「尚! ごめん、ちょっとそこ押さえてて!」
「あ、うん。今行く」
僕は奏斗に呼ばれて、持っていたかぎ針と、編みかけのレースを一旦机に置いて駆け寄る。
僕たちは、時間の許す限り被服室に入り浸っていた。
奏斗が裁断を終えた布の端に、僕が作ったレースを仮止めする。奏斗に渡した蝶の編みぐるみを見て、奏斗が提案してくれたんだ。
『なぁ、この編みぐるみに使われてる毛糸って、シャギー? 毛足が長いものだよね?』
『あぁ、ファンシーヤーンを僕が引き揃えてるんだ。工場の残糸って安く販売してたりするからいくつか買ってて、好みの色合いになるように組み合わせて毛糸を作るんだ』
『毛糸まで作ってるってこと?』
『そうだよ。買ってきた毛糸も分解して、撚り直したりもするよ』
『マジか! なんかやってること、職人みたいだな!』
そんなやり取りの後、袖のフリルにラメ入りの毛糸で装飾することになった。蝶が羽ばたいたあとの残像を、僕の作ったレースやリボンで表現したいと言ってくれたんだ。
スポットライトが当たってキラキラと反射するように、ラメの糸を探してみたりふわふわとした質感のフェザーヤーンを探したり、見られることを前提とした糸の選別は、今まで一人でこっそり編んでいた僕に、大きな刺激をくれた。
人に見られるということを意識してのものづくりが、こんなにも想像力を掻き立てられるなんて、想像もしていなかった。
目の前が大きく開けて、見える景色がまるで違う。
糸の色が前より鮮やかに感じる。
考え方も、自分の好みじゃなく、どうみられるかに焦点が置かれた。
「尚のこの糸だけ、肩から少し垂らしてみる? これだけ軽さがあったら、歩いた時たなびくかな」
「いいね。ちょっと持ってきてみる」
「おう」
二人で、一つの作品を作り上げている感覚が、高揚感を連れてくる。
楽しくてしょうがない。
胸の奥で、蝶が自由を求めて何度も羽ばたいていた。
慌ただしく過ぎた夏休みももうすぐ終わりを迎え、僕たちの決戦の日が、刻一刻と近づいてきていた──。
夏休みが終わり、授業が再開する。
今までなら何も考えず、机に座って授業を受けていただろう。でも今は、残り僅かになって製作期間にむずむずして、座っているのがつらい。
──リボン、もうちょっと作っておきたいな……。足りないってなったら、もう時間ないよね。
僕は授業を聞くふりをしながら、机の下でそっとかぎ針を動かしていた。
「文化祭迄あともう少し。みんな、準備しっかりとやっておくんだぞ。あと、クラス委員はプログラム配るから、放課後、生徒会室に来るように」
先生の挨拶もそぞろに、ホームルームが終わるとすぐさま教室を後にして、被服室へ向かう。
ガラッと被服室のドアを開けると、完成間近の作品が、ずらっと並んでいた。
目の前に並んだ作品たちは、僕と同じ高校生が作ったものとは思えなかった。どれもこれも目を引くものばかりで、時間があればゆっくり近くで観察したい。
「凄い……」
でも何より、奏斗の作品に圧倒されていた。
贔屓目もあるのかもしれないけど、群を抜いて光って見えた。
彼の作品が、この美しい蝶が羽ばたくのを、みんなに早く自慢したかった。
──これを、僕が着るんだ……。
そう思うと、身震いしてしまう。
でも何故か、少しだけここに引っかかる何かがある。
するとそこに、奏斗が遅れて被服室に到着した。
「尚、もう来てたんだ」
「なんか、いよいよって感じだね」
「あぁ。明日、進行確認のために軽くリハーサルできるって。まだ仮縫いだけど、一回着てみる?」
「いいの?」
「あぁ。動いてもらって、修正箇所見つける事も出来るしな」
「そっか。それなら着てみたほうがいいね」
「りょーかい、じゃあ。準備しておくよ」
そう言った奏斗の顔は、連日の作業の疲れなのか少し疲れているように見えた。
「僕が手伝えることあったら、遠慮なく言って。本番まであともうちょっとだから、倒れないでよ?」
「ははっ、それは大丈夫」
少しだけ、本当に少しだけだけど、表情に曇りを感じた。
笑っているのに目が笑っていない。
体の中にざわめきを感じて、声を掛けようとしてけど喉につっかえてしまった。
「なぁ……、尚は、この作品どう思う?」
「えっ?」
奏斗の低い声が、更に不安を煽る。
本番を直前に、結果に対する不安を拭いきれないだろうか。
「素人目に見てだけど……、色使いも鮮やかで、蝶の羽ばたく姿が想像できる。テーマにもちゃんと合ってるんじゃないかな」
「テーマ……」
僕の言葉を反復したまま、奏斗は黙ってしまった。
──この綺麗な蝶を、羽ばたかせることができるだろうか……。
改めて、奏斗のテーマが羽化という事を思い出す。
これは、完成した成虫の輝きじゃないか?
