野獣の呪いが解けても、──愛してくれますか?

 
 パトカーが到着すると、全員がそのまま連れて行かれた。事情聴取のため東雲とはそこで別れ、俺と秀明は傷の手当てのため、総合病院へと運ばれていった。
 
 処置も滞りなく終わり、俺はエントランスの待合席に座り、秀明の安否連絡を静かに待っていた。院内はアルコール液の匂いを漂わせ、借りた病衣だけだと少し肌寒い。窓を見ると雨はすっかり止み、真っ暗な景色が広がっていた。

「道希くん、こんばんわ」
「あ、はい。こんばんわ」

 不意な声に振り向くと、見覚えのある金髪ボブの女性が立っていた。「隣良い?」と聞かれた為、そのまま「どうぞ」と言いながら手で促す。女性は俺の右隣へと腰を下ろした。

「目は大丈夫?」
「はい。こめかみからの出血が多かっただけで、失明の心配とかは無いらしいです」

 「そう。良かった」と良い、女性は胸を撫で下ろす。

「あ、そう言えば、自己紹介がまだだったよね。私は茜。ヒデの──」
「お姉さん、ですよね?」
「あれ、気づいてたの?」
「はい、何となく」

 秀明の話から姉がいる事は把握していたし、目元や雰囲気も、前に見た秀明のお父さんの面影があった。……あの時逃げたのも、それが理由だ。

「あの、秀明の傷はどうでしたか?」
「切り傷が少しあるくらいで大したことないってさ。今日中には帰れるはずだよ」
「そうですか。良かった……」

 安堵とともに息が漏れる。
 結局あの後、俺は警官に言われるがままパトカーへと乗り込んだため、秀明の状態をまともに確認する事が出来なかった。秀明が同じ病院に運ばれたと知ったのも、処置が終わった後のことで、ずっと気が気じゃない思いだった。

 茜さんは「話変わるんだけど」と前置きすると、真剣な表情になって話し出す。

「弟が酷いことしたらしいね。謝って許される事じゃないってわかるけど、私の方からも言わせて欲しい。本当にごめんなさい」
「いやそんなっ……。あれは俺も悪かったと言うか、えっと、その……もう自分は気にしてないので、頭を上げてください」
「……気にしてないって、アイツを許すってこと?」
「え? あ、はい。そうなりますかね……」
「そんな簡単に許しちゃ駄目!!」
「えっ?!」

 茜さんは俺の両肩を掴むと、グワングワンと俺を揺らして、早口に話し出す。

「あなたは嫌なことされたんだからもっと怒っても良いの! 後自分が悪い言うてるけど、今回のはアイツが勝手に嫉妬しただけだから!! 否は完全にあっち! あなたは悪くない! わかった?!」

「は、はい!!? ごめんなさいっ!!」
「あ"ー今になって腹立ってきた。いっつもいっつも突飛な事ばっかしよって、少しは周りの事も考えろやアイツ! 昔から人の話はちゃんと聞かんし! 優柔不断で自分勝手! それに──『でもっ』」

 咄嗟に口を開いてしまった。茜さんは俺を揺らすのを止め、俺からの発言を待っている。

「──でも、良い奴です」
「それはっ……まあね」

 茜さんの手が離れる。そのまま受付の方へ向き直ると「アイツには勿体ない気がするわ」とだけ呟いた。何が勿体ないのかは分からないけど、茜さんの笑みからして悪い意味ではないのだろう……と思う。
 そんな事を考えている時だ。

『ウィン』

 背後から開閉音が鳴ると共に、新鮮な夜風が髪を揺らす。振り返ると男性が一人入ってきた所だった。パケット帽を深く被り、スーツの上に紺のチェスターコートを羽織った、紳士さと気品さを醸し出した男性だった。

 男性は俺たちを見るや否や、カツカツと、ローファーを鳴らしながら向かってくる。先ほどの今なので、若干身体が強張る。茜さんは「やっとか」と呟き、鼻を鳴らした。

「茜、待たせた」

 男性は茜さんの前に立ち、そう口にすると、バケット帽を外した。白髪混じりの髪と、切れ長の目をした厳格な顔立ち。俺は、この顔を知っている。

「秀明の、お父さん……」
「何よ何よ、今更になって到着〜〜?? 息子が危ない目に遭ったってのに随分のんびりなんですね〜社長さんは〜〜」
「本当に申し訳ないと思ってる。すまなかった」
「フンッ、そういうのは……本人に言ってあげてよね」
「ああ、勿論だ。ただ、その前に──」

