あの海のそば、浴衣と君と花火と。

放課後の教室は、セミの鳴き声のせいでうるさかった。
運動部の掛け声が、セミの鳴き声と共に風に乗って聞こえてくる。
夕方の光が教室の床に長く差し込んでいて、机の脚の影が長く伸びていた。

「はぁ……」

あまりの暑さに思わず息を漏らす。今日はいつにも増して暑い。シャツに汗が貼りつく感覚がとにかく気持ち悪かった。
俺は、シャーペンを指でくるくる回しながら、目の前のプリントを睨んでいた。
明日提出の数学の課題。不得意科目のせいか、気温のせいか、解けそうにはなかった。

「あ、そうだ、窓……」

俺は窓から入ってくる熱気をどうにかしようと立ち上がった。 窓を閉めたら少しはマシになるだろう。それにしても、放課後の冷房使用禁止だなんて意味が分からない。これが田舎高校の宿命なのだろうか。

水島(みずしま)くん」

後ろの扉の方から、静かな声が聞こえた。俺は思わず振り向いた。ほぼほぼ声の主には見当がついていたけれど。

瀬田(せた)

扉の前には予想通り、控えめに胸辺りで手を振る瀬田が立っていた。

瀬田淋果(りんか)
有名な優等生。おしとやかで、落ち着いていて、先生からの信頼も厚い。家が太いらしく、持っているポーチやハンドクリームなんかは俺でも分かるくらい全部ブランド物ばかりで、整った容姿は男子からも女子からも人気が高い。

いわゆる――高嶺の花、と言うやつだ。

瀬田はゆっくりと俺の方に歩きだした。そして俺の前に立ってから、数学のノートを覗いた。
こんなにも暑いのに、瀬田は汗ひとつかいていない。
瀬田はつかの間無言でノートを覗き込んでいた。やがて、少し首を傾げて口を開いた。

「ここの問題、違いますよ」

「え」

俺は慌ててプリントに視線を落とした。瀬田は少しだけ身を乗り出して、俺の解いた式を指差した。問題を示した瀬田の指の爪は、はっとするほど綺麗だった。
……ここまで完璧なのか。
そんなふうに思いながら、白い指先の指す問題を見た。

「大問二の、符号が逆です」

瀬田が指摘するのと、俺が声を漏らしたのはほぼ同時だった。ケアレスミスと言うやつだろうか。今落ち着いて考えれば、間違っている事なんて見るだけですぐに分かった。

「さすがは会長」

「たかが会長ですよ?」

「されど会長!」

俺がつっこむようにそう言うと、瀬田は口元に手を当てて小さく笑った。その笑い方は控えめなもので、育ちがいいんだな、と改めて実感する。

「水島くん、最近ぼーっとしてますけど」

「そんなことないよ」

遮るように言った直後、瀬田は「ありますよ」と反論するように口を開いた。あまりにも即答だったものだから俺は少しむっとして唇を尖らせた。

「そうですか?」

瀬田は目を少し見開いた後、首を傾げた。前髪がさらっと揺れる。
教室には、もうほとんど人が残っていない。窓の外から、夏の匂いの風が入ってくる。
俺はなんとなく窓の外を見た。花壇には溢れんばかりの向日葵が、太陽に向かって咲き誇っていた。

