竜兄に誘われ、カラオケにやって来たものは良いものの、俺は空気感に溶け込めず、ひたすらに席でジュースを飲むしかなかった。
店員からは何杯目かになるジョッキが、定期的に運ばれてくる。
『道希って本当に可愛いよね〜』
そう言って、竜兄は俺の隣に腰掛ける。腕を肩に回し、竜兄の手が俺の鎖骨あたりを僅かに触れた。
『何言ってんの。竜兄、流石に酔いすぎだって』
『あー、そうだなー……』
遠くを見つめたまま竜兄は答える。顔色は赤いを通り越し、青ざめ始めているようにも思えた。
親戚の集まりでもこんな酔い方はしたことがないため、言葉に出来ない不安感が俺の中に溜まっていく。
『俺より小さくて、頭も悪くて、ドジで、ゲームも下手で、可愛い可愛い俺の甥っ子──』
『り、竜兄っ……ん?!』
頬を掴まれた感覚の後すぐに、唇を生温かい感覚が襲った。
竜兄の顔が近い。いや、近いなんて所じゃない。
(お、俺、キスされて……?!)
周囲からは下品な笑いが響いた。
俺は竜兄を押しのけようと力いっぱいと藻掻くが、びくともしない。そして、そのままソファ押し倒されるような体勢になってしまう。
『痛っ! なに、して……ひっ!』
首元を水を含んだようなリップ音が鳴った。身体が硬直する。
竜兄はその隙を付いて、俺のシャツを剥ぐ。上半身が肌色で一色になった。
『綺麗な肌だねぇ』
そう言って俺の手を拘束すると、またリップ音が鳴った。
肩、脇、胸、腹を順に、舐めるような感覚が襲う。
『あっ……んっ! やめ、』
出したくもないのに、声が勝手に溢れる。
助けを求めようと視線を動かすも、竜兄の連れは笑みを浮かべるばかり。それどころか、スマホまで向け出してくる奴もいた。
竜兄は手の拘束を緩めると、今度は俺の"チャック"へと手を伸ばしていく──。
『っ…、やめろっ!!』
俺は近くにあったマイクを握ると、それを竜兄の頭目掛けて思い切り振り下ろした。
鈍い音とハウリング音が部屋中に響く。
竜兄はうめき声をあげ、手で頭を抑えていた。
刺すような視線に耐えきれず、俺は部屋を、カラオケ店を飛び出した。
どれだけ走ったかわからない。ここが何処かもわからない。
慌てて出たせいで、上は何も着てない状態で、嫌でも人の視線を集めてしまう。
視線。
視線。
視線。
視線。
早く、家に帰りたい。
『君! そんな格好でどうしたんだ!』
腕を掴まれる。目の前にいたのは警官だった。
『ち、違う。おれは……』
視線。
もう、限界だった。
『だ、大丈夫かい?!』
へにゃりと足が曲がり、そのまま俺は地べたに座り込んでしまった。
息が荒い。汗が止まらない。
見てる景色が濁って見えた。
肌に触れる全てが、刺さる視線全てが。
『気持ちが、悪い……』
◇
『これが、あの日にあった事の全部……』
道希はそう告げると、また俯いてしまった。
話を聞いている間、俺は一言も口を挟めなかった。受け入れ難い現実に、思考がこれでもかと回転を繰り返していく。
『竜二……さんは、その後どうしたの』
自然と口が動いた。
『一度だけ、謝りに来た』
『なんて言ってた……?』
『……『酒のせいで正常じゃなかった。事故だった。許してほしい』って……』
自分の眉が吊り上がっていくのがわかった。もしここに竜二がいたら、全力で殴りかかっていただろう。
自分よがりの言葉ばかり並べて、道希の気持ちなんて何も考えていない。こんな言葉を道希に言わせてしまった自分にも、心底反吐が出る。
竜二とのやり取りは、母親づてで聞いたらしく、直接会うことはなかったらしい。父親が『二度と来るな』と叫んでいた事だけ覚えているとのことだ。
それだけが、唯一の救いだと思った。
……でも。
『仕方なかったんだよ』
『は?』
思わぬ言葉に、呆けた返事が出た。
道希は続ける。
『竜兄が言ってた通り、事故だったんだよ。お酒の失敗なんてよくあることだって聞くし。むしろ相手が、俺で良かったと言うか』
『道希』
『俺もあの時混乱してたし、マイクで殴るとかもやり過ぎたと思う。外に出たのも俺が勝手にしたことだし、そもそも酔ってるって分かってるのについて行った俺が良くなくて……。だから、竜兄は、悪くない』
『道希っ』
『だから、だから──』
『道希!!』
俺が叫ぶと、道希の肩がわずかに揺れた。
そして。
『……お前にそんな顔させる人が、悪くないわけないよ』
道希の瞳には溢れんばかりの雫が溜まっていた。
掌で拭っても雫はどんどんと溢れ出ていき、道希はとうとう蹲ってしまった。
