野獣の呪いが解けても、──愛してくれますか?


 狐崎たちを乗せた白のワゴン車は第3公園前で止まった。三人は車を降り、周囲の様子を伺うも、道希どころか他の人の気配すら感じられない。

「本当にここで合っとるんやろな」
「ああ。道希は考え事があるときは、いつもここに寄ってたから」
「……何でお前がそないこと知っとんねん」
「こら、嫉妬すんな」

 茜に頭を小突かれ、狐崎の頭が少しズレた。
 スマホの電源を付ける。未だに狐崎のメッセージは未読のままだ。

『第3公園におるなら待っといてほしい』
 
 通知からでも分かるよう端的に伝えたため、内容だけ見て放置……いや、最悪の場合、狐崎に会いたくないから逃げたという線もある。

「そん時はそん時やろ」

 狐崎は頭をブンブンと振り、余計な憶測を払拭した。そして、再び道希の行方を探そうと視界を巡らせた時だ。

「ん? なんやこれ」

 狐崎の声につられ、茜と東雲も近づく。

「スマホ?」
「落とし物みたいね」
「うへえー……メンドイもん見つけてもうたわ」
「メンドイ言わんの。落とした人は滅茶苦茶に焦ってるはずだよ」
「はいはい。じゃあこれは後で交番に届けるっちゅうことで」

 狐崎はスマホを拾い上げると、ふと違和感を覚えた。何処にでもあるような黒いスマホ。引っかかる要素なんて何もないはずだが……、妙に頭の中でこの形がちらつく。

「なんや、このスマホ見覚えがあるような……」
 
 そう言って、徐にスマホの電源ボタンに指をかけた時だった。
 狐崎たちはその画面を見て戦慄する。

 "110"

 緊急ダイアルにはそれだけが入力してあった。「何これ……」と誰かが呟く。その呟きに答えるものはいなかった。先ほどの違和感が更に膨張していく。心臓は鼓動を早め、狐崎は咄嗟に手で胸を抑えた。

 この胸騒ぎは何だというのか。確認する方法は……きっと一つしかない。 

 緊急ダイアルの画面を離れ、ホーム画面へと戻る。画面上部には、メッセージアプリの通知アイコンが表示していた。
 狐崎は慎重に通知バーを引き下ろす。
 気のせいであってほしい。その切なる想いは一瞬のうちに砕かれた。

『第3公園におるなら待っといてほしい』
 
 狐崎のメッセージだ。
 狐崎は瞬きすら出来ずに、ただスマホ画面を凝視する。思考が止まり、息も止まる。魔法の解けた玩具のように、その場に立ち尽くすしか出来なかった。

「──たすけてっ!!」

 時間の流れを再開させたのは、悲痛な叫び声だった。
 振り返ると、茜のコートを少女が引っ張っていた。服装は所々乱れ、跳ねた髪と相まって、つい先ほどまで激しく動き回っていたことが想像についた。
 
「ちょ、そんな慌ててどうしたの?!」
「お、おにいちゃんが……、ひっ!」

 少女は目を見開き、表情を引きつらせたまま狐崎を見つめた。今までも着ぐるみが怖いという子には、何度も会ったことがある。……が、この表情はどう見ても、その範疇を超えているように見えた。
 狐崎は少女にそっと近づき、目線が合うように地面へ膝をつく。
 
「安心しや。ここにお嬢ちゃんのこと傷つけたりする人はいない。ゆっくりでええから、何があったか教えてくれるか?」
「………っ」

 狐崎の誠実さが伝わったのか、少女の呼吸は落ち着きを取り戻していき、次第に言葉を紡ぎ出した。

「ぐすっ、私迷子で、パパとママに会いたくて……、そしたら"うさぎさん"がパパとママのところに連れってあげるって言って……」

 うさぎさん……。さっきの反応からして、狐崎と同じ着ぐるみを着た人物のことだろう。
 少女は続ける。

「あたしが、おまわりさんの所行きたいって言ったら、うさぎさんが包丁をだして……、暗い所つれてかれそうになった時におにいちゃんか助けてくれたのっ……」
「包丁……!?」
「そのお兄ちゃん、どんな格好してた!」
「そのひとと、おなじ服してた……」

