肩に感じていた重みが、ゆっくりと溶けるように消えていく。はぁ、という溜息はまだ少し震えていたけど、こっち側の気配があった。
「………ごめん。重くなかった?」
綴の声。
それに、何故だろう、どうしようもないくらいに安堵してしまう。
空気が抜けるみたいに、目の前にあった彼の肩に額を押し当てて目を閉じる。綴が戸惑ったように身じろぎした気配があった。
「……あと10秒」
数瞬の間の後、少しの笑い声が聞こえてきた。体温と一緒に、沁みるように伝わってくる。
「はーち、なーな、ろーく、」
「嘘でしょカウントダウンするの?」
緊張感も安堵感も何も、あったものじゃない。思わず笑ってしまった。綴も可笑しそうに笑っている。
「さーん、にーい、いーち」
「ぜろ」と彼が言い切る前に、私はぱっと顔を上げた。
「……ごめん。ありがとう」
「うん。……大丈夫?」
気遣うような視線の場違いさに、また笑ってしまった。おかしい。苛立っても良いはずなのに。
「こっちの台詞。……ねぇ」
「うん?」
遠いものを眺めるようにキーボードに目を遣る彼に、口を開いた。
「曲にするの、止めない?」
別に私は、この人に苦しんで欲しかったわけじゃない。
「……嫌だ、って言ったら?」
そう言いながら綴が立ち上がって伸びをした。身体が緊張していたから、関節とかが痛いのかもしれない。
「………止めてよ」
淀んだ空気に、私の声が溶けていく。
ここまで私が彼に入れ込んでいたとは、気付かなかった。
是も非も言わず、綴は薄く微笑したまま立っている。
「ねぇ歌。こっち来て」
くるっと身を翻して、彼がキーボードの前に胡座をかいた。その隣、人1人分空けて、私も正座する。雰囲気に合わないのは百も承知だけど、この部屋に座布団とかいう物は無いのだろうか。
綴がヘッドホンのコードをキーボードから抜きながら言った。
「これはピアノだ。音が鳴る」
舐めてるのか。
「……知ってる」
そのまま引き寄せられるようにして、鍵盤に指を乗せる。思っていたよりも安っぽい音が、鼓膜を震わせた。
ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド。
最初のドを気まぐれに1回弾いて、高い方のドから1音ずつ下がっていく。特に何も考えずに鍵盤を叩いていたら、綴が盛大に吹き出した。
「なんでシャトルランの音弾いてるの」
そう言われて、初めて気付く。確かに聞き覚えのある音だと思った。
「もうちょっとさ、曲っぽいのを……」
そう言って、綴が流れるように鍵盤を叩き始めた。寂しいような、明るいような、不思議な旋律。
ふわっと彼の手がキーボードを離れたタイミングで、ひとつ尋ねた。
「……今の、何の曲?」
「え? ……フィーリング?」
え? と言いたいのはこっちだ。
「今の、気に入った?」
綺麗だったとは、思う。親しみさえも感じた気がする。
「………うん」
「じゃあこれをちょっとアレンジして、詩を乗っけてみようか」
何でもないことのように言って、再び綴が鍵盤に意識を集中させる。
「………は?」
天性の才能というやつなんだろうか。
分からない。
分からないけど、彼の横顔から恐怖心が消えて、代わりにどうしようもなく楽しそうな光が差してきたのを、私は黙って見ていた。
「どう?」
キーボードの鍵盤から手を離した綴が此方を見て問うた。
「音楽のことはよく分かんない……けど、綺麗だとは、思う」
「ありがとう。じゃあこれでいこうかな」
譜面とかに記録しなくて良いのかと訊いたら、この後まとめて記録するから今現在は脳内で出来上がっているだけで十分なのだそうだ。つくづく天性の才能って分からない。
「透夏さーん、五線譜の紙ください」
綴が立ち上がって、カウンターがある方に駆けて行く。この狭い通路を走って行けるのが不思議だ。
「え、もう出来たの? 早くない?」という透夏さんの声を聞きながら、ひとつ欠伸をする。何だか酷く疲れてしまった。
「歌ちゃん」
「……はい」
驚いて、返事が1拍遅れる。星來さんが居たとは全く気付かなかった。
「透夏さんから聞いた。大丈夫だった?」
「……彼は、分かりませんが」
