外に出ると、乾いた夜風が俺を出迎えた。
時間は20時15分。まだまだ寝静まるには早いけれど、病院近くという事もあり、人の気配はあまりない。
昼間に影だけを進むみたいに、電灯に照らされた道からなるべく離れないように俺は進む。
耳を澄ます。微かに聞こえるのは、車のエンジン音と風の音だけ。ああ、二人は今どうしてるだろうか。
あの事件の後、両親はすぐに俺を迎えに来てくれたが、秀明の安否の事もあったので帰るのはもう少し待って欲しいと伝えていた。
今は駐車場にて待機してもらっている。さっき行ったら白のワゴン車も止まってあって、茜さんが運転席から「頑張れー」と手を振っていた。
親から借りたカーディガンを羽織り、ブランケットを膝の上に敷いて、ベンチへと腰掛ける、。
夜空は雲に阻まれ何も見えなかったが、光量的に、あの雲の先に月が浮かんでいる事は分かった。
時間は20時20分。心臓が高鳴る。
コンクリートを叩くような音が聞こえ始めた。コツコツと、それは次第に音を増していき、俺の左側で止まった。そして。
「お待たせ、道希くん。隣座ってもええか?」
「うん」
空気を直に伝い、その声は俺の耳へと届いた。
秀明は俺の左側に座った。いや、座らせたと言った方が正しい。病院の敷地内に出来たこの広場は、コの字のような形をしているため、秀明の移動ルートを読む事は簡単だった。後は左目が死角となるような位置に腰掛け、秀明の到着を待てばいい。
きっと秀明も、そうなると分かった上でここを選んでくれたのだと思う。
時間は20時23分。沈黙が続く。
話したい事は山のようにあるのに言葉が浮かばない。今までどうやって秀明と話していたんだっけ……。
沈黙が続く程、俺の感覚が研ぎ澄ませれていくのが分かる。
秀明の吐息、熱、動いた時のベンチの軋み、存在感。あらゆる要素が俺の言葉を塞ぐ蓋となっていき、このままじゃ呼吸すらも塞がれてしまいそうだった。
「秀あ、……っ、はくしゅん!」
「あっ、寒いか! やっぱ病院の中とかにしといた方が良かったか?」
「だ、大丈夫だって、ちょっと鼻がムズムズしただけ。そっちこそ寒いとかないの?」
「俺か? 俺は全然平気やで。心配してくれたありがとな〜」
へらりと答える秀明に変わった様子はない。
それにしても初手から躓くとは……。まあ、空気を変えることは出来たし、良しとしよう。
「姉ちゃんから話は聞いたで。目、大丈夫そうで良かったわ」
「お前も無事で良かったよ。今日中には帰れるんだって?」
「そうやで。ふふん、伊達に身体鍛えとらんっちゅうこっちゃ!」
「包丁相手に鍛えるも何もないと思うけど……まあ良っか」
秀明は少しだけ声のトーンを落とす。
「あんな。何度も言うようやけど、あん時は酷いことして本当にごめんな」
「あー、いや、それはもう大丈夫で……」
『そんな簡単に許しちゃ駄目!!』
頭の中を、茜さんの声が強く響いた。
「…………いや。やっぱ許さない。お前なんて好感度1からやり直しだ馬鹿」
「そうかぁ。せやったら、また1から頑張らんとな。差し支えなければ前の点数どんくらいやったか教えてくれると嬉しいんやけど」
「そりゃあ、ひゃく……」
「ひゃく?」
「……百分の一」
「1%かい! あんま変わんないやんけ!」
「日頃の行いのせいかな」
「うぐぐ」
許せないのではなく、許さない。それが俺の出した答えだ。
今日の事やこれまでの事で秀明に恩は勿論ある。が、それがあの日の償いかと言われれば話が違うのもそう。何よりここで妥協して許すのは、自分にとっても、秀明にとっても、良くない気がした。
「そういやさっき親父と会ったんやけど、なんや滅茶苦茶に謝られたわ。あない親父見んの初めてやったから、ホンマ不気味やったわ」
「不気味とか言ってやるなよ。本人は真剣なんだから」
「そうやろな〜。真剣過ぎてなんやもう、毒気ぬかれてしもうたわ」
「ちょっとだけ秀明に似てた」
「え?! 何処が?!」
「んー、背中の丸まり具合?」
「何やそれ。コメントに困るわ」
「アハハ!」
ああ、ずっとこのままだったら良かったのに。
何も知らず、友達として秀明の傍にいたい。一枚の隔たりもなく、秀明の門出を祝福したい、応援したい。そんな簡単な事すら、俺には許されないのか?
