あの暴力的までな明るさが、痛みが、悲しみが。優しさに変わって、昇華されていく。
それを私は、黙って見ていた。
「おつかれさまです」
そう言って、演奏を終えた彼らに近づく。
「おつかれさまー。歌ちゃんも綴くんも、頑張ったね」
「………私は、何も」
「ばーか」
背後から至近距離で綴の声が聞こえてきて、驚く。舞台から降りてきた直後の彼は、眩しかった。でも不思議と、逃げたくはならなかった。
「あの曲の半分は誰が作った? あれが曲として成立したのは誰のお陰だ?」
言い方こそ暴君のそれだけど、その後ろから優しさが滲んでいるのが、今なら分かる。
「……うん、ありがと」
「俺の方こそ。ありがとう」
互いの目を見て、ふっと笑う。星來さんも嬉しそうに、笑っていた。
「おねえさん」
足元から少し舌足らずな可愛らしい声が聞こえて、下を向く。小さな女の子が、星來さんを見ていた。小学校の低学年くらいだろうか。
「私? どうしたの?」
星來さんが彼女の方に数歩歩いて、しゃがみ込む。私は彼女たちの邪魔にならないよう、数歩後ろに下がった。
「あのね、あのね、おうた、すごくきれいだったよ」
星來さんが少し驚いたような顔をして、その後、すごく嬉しそうに破顔した。明るい、一番星のような笑顔。
「ありがとう」
女の子が少し照れ臭そうに、話を続ける。それを星來さんは優しげに、嬉しそうに、受け止める。
「せーいら……」
維月さんの声が聞こえて、振り返る。「せ」まで言ったところで彼女が女の子と話しているのを見つけたのだろう、一気に声量を落としていた。
「どうしました?」
綴と一緒に声を掛けると、いや、と維月さんが頭を掻きながら続けた。
「片付け手伝ってーって言おうとしたんだけど……小さなファンと話してるなら、良いや。そっちの方がずっと大事」
嬉しそうに、眩しいものを見つめるように。維月さんが星來さんの方を見て、優しげな微笑みを浮かべる。
「あれで自覚ないって、逆にすごいよな」
綴にコソッと耳打ちされて、ポカンとする。
「……えっ?」
「どうした?」
維月さんが此方を見て、不思議そうに首を傾げている。「なんでもないです」と言ってから、へぇ、と思う。
星月夜か。きっとすごく、綺麗だ。
「どうしたどうした。青春だねぇ」
透夏さんが後ろから、にこにこしながらやって来た。何がですか? と問う維月さんに、少し笑ってしまう。「おつかれさまです」と言うと、透夏さんが「ありがとう」と柔らかい笑顔を浮かべた。
「どうだった? 自分のうたが、うたになった気分は」
ひとつ目が「詩」、ふたつ目が「歌」。
「………そうですね」
透夏さんの目は、今日も優しい色をしていた。
「綴にだったら、書いても良いかもなって感じです」
「そっか。楽しかった?」
少し、驚く。
「……えぇ」
「それなら何より」
透夏さんが嬉しそうに笑う。その奥で綴が驚いたような顔をしているのを見て、私も驚いてしまう。
「どうしたの?」
「……俺、歌に初めて名前呼ばれた」
「そうだっけ?」
いや、呼んだことはあるはずだと一瞬思ってから、あぁなるほどと理解した。やっぱり、聞こえていなかったのか。
「そうだよ!」
綴がムキになったように言う。その妙に真剣な表情に、笑ってしまった。本当のことは、教えてやらないことにする。
「え、もう一回呼んで」
「……嫌だ」
「なんでーっ」
維月さんと透夏さんが笑っている。星來さんも此方に戻ってくるのが見えた。
「何々、仲良しだね」
「そうだな」
いつの間にか、星來さんと維月さんが並んでにやにやしながら此方を見ている。何か勘違いされている気がする、と思っていると、綴も負けじとにやにやしながら言葉を返す。
「えー、2人がそれ言うんですか?」
「どういう意味だよそれ」
「言っちゃ不味いの?」
はぁ、と綴が溜息を吐いた。
「透夏さん、俺この2人だめな気がしてきた」
「はは。まぁ、みんなのペースで行けば良いんじゃない」
勘違いされている気がする。
頑なに否定するのも面倒で、ふっと息を吐いた。また少し、笑ってしまう。
楽しいな、と思った。