 そう言うと、秀明のお父さん──狐崎洋司さんが視線をこちらに向ける。

「少し、この子と話す時間をもらいたい」

 ◇

 茜さんが席を外すと、今度は洋司さんがそこに腰を下ろした。

「息子から色々と聞いている。迷惑をかけたね」
「いえ、そんな……」

 身体が強張る。決して恐怖とかじゃなくて、単純に緊張をしてだ。

「アイツは学校生活を楽しんでいたか?」
「えっと、愚痴は結構……いや、かなり言ってましたけど、楽しんでた所もあったと思います!」
「フッ。きっとそれは君が傍にいてくれたからなんだろうな」
「そんな事は……」
「そうかい? 現に秀明からの連絡は君の事ばかりだったよ。嬉しかった事、悔しかった事、楽しかった事、悲しかった事、怒った事。それら全てに君の名前が出てきたぞ」

 なっ。
 口には出さなかったが、表情が途端に瓦解していくのが分かった。サラッと何て事を言い出すんだ。
 洋司さんは微笑ましいものを見たとでも言いたげに目を細めてくる。早く治れ表情! と、俺は頬を少しだけ強く叩いた。

「息子のことは、今まで妻づてに聞くしかなかった」
「秀明のお母さん、ですか?」
「ああ。仕事にかまけて、何度アイツらの成長の機会を不意にしてきたことか。その度に妻から近況を聞いては、父親の役目を果たした気でいた。今思えば、最低な父親だったと分かる」

 洋司さんは続ける。

「形ばかりとは言え、秀明とこんな深く関わった事が今まであったんだろうか。……もっと早くにこうしていれば、何かが変わったのかもしれないな」

 遠くを見つめる洋司さんの瞳は、寂しさと後悔が含まれているように見えた。
 今聞くのは無粋かもしれないが、洋司さんに会ったら絶対に聞いておきたい事が一つあった。意を決して俺は口を開く。

「何で秀明に着ぐるみを着させたんですか?」
「人と触れ合う尊さを、アイツに思い出して欲しかったからだ」

 サラリと迷いなく、洋司さんは答えた。

「順を追って話そう。過去に俺も、着ぐるみを長いこと着る機会があってね。それが"バブルヒア一世"というキャラクターだった」

 バブルヒア一世……、確か秀明のが"二世"で……。

「当時の俺は焦っていた。社長の後継者争いが苛烈化し、いかに相手より上回るかしか頭になく、仕事への情熱も愛も殆ど無くなっていた。

でもそんな折に、前社長から着ぐるみを着て慈善活動をしろと言われてね。この多忙な時期に何故と思ったが、まあ渋々と了承はしたんだ。

向かった所は商業施設や遊園地、児童施設、福祉施設、他にも色々と出向いた。本当に、色んな人に出会ったよ。今も続く関係もあれば、一生会いたくもないと思う事もあった。"アイツ"ともそこで……いや、これは話すことじゃないか」

 軽く息を吐くと、洋司さんは僅かに口角を上げた。人は昔の話をすると少し若返るのかもしれない。洋司さんの表情は最初よりもハリがあり、シワも減ったように見える。
 "アイツ"とは誰の事ですか、とは聞かないでおいた。何となく想像がついたからだ。

「いつだったか、入院中の子供を励まして欲しいとお願いを受ける事があってね。精神的にトラウマを抱えた子だった。リハビリに付き合うのも、一度や二度じゃ済まなかったよ。だから、その子が退院した時は自分の事のように喜んだものさ。
──そこでようやく前社長の意図が分かったよ。あの人は俺を"愛のない野獣から人に戻すため"、こんな舞台を用意したのだと」
「野獣……」
「人の事も、自分の事も大切にできない奴の事だ」

