部室の襖を開けると畳のかおりが鼻腔を優しく満たした。
その中で一人の女子生徒が、ちょこんと正座して茶を点てていた。
「柚。」
「あ、高瀬くん。こんにちは。今日もよろしくお願いします」
雨宮はこちらを向いたかと思うと行儀よく会釈しながらそう言った。
この女子生徒は、雨宮柚。よく言う典型的な優等生、というような感じだ。
そんな雨宮を褒める声をよく聞く。別にそんな声を聞いても全く不愉快にはならない。実際そうだからだ。今朝も彼女は俺が挨拶をするより先に挨拶をしてくれた。
そして、転校したきたばかりにもかかわらず、茶道部の部長も努めている。
所作は静かで無駄がなくて、茶を点てる姿を見ると、部室の空気まで落ち着く気がした。
「よろしく」
俺がそう言うと彼女は軽く微笑んでから再び茶を点てはじめた。
俺も雨宮に習って茶を点てる準備をはじめる。
湯飲みと茶筅をひとつずつ棚から取り出し、雨宮のとなりに座ろうとする。
その時、手に硬いものが触れた。やばい、と思った時にはもう遅かった。
雨宮が使っていた湯飲みを一つ割ってしまったのだ。
「あっ」
雨宮はそう声を漏らしたかと思うとしばし固まってから俺を見た。
「ごめん」
申し訳なくてその声だけが口から漏れた。
「大丈夫です」
雨宮はそう言って、割れた湯飲みに触れた。
俺がやったことだし、危ないから雨宮がやる必要なんてないのに、雨宮は脊椎反射のように片付けを始めようとする。
「いや、大丈夫じゃないよ。俺が片付ける」
慌ててそう言って、俺は立ち上がる。
床に散らばった欠片を一緒になって拾おうとした時、
「危ない、ですから」
雨宮は、いつもより少しだけ強い声で言った。いつも聞かないそんな雨宮の声にぎょっとして思わず湯飲みから手を離す。
「……手、切っちゃいますよ」
「でも」
そう言うと、雨宮は一瞬だけ、俺を見た。それから、いつもの微笑みに戻る。
「お気遣いありがとうございます。でも、私がやります」
雨宮はほうきとちりとりを持ってきて、黙々と欠片を集め始める。
こんな時でさえも動きは相変わらず綺麗で、音もほとんど立てない。
……本当によくできた人だ、と改めて思う。いつものことだから見慣れていたが、常人にできることじゃない。雨宮はいつから茶道をやっているのだろう。
「ごめん」
鍛え抜かれたであろうその所作に感嘆しながらももう一度そう言うと、彼女は顔を上げずに答えた。
「気にしないでください」
片付けが終わると、雨宮は割れた湯飲みがあった場所をじっと見つめていた。そこには薄く茶の染みた跡が付いていた。
「ほんと、ごめん。新しいの出すね」
俺は独り言みたいにそう言って、棚に手を伸ばした。
雨宮ははっとしたように俺を見てから、
「…すみません。ありがとうございます」
と笑った。割ったのは俺のせいなのに。
雨宮は、俺が新しい湯飲みを棚から取り出すのを、黙って見ていた。
俺は背中越しに雨宮の視線を感じながら湯飲みを選ぶ。
「これでいい?」
いつも雨宮がよく使っている百合の花が描かれた湯飲みを取り出してそう聞くと、彼女は一拍置いてから、こくりとうなずいた。
「はい。ありがとうございます」
俺は湯飲みを彼女の前にそっと置く。
畳に触れないよう、音を立てないように。
雨宮はそれを両手で受け取って、まるで宝物みたいに大事そうに扱った。
「……すみません。お手数をおかけして」
「いや、俺が割ったんだし」
そう言うと、彼女はほんの少しだけ、眉を下げた。
「そういう言い方は、よくないです」
「え?」
聞き返すと、雨宮は湯飲みから目を離さないまま続けた。
「誰かのせいにする必要、ないです」