それが何だかどうしようもなく、嬉しかった。
さっさと設置を終えた綴が、私を見て手招きした。
「歌、こっち。ここ」
黙って彼の右隣に膝を抱えて座る。特に事件が起きているわけでもないのに真隣に座るのは気が引けて、綴とは綺麗に正反対の方向を向いて腰を下ろした。丁度、彼と私の肩が触れないくらいの距離感。
「……なんで反対向きなの?」
「何か不都合でも?」
「いや、……無いけどさ」
呆れたように綴が笑って、一瞬の間を空けてすっと息を吸い込む。
そのまま数秒時間が止まった。彼が吐く息と共に、それが再び動き出す。
「どうしたの?」
綴は黙ったままだ。彼の右手が力尽きたように床にぱたりと落ちる。
「………怖くて」
無理だな、と思う。
私には、どうすることも出来ない。
「……ねぇ、歌」
「何」
「俺、大丈夫かな?」
知らない。
私にそんなこと訊かないで。
「……分からない」
右手で膝を抱えたまま、もう片方の手を静かに床に置く。私と彼の指先が、静かに触れた。
「でも、維月さんは嘘を吐かない人だとは、思う」
「……そうだね」
ふっと綴が笑った声が聞こえた。
「ねぇ歌」
「なに」
「俺、歌っても良い?」
だからさっきからそう言っている。
「……お好きなように」
すっと息を吸い込む音が聞こえた。
私はそこまで手が温かい方じゃないのに、この人に触れているとそう錯覚してしまいそうになる。彼の手が冷たいのだと理解するのに、数秒掛かった。
手が冷たい人は心が暖かいのだと言う。
初めて聴く彼の歌声にこんなに安心してしまうのは、そのせいかもしれなかった。
「そういえば、歌」
くるっと振り返った先、思っていたよりも近くに綴の横顔があって、慌てて人1人分の距離を空け直した。
「この曲のタイトルって何?」
本番で歌うなら考えておかないと、と彼が続けて、確かにと思った。特に何も考えていなかった私を、馬鹿に思う。
「貴方が考えて良いよ。歌うのはそっちなんだから」
「だぁから」
綴が私の目を覗き込むように見る。私は近付いた距離の分、後ろに下がった。
「歌の曲でもあるって言ったじゃん。それに俺、歌みたいに文才無いし。この詩に合うタイトル付けられるのは、歌だよ」
私にも文才と呼べるほどのものはない。
「だからさ。ね、何が良いと思う? 別に今すぐ考えろとは言わないけど」
ふっと鼻から軽く息を吐いた。仕方がない。少しは真面目に考えてやろう。
とは言え、私の中では既に候補が2つに絞られていた。無意識のうちに考えていたんだなと、自分に少し呆れる。
「……ねぇ」
綴が顔を上げた。
「貴方は、どんな風にこの曲を歌うの?」
彼が首を傾げる。抽象的過ぎたか。言い方を変えてみることにした。
「月明かりと、このスタジオの空気。どっちを連想しながら歌うの?」
綴の双眸が僅かに大きく広がった。
「……スタジオ、かな」
「分かった、じゃあこっちにしよう。『共犯』ってタイトルも考えてはいたんだけど、この方がよく似合う」
書くもの、と首を巡らせていると、綴がシャーペンを手渡してきた。よく分かっていらっしゃる。
カリカリと音を立てて、五線譜の上に文字を書く。綴が微かに息を吐いて、笑った。
「……良いね」
「それなら、良かった」
2人で顔を見合わせて、笑った。
人集りと言えるほどの規模なのかも分からない人々の後ろに、黙って立つ。床板が軋んだ音を立てた。人集りから少し離れたところに置かれたピアノの横に、綴が立っている。
星來さんと維月さんの発表の後に歌っていた透夏さんが、舞台を降りたところだ。彼が歌うと知った時には驚いたけど、その曲を聴いてもっと驚いた。『幻影』。悲しくて、綺麗で、優しい曲だった。
綴が透夏さんからマイクを受け取って、ピアノの前に立つ。すっと息を吸い込む。
「『うたうたい』です。聴いてください」
綴が少し堅い、でも優しい声で言った。柔らかい拍手が、ありがたかった。
綴の目線がふっと観衆を撫でて、その後ろに立つ私を捉える。ふっと笑う。
少し、笑ってしまった。泣きたくもなった。
ピアノの音がする。
彼が、再びすっと息を吸い込む。