 洋司さんは両手の指を絡めると、前のめりに俯くような姿勢になった。

「妻が死んでからの息子は変わった。学校にもろくに行かず、悪質な連中と絡むようになった」
「そんなの」

 想像がつかない。そんな俺の気持ちに付け加えるように「全部俺のせいだ」と洋司さんは呟いた。

「俺はアイツに一度も向き合って来なかった。妻に全て任せ、その妻の死すら仕事を言い訳におざなりに扱った」

 静かなエントランスに、洋司さんのため息が響く。 

「家族を愛していないわけじゃなかった。でも、独りよがりの愛では決して人は満たせない。……妻が死んでやっと気づいたよ。俺は再び、愛のない、醜い野獣に戻ってしまっていたのだと」

 慰めの言葉は出なかった。洋司さんの言葉があまりにも重く、的を得て、事実を象っていたから。

「ある日、秀明とバッタリ家で会った。丁度出かける支度をしていたから『あまり無駄遣いはするな』とだけ俺は言った。秀明が連中の費用を立て替えている事は知っていたし、これ以上の金づるになるのは危険だと思ったからな。でも、そしたらアイツはこう言ってきた」

『どうせ、子供騙して巻き上げた汚い金やろ。どう使おうがこっちの勝手やろがい』と。

「その時初めてアイツを殴った。酷い事を言った自覚もある。アイツは荷物も持たずに家を飛び出したきり、帰ってこなくなった」
「…………」
「俺は、自分が情けなくて仕方が無かった。息子にあんな事を言わせてしまったこと、父親なのにどう息子と接していいのか分からないこと、こんな時にも仕事の事が頭にチラついてしまうこと全てが」
「……」
「頭の中の引き出しという引き出しを開いて、ふと思い出したのが、着ぐるみでの慈善活動の事だった。藁にも縋る思いだったと思う。アイツにしてやれる事は、もうそれくらいしかなかった。……後は君も知ってのとおりだ」

 だから"二世"か。
 俺は静かに「はい」とだけ返事をした。

「話し合いやカウセリング。考えればもっと効果的な方法はあったかもしれない。でも、今の秀明や君の関係を見てると、この選択が間違いじゃなかったと、そう思えるんだ。……と、長くなって済まない。聞きたい事は聞けただろうか?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」

 痛感した。俺は本当に秀明のことを何も知らなかったのだと。秀明の事情も知らず、あの陽気さが羨ましいと思っていた自分をぶっ飛ばしたい。
 全てを知った今、俺に出来る事は……。

「俺は……本当に、秀明に会うべきだろうか」
「え?」

 洋司さんは続ける。

「茜にはああ言われたが、秀明はきっと、俺に会いたくないと思うに違いない」
 
 両手で顔を覆うと、洋司さんはそう呟いた。
 丸まった背中が、前に泊まり来た秀明の背中と重なって見えて、何だかとても切ない気持ちになった。
 親子揃って、どうしてそんな所だけ似るんだよっ……。
 噛み締めた下唇を解き、俺は言葉を紡ぐ。

「お二人の関係が今どれだけ修復してるのかは分かりませんけど、本当に嫌いな相手に連絡なんて、俺なら普通しませんっ。秀明は今も貴方を父親だと思ってるんです。俺が保証しますからっ、だからっ、絶対会いに行ってやってくださいっ!」
「……そうか、ありがとう」
「いえ"っ」

 瞳から溢れそうになる雫を腕で押さえつけ、何とか堪えた。今日はもう駄目だ。色んな事があり過ぎて、情緒が馬鹿になってる。
 俺が落ち着くのを待ってから、洋司さんは口を開いた。

「アイツは一度実家に戻そうと思う」
「え」
「そう不安がらなくて良い。何も勘当するわけじゃない」

 表情に出ていたのか、間髪入れず、洋司さんはそう言った。

「アイツのこれまでの素行は把握してる。今回の君を助けた件も踏まえて、一度本格的に話し合う頃合いだろう」
「でも……そんな急にですか?」
「約束は約束だからな。アイツがこの後どう動くかは任せるつもりだが──」

 その瞬間、洋司さんから通知音のようなものが聞こえた。洋司さんはコートのポケットからスマホを手に取ると、僅かな笑みを浮かべた後、俺へスマホを差し出して来た。

「──もう野獣になる必要はないと、俺は思うよ」

 表示された通知メッセージに、俺は何も言えなかった。



『道希くんと話がしたい』