野獣の呪いが解けても、──愛してくれますか?


 ホームルームも終わり、クラスメイトたちは塾に部活動と各々の持ち場へと向かって行く。
 グラウンドの方が騒がしくなって早数十分。俺はというと未だにトイレの個室から出られずにいた。

『狐崎に会いたくない』

 その一心で取った手段がこれだ。

 下校道は基本的に一本道で遮蔽物もなく、狐崎の身長ならば、誰が何処にいるかくらい簡単に分かってしまう。
 アイツのことだから下校中に追いかけてくるなんて事も想像がついた。勿論、逃げた所で勝てないのはわかってる。

 外からは、何度目かになる陸上部のかけ声が聞こえてきた。

「いい加減帰らないとな」

 意を決してトイレを出る。
 薄暗い廊下には、一人分の足音が静かに響く。

 玄関までは無事に到着できた。
 念のためにと狐崎の下駄箱を確認するが中は空だった。

(そういえば、アイツ中履きとか履いてなかったよな。となると外履きもないのか?)

 だったら下駄箱なんか要らないだろと内心ツッコむ。とりあえず、狐崎は帰ったということにしておこう。
 若干の不安感をため息と共に吐き捨てる。
 外履きに履き替れば、夕日に染まる校舎を背に、歩みを進めた。


 下校道。ここを貸し切りに出来る日が来ると思わなかった。落ち着かなくて、左へ、右へと無駄に動いてしまう。

 俺は徐に頭に触れる。
 狐崎に撫でられた時、不思議と不快感を覚えなかった。
 着ぐるみ越しだったから、それどころじゃなかったから。答えは明らかなのに、未だこの"違和感"の正体が出てこない。自分でも撫でてみたが、ただ髪が乱れるだけで何も分からなかった。

 長々とした一本道もようやく終わり、曲がり角へ差し掛かる。この先さえ抜けてしまえば家につく。

『──っ!』

 ふと曲がり角の先で誰かが揉めているかのような声が聞こえた。物陰から様子を覗うとそこには──。

「えーじゃあちょっと交番まで来てもらってもいいかな?」
「ちょお勘弁してえな!!」
(何してるんだアイツ!?)

 狐崎と警官が道の真ん中で揉めている。どう見ても職質だし理由も明白だけど、それでも言いたい。どうしてそうなった?!
 会いたくないとは言ったが、これを見過ごすほど非道にはなれない。俺は物陰から飛び出し、狐崎と警官の間に割り込むような形になる。

「すみません! コイツ同級生なんです!」
「級長くん……!」

 『悪ふざけで文化祭の衣装を着ていただけ』と誤魔化し、何とか連行は免れた。

 警官の話を聞くとこうだ。
 何でも最近、この辺りで不審者に出たと通報があったらしく、そのための巡回をしていたのだとか。

「そうでなくても子供の行方不明者が出たりと色々物騒なんだ。今後は誤解になることはしないんだよ」

 お説教の時間が終わると、警官は再び巡回ルートへと戻っていく。
 その場に俺と狐崎だけが残される。今は沈黙が辛いからとりあえず何か言え!

「ありがとうな級長くん。あ、このお礼は必ず返したるからな!」
「そんなの別に良いよ。それより帰り道どっち? どうせだから送ってく」

 また職質されててもあれだし……。
 周囲に人の気配がないか確認する。カラスの鳴き声が時折聞こえるだけで、大丈夫そうだ。

 狐崎が横に並ぶ。互いの足先からは何も伸びておらず、自分の後隣に黒い怪獣がいるのだろうと想像したら、少しだけ怖くなった。

「初日早々職質とはこの先が思いやられるわ……」
「それ脱がないの?」
「天地がひっくり返っても脱がん!」
「あっそう……まあ、せめて服くらい着たら? 今の格好より大分マシになると思うから」
「アハハ、確かにそうやな! 今の俺、裸同然やもんな」

 俺の歩幅に合わせて狐崎は歩く。
 狐崎の態度は何も変わらない。ただ、一つ違う事と言えば俺との距離感だろうか。
 前までは拳二つ分の距離感だったが、今だと人一人分の距離感に落ち着いている。
 試しに近づけば、狐崎の方から離れていった。

(さっきの話には触れない……って訳にはいかないよな)

「えっと……体育館のやつなんだけど……」
「あー、あれな。あれはやっぱ止めとくわ。級長くん的にもその方がええやろ?」
「……まあ、うん」

 それ以降この話題には触れず、今日の出来事をお互いに話すだけになった。正直、会話の内容は断片的にしか覚えてない。
 しばらく進むとY字路にぶつかった。行先はどちらかと問えば、狐崎は俺の帰路とは反対側を指差す。
 「じゃあここでお別れやな」と言い、自身の影を引きずって狐崎は進む。

 その背中が遠ざかるにつれ、言いようのできない焦燥感が全身に広がってくる。
 俺は未だ、この"違和感"の正体が分からずにいた。
 自分で頭を触るも、やはり答えは出ない。喉に魚の小骨が刺さたかっただけの感覚が、今や変な息切れにまで発展する始末。

 『今この違和感を解かなければ、一生後悔してしまう』そんな気さえした。

 だから、こんな馬鹿な真似をしたのも全部そのせいだ。

「狐崎!」
「んー? なにぃ級長く」

 振り返った狐崎の動きが途端にぎこちなくなる。相変わらず表情は見えない。でも今の動きから何となく察することは出来た。

「お前の言う通り、俺は人の事触るのも触られるのも苦手だよ! お前が来る、ずっとずっと前からな!」

 袖を肘まで捲り、掌を広げて前へ突き出す。
 真夏のように汗が噴き出て、額を伝う。

「ずっと、このままなんて嫌だ……。俺、克服したい。だから協力してくれっ」

 差し出した手も声も、何もかもが震えていた。
 数年分の感情が瞳に溢れていけば、片方の腕でそれを隠す。今日会ったばかりの男に俺は何をやっているんだ。

 しばらくそうしていると、俺の足元を黒い怪獣が通り抜ける──掌の表面に伝う微かな温もり。

「これからよろしくね。新島道希くん」

 遠くの空でカラスの鳴き声がこだまする。
 その日、初めて狐崎と目が合った。