雨宮は間違いを言ってないから、俺は何も言えなかった。だから、
「……そっか、ごめん」
とだけ返した。それから二人で、黙って茶を点てた。なんだか落ち着かなくて
「……雨宮ってさ」
沈黙を破るように声をかけると、彼女はぴくりと肩を揺らした。
「はい?」
「ほんと、ちゃんとしてるよね」
自分でも、ずいぶん雑な言い方だと思った。でも、ちゃんと褒めているつもりだった。雨宮は一瞬、言葉を探すみたいに黙ってから、いつもの微笑みを浮かべる。
「そんなこと、ありません」
即答だった。あまりに迷いがなくて、俺は逆に戸惑った。
「……そう?」
「はい」
口早にそう答えて、雨宮はまた茶筅を動かしはじめた。
それ以上、この話題に触れたくないみたいだった。
俺もそれ以上は何も言わず、ただ、湯の温度を確かめるふりをした。
……前から、気になっていた。
雨宮とは、幼い頃に会ったことがある気がした。
確か、あれは小学生低学年くらいの時のことだった。
雨宮と同じ、柚という名前の女の子がいた。苗字までは覚えていない。でも雨宮みたいに静かで大人しい子じゃなくて、もっと元気な女の子だった。
「こうちゃん!」
俺のことをそうやって呼んでくれた子。あんなに仲が良かったのに顔ははっきりとは覚えていない。今の雨宮には、似ても似つかなくて、勝手に違うだろう、と考えていた。
気づけば仲良くなっていて、中休みもよく一緒に絵を書いたりして遊んでいた。
――いや、ない。柚は都会に転校した。こんな田舎高校にわざわざ来るなんて、そんなこと。
でも。
「……雨宮」
名前を呼ぶと、彼女の手は一瞬だけ止まった。
「はい」
言うのは迷った。でも、確かめたかった。
「俺、昔雨宮に会ったことある?」
雨宮は、しばらく黙っていた。
きっと数秒だった。それだけなのに、やけに長く感じた。
そして、目を伏せた後、彼女はゆっくり顔を上げた。
「覚えて、いません」
雨宮は思ったより短く、きっぱりと言い切った。その答えがなぜか俺には信じられなかった。
「そっか」
俺は、それ以上踏み込まなかった。
「お茶、どうぞ」
差し出された湯飲みを受け取る。湯飲みに描かれた百合の花が、こちらを向いている。
「……ありがとう」
そう言うと、さっきの会話なんて忘れたみたいにやさしい笑みを浮かべた。
「どういたしまして」
湯飲みを口に運んだ。口に注ぎ込むと、抹茶の苦味が舌に広がった。
「……どうですか」
「うん、完璧」
そう答えると、彼女はほっとしたように、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
俺は貰った抹茶をちびちび啜った。
「雨宮って、昔から茶道やってたの?」
すると、彼女の視線が、すっと下に落ちた。
「……ええ」
「本当、すごいよ。部長まで任されて」
雨宮は微笑んだけど、妙に頬が強張っていた。
「高瀬くんって」
「ん?」
彼女は、少しだけ迷ってから、俺を見ないまま言った。
「……約束、ちゃんと覚えてるタイプですか」
唐突な質問だった。
「約束?」
聞き返すと、雨宮の指が、きゅっと制服のスカートの裾をつかんだ。
「あ、……いえ」
すぐに、首を振る。
「今のは、忘れてください」
言ってはいけないことを口にしてしまったみたいにそれきり口をつぐんだ。
「え、でも」
俺が言いかけると、彼女はかぶせるように微笑んだ。
「本当に、なんでもありませんから」
約、束。
いや、きっと俺とは関係ない話だ。
……関係ない、はずだ。
「そろそろ、片付けましょうか」
雨宮が、何事もなかったみたいに言う。
「うん」