押し殺したような嗚咽が、蝉の鳴き声と一緒に聞こえてくる。俺はその姿を、ただ黙って見下ろすことしか出来なかった。
◇
濁った灰色の空気が、狐崎たちを包む。
すべてを聞き終えた狐崎は、拳を強く握った。
竜二という男に。行為に。態度に。そして、その男と同じ真似をした──自分自身に向けて。
「文化祭が終わった後、道希に会った。あの日と同じ暗い顔をしてたよ。……お前が何かやったんだろ」
その口ぶりは疑問の色を一切含ませていなかった。
「ああ、そうや」
狐崎はもう、嘘をつかなかった。
歯を噛み締めた東雲が、狐崎へと迫る。
そして──。
『ドスッ』
振り上げた拳が、風を切り、狐崎の腹部を深くめり込んだ。
胃液が込み上がる感覚。狐崎の身体は、くの字へと折れ曲がった。数歩とよろめいた足は力を失い、やがて狐崎はその場に崩れ落ちる。
視線の先、黒い靴がまた一歩近づく。見上げるとそこには、苦痛に顔を歪ませた東雲の顔があった。
「お前も、竜二も……! これ以上、アイツの気持ちを踏みにじるな!!」
東雲の瞳が炎のように揺らめく。それは不安定ながらも、美しく煌めく、生気のある青だった。
静かな風が吹き、青の瞳は再び、髪の中へと隠れてしまった。
「場所は教えてやる。でも、道希と会うのはこれっきりにしろ」
背を向ける東雲は、起伏のない声でそう答えた。
そして、道希のもとへ踏み出そうと足に力を入れた時だ。
「嫌や」
「は……?」
「俺は、道希くんと離れとうない」
東雲のこめかみに青筋が浮き立つ。鎮めたはずの火が、爆発的な勢いでまた膨れ上がった。
「お前っ。自分が何言ってるのか分かってんのか!!」
東雲が狐崎の胸グラを掴み、立ち上がらせる。その表情は鬼気迫るものだったが、狐崎は微塵も怯まずに続ける。
「わーっとる! 自分でもふざけた事言うてる事くらい! 道希くんの事考えれば、ここは大人しく身ぃ引くのが堅実なんやろうな!」
「なら……!」
「せやけどな、このまま逃げたら、道希くんには嫌なことされた記憶しか残らん! そんなんアカンし、俺も嫌や!」
「っ!」
「嫌な記憶が出来たなら、楽しい記憶で上書きしたい。傷つけてしまったなら、その傷が埋まるくらいの良い思い出で埋め尽くしたい。道希くんには、これからも笑顔でいて欲しいんや! やって俺──」
狐崎が大きく息を吸った。記憶と感情がパズルのように繋がって、自覚と共にそれは言葉となった。
「やって俺──道希くんのことが大好きやから」
また風が吹いた。
大きく開かれた青の瞳は、確かに狐崎の姿を映し出し、もう炎のような揺らぎは無かった。
「……ハッ。わがままかよ、お前」
東雲は俯いて言う。掴んでいた胸ぐらを離せば、狐崎と距離を置き、指先をゆっくりと道路の先へと向けた。
「……道希は、第3公園に向かった。案内する」
「分かった、ありがとうな」
東雲は何も言わない。代わりに、僅かな微笑みを浮かべるだけだった。
「──話し合いは済んだ?」
二人の身体が跳ねる。振り返ると、そこには茜の姿があった。
「うわっ! 姉ちゃんいつからいたんや!」
「道希くんの話が始まったくらいからだね」
「姉って……! す、すみません! 弟さんに乱暴を働いてしまって! なんてお詫びを言ったら……」
「そんなの気にしないでいいって全然! むしろもう2,3 発やって欲しかったぐらいだし」
「おいこら」
「それより第3公園だって? ここから徒歩はちょっと時間掛かるんじゃない?」
「そう、ですね。なら走って……」
「チッチッ」と茜はわざとらしく舌を鳴らすと、ポケットからキーホルダーの付いた鍵を取り出し、指でくるりと回す。
「こういう時は大人を頼りなさいって」
親指で後方を指差し、茜は笑みを浮かべながらそう答えた。
店員からは何杯目かになるジョッキが、定期的に運ばれてくる。
『道希って本当に可愛いよね〜』
そう言って、竜兄は俺の隣に腰掛ける。腕を肩に回し、竜兄の手が俺の鎖骨あたりを僅かに触れた。
『何言ってんの。竜兄、流石に酔いすぎだって』
『あー、そうだなー……』
遠くを見つめたまま竜兄は答える。顔色は赤いを通り越し、青ざめ始めているようにも思えた。
親戚の集まりでもこんな酔い方はしたことがないため、言葉に出来ない不安感が俺の中に溜まっていく。
『俺より小さくて、頭も悪くて、ドジで、ゲームも下手で、可愛い可愛い俺の甥っ子──』
『り、竜兄っ……ん?!』
頬を掴まれた感覚の後すぐに、唇を生温かい感覚が襲った。
竜兄の顔が近い。いや、近いなんて所じゃない。
(お、俺、キスされて……?!)