激流に呑まれたような綴の双眸を思い出して、目を閉じる。あれを透夏さんは、星來さんは、知っていたんだろうか。感じ取っていたんだろうか。瞼を開くと、心配そうな光を宿した瞳が見えた。
「私は大丈夫ですよ」
そう言って笑うと、星來さんが私の前に膝を突いてしゃがみ込んだ。私の頭に手を載せて、そっと撫でる。
「……ありがとう。無理だけは、しないようにね」
それだけ言って、私の頭を撫で続けている。もう私は、小さな子供ではないのだけど。
「……星來さん、これは」
俯いたまま、呟く。
「んー?」
柔らかく笑って、星來さんが囁くように言う。私に、と同時に、自分にも言い聞かせるかのように。
「歌ちゃん。人の行動全てに意味があるとは思わないことだよ」
彼女の手の温もりが、じんわりと伝わってくる。何故だかほっとしている自分に、ふと気付く。
いつだったか、綴にも同じようなことを言われたな。
回らない頭で、そんなことを考えていた。
「歌、できたよ」
スタジオの扉を開けると、綴が数枚のコピー用紙を持って此方に走ってきた。「見て見て」と自慢気に掲げられたけど、私は本格的な楽譜を解読する能力を持ち合わせていない。私の詩が五線と一緒に並んでいて、逃げたいようなむず痒いような不思議な心持ちになったこと以外は、よく分からなかった。
「……すごいね」
「なんでそんなすごくなさそうな声なの」
「すごいと思ってるよ」
「ほんとー?」
「本当」
前はただただ眩しかった彼の明るさに少し安心している自分がいることに、素直に驚いてしまう。
「あ、歌さん。いらっしゃい」
奥から出てきた維月さんに声を掛けられて、「こんにちは」と頭を下げる。
「維月さん見て。できました」
「うん、さっき見た。頑張ったね」
綴がくすぐったそうに笑った。歳の離れた兄弟ってこんな感じなのかもしれない。
「それ、今度のコンサートで演奏する?」
維月さんに問われて、綴は何故か私の方を振り返った。
「どうする? 歌」
「……やりたいなら、やれば良いじゃん。貴方の曲なんだから」
私の言葉を聞いて、彼が少し困ったように眉を下げる。
「俺の曲って言うけどさ」
綴が書いた曲。彼の歌だ。私は詩を差し出しただけで。
「歌のあの詩が無かったらあれは曲になっていないし、そもそも歌が居なかったらあの曲はきっと出来ていないよ」
真っ直ぐな瞳でそう言われて、今度は私が困ってしまう。私はまだ、真っ直ぐな肯定を素直に受け入れられるほど強くない。
「だからさ、歌」
俯きがけに、綴の方を見る。彼は痛いほど真っ直ぐに私を見ていた。
「歌は、あの曲を、どうしたい? あれに、どう在って欲しい?」
知らない。
分からない。
私にそんなこと訊かないで。
あぁ、でも。
あれを歌う彼はきっと、すごく輝いていることだろう。
そう思った瞬間、欲が出た。
「……歌って欲しい、かな」
一瞬の沈黙があった。でも、不安にはならなかった。綴の目が、見てすぐ分かるくらいに輝き出したから。
「ほんと?」
ひとつ、頷く。
「うん」
「……ありがとう」
綴が笑った。維月さんに向き直って、選手宣誓みたいに手をぴっと挙げる。
「はい。歌いたいです」
それを聞いて、維月さんも笑った。優しい、穏やかな笑顔。
「りょーかい。じゃ、一緒に頑張ろう」
維月さんが胸の前に持ち上げた拳に、綴が自分のそれをこつんとぶつける。何回もそうしてきたんだろう。
「じゃあ歌、俺奥でピアノの練習しつつ歌うからさ。横に居て」
何故。
「何故」
「……声出るか分かんないし。荒ぶるかもしれないし」
隣にいるだけなら良い。でも、と思う。
あの役割は、私には重過ぎる。
「……分かった。行こう」
それなのに何故了承したのか、自分でも分からなかった。綴と並んで歩き出した私の耳に、維月さんの柔らかい声が届いた。
「綴」
彼と私が、揃って維月さんの方を振り返る。維月さんはにこりと笑って続けた。
「綴は、もう大丈夫だよ」
「……なんで分かるの?」
何かを抑え込むように笑った綴の横顔にどうしようもないような恐怖心が浮かんでいることに、その時初めて気が付いた。
「勘。でも、見てれば分かるよ」
綴の肩から力が少しずつ抜けていくのが分かる。ふ、と彼が笑った。
「……何それ」
「さぁ。何だろうね」
