うたうたい

「で?」
階段を登り切ってすぐ、白い息を吐きながら綴が私の方をちらりと見た。
「俺をわざわざ()()り出して、問い(ただ)したいことは何?」
私はそんなに分かりやすいだろうか。
ふっと笑って、「問い質すってほどのものでもないけど」と切り出す。
「ちょっと気になってさ」
「うん」
「曲がないっていうのは、半分嘘だよね?」
綴の表情が、一瞬凍りつくように固まった。訊いちゃ不味いことかもしれないという思いは、さっきからずっと胸の中に巣食っている。
「……と言うと?」
「曲は存在しているけど、歌えない。そっちの方が適当なんじゃないかと思って」
はは、と綴が笑った。「まぁ、バレるよね」と呟いて。
「あれだけ同じ空間に居るんだから」
「……」
そうだね、と言いたかった。
言葉を挟むのが、野暮な気がした。
でも、それだけじゃなくて。
素直に認めるのが、少しだけ怖かった。
「そうだね、歌の言う通りかな。大体」
「大体……?」
「捨てられなかったんだけどさ。見るのが嫌で……というか、辛くて? 糊でページを貼り合わせて仕舞い込んじゃった」
もちろん、と綴が続ける。私は目線を正面に戻して、黙っていた。
「暗譜してるものもあるにはあるんだけど……あれ歌おうとすると声が出なくて」
綴がまた笑う。何故だろう、と思う。
泣けば良いのに。
「だから、曲はほぼ封印したに等しいけど、あるにはある」
戯けたようにこつんと自分の顳顬(こめかみ)を叩いて、彼がすっと息を吸い込んだ。
「でも、歌えないんだ。大正解だよ、歌」
なんで戯けるんだろう。
なんで平気なように振る舞うんだろう。
「……ありがとう、分かった」
息を吸い込む。大事なことを訊くべきだ。
「……まだ、歌いたいの?」
綴の双眸がゆらりと揺れた。何かの仮面が剥がれるように、悲しげな表情が露わになる。
「………うん、歌いたい。もう一回」
そうか。ひとつ、頷いた。
ポケットからスマホを取り出して、タタタと音を立てて操作していく。「送信」のボタンを押すと、綴のポケットがヴーと音を立てた。無事に届いただろうか。
「じゃあそれ、曲にしてよ」
私の言葉を聞いて、綴が驚いたようにポケットに手を突っ込む。ぴちぴちと魚みたいに跳ねるスマホを両手で持って画面を覗き込んだ彼の目が、大きく広がった。
「……何か修正あったら、言って」
文字を追いかけていた彼の目が、痛みと優しさを孕んで揺れていた。
ううん、と綴が口の中で呟く。首を横に振る。何度も、何度も。
震える吐息が、彼の口から洩れた。
「………ありがとう」
どういたしましても此方こそも、何かが違う気がする。何か言う代わりにまたひとつ、頷いた。綴の潤んだ目がふっと優しく笑って、釣られたように私も微かに笑ってしまった。

駅舎の建物が見えてきた。
「あ、そうだ」
たった今思い出した風を装って、綴の方を見る。彼は僅かに首を傾げて私を見ていた。
「私ね、愛想が悪いの」
は? という綴の心の声が聞こえてきそうな気がする。
「お世辞とか言えないし、自分の気持ちを良いようにこねくり回して人に伝えるのも苦手。社交辞令だけは言うけど……だから基本的に、毒舌だし言葉足らずだし、人を慮って動くとか出来ない」
綴がますます訳が分からなさそうな顔をする。それはそうだろう。
「だからさ」
ちょっと笑って、続ける。
「癖なのかもしれないけど……悲しいこととか辛いこととか、笑って何でもないように話す必要はないから。逆に言葉の裏とか想像するの、苦手だし」
しばらく考えて、綴も少し笑った。
「それは、すごくすごく分かりづらく、私の前では武装を解いて良いよって言ってくれてる?」
「分かんない。そうかも」
綴が「ありがとう」と笑って、続ける。
「善処する」
頷いて、私も少し笑った。「じゃあ、また」と言って、自動改札機に向かう。
「歌」
名前を呼ばれて、振り返った。
「歌はね、人を想って動ける、言葉の裏をちゃんと想像できる、優しい人だよ」
そうじゃないと詩なんて書けないよ、と言って、少し可笑しそうに彼は笑った。
「じゃあ、またね。気を付けて」
ひらりと手を振って、さっさと歩いて行く。
「………ありがとう」
ぽつりと呟いた。
何故だろう。
泣きたくなるくらいに、嬉しかった。