左目から先は変わらず暗闇に包まれている。包帯なんて外そうと思えば外せるが、お医者さんの言う通り、傷口が開いたり、変な菌に感染されでもしたらそれこそ…………なんて言い訳がすぐ浮かぶのだから本当に救いようがない。
「なあ、やっぱまだあかん?」
「……何が」
「俺の姿見るの。ぶっちゃけ、そないガッカリさせる顔つきやないと思うけどな〜〜! チラチラ」
「そういう問題じゃない」
「せやったらどういう問題なんよ?」
「だからそれは」
「『元の自分に戻ってまうのが怖い』やろ? でも、本当にそれだけ? もっと別の理由があるんちゃうんか?」
「それは……」
そんなの、決まってる。
俺はブランケットを強く握った。吐く息は透明なのに、口元はカタカタと小さく震えてしまう。
「今の関係を、壊したくない」
「…………」
「俺……お前の家に行くとき楽観的だったと思う。急な訪問とはいえお前なら着ぐるみで出てくれるだろうなって、疑いもしなかった。……だから、お前のお姉さんが出たときは心臓が止まるかと思ったよ。そして気づいた。あれが俺の"本心"なんだって」
草花が風に揺られる。まだ乾ききっていない雨粒が葉の上を滑って、音もなく地面へと落ちていく。
「俺は」と一度言葉を飲み込む。喉が、妙に渇いていた。
「お前の顔が見たいわけじゃなかった」
自分で口にして、ようやく腑に落ちる。
「いや、違うな。見たくないわけでもない。でも、それ以上に怖かったんだ」
着ぐるみを脱いだお前を知ってしまえば、もう後戻りはできない。
今まで笑って交わしていた言葉も、何気なく隣を歩いていた時間も、全部意味が変わってしまう気がした。
「お前が生身で俺の前に立った瞬間、俺はお前を『着ぐるみの中の誰か』として見ることになる。そうなったら……俺はきっと、今までみたいに話せなくなる」
笑えなくなるかもしれない。気を遣って、距離を測って、言葉を選んで。そうやって少しずつ、お前との間にあった気楽さが消えていく。
「そんなの、嫌なんだ」
声が震えた。
「俺にとって、お前はずっと"あの着ぐるみ"だった。だからこそ何でも話せたし、弱音も吐けた。……それを失うくらいなら、俺は一生、お前の顔なんて知らなくてもいいって思った」
風が吹く。
濡れた葉が擦れ合い、小さく鳴いた。
「秀明、俺は……お前を失うのが怖いんだ」
いっそ全部否定してほしい。
最悪な奴だって。自分勝手な奴だって。この気持ち諸共、トドメを刺して全部終わりしてしまえばもう……。
「壊れるだけで終わりなんかな」
「えっ」
思わず顔を上げる。
秀明は困ったように笑いながら、濡れた芝をつま先で軽く蹴った。多分。
「ほれ、アニメとかでもようあるやん。何かが壊れて、それで全部終わりやなくてさ。破壊の先に創造がある、みたいな」
俺は何も言えなかった。
そんな都合のいい話が、自分たちにも当てはまるのだろうか。
「着ぐるみを脱いだら、今までと同じではおれへん。それは俺も思う」
一拍置いて、穏やかな声が続く。
「でも、それって悪いことなんかな」
風が俺たちの間を通り抜ける。
「今までの関係は確かに終わるかもしれん。でも、それは『君にとっての俺』が変わるだけやろ」
唇を噛む。
否定はできなかった。
「君が見てたのは、ずっと着ぐるみを着てた俺や。やったら、その続きには、着ぐるみを脱いだ俺がおってもええやん」
秀明は優しく笑う。
「最初から全部作り直すんやない。今まで積み重ねてきたもんの上に、新しい関係を重ねていくだけや」
雲の隙間を縫って、目の前を月明かりが僅かに差し込む。
「着ぐるみなんかなくたって君が今以上に俺を頼れるように、好きになってもらえるように頑張るから。──せやからさ」
秀明の言葉が耳元に近づく。
「──せやから、これからもずっと君の傍にいさせてくれへんか?」
胸の奥が熱くなる。
どうして、そんな期待しちゃうような事ばっか言うんだよ。
「っ、どうせ、すぐにいなくなるくせにっ」
「実家に戻る話な。やっぱ急やよなぁ」
「急だよっ!! お前はずっとずっと……!」