そう答えて、俺は畳に湯飲みを置いた。
雨宮は「じゃあ初めましょうか」と立ち上がって、片付けの準備を始めた。
「……さっきの話なんだけど」
自分でも、なぜもう一度口にしたのか分からなかった。
「約束の、こと」
雨宮の背中が、ほんのすこし小さくなる。表情は強張って目が見開かれている。
「別に、深い意味はないよ」
そんな雨宮を見て慌てて付け足す。なんだか言い訳みたいだったけど。
「なんとなく気になっただけだから」
しばらくして、雨宮は小さく息を吐いた。
「…た…高瀬くん、は」
そうして、迷うように口を開けたり閉めたりした後、
「……い…いえ、すみません。なんでもありません」
彼女はそれ以上何も言わなかった。
片付けが終わって、部室を出る準備をする。
襖に手をかけたところで、雨宮がぽつりと言った。
「…高瀬くん」
彼女は、少し目を左右に動かした後、いつもの微笑みを浮かべる。
「これからも、よろしくお願いします」
そして、彼女はぺこりとお辞儀した。
「こちらこそ」
襖を閉めると、部室の中のあの静けさが嘘だったかのように音が戻る。運動部の掛け声、誰かの笑い声、遠くで鳴るチャイム前のざわめき。
「じゃ」
雨宮は一歩下がって、きちんと距離を取った位置で立ち止まった。
「また明日」
「はい、明日も宜しくお願いします
」
それだけの会話。 それだけなのに、彼女は一瞬だけ、何か言いたげに口を開きかけてやめた。
廊下の向こうへ歩いていく雨宮の後ろ姿を、俺はなぜか目で追ってしまう。 背筋は真っ直ぐで、歩幅は小さくて、制服のスカートが静かに揺れていた。
……ほんと、ちゃんとしすぎだ。
その日の帰り道、空はどんよりと曇っていた。 家に着く前に、ぽつりと雨が落ちてくる。夏なのに雨が降るからじめじめ蒸し暑くて最悪だ。
「はぁ…」
大きなため息をつく。傘を持ってきていないからだ。 仕方なく小走りで帰ろうとしたとき、
「高瀬くん!」
背後で小さく俺を呼ぶ声がした。振り向くと雨宮が黒い傘を持って立っていた。
「傘、あるので一緒に帰りませんか?」
そう誘った雨宮の耳の縁が紅くて思わず胸が鳴った。
「うん」
俺がそう答えると、彼女は近くに小走りでこちらに向かって走り出した。ローファーが地面を蹴る度、濡れた地面がぴちゃぴちゃと音を立てる。
雨宮は傘を広げて俺を傘の中に入れた。
「ありがとう、雨宮」
「い、いえ」
雨宮は少し息が上がっていた。彼女の耳はまだ紅い。意識するたび、また心臓がうるさくなる。
「あの、傘俺がもとうか?」
雨宮は俺よりかなり身長が低くて小柄だ。精一杯背伸びしてやっと俺の頭に届くくらいだ。背伸びした彼女のローファーのつま先のところにはシワが寄っていた。
「す、すみません、助かります」
俺は傘を雨宮から受け取った。ブレザーから覗いた雨宮の手首はびっくりするほど白くて細かった。
「いや、大変でしょ?」
「はい。ありがとうございます」
雨宮は照れるように笑ってから歩き出した。ふと視線を下ろす。手元には、古そうな小さな巾着袋が握られていた。その巾着を見つめていると視線に気づいたのか彼女ははっとしたように顔を上げた。
「どうした?」
そう聞くと、雨宮は一瞬迷ってから、小さく首を振った。
「いえ。……少し、考え事を」
そう言って、巾着をぎゅっと握る。 その仕草が、どこか必死そうに見えた。
「それ、なに?」
彼女は慌てて巾着を背中に隠した。
「…む…昔から、持っているものです」
「へぇ」
深くは聞かなかった。 でも、なぜか目が離れなかった。
「行こっか」
俺がそう言うと、雨宮は一瞬驚いた顔をしてから、こくりと頷いた。