「…夏だな」

こんな綺麗な向日葵うちの学校にあったんだ。
そんな事を考えているうちに、瀬田も俺の視線の先を追って同じ方向を見た。

「そうですね」

その声は、どこか弾んでいて、本当にうれしそうだった。
夏は暑くて、暑がりな俺には合わなかったけど、花火大会だとか、プールとか、そう言うのは昔から好きだった。

「水島くんって海、好きですか?」

突然の質問に、俺は思わず窓から瀬田へ視線を戻した。普段なら俺に質問なんてしてこないのに、なんでこんなこと質問してくるんだろうと、疑問に思いながら。

「え、海?」

俺は驚いたのをあまり顔に出さないようにしながら、なるべく落ち着いた口調のまま答えた。

「私、好きなんです」

窓から入る夏のぬるい風が髪を揺らした。揺れた髪が目に入りそうになって、母さんに「来月美容院行くよ」と言われたのを思い出した。それと同時に、彼女は髪を耳にかけた。

「綺麗で、無垢で、儚くて」

瀬田は遠くを見るみたいな目をしていた。

「水島くんは好きですか、海」

その言い方は、どこか穏やかで、本当に好きなんだろうな思わせた。
俺は少し考えてから言う。

「まあ、嫌いじゃないけど」

「本当ですか!」

瀬田の目が少しだけ明るくなる。同時に彼女は少し前のめりになった。かた、と机が音を立てる。

「あの、今度の日曜行きませんか?」

「……え?」

俺は一瞬固まった。瀬田は真面目だけど、楽しそうな幼い顔のままだった。普段見せないその幼い表情に俺は思わずどきりとした。

「海です」

「あ、いや、それはわかるけど」

真面目な顔をして当然のことを言うものだから、思わず笑ってしまった。

「うん、いいよ。たぶん部活ないし」

瀬田は俺の顔を覗き込んだ。そしてまた、幼く笑った。

「本当ですか!」

「うん」

俺は机の上のシャーペンを回す。瀬田はうれしそうに目を輝かせながら。

「じゃあ今度の日曜、10時にバス停で待ってますね!」



日曜日。
カーテンの隙間から差し込む光で起きた。蝉の鳴き声も、朝から容赦がなかった。
俺はぼんやりとした意識のまま、手探りでスマホを探した。電源をつけて時刻を見ると、もう9時だった。

「…行くか」

正直今はだるいけど、行ったら行ったで楽しくなるだろうし、

――私、好きなんです。

あんなふうに言われたら、さすがに行かないわけにもいかないだろう。
意を決してベッドから起き上がる。

適当にTシャツを選んで、財布とスマホをポケットに入れる。
洗面台で顔を洗って、歯磨きをした。その後鏡の前で少しだけ髪を整えていたら

「あら、今日は早いのね」

エプロン姿の母さんが洗面所の入口に立っていた。俺は適当に「うん」と相づちをうった。

「朝ごはん、いる?」

「いや、大丈夫」

そう言ってタオルで顔を拭きながらリビングの方をちらっと見る。テーブルの上には、焼きたてであろうトーストと目玉焼きが並んでいた。

「珍しいわねぇ……(ゆず)が朝ごはん抜くなんて」

母さんは少しだけ不思議そうに眉を上げた。

「ちょっと出かけるから」

「どこ行くの?」

「海」

そう答えると、母さんは少し心配そうな顔をした。でもすぐ笑顔に戻った。

「気をつけて、行ってきてね」

「うん」

返事をしながら玄関に向かう。母さんは台所に戻ってエプロンを脱ぎながら。

「いってらっしゃい」

「いってきます」

がちゃりとドアノブを回す。
勢いよくドアを開けると、むわっとした熱気が体にまとわりつく。

「う、わ…あっつ……」

小さく呟いて、バス停に向かって歩き出す。
空を見上げると、太陽がぎらぎらと輝いていた。
10分くらい歩いた後、ようやくバス停が見えきた。

「瀬田」

白いワンピースに、麦わら帽子。思えば瀬田の私服姿を見るのは初めてだった。やっぱり、おしゃれだなぁ、と思う。

「水島くん!」

気づいた瀬田が、手を振る。反射的に俺も振り返す。少し歩く速さを上げて、隣に並ぶ。

「おはよう」

「おはようございます」

「待った?」

「あ、いえ、今来たところです」

そう言う瀬田だけど、こめかみにじんわりと汗をかいている。たぶん嘘だな、と思いながらも、訊かないことにした。

「そっか。ならよかった」

俺は空を見上げてから頷いた。日光が眩しくて、思わず片目をつぶった。

「あ、あの……!」

「ん?」

瀬田はしばらくときどき迷うような声を何度か漏らしていたが、やがて決心したように口を開いた。

「私のこと、下の名前で呼んでくれませんか」

「え?」

麦わら帽子のつばに指先を添えて、落ち着かないと言いたげに麦穂のほつれを(いじ)る。
やわらかい髪が紅潮した頬にかかって、それを払うように耳にかける仕草が、やけにゆっくり見えた。

「その……みんないつも苗字で呼ぶので」

それから少し間があって、

「水島くんだけは、その……」

また言葉が途切れる。淋果は一度視線を落として、それから、顔を上げた。

「下の名前で、呼んでほしいなって」

恥じらうようなその声は、そのまま風に消え入りそうなくらい小さかった。
でもなぜか、不思議なくらいはっきりと聴こえた。
俺は黙ってしまった。嫌なんじゃなくて、驚いたから。