ほら行っておいで、と維月さんが私と綴を促す。その笑顔が、心強かった。
「………ごめん。重くなかった?」
綴の声。
それに、何故だろう、どうしようもないくらいに安堵してしまう。
空気が抜けるみたいに、目の前にあった彼の肩に額を押し当てて目を閉じる。綴が戸惑ったように身じろぎした気配があった。
「……あと10秒」
数瞬の間の後、少しの笑い声が聞こえてきた。体温と一緒に、沁みるように伝わってくる。
「はーち、なーな、ろーく、」
「嘘でしょカウントダウンするの?」
緊張感も安堵感も何も、あったものじゃない。思わず笑ってしまった。綴も可笑しそうに笑っている。
「さーん、にーい、いーち」
「ぜろ」と彼が言い切る前に、私はぱっと顔を上げた。
「……ごめん。ありがとう」
「うん。……大丈夫?」
気遣うような視線の場違いさに、また笑ってしまった。おかしい。苛立っても良いはずなのに。
「こっちの台詞。……ねぇ」
「うん?」
遠いものを眺めるようにキーボードに目を遣る彼に、口を開いた。
「曲にするの、止めない?」
別に私は、この人に苦しんで欲しかったわけじゃない。
「……嫌だ、って言ったら?」
そう言いながら綴が立ち上がって伸びをした。身体が緊張していたから、関節とかが痛いのかもしれない。
「………止めてよ」
淀んだ空気に、私の声が溶けていく。
ここまで私が彼に入れ込んでいたとは、気付かなかった。
是も非も言わず、綴は薄く微笑したまま立っている。
「ねぇ歌。こっち来て」
くるっと身を翻して、彼がキーボードの前に胡座をかいた。その隣、人1人分空けて、私も正座する。雰囲気に合わないのは百も承知だけど、この部屋に座布団とかいう物は無いのだろうか。
綴がヘッドホンのコードをキーボードから抜きながら言った。
「これはピアノだ。音が鳴る」
舐めてるのか。
「……知ってる」
そのまま引き寄せられるようにして、鍵盤に指を乗せる。思っていたよりも安っぽい音が、鼓膜を震わせた。
ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド。
最初のドを気まぐれに1回弾いて、高い方のドから1音ずつ下がっていく。特に何も考えずに鍵盤を叩いていたら、綴が盛大に吹き出した。
「なんでシャトルランの音弾いてるの」
そう言われて、初めて気付く。確かに聞き覚えのある音だと思った。
「もうちょっとさ、曲っぽいのを……」
そう言って、綴が流れるように鍵盤を叩き始めた。寂しいような、明るいような、不思議な旋律。
ふわっと彼の手がキーボードを離れたタイミングで、ひとつ尋ねた。
「……今の、何の曲?」
「え? ……フィーリング?」
え? と言いたいのはこっちだ。
「今の、気に入った?」
綺麗だったとは、思う。親しみさえも感じた気がする。
「………うん」
「じゃあこれをちょっとアレンジして、詩を乗っけてみようか」
何でもないことのように言って、再び綴が鍵盤に意識を集中させる。
「………は?」
天性の才能というやつなんだろうか。
分からない。
分からないけど、彼の横顔から恐怖心が消えて、代わりにどうしようもなく楽しそうな光が差してきたのを、私は黙って見ていた。
「どう?」
キーボードの鍵盤から手を離した綴が此方を見て問うた。
「音楽のことはよく分かんない……けど、綺麗だとは、思う」
「ありがとう。じゃあこれでいこうかな」
譜面とかに記録しなくて良いのかと訊いたら、この後まとめて記録するから今現在は脳内で出来上がっているだけで十分なのだそうだ。つくづく天性の才能って分からない。
「透夏さーん、五線譜の紙ください」
綴が立ち上がって、カウンターがある方に駆けて行く。この狭い通路を走って行けるのが不思議だ。
「え、もう出来たの? 早くない?」という透夏さんの声を聞きながら、ひとつ欠伸をする。何だか酷く疲れてしまった。
「歌ちゃん」
「……はい」
驚いて、返事が1拍遅れる。星來さんが居たとは全く気付かなかった。
「透夏さんから聞いた。大丈夫だった?」
「……彼は、分かりませんが」
激流に呑まれたような綴の双眸を思い出して、目を閉じる。あれを透夏さんは、星來さんは、知っていたんだろうか。感じ取っていたんだろうか。瞼を開くと、心配そうな光を宿した瞳が見えた。