「……はい」
並んで歩き出す。 雨宮はちらりと何度か俺を見て、すぐに目を逸らした。でも、すぐに意を決したように、俺を見て、
「…た…高瀬くん」
緊張したような、怯えるような声で俺を呼んだ。
「なに?」
「もし、なんですけど」
言葉を選ぶように、ゆっくり。
「もし、昔の約束を、片方だけが覚えていたら」
胸が、どくんと鳴った。
「それって、高瀬くんならどうしますか」
俺は、すぐに答えられなかった。 雨宮は、微笑まなかった。 ただ、真剣な目で、俺を見ていた。
「……その約束が、大事なら」
俺は、ゆっくり言葉を探しながら答えた。
「ちゃんと、向き合うと思う」
雨宮の指が、少し震える。
「たとえ、相手が変わってても?」
「うん」
俺は頷いた。
「変わったとしても、同じ人だから」
雨宮は目を見開いた。泣きそうな、ひどく、悲しそうな目だった。
「……そう、ですか」
それきり、雨宮は黙ったまま歩き続けた。雨音が傘を叩く規則的な音だけが二人の間に響いた。
俺は傘を持つ手に、少しだけ力を入れた。
彼女が濡れないように、自然と雨宮側に傾ける。
「……雨、強くなってきましたね」
しばらくして、雨宮がぽつりと言った。
「そうだね」
それ以上、言葉は続かない。さっきの会話が、まだ耳に張り付いたままみたいだった。
雨宮は前を向いたまま、巾着袋を握りしめている。指先が白くなるほど強く。
大事な約束。片方だけが覚えている約束。
胸の奥が、じわりと重くなる。俺、なのか?
「……雨宮」
名前を呼ぶと、彼女はびくっと肩を揺らした。
「は、はい」
声が少し上擦っていた。
「さっきの質問さ」
そう言った瞬間、雨宮の足が一瞬止まる。
でも、すぐに何事もなかったみたいに歩き出した。
「……やっぱ、大丈夫」
自分で言っておいて、情けなくなる。
踏み込めば、何かが壊れる気がした。
雨宮は小さく息を吐いた。
「……高瀬くんは、いつも優しいですよね」
「え?」
「話に、あんまり踏み込まないじゃないですか」
俺はどきっとする。それは褒め言葉みたいに聞こえたけど、どこか突き放すような響きでもあったからだ。
「……でも」
雨宮は、ほんの一瞬だけ俺を見た。
「それで、救われない人もいます」
救われない?
「……雨宮?」
名前を呼んだ時には、もう彼女は前を向いていた。でも、まるで言ってはいけないことを言ってしまったみたいに、深刻そうな顔をしていた。
雨が少し弱まってきた頃、分かれ道に着いた。
「ここで、大丈夫です」
彼女はそう言って、傘の外に一歩出た。
細い肩に、ぽつりと雨粒が落ちる。
「では」
雨宮は、いつもの微笑みを浮かべた。
でも、それはどこか作られた笑顔だった。
「今日は、ありがとうございました」
「うん。じゃあ、また明日」
雨宮はぺこりと頭を下げてから、くるりと背を向ける。
玄関へ歩き出した彼女の背中は、小さくて、それでも、妙に遠く見えた。
家に着いても、雨宮の言葉が頭から離れなかった。
それで、救われない人もいます。
「…どういうことだよ」
制服を脱ぎながら、独り言がこぼれる。
机に置いたスマホが、通知音を鳴らした。この通知音はクラスのグループじゃなく、個別のメッセージだ。
画面に表示された名前に、息が止まる。
雨宮 柚
今日は、ありがとうございました。突然、変なことを聞いてしまって、すみません。
俺は少し考えてから、返信を打った。
気にしないで。
また、部活で。
既読がつかないままのLINEの画面を閉じ、ベッドに仰向けになって天井を見た。屋根を打つ雨音がまだ微かに聞こえる。
そして、エアコンの柔らかい風を受けながら、俺はうたた寝をした。