初めて会った時も、特訓を持ちかけられた時も、勉強会がしたいと言われた時も、修学旅行の夜に呼び出された時も、学校に来なくなった時も、実家に戻ると聞いた時も、大好きだと言われた時も、全部が急なんだ。
「俺は付いていくのに必死で、お前に何もしてやれないっ……! それじゃ、それだけじゃ、もう、嫌なんだよ……!」
慟哭が周囲に響く。瞳の上には薄い膜ができていき、意識しないとすぐにでも溢れてしまいそうだった。
変わらぬ声色で、秀明が俺の名前を呼んだ。
そして。
「──最後に、特訓に付き合ってくれへん?」
「え……?」
「ほれ、いつもやっとった奴の事や。見る特訓に触る特訓。あーでも、今回は一つだけ違うなぁ」
ベンチが軋み、熱が更に近づく。
「今回特訓するんは俺の方や」
そう言って、俺の膝上に差し出されたのは"剥き出しの掌"だった。
俺は一瞬だけ息を呑む。
「怖いか?」
「怖くは、ない」
嘘じゃない。それでも身体が強張ってしまったのも事実だ。
秀明の手はその場に固まったまま動かない。これに目を背けるほど俺の度胸は据わっていない。
暗がりの中、俺は目を凝らす。
男らしい大きな手だった。けれど、長い指はしなやかで、整った爪先には粗野なところが少しもない。
これが秀明の手なんだ。なんてことの無い事実を目の当たりに、俺の記憶は、日常は少しずつ現実味を帯びていく。生え揃った短毛なんてない。学生らしいシワの刻みと油分の輝きを放った手。
秀明の右手を肌の表面に触れる程度に、そっと両手で挟む。
「はは、汗でビチャビチャだ」
「もー、そういう事言わんの」
挟む力を少し強め、動かす。見ただけでは分からない指の骨張りと肌のざらつきが伝わってくる。
着ぐるみとはまるで違う。でも、明らかに別物だとは思わなかった。
だって、着ぐるみ越しとはいえずっと触ってきたんだから。俺の手を握ってくれた、背中をさすってくれた、誰よりも何よりも大好きな温もり。
……この温もりが、もうすぐ無くなる。
「っ」
もう、限界だ。
瞳を覆っていた膜が弾けて、雫がとめどなく溢れ出てくる。この気持ちをなんて言えば良いのか俺には分からない。安心したとか、悲しいとか、とにかく色んな感情がぐちゃぐちゃに混ざって、涙と一緒にその手へ落ちていく。
「本当に色んな事があったなぁ」
「う……ん」
頷くことしか出来ない俺にも、秀明は優しい声色のまま話を続けてくれる。今までにあった事を、そしてもう二度とないであろう事を。
明日なんか来なければいいのに。実家になんか戻らなきゃ良いのに。そんな言葉の数々は嗚咽によって掻き消された。
「なあ、抱きしめてもええか?」
「う、んっ」
秀明の右手がゆっくりと俺の元から離れ、今度は両腕で俺の身体を囲っていく。全身が心地よい温もりに包まれ、更に涙が溢れた。
雲の隙間から月明かりが降り注ぐ。それはスポットライトみたいに、俺と秀明を僅かに照らした。
「おれ、おまえのことが、好きなんだ……好きになっちゃったんだ。友達なのに、ごめん。ホントにごめん……」
「何で謝るん。むしろ君と同じ気持ちやって知れてめっちゃ嬉しいわ」
「行かないで……」
「大丈夫やって。すぐ戻ってくるから」
「ほんとにっ……?」
「勿論や」
秀明が俺の背中を優しくさすってくれる。
俺は秀明の肩に顔をうずめる。病衣に残る柔軟剤の匂いに混ざって、知らない匂いが一つあった。多分、これが秀明の匂いなのだろう。
「道希くんは何もできなかった思っとるらしいけど、俺はそうは思わんな。むしろ道希くんがいなきゃ俺は何も変われんかったはずや。君の言葉が、優しさが、温もりが、俺をこの呪いから救ってくれたんやで」
「そん、なの、おれだって……」
「じゃあお互い様っちゅうことで」
「それ、ちょっと意味、違う……」
「アハハ、この際細かい事はええやん」
「ふっ……」
結局秀明の表情は見れないままだけれど、それで良かった。今はただ、この匂いを、感触を、温もりを片時も離したくなかった。
──秀明、ありがとな。
声はくぐもっていたけれど、秀明には確かに届いた。
「こちらこそ」と答える秀明の声は、今までで一番優しく、甘さをはらんだ響きをしていた。