 そう言って、少女は東雲のブレザーを指差す。間違いない、道希だ。
 
「このままじゃ、……あのおにいちゃん、死んじゃう……!」
「姉ちゃんっ!! 警察に電話!!」
「今かけとるって……! あ、もしもし!? 大変なことなって!」 
「嬢ちゃん、そん二人がどっち行ったかわかるか?」
「あのみちの、おく……」
「わかった! ありがとうな!」 

 そう言って、狐崎は勢いよく立ち上がる。

「姉ちゃんと東雲はこん子の傍におって! 俺は道希くんとこ行くから!」
「は?! ちょお、何言って! こら待ちやヒデ!!」 

 茜の制止を無視して、狐崎は一気に駆け出す。

「俺も行きます! 悪いですけど、この子と警察の方お願いします!」
「アンタも何言ってんの、って……あ"ーもう! 馬鹿餓鬼共が!!」



 水たまりを蹴飛ばし、俺はひたすらに路地を走る。頭上から靴先にかけて水分が蓄積され、どんどんと俺の体力を奪っていく。
 それは後方にいる兎男も同じはずだが、距離が離れる気配は一向にない。ビチャビチャと。自分以外の足音が近づく度、俺の思考を恐怖で染めていく。

 早くここから逃げたい。
 その一心で次の曲がり角を曲がると、道の奥から光が溢れ出ていた。

(あそこさえ抜ければ、人のいる所に……!)

 最後の力を振り絞って、俺はがむしゃらに足を動かした。
 念のため、後方にいる兎男の姿を視界に収めようと、顔を後ろに向けた時だ──。

『ゴッ』

 瞬間、視界が大きく揺らぐ。足からは力が抜け、俺はその場に勢いよく倒れ込んでしまった。 

 熱い。
 痛い。
 左目から先が真っ暗で何も見えない。
 
 カラカラと、古いケトルが俺の先を転がっていく。これが投げつけられたのだと、気づくのに少し時間が掛かった。赤く滴った物が雨に流され、地面へと広がっていく。
 
 無常にも、もう足音は聞こえなかった。
 兎男が俺を見下ろしている。そして、そのまま俺の背に馬乗りになると──、

「がっ……」

 ──俺の首を手で一気に絞めた。
 圧迫感と不快感に涙が出る。ジタバタと足を動かしても、水の音が僅かに鳴るだけで意味がない。
 
(いっその事、一思いに刺せよっ……!)

 そう口を開いたが、その声が兎男に届くことはなかった。 
 意識が遠のいていく。苦しさも何もかも、もう分からない。
 

 ……薄れゆく視界の先に懐かしいものが見えた。


 ピンッと尖った耳に嗅覚に特化した口先。全身は黄緑色の短毛生地を纏った、犬の着ぐるみ。

(ひであき……)
 
 これが幻覚だとしても、俺は……。

…………。



「──何しとるんやお前!!!!」

 雨の中、その声は確かに聞こえた。
 
「げほっ、げほっ!!」

 首にかかった圧迫感が消え、肺へ一気に酸素が入ってくる。耳鳴りが酷いし、景色がチカチカときり替わる。周囲の状況がちゃんと分かるようになるまで時間が掛かった。
 両腕を地面に突き立て、ゆっくりと上体を持ち上げる。そして、路地の奥へと振り返ると、俺の感情は爆発してしまった。
 ずっと会いたかった男の背中が、目の前にあったから。

「ひであき、なんで……」 
「あ"あああああああ!!」

 俺の呼びかけは兎男の絶叫によって掻き消された。
 突き飛ばされたであろう兎男は、包丁を手に立ち上がれば、秀明へと攻撃を仕掛け始めたのだ。

 乱心に任せ、その刃を振り回す。いくら秀明といえど、この雨の中、包丁持ちの相手と戦うのは無謀だ。

 拮抗状態が続き、秀明の着ぐるみが着実に削られていく。深く裂かれた所からは赤い雫が溢れた。助けたいと頭の中では思うのに、身体には未だに力が入らず、立ち上がる事すらままならない。