その中で一人の女子生徒が、ちょこんと正座して茶を点てていた。
「柚。」
「あ、高瀬くん。こんにちは。今日もよろしくお願いします」
雨宮はこちらを向いたかと思うと行儀よく会釈しながらそう言った。
この女子生徒は、雨宮柚。よく言う典型的な優等生、というような感じだ。
そんな雨宮を褒める声をよく聞く。別にそんな声を聞いても全く不愉快にはならない。実際そうだからだ。今朝も彼女は俺が挨拶をするより先に挨拶をしてくれた。
そして、転校したきたばかりにもかかわらず、茶道部の部長も努めている。
所作は静かで無駄がなくて、茶を点てる姿を見ると、部室の空気まで落ち着く気がした。
「よろしく」
俺がそう言うと彼女は軽く微笑んでから再び茶を点てはじめた。
俺も雨宮に習って茶を点てる準備をはじめる。
湯飲みと茶筅をひとつずつ棚から取り出し、雨宮のとなりに座ろうとする。
その時、手に硬いものが触れた。やばい、と思った時にはもう遅かった。
雨宮が使っていた湯飲みを一つ割ってしまったのだ。
「あっ」
雨宮はそう声を漏らしたかと思うとしばし固まってから俺を見た。
「ごめん」
申し訳なくてその声だけが口から漏れた。
「大丈夫です」
雨宮はそう言って、割れた湯飲みに触れた。
俺がやったことだし、危ないから雨宮がやる必要なんてないのに、雨宮は脊椎反射のように片付けを始めようとする。
「いや、大丈夫じゃないよ。俺が片付ける」
慌ててそう言って、俺は立ち上がる。
床に散らばった欠片を一緒になって拾おうとした時、
「危ない、ですから」
雨宮は、いつもより少しだけ強い声で言った。いつも聞かないそんな雨宮の声にぎょっとして思わず湯飲みから手を離す。
「……手、切っちゃいますよ」
「でも」
そう言うと、雨宮は一瞬だけ、俺を見た。それから、いつもの微笑みに戻る。
「お気遣いありがとうございます。でも、私がやります」
雨宮はほうきとちりとりを持ってきて、黙々と欠片を集め始める。
こんな時でさえも動きは相変わらず綺麗で、音もほとんど立てない。
……本当によくできた人だ、と改めて思う。いつものことだから見慣れていたが、常人にできることじゃない。雨宮はいつから茶道をやっているのだろう。
「ごめん」
鍛え抜かれたであろうその所作に感嘆しながらももう一度そう言うと、彼女は顔を上げずに答えた。
「気にしないでください」
片付けが終わると、雨宮は割れた湯飲みがあった場所をじっと見つめていた。そこには薄く茶の染みた跡が付いていた。
「ほんと、ごめん。新しいの出すね」
俺は独り言みたいにそう言って、棚に手を伸ばした。
雨宮ははっとしたように俺を見てから、
「…すみません。ありがとうございます」
と笑った。割ったのは俺のせいなのに。
雨宮は、俺が新しい湯飲みを棚から取り出すのを、黙って見ていた。
俺は背中越しに雨宮の視線を感じながら湯飲みを選ぶ。
「これでいい?」
いつも雨宮がよく使っている百合の花が描かれた湯飲みを取り出してそう聞くと、彼女は一拍置いてから、こくりとうなずいた。
「はい。ありがとうございます」
俺は湯飲みを彼女の前にそっと置く。
畳に触れないよう、音を立てないように。
雨宮はそれを両手で受け取って、まるで宝物みたいに大事そうに扱った。
「……すみません。お手数をおかけして」
「いや、俺が割ったんだし」
そう言うと、彼女はほんの少しだけ、眉を下げた。
「そういう言い方は、よくないです」
「え?」
聞き返すと、雨宮は湯飲みから目を離さないまま続けた。
「誰かのせいにする必要、ないです」