周囲からは下品な笑いが響いた。
俺は竜兄を押しのけようと力いっぱいと藻掻くが、びくともしない。そして、そのままソファ押し倒されるような体勢になってしまう。
『痛っ! なに、して……ひっ!』
首元を水を含んだようなリップ音が鳴った。身体が硬直する。
竜兄はその隙を付いて、俺のシャツを剥ぐ。上半身が肌色で一色になった。
『綺麗な肌だねぇ』
そう言って俺の手を拘束すると、またリップ音が鳴った。
肩、脇、胸、腹を順に、舐めるような感覚が襲う。
『あっ……んっ! やめ、』
出したくもないのに、声が勝手に溢れる。
助けを求めようと視線を動かすも、竜兄の連れは笑みを浮かべるばかり。それどころか、スマホまで向け出してくる奴もいた。
竜兄は手の拘束を緩めると、今度は俺の"チャック"へと手を伸ばしていく──。
『っ…、やめろっ!!』
俺は近くにあったマイクを握ると、それを竜兄の頭目掛けて思い切り振り下ろした。
鈍い音とハウリング音が部屋中に響く。
竜兄はうめき声をあげ、手で頭を抑えていた。
刺すような視線に耐えきれず、俺は部屋を、カラオケ店を飛び出した。
どれだけ走ったかわからない。ここが何処かもわからない。
慌てて出たせいで、上は何も着てない状態で、嫌でも人の視線を集めてしまう。
視線。
視線。
視線。
視線。
早く、家に帰りたい。
『君! そんな格好でどうしたんだ!』
腕を掴まれる。目の前にいたのは警官だった。
『ち、違う。おれは……』
視線。
もう、限界だった。
『だ、大丈夫かい?!』
へにゃりと足が曲がり、そのまま俺は地べたに座り込んでしまった。
息が荒い。汗が止まらない。
見てる景色が濁って見えた。
肌に触れる全てが、刺さる視線全てが。
『気持ちが、悪い……』
◇
『これが、あの日にあった事の全部……』
道希はそう告げると、また俯いてしまった。
話を聞いている間、俺は一言も口を挟めなかった。受け入れ難い現実に、思考がこれでもかと回転を繰り返していく。
『竜二……さんは、その後どうしたの』
自然と口が動いた。
『一度だけ、謝りに来た』
『なんて言ってた……?』
『……『酒のせいで正常じゃなかった。事故だった。許してほしい』って……』
自分の眉が吊り上がっていくのがわかった。もしここに竜二がいたら、全力で殴りかかっていただろう。
自分よがりの言葉ばかり並べて、道希の気持ちなんて何も考えていない。こんな言葉を道希に言わせてしまった自分にも、心底反吐が出る。
竜二とのやり取りは、母親づてで聞いたらしく、直接会うことはなかったらしい。父親が『二度と来るな』と叫んでいた事だけ覚えているとのことだ。
それだけが、唯一の救いだと思った。
……でも。
『仕方なかったんだよ』
『は?』
思わぬ言葉に、呆けた返事が出た。
道希は続ける。
『竜兄が言ってた通り、事故だったんだよ。お酒の失敗なんてよくあることだって聞くし。むしろ相手が、俺で良かったと言うか』
『道希』
『俺もあの時混乱してたし、マイクで殴るとかもやり過ぎたと思う。外に出たのも俺が勝手にしたことだし、そもそも酔ってるって分かってるのについて行った俺が良くなくて……。だから、竜兄は、悪くない』
『道希っ』
『だから、だから──』
『道希!!』
俺が叫ぶと、道希の肩がわずかに揺れた。
そして。
『……お前にそんな顔させる人が、悪くないわけないよ』
道希の瞳には溢れんばかりの雫が溜まっていた。
掌で拭っても雫はどんどんと溢れ出ていき、道希はとうとう蹲ってしまった。
押し殺したような嗚咽が、蝉の鳴き声と一緒に聞こえてくる。俺はその姿を、ただ黙って見下ろすことしか出来なかった。
