「じゃあ、行ってきます」
「あー待って待って。後ろの方寝癖付いちゃってる」
「え、本当?」
母から渡された手鏡を覗くと、確かに無造作に跳ねた髪が見つかった。
寝癖直しを吹き付け、掌でゆっくりと撫でていく。
ふと、鏡づてに左のこめかみが視界に入る。傷跡はすっかりと消えているものの、若干に肌の色や質感に違いが見受けられる。と言っても目を凝らせば分かる程度のものなので、人に気づかれる心配はまず無いだろう。左目についても、お医者さんが言っていたように後遺症も残らず、問題なく機能していた。
寝癖が直ったのを確認し、今度こそと足を踏み出す。母の「気をつけてね」という言葉を背に受け、俺は玄関の扉を開いた。
月日はあっという間に過ぎて、春が来た。
通学路は桃と白の花びらが舞い降り、最初からそういう模様だったかのように道が伸びている。
俺はネクタイを少しだけ緩める。
春休みの後半は自宅で過ごすばかりだったため、この季節の変わり具合に、少し面食らった気持ちになる。
道行く人の中には普段は見ない学生の姿があった。顔を若干に引きつらせながらも、これから起きる事に何処かワクワクしている。そんな表情だ。
きっと新学年なのだろう。自分もあんな時期があったこと、そして今受験生であることに未だ実感が湧かない。
本当に、時間の流れとは恐ろしい。
あの日の出来事はたちまちにニュースとなった。
『着ぐるみの男が女の子を誘拐しようとしたが、学生と別の着ぐるみによって阻まれた件』
内容が内容なだけに、全国的に注目を浴びてしまい、通学路や学校前に、野次馬やマスコミが集まる事態にまで発展してしまった。
今登校すると変に取り上げられる可能性が高い。両親や秀明の助言もあり、俺は暫く休学という形を取ることになった。
自宅前にまで押しかけられる……、なんて事は流石になかったが、あの状況で一人家に居るのは中々に辛かった。
あの日助けた女の子の他、行方不明だった子供についても無事保護されたと報せがあった。どうやら兎男の自宅に監禁されていたらしい。
兎男がどうなったかは知らない。ただ、誘拐や殺人未遂の他にも、余罪が次々に明るみになっているので、重い実刑になるのは間違いないという事だ。ひとまずは安心した。
そして、秀明のことについて。
傷やマスコミの事で休学してた俺に、東雲が色々と教えてくれた。
まず、秀明はあれからも学校に来る事はなかったらしい。そして理由も分からぬまま、『狐崎くんが転校する事になりました』とだけ、担任から連絡を受けたとの事だ。
俺はともかく、東雲たちにとっては何が何だかなのだろう。話している最中も、戸惑いの色が言葉の随所に随所に含まれていた。
東雲は言った。
『アイツがいなくなる分、道希に変な質問が集中すると思うからもう少し休んだ方が良い』と。
結局クラスに戻れたのは、2週間も後の事だった。
教室に入ると同時にクラスメイトが俺の前に集まった。
覚悟の上だと身構えるも、身体の心配をされるばかりで、今回の件についての追及は殆ど無かった。
不思議に思って聞いてみると、前々から東雲の方で今回の件についての説明があったらしく、盛り上がりもそれ以降収束し始めていたらしい。
東雲は何食わぬ顔で俺を見つめていた。ホントに、東雲には頭が上がらないな。
ふと、スマホが震える。メッセージの通知だと鼓動が上がるも、所望の相手でなく少し落胆する。最近はずっとこれの繰り返しだ。
転校後も、秀明とのやり取りは続いた。俺が休学から復帰したことや秀明の転校後のこと、とにかく色々と話した。
ただ、それもある日を境にパタリと止まってしまった。
『ごめん!!!ちょっとの間連絡が難しくなる!!』
これが秀明からの最後のメッセージだ。
メッセージを送れば返信はしてくれるため、完全な疎遠というわけではないが、 寂しい事には変わらない。
それに連絡が難しいと言われた手前、自分の寂しさを理由に秀明の時間を奪うのには抵抗があった。
考えに考えた末、俺からもメッセージは送らないようにした。
秀明には秀明の生活があるのだ。いつまでも俺に縛り付けたままなのは良くない。
何も一生の別れというわけではない。海外ならあれだが、関西くらいなら会おうと思えばいつでも会えるのだから。