雨宮は間違いを言ってないから、俺は何も言えなかった。だから、
「……そっか、ごめん」
とだけ返した。それから二人で、黙って茶を点てた。なんだか落ち着かなくて
「……雨宮ってさ」
沈黙を破るように声をかけると、彼女はぴくりと肩を揺らした。
「はい?」
「ほんと、ちゃんとしてるよね」
自分でも、ずいぶん雑な言い方だと思った。でも、ちゃんと褒めているつもりだった。雨宮は一瞬、言葉を探すみたいに黙ってから、いつもの微笑みを浮かべる。
「そんなこと、ありません」
即答だった。あまりに迷いがなくて、俺は逆に戸惑った。
「……そう?」
「はい」
口早にそう答えて、雨宮はまた茶筅を動かしはじめた。
それ以上、この話題に触れたくないみたいだった。
俺もそれ以上は何も言わず、ただ、湯の温度を確かめるふりをした。
……前から、気になっていた。
雨宮とは、幼い頃に会ったことがある気がした。
確か、あれは小学生低学年くらいの時のことだった。
雨宮と同じ、柚という名前の女の子がいた。苗字までは覚えていない。でも雨宮みたいに静かで大人しい子じゃなくて、もっと元気な女の子だった。
「こうちゃん!」
俺のことをそうやって呼んでくれた子。あんなに仲が良かったのに顔ははっきりとは覚えていない。今の雨宮には、似ても似つかなくて、勝手に違うだろう、と考えていた。
気づけば仲良くなっていて、中休みもよく一緒に絵を書いたりして遊んでいた。
――いや、ない。柚は都会に転校した。こんな田舎高校にわざわざ来るなんて、そんなこと。
でも。
「……雨宮」
名前を呼ぶと、彼女の手は一瞬だけ止まった。
「はい」
言うのは迷った。でも、確かめたかった。
「俺、昔雨宮に会ったことある?」
雨宮は、しばらく黙っていた。
きっと数秒だった。それだけなのに、やけに長く感じた。
そして、目を伏せた後、彼女はゆっくり顔を上げた。
「覚えて、いません」
雨宮は思ったより短く、きっぱりと言い切った。その答えがなぜか俺には信じられなかった。
「そっか」
俺は、それ以上踏み込まなかった。
「お茶、どうぞ」
差し出された湯飲みを受け取る。湯飲みに描かれた百合の花が、こちらを向いている。
「……ありがとう」
そう言うと、さっきの会話なんて忘れたみたいにやさしい笑みを浮かべた。
「どういたしまして」
湯飲みを口に運んだ。口に注ぎ込むと、抹茶の苦味が舌に広がった。
「……どうですか」
「うん、完璧」
そう答えると、彼女はほっとしたように、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
俺は貰った抹茶をちびちび啜った。
「雨宮って、昔から茶道やってたの?」
すると、彼女の視線が、すっと下に落ちた。
「……ええ」
「本当、すごいよ。部長まで任されて」
雨宮は微笑んだけど、妙に頬が強張っていた。
「高瀬くんって」
「ん?」
彼女は、少しだけ迷ってから、俺を見ないまま言った。
「……約束、ちゃんと覚えてるタイプですか」
唐突な質問だった。
「約束?」
聞き返すと、雨宮の指が、きゅっと制服のスカートの裾をつかんだ。
「あ、……いえ」
すぐに、首を振る。
「今のは、忘れてください」
言ってはいけないことを口にしてしまったみたいにそれきり口をつぐんだ。
「え、でも」
俺が言いかけると、彼女はかぶせるように微笑んだ。
「本当に、なんでもありませんから」
約、束。
いや、きっと俺とは関係ない話だ。
……関係ない、はずだ。
「そろそろ、片付けましょうか」
雨宮が、何事もなかったみたいに言う。
「うん」
そう答えて、俺は畳に湯飲みを置いた。