あの暴力的までな明るさが、痛みが、悲しみが。優しさに変わって、昇華されていく。
それを私は、黙って見ていた。
「おつかれさまです」
そう言って、演奏を終えた彼らに近づく。
「おつかれさまー。歌ちゃんも綴くんも、頑張ったね」
「………私は、何も」
「ばーか」
背後から至近距離で綴の声が聞こえてきて、驚く。舞台から降りてきた直後の彼は、眩しかった。でも不思議と、逃げたくはならなかった。
「あの曲の半分は誰が作った? あれが曲として成立したのは誰のお陰だ?」
言い方こそ暴君のそれだけど、その後ろから優しさが滲んでいるのが、今なら分かる。
「……うん、ありがと」
「俺の方こそ。ありがとう」
互いの目を見て、ふっと笑う。星來さんも嬉しそうに、笑っていた。
「おねえさん」
足元から少し舌足らずな可愛らしい声が聞こえて、下を向く。小さな女の子が、星來さんを見ていた。小学校の低学年くらいだろうか。
「私? どうしたの?」
星來さんが彼女の方に数歩歩いて、しゃがみ込む。私は彼女たちの邪魔にならないよう、数歩後ろに下がった。
「あのね、あのね、おうた、すごくきれいだったよ」
星來さんが少し驚いたような顔をして、その後、すごく嬉しそうに破顔した。明るい、一番星のような笑顔。
「ありがとう」
女の子が少し照れ臭そうに、話を続ける。それを星來さんは優しげに、嬉しそうに、受け止める。
「せーいら……」
維月さんの声が聞こえて、振り返る。「せ」まで言ったところで彼女が女の子と話しているのを見つけたのだろう、一気に声量を落としていた。
「どうしました?」
綴と一緒に声を掛けると、いや、と維月さんが頭を掻きながら続けた。
「片付け手伝ってーって言おうとしたんだけど……小さなファンと話してるなら、良いや。そっちの方がずっと大事」
嬉しそうに、眩しいものを見つめるように。維月さんが星來さんの方を見て、優しげな微笑みを浮かべる。
「あれで自覚ないって、逆にすごいよな」
綴にコソッと耳打ちされて、ポカンとする。
「……えっ?」
「どうした?」
維月さんが此方を見て、不思議そうに首を傾げている。「なんでもないです」と言ってから、へぇ、と思う。
星月夜か。きっとすごく、綺麗だ。
「どうしたどうした。青春だねぇ」
透夏さんが後ろから、にこにこしながらやって来た。何がですか? と問う維月さんに、少し笑ってしまう。「おつかれさまです」と言うと、透夏さんが「ありがとう」と柔らかい笑顔を浮かべた。
「どうだった? 自分のうたが、うたになった気分は」
ひとつ目が「詩」、ふたつ目が「歌」。
「………そうですね」
透夏さんの目は、今日も優しい色をしていた。
「綴にだったら、書いても良いかもなって感じです」
「そっか。楽しかった?」
少し、驚く。
「……えぇ」
「それなら何より」
透夏さんが嬉しそうに笑う。その奥で綴が驚いたような顔をしているのを見て、私も驚いてしまう。
「どうしたの?」
「……俺、歌に初めて名前呼ばれた」
「そうだっけ?」
いや、呼んだことはあるはずだと一瞬思ってから、あぁなるほどと理解した。やっぱり、聞こえていなかったのか。
「そうだよ!」
綴がムキになったように言う。その妙に真剣な表情に、笑ってしまった。本当のことは、教えてやらないことにする。
「え、もう一回呼んで」
「……嫌だ」
「なんでーっ」
維月さんと透夏さんが笑っている。星來さんも此方に戻ってくるのが見えた。
「何々、仲良しだね」
「そうだな」
いつの間にか、星來さんと維月さんが並んでにやにやしながら此方を見ている。何か勘違いされている気がする、と思っていると、綴も負けじとにやにやしながら言葉を返す。
「えー、2人がそれ言うんですか?」
「どういう意味だよそれ」
「言っちゃ不味いの?」
はぁ、と綴が溜息を吐いた。
「透夏さん、俺この2人だめな気がしてきた」
「はは。まぁ、みんなのペースで行けば良いんじゃない」
勘違いされている気がする。
頑なに否定するのも面倒で、ふっと息を吐いた。また少し、笑ってしまう。
楽しいな、と思った。
それが何だかどうしようもなく、嬉しかった。