◇
濁った灰色の空気が、狐崎たちを包む。
すべてを聞き終えた狐崎は、拳を強く握った。
竜二という男に。行為に。態度に。そして、その男と同じ真似をした──自分自身に向けて。
「文化祭が終わった後、道希に会った。あの日と同じ暗い顔をしてたよ。……お前が何かやったんだろ」
その口ぶりは疑問の色を一切含ませていなかった。
「ああ、そうや」
狐崎はもう、嘘をつかなかった。
歯を噛み締めた東雲が、狐崎へと迫る。
そして──。
『ドスッ』
振り上げた拳が、風を切り、狐崎の腹部を深くめり込んだ。
胃液が込み上がる感覚。狐崎の身体は、くの字へと折れ曲がった。数歩とよろめいた足は力を失い、やがて狐崎はその場に崩れ落ちる。
視線の先、黒い靴がまた一歩近づく。見上げるとそこには、苦痛に顔を歪ませた東雲の顔があった。
「お前も、竜二も……! これ以上、アイツの気持ちを踏みにじるな!!」
東雲の瞳が炎のように揺らめく。それは不安定ながらも、美しく煌めく、生気のある青だった。
静かな風が吹き、青の瞳は再び、髪の中へと隠れてしまった。
「場所は教えてやる。でも、道希と会うのはこれっきりにしろ」
背を向ける東雲は、起伏のない声でそう答えた。
そして、道希のもとへ踏み出そうと足に力を入れた時だ。
「嫌や」
「は……?」
「俺は、道希くんと離れとうない」
東雲のこめかみに青筋が浮き立つ。鎮めたはずの火が、爆発的な勢いでまた膨れ上がった。
「お前っ。自分が何言ってるのか分かってんのか!!」
東雲が狐崎の胸グラを掴み、立ち上がらせる。その表情は鬼気迫るものだったが、狐崎は微塵も怯まずに続ける。
「わーっとる! 自分でもふざけた事言うてる事くらい! 道希くんの事考えれば、ここは大人しく身ぃ引くのが堅実なんやろうな!」
「なら……!」
「せやけどな、このまま逃げたら、道希くんには嫌なことされた記憶しか残らん! そんなんアカンし、俺も嫌や!」
「っ!」
「嫌な記憶が出来たなら、楽しい記憶で上書きしたい。傷つけてしまったなら、その傷が埋まるくらいの良い思い出で埋め尽くしたい。道希くんには、これからも笑顔でいて欲しいんや! やって俺──」
狐崎が大きく息を吸った。記憶と感情がパズルのように繋がって、自覚と共にそれは言葉となった。
「やって俺──道希くんのことが大好きやから」
また風が吹いた。
大きく開かれた青の瞳は、確かに狐崎の姿を映し出し、もう炎のような揺らぎは無かった。
「……ハッ。わがままかよ、お前」
東雲は俯いて言う。掴んでいた胸ぐらを離せば、狐崎と距離を置き、指先をゆっくりと道路の先へと向けた。
「……道希は、第3公園に向かった。案内する」
「分かった、ありがとうな」
東雲は何も言わない。代わりに、僅かな微笑みを浮かべるだけだった。
「──話し合いは済んだ?」
二人の身体が跳ねる。振り返ると、そこには茜の姿があった。
「うわっ! 姉ちゃんいつからいたんや!」
「道希くんの話が始まったくらいからだね」
「姉って……! す、すみません! 弟さんに乱暴を働いてしまって! なんてお詫びを言ったら……」
「そんなの気にしないでいいって全然! むしろもう2,3 発やって欲しかったぐらいだし」
「おいこら」
「それより第3公園だって? ここから徒歩はちょっと時間掛かるんじゃない?」
「そう、ですね。なら走って……」
「チッチッ」と茜はわざとらしく舌を鳴らすと、ポケットからキーホルダーの付いた鍵を取り出し、指でくるりと回す。
「こういう時は大人を頼りなさいって」
親指で後方を指差し、茜は笑みを浮かべながらそう答えた。