雨宮は「じゃあ初めましょうか」と立ち上がって、片付けの準備を始めた。
「……さっきの話なんだけど」
自分でも、なぜもう一度口にしたのか分からなかった。
「約束の、こと」
雨宮の背中が、ほんのすこし小さくなる。表情は強張って目が見開かれている。
「別に、深い意味はないよ」
そんな雨宮を見て慌てて付け足す。なんだか言い訳みたいだったけど。
「なんとなく気になっただけだから」
しばらくして、雨宮は小さく息を吐いた。
「…た…高瀬くん、は」
そうして、迷うように口を開けたり閉めたりした後、
「……い…いえ、すみません。なんでもありません」
彼女はそれ以上何も言わなかった。
片付けが終わって、部室を出る準備をする。
襖に手をかけたところで、雨宮がぽつりと言った。
「…高瀬くん」
彼女は、少し目を左右に動かした後、いつもの微笑みを浮かべる。
「これからも、よろしくお願いします」
そして、彼女はぺこりとお辞儀した。
「こちらこそ」
襖を閉めると、部室の中のあの静けさが嘘だったかのように音が戻る。運動部の掛け声、誰かの笑い声、遠くで鳴るチャイム前のざわめき。
「じゃ」
雨宮は一歩下がって、きちんと距離を取った位置で立ち止まった。
「また明日」
「はい、明日も宜しくお願いします
」
それだけの会話。 それだけなのに、彼女は一瞬だけ、何か言いたげに口を開きかけてやめた。
廊下の向こうへ歩いていく雨宮の後ろ姿を、俺はなぜか目で追ってしまう。 背筋は真っ直ぐで、歩幅は小さくて、制服のスカートが静かに揺れていた。
……ほんと、ちゃんとしすぎだ。
その日の帰り道、空はどんよりと曇っていた。 家に着く前に、ぽつりと雨が落ちてくる。夏なのに雨が降るからじめじめ蒸し暑くて最悪だ。
「はぁ…」
大きなため息をつく。傘を持ってきていないからだ。 仕方なく小走りで帰ろうとしたとき、
「高瀬くん!」
背後で小さく俺を呼ぶ声がした。振り向くと雨宮が黒い傘を持って立っていた。
「傘、あるので一緒に帰りませんか?」
そう誘った雨宮の耳の縁が紅くて思わず胸が鳴った。
「うん」
俺がそう答えると、彼女は近くに小走りでこちらに向かって走り出した。ローファーが地面を蹴る度、濡れた地面がぴちゃぴちゃと音を立てる。
雨宮は傘を広げて俺を傘の中に入れた。
「ありがとう、雨宮」
「い、いえ」
雨宮は少し息が上がっていた。彼女の耳はまだ紅い。意識するたび、また心臓がうるさくなる。
「あの、傘俺がもとうか?」
雨宮は俺よりかなり身長が低くて小柄だ。精一杯背伸びしてやっと俺の頭に届くくらいだ。背伸びした彼女のローファーのつま先のところにはシワが寄っていた。
「す、すみません、助かります」
俺は傘を雨宮から受け取った。ブレザーから覗いた雨宮の手首はびっくりするほど白くて細かった。
「いや、大変でしょ?」
「はい。ありがとうございます」
雨宮は照れるように笑ってから歩き出した。ふと視線を下ろす。手元には、古そうな小さな巾着袋が握られていた。その巾着を見つめていると視線に気づいたのか彼女ははっとしたように顔を上げた。
「どうした?」
そう聞くと、雨宮は一瞬迷ってから、小さく首を振った。
「いえ。……少し、考え事を」
そう言って、巾着をぎゅっと握る。 その仕草が、どこか必死そうに見えた。
「それ、なに?」
彼女は慌てて巾着を背中に隠した。
「…む…昔から、持っているものです」
「へぇ」
深くは聞かなかった。 でも、なぜか目が離れなかった。
「行こっか」
俺がそう言うと、雨宮は一瞬驚いた顔をしてから、こくりと頷いた。
「……はい」