「私は大丈夫ですよ」
そう言って笑うと、星來さんが私の前に膝を突いてしゃがみ込んだ。私の頭に手を載せて、そっと撫でる。
「……ありがとう。無理だけは、しないようにね」
それだけ言って、私の頭を撫で続けている。もう私は、小さな子供ではないのだけど。
「……星來さん、これは」
俯いたまま、呟く。
「んー?」
柔らかく笑って、星來さんが囁くように言う。私に、と同時に、自分にも言い聞かせるかのように。
「歌ちゃん。人の行動全てに意味があるとは思わないことだよ」
彼女の手の温もりが、じんわりと伝わってくる。何故だかほっとしている自分に、ふと気付く。
いつだったか、綴にも同じようなことを言われたな。
回らない頭で、そんなことを考えていた。
「歌、できたよ」
スタジオの扉を開けると、綴が数枚のコピー用紙を持って此方に走ってきた。「見て見て」と自慢気に掲げられたけど、私は本格的な楽譜を解読する能力を持ち合わせていない。私の詩が五線と一緒に並んでいて、逃げたいようなむず痒いような不思議な心持ちになったこと以外は、よく分からなかった。
「……すごいね」
「なんでそんなすごくなさそうな声なの」
「すごいと思ってるよ」
「ほんとー?」
「本当」
前はただただ眩しかった彼の明るさに少し安心している自分がいることに、素直に驚いてしまう。
「あ、歌さん。いらっしゃい」
奥から出てきた維月さんに声を掛けられて、「こんにちは」と頭を下げる。
「維月さん見て。できました」
「うん、さっき見た。頑張ったね」
綴がくすぐったそうに笑った。歳の離れた兄弟ってこんな感じなのかもしれない。
「それ、今度のコンサートで演奏する?」
維月さんに問われて、綴は何故か私の方を振り返った。
「どうする? 歌」
「……やりたいなら、やれば良いじゃん。貴方の曲なんだから」
私の言葉を聞いて、彼が少し困ったように眉を下げる。
「俺の曲って言うけどさ」
綴が書いた曲。彼の歌だ。私は詩を差し出しただけで。
「歌のあの詩が無かったらあれは曲になっていないし、そもそも歌が居なかったらあの曲はきっと出来ていないよ」
真っ直ぐな瞳でそう言われて、今度は私が困ってしまう。私はまだ、真っ直ぐな肯定を素直に受け入れられるほど強くない。
「だからさ、歌」
俯きがけに、綴の方を見る。彼は痛いほど真っ直ぐに私を見ていた。
「歌は、あの曲を、どうしたい? あれに、どう在って欲しい?」
知らない。
分からない。
私にそんなこと訊かないで。
あぁ、でも。
あれを歌う彼はきっと、すごく輝いていることだろう。
そう思った瞬間、欲が出た。
「……歌って欲しい、かな」
一瞬の沈黙があった。でも、不安にはならなかった。綴の目が、見てすぐ分かるくらいに輝き出したから。
「ほんと?」
ひとつ、頷く。
「うん」
「……ありがとう」
綴が笑った。維月さんに向き直って、選手宣誓みたいに手をぴっと挙げる。
「はい。歌いたいです」
それを聞いて、維月さんも笑った。優しい、穏やかな笑顔。
「りょーかい。じゃ、一緒に頑張ろう」
維月さんが胸の前に持ち上げた拳に、綴が自分のそれをこつんとぶつける。何回もそうしてきたんだろう。
「じゃあ歌、俺奥でピアノの練習しつつ歌うからさ。横に居て」
何故。
「何故」
「……声出るか分かんないし。荒ぶるかもしれないし」
隣にいるだけなら良い。でも、と思う。
あの役割は、私には重過ぎる。
「……分かった。行こう」
それなのに何故了承したのか、自分でも分からなかった。綴と並んで歩き出した私の耳に、維月さんの柔らかい声が届いた。
「綴」
彼と私が、揃って維月さんの方を振り返る。維月さんはにこりと笑って続けた。
「綴は、もう大丈夫だよ」
「……なんで分かるの?」
何かを抑え込むように笑った綴の横顔にどうしようもないような恐怖心が浮かんでいることに、その時初めて気が付いた。
「勘。でも、見てれば分かるよ」
綴の肩から力が少しずつ抜けていくのが分かる。ふ、と彼が笑った。
「……何それ」
「さぁ。何だろうね」
ほら行っておいで、と維月さんが私と綴を促す。その笑顔が、心強かった。