「っ?!」

 不意に秀明の足が水のぬかるみにとられ、バランスを崩してしまった。その隙を見計うように、兎男は秀明の腹めがけて包丁を突き出す。

「秀明っ!!」

 瞬間、秀明は水飛沫が立つほどに、地面を踏みしめる。

「ええ加減に──」

 その足を軸に秀明は華麗にターンを決め、兎男の突きを避けた。そして、そのまま突き出された腕を掴むと、全身を捻り動かして──、

「しろや!!!!」
「がはっ……!」

 ──兎男を振り回し、壁へと投げ飛ばした。
 背中を強く打ち付けた兎男は、うめき声を上げながら俯せに倒れた。その拍子に着ぐるみの頭部は外れ、兎男の顔が顕になる。頭皮が見える薄髪をした、三十代後半くらいの男だった。

「はあ、はあ……! っ、道希くん!!」
「あっ……」

 駆け寄ってきた秀明が俺の前で膝をつく。

「大丈夫か?! クソ、こない傷が出来てっ……!」

 秀明の手が、俺の左頬へと伸びていく。俺は自然と秀明の手を受け入れるように首を傾けたが──。

「っ」

 その手は頬に触れる直前で止まり、膝上へと降りていく。

「……もうすぐ警察も来るからな。そん時に病院に連れて行ってもらえると思うから、もう少しの辛抱やで」
「うん、ありがとう……」

 触って欲しかった。秀明の温もりを感じたかった。こんな状況で考えるべきじゃないのに、そんな事ばかりが頭に浮かぶ。
 暫くの沈黙。秀明は俯いたまま答える。

「……ごめん。俺のせいでこない事なって」
「え」

 何でお前が謝るんだよ。巻き込まれたのはお前なんだから、むしろ謝るのは……。
 
「俺が学校休まなければ、いや、そもそもあない事しなければ道希くんはこない目に遭わなかった。本当に、ごめん」
「違う。お前のせいじゃ……」

 手を伸ばすも、それが秀明に届くことはなかった。
 遠い。距離的にも、関係的にも。

「痛いよな、怖かったよな」

 秀明は俺の顔を見てまた呟く。俺はいつの間にか泣いていたらしい。雨粒に混ざって、頬を雫が伝い落ちていく。 
 違う。痛いとかそんなんじゃない。なんて言えば分かってくれるんだ。

 頭に酸素を巡らせ、最適解の言葉を考えるも、浮かび上がるのは表面を撫でるだけの綺麗事ばかり。いや、この際綺麗事でも良いのかもしれない。これ以上、コイツが傷つかないのならば、苦しまないのならば。
 そう思い、俺は口を開く。
 ──が。

『カチャ』
 
 金属が地面を擦る音。
 雨音のせいで秀明の反応が遅れた。

「ボクの、邪魔をするなあぁああぁあああああああ!!!!」
「なっ……!」

 俺たちが気づく頃には、兎男は既に包丁を振り上げていた。スローモーションのように、包丁は俺たち目掛けて振り下ろされていく。
 瞬間、秀明は地面を蹴り上げ、その勢いのまま両腕を広げると──、

「──」

──俺を強く抱きしめた。
 
 ふわりと、何かが宙を浮く。それは犬の表情をした何かだった気がする。水が跳ねる気配。音。振動。それらの情報だけが、ひたすらに頭の中へ蓄積していく。
 ──ふと、黒い絹糸のような物が、視界の端をかすめた。
 
「嫌だ……! 秀明っ!!」

 死んでほしくない。そう思って秀明の拘束を振り解こうとするも、びくともしない。その間も包丁は秀明の背中へと迫っていく。

 嫌だ。
 
 嫌だ。

 お願いだから。誰か、助けて。


「やめろぉ!!」
 
 怒号のような声が背中へと突き刺さる。それと同時に、頭上を何かが通り過ぎる感覚と、風切り音がした。

 振り返ると、東雲が立っていた。
 数年経っても褪せない投球フォーム。東雲の放ったケトルは、この豪雨の中、兎男めがけ真っすぐと進み──、

「んがっ?!」

 ──その顔面を捉えた。
 兎男はバランスを崩し、衝撃に身を任せて、後ろへ倒れていく。そして、そのまま後頭部を地面へと叩きつけると、カエルのような声をあげ、今度こそ動かなくなった。