並んで歩き出す。 雨宮はちらりと何度か俺を見て、すぐに目を逸らした。でも、すぐに意を決したように、俺を見て、
「…た…高瀬くん」
緊張したような、怯えるような声で俺を呼んだ。
「なに?」
「もし、なんですけど」
言葉を選ぶように、ゆっくり。
「もし、昔の約束を、片方だけが覚えていたら」
胸が、どくんと鳴った。
「それって、高瀬くんならどうしますか」
俺は、すぐに答えられなかった。 雨宮は、微笑まなかった。 ただ、真剣な目で、俺を見ていた。
「……その約束が、大事なら」
俺は、ゆっくり言葉を探しながら答えた。
「ちゃんと、向き合うと思う」
雨宮の指が、少し震える。
「たとえ、相手が変わってても?」
「うん」
俺は頷いた。
「変わったとしても、同じ人だから」
雨宮は目を見開いた。泣きそうな、ひどく、悲しそうな目だった。
「……そう、ですか」
それきり、雨宮は黙ったまま歩き続けた。雨音が傘を叩く規則的な音だけが二人の間に響いた。
俺は傘を持つ手に、少しだけ力を入れた。
彼女が濡れないように、自然と雨宮側に傾ける。
「……雨、強くなってきましたね」
しばらくして、雨宮がぽつりと言った。
「そうだね」
それ以上、言葉は続かない。さっきの会話が、まだ耳に張り付いたままみたいだった。
雨宮は前を向いたまま、巾着袋を握りしめている。指先が白くなるほど強く。
大事な約束。片方だけが覚えている約束。
胸の奥が、じわりと重くなる。俺、なのか?
「……雨宮」
名前を呼ぶと、彼女はびくっと肩を揺らした。
「は、はい」
声が少し上擦っていた。
「さっきの質問さ」
そう言った瞬間、雨宮の足が一瞬止まる。
でも、すぐに何事もなかったみたいに歩き出した。
「……やっぱ、大丈夫」
自分で言っておいて、情けなくなる。
踏み込めば、何かが壊れる気がした。
雨宮は小さく息を吐いた。
「……高瀬くんは、いつも優しいですよね」
「え?」
「話に、あんまり踏み込まないじゃないですか」
俺はどきっとする。それは褒め言葉みたいに聞こえたけど、どこか突き放すような響きでもあったからだ。
「……でも」
雨宮は、ほんの一瞬だけ俺を見た。
「それで、救われない人もいます」
救われない?
「……雨宮?」
名前を呼んだ時には、もう彼女は前を向いていた。でも、まるで言ってはいけないことを言ってしまったみたいに、深刻そうな顔をしていた。
雨が少し弱まってきた頃、分かれ道に着いた。
「ここで、大丈夫です」
彼女はそう言って、傘の外に一歩出た。
細い肩に、ぽつりと雨粒が落ちる。
「では」
雨宮は、いつもの微笑みを浮かべた。
でも、それはどこか作られた笑顔だった。
「今日は、ありがとうございました」
「うん。じゃあ、また明日」
雨宮はぺこりと頭を下げてから、くるりと背を向ける。
玄関へ歩き出した彼女の背中は、小さくて、それでも、妙に遠く見えた。
家に着いても、雨宮の言葉が頭から離れなかった。
それで、救われない人もいます。
「…どういうことだよ」
制服を脱ぎながら、独り言がこぼれる。
机に置いたスマホが、通知音を鳴らした。この通知音はクラスのグループじゃなく、個別のメッセージだ。
画面に表示された名前に、息が止まる。
雨宮 柚
今日は、ありがとうございました。突然、変なことを聞いてしまって、すみません。
俺は少し考えてから、返信を打った。
気にしないで。
また、部活で。
既読がつかないままのLINEの画面を閉じ、ベッドに仰向けになって天井を見た。屋根を打つ雨音がまだ微かに聞こえる。
そして、エアコンの柔らかい風を受けながら、俺はうたた寝をした。