そう自分に言い聞かせて、俺は日常へと戻っていった。
秀明の言っていた通り、秀明が居なくなってからもこの魔法が解けることはなかった。人に触れられても、見られても、前みたいな反応はしない。
ただその分、秀明の温もりを無意識に求めてしまうのも確かで、雨の降る夜なんかはつい、秀明に連絡を取りそうになってしまう。
アイツも同じ気持ちだったりするのかな……なんてね。
色々考えている内に校舎が見えてきた。
校舎にはフェンスに沿って木が等間隔に植えられており、春になるとこうやって新学年や卒業生を祝福するため、桜の花びらを散らすというわけだ。
最初こそ俺もこの光景に圧巻したものだが、3回目となると流石に慣れた。
今更立ち尽くして、この景色に見惚れることなんて無い……そのはずだった。
見慣れぬものを目撃し、俺の歩みが止まる。
視線の先──校門の前に"男"が立っている。
身長は180cmを超え、全体的にスラリとしている。
直線的な筋の通った鼻に、柳眉な形をした眉。切れ長の目は横顔からでも、その鋭利さが際立っている。
緑がかった長めの黒髪は、耳の上あたりから後ろへ集められていた。束ねられた髪が後頭部で小さく揺れ、その下から残った髪が首筋に沿ってさらりと落ちている。いわゆるハーフアップってやつだ。
目立つから同学年にいたらすぐ分かる。多分、1年生か2年生のどっちかなのだろう。
男はブレザーのポケットに手を突っ込み、桜を見上げていた。
風が吹くと桜の花びらが舞い散ると共に髪も揺れる。まるでドラマのワンシーンを切り取ったかのような華やかさがあった。
「あっ」
そんな事を考えてると、不意に男の目が動く。
しまったと思った時には既に遅く、男とバッチリと目が合ってしまった。
男は桜を見上げるのを止め、こちらへと身体を向ける。横顔から想像はついていたが、かなり端正な顔つきをしている。顔のパーツ全てが均等に配置され、些細な崩れすら感じさせない。
男は無表情にこちらを見てるため圧がすごい。「何見てんだ」と言われてもちゃんと答えられる自信がなかった。だって、マジで何となく見ていただけだから。
俺の横を次々に学生が通り過ぎていく。彼らに紛れて一旦この場はやり過ごすか。もし男に何か言われても、「俺も桜を見ていた」って誤魔化せばそれで……。
「──くん」
一層強い風が吹き付け、桜の花びらが舞っていく。
今、幻聴が聞こえた。
男の表情を見る。
さっきまで無表情だったのに今は口角が若干上がっている。
そして徐にブレザーのポケットから右手を出すと、軽く手を上げて、よっ、というポーズをして来た。
男らしく大きく骨張った手。それでいて指先は艶やかな細長さをしている。
その手を……いや、それだけじゃない。今の所作を、動作を、俺は知っている。
もう一度、男の表情を見る。
男はまるで「正解」とでも言いたげに目を細めると、今度は歯を見せ、屈託のない笑みを浮かべた。
そして、両腕を広げて──また"俺"を呼んだ。
男の口が動き出したと同時に、俺は駆け出していた。
気分はさながら蒸気機関のように、朝食を石炭に見立て、この身体中の至る所を熱し、男の元をただ目指す。
そして──。
「道希く──ぐへえ!!」
その腹めがけて、頭突きをかました。
"秀明"は僅かによろけるも、半歩後退するだけで俺と距離が空くことはなかった。
「ず、ずいぶんと熱烈なアプローチやないか、道希くん……」
ポンポンと、俺の背中を叩きながら秀明は言う。
「……なんで」
「ん?」
「なんで戻ってきちゃったんだよっ!!」
「ええ?!?!」
秀明の目が大きく開かれる。こんなこと言われるなんて予想だにしてなかったのだろう。
「戻ってくるって約束したやんけ!」
「こんな早くなるなんて思わないしお前もう3年生だろ?! 受験とか色々あるのに、そんな軽はずみにまた転校とかして……!」
「いやいやいや! もちろん、そこん所もちゃーんと考えてから転校したで?! あ、その目信じてないやろ。も〜嘘やないって〜」
眉を八の字にしながら秀明が訴えかけてくる。たとえ本当だとしても、いや本当だからこそムカつく。
「せっかく、お前がいなくても頑張ろうって覚悟決めたのに……」
「何を一人で勝手に決めとんのよぉ」