 再び雨音が周囲を支配する。
 ようやく来た安堵感に、糸が切れるように全身の力が抜けた。

「東雲っ、ありが」

 言葉は最後まで言い切れずに喉の奥に詰まってしまった。
 東雲は、俺を見てはいなかった。放心状態のまま、俺の隣にいる男の姿をひたすらに視界に収めている。
 何故か。そんな事は考える間もなく、答えが出た。振り返った視界の先に、犬の頭部が、着ぐるみの頭が転がっていたのだ。

 身体の自由を奪っていた拘束が緩み、密着していた身体がゆっくりと離れる。

「道希くん──」

 その声は、くぐもりもせず、

「──大丈夫か?」

 確かに、鮮明に、俺の耳へと届いた。

「お」

 俺は秀明を押しのけると、這いながらも着ぐるみの頭を拾った。そして、俯いたまま秀明の前へ戻ると、着ぐるみの頭を突き出して渡す。

「道希く──」
「何も見てないから」

 返答も待たず、俺は続ける。

「せっかくここまで頑張って来たのに……こんな事で無かった事になるなんて駄目だっ。だって、お前は何も悪くないんだからっ」
「…………」

 綺麗事、そう思った。本当はただ怖くて見れないだけのくせに、この関係を繋ぎ止めたいだけのくせに。秀明の都合を盾にするとはとんだクソ野郎だ。
 腕が震える。これは寒さからなのか、怖さからなのか、それとも重さからなのか。俺にはもう分からない。
 秀明は黙ったまま着ぐるみの頭を受け取ってくれるも、被ることはせず、膝の上に置くとまた俺の名前を呼んだ。

「少し、話でもしよか」
「話……」

 ずぶ濡れの犬と目が合う。黄緑色の毛色は雨と泥に汚れてくすんでおり、まるで泣いているかのように見えた。

「プールの日やったか。道希くんが級長やったから近づいたって俺言うたやん? 最初こそそうやったし、その為に特訓とかもしてたわけやけど。……ただ君と過ごしていくうちに、そんなん考えない事の方が多くなった。純粋に君と過ごす日々を楽しんでる俺がいて、いっそこのままでもええかもな〜なんて思うようにもなり始めてたわ、ははっ」

 秀明は続ける。

「けど、駄目やった。そんなんじゃ満足できんかった。道希くん、俺はこない着ぐるみ脱ぎ捨てて、もっと近くで君の温もりを感じたい。もっと深く、君の心の傍に寄り添いたい。そない事ばっか考えるようになったんや。今やってそうや」
「なんだ、それ……そんなのまるで……」
「まるで?」

 途端に言葉が詰まる。言ってはいけない。言ったら最後、俺も秀明も引き返せない所に行ってしまうような気がしたから。

「……東雲から、君のトラウマのことは聞かせてもらった」
「え……」
「あ、怒らんでやってくれよ? 俺が半ば強引に言わせてしもうたようなもんやったからな」
「……それで、どうなの」
「どうって?」
「俺のこと、軽蔑した……?」
「そんなんするわけないやろ」

 秀明が俺の頭を軽く小突く。痛くはない。手を乗せただけとも感じられる衝撃だった。

「道希くんは何も悪ない。責めるんやったら君にそない顔させる奴だけにしとき。それでもあれやって言うなら、こない俺で良ければいつでも相談相手になったるから」

 目の奥が熱い。溢れ出る感情を下唇を噛むことで何とか堪えた。

「何でっ……何で俺のために、そこまでしてくれるんだよっ……」
「そんなん決まっとる」

 背後からパトカーのサイレン音が近づく。雨も激しさを増していき、遠くから雷鳴がゴロゴロと鳴り出していた。

「──君のことが大好きやからや」

 全ての音をかき消すように、その言葉は耳に強く残った。