野獣の呪いが解けても、──愛してくれますか?

 歩き始めてどのくらいが経っただろうか。そろそろふくらはぎも限界だと熱を帯び始めていた。
 先程より強くなった雨の匂いを感じながら、俺は第3公園前で立ち止まる。

 スマホをポケットから取り出す。通知に一度震えたきりで、特に変化はない。
 時間的に、恐らく東雲からだろう。あんな分かりやすい嘘をついたあげく逃げ出したのだ。心配させて、いや、怒らせてしまっても無理はない。
 秀明に嫌われて、今度は東雲にも嫌われてしまうのだろうか。そしたらまた、俺は一人ぼっちになってしまう。

 恐怖のあまりスマホを起動できない。何度心の準備をしても足りない。

(どうせ学校に行けば分かってしまうんだ……! なら、今見た方がダメージも少ないだろ……!)

 そう踏ん切りをつけ、スマホの電源ボタンに指をかけた時だった。

「なんだあれ……」

 俺は咄嗟に電柱の影へ身を隠した。
 ゆっくりと顔を出し、再び公園内に視線を向ける。
 公園内には少女がいた。年齢で言えば5〜6歳程度。ツインテールの髪に、マフラーとニットを身につけた小柄な子だ。
 その子が"何か"を見上げている。
 薄茶色の毛皮。張り付けの表情。身体より少し大きい頭からは、ダラリと耳が垂れ下がっていた。

 "兎の着ぐるみ"だ。

 兎男が、少女を見下ろしながら、静かに佇んでいたのだ。男だと決めつけたのは、身長が180cmを超えていたからであり、確証はない。

(……"不気味"だ)

 日常を逸脱した存在に出くわした時、人はこの三文字がまず頭に浮かぶのだと思う。秀明を初めて見た人もこんな気持ちになるのだろうか。……いや、きっとならない。
 兎男は紺のショルダーバッグをかけており、その現実感も不気味さに拍車をかけていた。
 ふと、兎男が拙かに揺れる。

「──!」

 兎男の動きに作用し、少女は口を動かす。会話しているのか……。ここからだと内容までは分からないな。

 兎男は少女へ手を差し出す。その手を少女が掴めば、二人は公園を抜け、北路地方面へと歩み始めた。
 ……あの先は、人気も少なく、滅多なことがなければ誰も近づかない場所のはずだ。

 嫌な汗が背筋を伝う。いつかの記憶が一つの線へと収束していき、最悪の結果がありありと脳内に広がっていく。

『最近、小さな子が行方不明になっている』
『不審者がいるので注意してください』

 ここで何もしないという選択肢は無かった。
 俺は二人の後を追っていく。
 杞憂だったらそれでいい。緊急ダイアルに110と入力した状態のまま、俺はスマホをポケットへと戻した。
 

 
 少女と兎男は、路地の奥をさらに進む。路地は両側を壁に挟まれて薄暗い。

「ねえうさぎさん、ほんとにママとパパこっちで待ってるの?」
「そうだよ〜、すぐあえるよ〜」
「でも……」

 少女の顔には、どんどんと不安の色が募っていく。
 壁一面に描かれた奇妙な落書き。クモの巣。ガラクタ。小動物の骨。いくら着ぐるみというアドバンテージがあっても、この路地の不気味さは緩和しきれないようだ。
 ポタリ、ポタリと。次第に雨が振り始め、無機質なコンクリートの道が水玉模様へ変わっていく。
 少女はもう限界だった。

「ねえやっぱ、おまわりさんのところ行きたい。おまわりさんのところに連れてって、ねえってば──」
「──五月蝿い」

 ショルダーバッグのジッパーが音を立てて開かれる。
 鉄色の光沢を放つ刃。
 兎男が取り出されたのは、黒の柄をした"包丁"だった。

「次騒いだら殺すぞ」

 兎男は包丁の刃先を、少女の腕に突きつける。腰が抜けてしまったのか少女はその場にへたり込むも、兎男は意にも返さず、その手を引き、路地の奥へと更に進む。

「や、ヤダ……! 助けて!! ママぁ!! パパぁ!!」
「お前……ボクが騒ぐなって言ってるのにっ……」

『カコーンッ』

 不意に、兎男の進行方向から甲高い音が響き渡った。
 包丁の刃先が、音の方へと向く。俺はその隙を見逃さなかった。

「おらっ!!」
「ぐおッ」

 物陰から飛び出した俺は、兎男目掛けて、タックルを仕掛けた。
 狙い通り、兎男はバランスを失い、少女の拘束が解かれる。後は少女と一緒に、大通りへと抜けるはずだったのだが……。

「うわっ!」

 兎男が横によろけたせいで、重心の位置が変わってしまったのだ。
 俺はタックルの勢いを殺すことが出来ず、無様にも、路地の奥の方へ転がり込んでしまう。
 少女と俺の間に、兎男がいるような位置関係になった。

「っつ……!」
 
 鈍痛が節々を襲うも、すぐ体勢を整える。
 少女がただ呆然とこちらを見つめていたため、俺は叫ぶ。

「逃げろ!!」

 その言葉にハッとした様子を見せた少女は、迷いなく公園があった方向へと走り出した。
 ホッとしたのも束の間。兎男の視線が、包丁の刃先が、俺へと向く。包丁は不規則に揺れ、まるで獲物を取り逃した事への怒りと悲しみを表現しているようだ。
 
(咄嗟だったから、まだ警察は呼べてない。早く電話を……!)

 俺はポケットへと手を伸ばした。
 が──。
 全身の血の気が引いていく。

 ない。
 スマホがない。

 どれだけポケットの奥へ手をやるも、スマホの気配はどこにも感じられない。

(ちゃんとポケットに入れたはずなのに何で……! まさか、何処かで落としたのか……?!)

 ゆらりと一歩、兎男がこちらに踏み出す。
 考えるのは後だ。今は急いで人のいる場所に逃げないと……!
 強張る身体を奮い立たせ、俺は路地の奥へと駆け出した。