「だって忙しいってお前が……」
「あー、それのことな。あんま心配かけんのもあれやからって説明省いとったけど、もう話してもええか」
秀明は頭をかきながらそう呟く。
「俺な、親父と新しい約束してたねん」
「約束?」
「そ。こっちに戻るための約束」
首を傾ける俺に秀明は語り出す。
「三学期の期末で、学年十位以内に入ったら、こっちに戻ってきてもええって話になったんよ」
「……は?」
あまりにも予想外の言葉に、間の抜けた声が漏れた。
「いやー着ぐるみの件で金のことは許されたやん。ただ今後も今の心意気のまま生活出来るかは怪しいって親父に言われてな。ちゃんと勉強して、結果出して、信用できるまでになったら、すぐにでもここに戻ってきてもええって事に」
「……それで?」
「それで、入った」
「何位」
「十位」
「……」
「ギリギリやけどな。まあ俺にかかればこんなもんや」
秀明が得意げに胸を張る。
「そんな得意げになることかよ」
「なんでやねん! 十位やぞ、十位!」
「ギリギリじゃん!」
「入ったんやからええやろ!」
「そういう問題じゃない!」
思わず声を荒らげる。
ずっと我慢していた。会いたいと思っても、寂しいと思っても、もう戻ってこないんだから仕方ないと、何度も自分に言い聞かせてきた。
なのに、お前はその気持ちさえあっという間に塗り替えてくるんだ。
「……ほんとうに、馬鹿」
吐き捨てるように呟いた。
「十位入ったのに馬鹿はないやろ、馬鹿は」
「馬鹿だよ、お前」
声が震えた。
「そんな約束してたなら……最初から言えよ」
「いや、でも約束破ったら格好悪いやん?」
「そういうところだよ……」
視界が滲んだ。
「……っ」
俺は慌てて顔を背ける。
「道希くん?」
「見るな」
「え、ちょ――」
「見るなって!」
頬を伝ったものを、乱暴に袖で拭う。
止まらなかった。さっきまで胸の奥に詰まっていたものが、堰を切ったように溢れてくる。
「……よかった」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
「ほんとに……よかった……」
「……」
「もう戻ってこないんだと思ってた」
言葉にした途端、涙がまた溢れた。
「お前がいなくても平気になるって……そう思わなきゃ、やってられなかったんだぞ」
「道希くん……」
「なのに……」
鼻をすすりながら、秀明の胸元を軽く殴る。
「なのに、なんで普通に帰ってくるんだよ……」
「ごめんごめん」
「謝るなよ……」
「どっちやねん」
「うるさい……」
もう一度、拳を胸に押しつける。
今度は殴るというより、そこにいることを確かめるように。
「……おかえり」
ようやくそれだけを口にした。
「ただいま」
返ってきたその声を聞いた瞬間、また涙が溢れた。
悔しい。
腹が立つ。
散々心配させられた。
それでも――嬉しかった。
どうしようもないくらい、嬉しかった。
秀明の背中へと手を回すと、包まれるように秀明と密着していく。
抱き合うにはちょっと暑いくらいで汗が吹き出してくる。まるでアイスみたいに、お互いの汗が溶け合い混ざっていく感じがして何だかエッチだな……なんて思えるくらいには頭の中は火照っていた。
「もう離してやれへん」
それはこっちの台詞だ。
──もう二度と離してやるもんか。
◇◆◇◆
『王子よりも野獣のままの方が良かった』
昔見た童話にそういった感想があったのを思い出した。
ただ、ここでふとした疑問が浮かんだ。
第三者でもこう様々に感想が浮かぶのなら、本作の主役たちは呪いが解ける瞬間に何を思ったのだろうかな、と。
野獣は、こう思っただろうか?
──野獣でなくなった自分を、彼女は愛してくれるのか、と。
美女は、こう思っただろうか?
──野獣の呪いなしで自分を、野獣は愛してくれるのか、と。
考えても答えは誰にも分からない。もしかしたら、聞く必要もなく理解できる関係を『真実の愛』と呼ぶのかもしれない。
ならばきっと、『真実の愛』のような高級品は、俺たちにはないんだろうと思う。
だからこそ、どうか──、
無粋かもしれなけれど、どうか、君に聞かせてほしい──、
「秀明」
「道希くん」
──野獣の呪いが解けても、愛してくれますか?