「歌ちゃん、おはよう」
前の席のクラスメイトに声を掛けられて、顔を上げた。
「おはよう。ギリギリだったね」
「危なかったよー。寝坊しちゃってさ」
くすっと笑って見せた私をまじまじと見つめながら、彼女が続ける。
「歌ちゃんっていつも早いよね。寝坊とかしなさそうだし……朝学校来て何してるの?」
「私だって寝坊くらいするよ。朝弱くて、早く学校来てもしばらくは自分の席で寝ちゃうし」
「なにそれー」
本当にね。私もそう思うよ。
だって、口から出まかせなんだから。
本当は朝には割と強い。目覚まし時計が鳴ったらすぐ起きる。朝早く学校に来て、本を読んでいる。詩を書いている。
何ひとつ、「(まこと)」は含まれていないのに。
会話は転がっていく。
自己開示はしない方が楽だ。
何かの登場人物を演じるみたいに、1人の人間を構築していく。
たとえそれで何かトラブルに巻き込まれようが噂が立とうが、私の知ったことではなくなる。
だって彼女(歌ちゃん)()ではないから。
「歌ちゃんって優等生に見えるけど、意外と天然なの?」
「寧ろ私のどの面から優等生ってキャラクターを引っ張り出したのかを教えて欲しい」
クラスメイトが声を上げて笑った。
私も釣られたように、笑って見せる。
そういえば、私の詩はどうなったんだろう。
綴はもう曲を作り始めたんだろうか。
クラスメイトの彼女が同じくクラスメイトの男子生徒と談笑しているのを微笑して眺めながら、そんなことを思った。

からん、という音に、振り返った。軽やかな足音と共に、綴が入ってくる。
「透夏さん、キーボード借りて良い?」
カウンターの奥にいた透夏さんの双眸に、一瞬驚きに似た光が閃いた気がした。
「良いよ。いつものところにあるから」
「はーい」
いつも通り。そう見える。
奥の方で何かを広げるような音が、ガタガタとスタジオの床を這うように聞こえてきた。
「……歌ちゃん」
静かだけど、いつものような穏やかさが感じられない透夏さんの声を聞いて、顔を上げる。
「……はい」
「綴さ、作曲の時は基本的に近くに人がいる状況嫌がるんだけど……視界に入るか入らないかぐらいの所で、近くに居てあげてくれない?」
少し、首を傾げる。自分の世界に入るなら、近くに人が居ない方が良いのでは?
「……ちょっと、心配でさ」
透夏さんの真面目な顔に疑問を感じつつも、断る理由もなくて、頷く。
「分かりました」
「…ありがとう」
透夏さんが笑った。少し、苦しそうに。

スタジオの奥の方に入るのは初めてだった。物が多いから動きやすいとは言い難いけど、よく整頓されていて掃除も行き届いている。小さな物置のような部屋の中央、物陰に隠れるように、綴の姿を見つけた。部屋の入り口辺りに座り込んで、文庫本を開く。横目で見れば彼の横顔が見える位置だ。何もずっと注視しておく必要はないだろう。
A4の紙を譜面台に置いて、綴がヘッドホンを着ける。私の詩を印刷でもしたんだろうか。鍵盤をすっと撫でて、綴がそれを叩き始めた。様子がおかしい、と気付いたのはその数秒後だった。
捨てられなかったんだけどさ──
あれ歌おうとすると声が出なくて──
歌えないんだ。大正解だよ、歌──
綴の声。
キーボード借りて良い? と綴が訊いた時の、透夏さんの驚いたような目。
ちょっと、心配でさ──
凍りついたように動かなくなった綴を見て、あぁと思う。理解する。
ヘッドホンが床に落ちるガシャンという音が、耳に響いた。
本を放り出すようにして、立ち上がる。
綴の唸るような声が聞こえる。
間に洩れる、苦しそうな吐息。
あぁ、そういうことか。
これが。
透夏さんが、恐れていたことか。
『近くに居てあげてくれない?』
こうなった時に、(すく)い上げる人が。
必要だったのか。
「ねぇ、」
声を掛けても、届いている気がしない。ぎりぎりと歯を食い縛る音まで、聞こえるような気がする。
はぁはぁという苦しげな呼吸が、私の胸まで締め付けてくる。
「つづり、」
何かを求めるように彷徨う彼の手を、ぎゅっと握る。力任せに、(うずくま)った彼の身体を起こす。
綴は、こっちを見てはいなかった。
「ねぇ、」
身体が震えている。私のではなく、彼の。
彼の手を掴んだまま、ぐっと身体を近付ける。私と綴の膝が、ぶつかった。
そのまま身体を預けるように、彼の震える身体を抱きしめる。震える息の音。冷や汗の感触。妙に現実味がなかった。
「つづり、」
腕に力を込める。彼の心は、まだ暴れている。
「……だいじょうぶ」
何処が、と自分でも思う。
大丈夫じゃない。今すぐにでもキーボードから離れて欲しかった。私の詩なんて破り捨てて、この状況から逃げて欲しかった。
綴のがたがたと音を立てそうな震えが、少しずつ収まっていく。私の制服がぐっと引き()った感触がある。背中と肩の部分を掴まれているのだと理解するのに時間が掛かった。
「うた」
耳元で声が聞こえる。
「ん」
「うた?」
ひとつ、頷く。
「そうだよ」
ごすっという鈍いような、擦れるような音がした。綴の額の重みが、熱が、制服を通して肩に伝わってくる。
「ここにいる?」
涙の気配があった。
「うん」
「こっち側」の存在を教えるように、そっと彼の背中を撫でる。彼の体躯は、思っていたよりも華奢だった。
「…………ありがとう」
なんでお礼を言われたのか、分からなかった。だって私は現に、どうしたら良いのか分からないままでいる。
力不足だ、と思った。
私には、この役割は重過ぎる。
でも、「正解」を差し出せる人間がいるのかどうかも、分からない。
分からないことだらけだ。こんな役割、放り出してしまいたかった。でも何故かここから動く気にも、なれなかった。