「あ…す、すみません。やっぱり、大丈夫です」

淋果は失言してしまったかのように、言葉を取り消した。
それがなぜかすごく悲しくて、俺は食い気味に言った。

「呼ばせてよ」

淋果は驚いたように目を見開いて、俺を見た。

「……だめ?」

途端、淋果の顔が泣き出しそうに歪む。なのに、どこかすごく嬉しそうだった。

「瀬田のこと、淋果って、呼びたい」

言ってから、自分でも少し驚いた。
もっと引っかかると思っていたのに、やけにするりと口から落ちたから。
淋果はゆっくりとこっちを見た。麦わら帽子から覗く耳は少し赤らんでいるように見えた。

「はい」


さっきまで普通に話していたはずなのに、下の名前で呼んでから、急に何を話していいのか分からなくなった。瀬田も黙っていた。やっぱり、さっきのはさすがに気持ち悪かったか?

「……水島くん」

急に喋りかけられてびっくりした。淋果は少しだけ迷うような顔をしてから、言った。

「もう一回、呼んでくれませんか?」

「え?」

「その……名前…」

ああ、なんだそういうことか。
俺は少しだけ照れくさくなって、視線を逸らしながら口を開いた。

「淋果」

呼んだ瞬間、淋果の表情がふわっと緩んだ。

「やっぱり、嬉しいです」

小さく、でもはっきりとした声だった。淋果は不思議な声だ。優しいような切ないような――。

そのとき、ちょうどバスが到着する音がした。

「来たな、バス」

「そうですね」

俺たちはバスに乗り込んだ。海までは、バスで30分くらい。
バスの中は冷房が効いていて、さっきまでの暑さが、少しずつ引いていく。

「生き返る〜」

思わず漏れた声に、淋果がくすっと小さく笑った。

「ふふ、今日、暑いですもんね」

淋果は目を丸くしてから、また笑う。

「でも、来てくれたんですもんね」

「そりゃ約束したもん」

それだけ言って、視線を逃がした。
バスはゆっくりと動き出して、見慣れた街並みが少しずつ後ろに流れていく。 俺が育ったこの町は田舎だけど、程よく都会だった。

ふと横を見ると、淋果は窓の外を見つめていた。 麦わら帽子の影が、頬に落ちている。 静かだったけれど、緊張しているようにも見えた。

「淋果、さ」

呼んでみると、ぴくりと肩が揺れる。

「は、はい」

すぐにこっちを向いた顔は、さっきよりほんの少し赤い。やっぱり、

「もしかして、緊張してる?」

聞くつもりはなかったのに、口からこぼれた。
淋果は一瞬だけ目を瞬かせて、それから小さく笑う。

「…あ、いや、あの……」

淋果はすこし迷ったあとで、口を開いた。

「その…私も水島くんのこと、柚くんって呼んでも、いいですか?」

「え?」

「あの、私だけ下の名前だと、恥ずかしいと言うか…」

淋果は麦わら帽子を膝に置いて、

「なので、柚くんと呼ばせていただければと……」

少し恥ずかしそうに言った。また淋果は口を開こうとしたけれど俺はそれより先に、

「呼んでよ」

口を開いていた。淋果は目を丸くした。

「へ」

「呼んで、ほしい」

淋果はしばしぽかんとした後、やがて合点があったように「あぁっ」と声を漏らした。

「柚、くん」

そう言うと、淋果は少し笑って、バッグをごそごそと探り始めた。やがて、水色の袋に包まれた、小さな砂糖菓子を取り出した。

「これ、よかったら」

そう言って、遠慮がちに差し出した。

「あ、じゃあ、貰います」

受け取って一つ口に入れると、じわりと優しい甘さが舌に広がった。

「うまい」

「本当ですか?」

「うん、ほんと。幸せの味」

そう言うと、淋果は安心したようにに笑った。

「淋果は海、楽しみにしてた?」

聞くと、淋果は間髪入れずにうなづいた。

「もちろんです。海行くの、夢だったんです。行ったこと、なかったので」

「え、好きなのに海、行ったことないの?」

「はい。海とか川とか、禁止なので」

「へ、禁止?」

思わず声を漏らす。禁止だなんて、あまりいい言葉だなんて思えなかったから。
淋果は一瞬だけ視線を泳がせてから、小さく頷いた。

「あの……今から私が言うこと、誰にも言わないって…約束してくれますか?」