そう思った途端、一気に不安が押し寄せた。
本番を前にナーバスになっているだけだ。
ふるふると頭を振って、余計な考えをふるい落とす。
僕はそのまま、その違和感に蓋をした──。
翌日、被服室の扉をガラッと開けると、中は戦場のように人でごった返していた。
「ごめん! ちょっと通るね!」
「ここで着替えらんないから、一旦ステージ脇に運ぼうか」
いつもの倍の人数プラス、それぞれの作品がわらわらと動いていた。
今日は、ファッションショーのリハーサル兼進行確認が行われる。
ランウェイを歩く順番や照明の確認など、事前に確認するらしい。
「尚、俺たちもステージ脇で着替えようか。まだ仮縫いの部分があるから、ここから着て移動するのはリスクありそうだ」
「あ、うん。分かった」
そう言って、二人で奏斗の作品を運び出す。
二人で作品を支えながら体育館までの廊下を進んでいくと、他の教室で文化祭準備をしている生徒たちが、教室の窓から覗き込んできていた。
──いよいよ、お披露目できる。
僕は、緊張よりも興奮が勝っていた。
奏斗の頑張りや才能を、短い期間だけど一番近くで見守っていたんだ。
僕が奏斗に羽ばたかせてもらえたのなら、今度は僕が奏斗を大空へ羽ばたかせる。
そんな使命感が僕の中に宿っていたのだと思う。
手伝ってもらいながら奏斗の作品に腕を通すと、その高揚感は増していった。
「千嵐君! 次だよ!」
そうこうしているうちに体育館に到着して、僕らはステージ脇にスタンバイさせられた。
ステージから声を掛けられ、いよいよランウェイに出る。
「尚、大丈夫? 歩ける?」
「あっ……、うん、大丈夫……」
「仮縫いだけど、もし万が一外れても気にしないで。手直しはここからだから。取り合えず、動けるだけ動いてほしい。布の動き見たいから」
「わ、わかった」
足が震えていた。
どんなに強がっていても、初めての事に恐怖心は隠すことが出来ない。
──取り合えず、真っすぐ歩かなきゃ。
僕は、一歩踏み出した。
スポットライトが熱い。
自分の鼓動の音をかき消すようなBGMの音楽。
スポットライトの光が眩しくて、ライトが当たっていないところは真っ暗に見えた。
その先で、奏斗が最終チェックをしている。
──そうだ、動かしてって言われてたんだ。
ただ歩いていた僕は、奏斗からの要望を思い出し、羽のように大きな袖を広げるように動かした。
ぼくが作ったレースやリボンが、スポットライトの光を反射しているのが視界の隅でわかる。
気づけば、丁度ランウェイの先端に到着していた。
「もうちょっとゆっくり歩いて良いからね。作品見せながらを意識すると、自然にゆっくりになるから」
「あっ……、はい……」
先生からそう声を掛けられて、思わず身体が固まってしまう。
そこからUターンして、ステージ袖に帰って僕の役目は終わる。
そう思って振り返った瞬間、袖に身体を引っ張られバランスを崩してよろけてしまった。
「うわぁっ!」
思わず声が出たけど、寸前で踏みとどまって転ぶことは回避できた。
周囲の音が消え、心臓の音だけが耳に残る。
これが本番じゃなくてよかった──。
すっと肝が冷える。
気を取り直して今度は慎重に、作品を傷つけないようにゆっくり歩いた。
ステージ袖に到着して奏斗の顔を見つけた時、どうしようもなく罪悪感が湧き出てくる。
「ごめんっ! 本番は絶対転ばないから!」
僕がステージ上で失敗したら、奏斗の努力が水の泡になってしまう。
分かっていたことだけど、改めてその可能性を目の当たりにして、興奮は一旦引っ込んで恐怖心が全身を覆う。
奏斗の視線は、僕じゃなくて袖の縫い目を追っていた。
「あぁ……、大丈夫」
その反応に、足がすくむ。
がっかりしてる?
期待を裏切った?
本番を前に、僕の積み上げてきた自信はぼろぼろと崩れていった。
僕らは無言のまま、被服室へ戻る。
「奏斗……、ちゃんと歩けなくて、ごめんね。本番ではちゃんと上手くやるから」
「いや、それは大丈夫……。そこじゃないんだ……」
難しい顔をしながら、奏斗は僕が脱いだ作品をトルソーに戻している。
無言がつらい。
ダメ出しでも要望でも、何か言って欲しかった。
「ごめん……、僕、一回クラス戻るね」
クラスの準備もまだ終わっていなかったから、一旦戻って落ち着こうと思った。
それが少しの逃げにも思えて、奏斗の返事は聞かずそそくさと被服室を後にした。
薄暗くなった廊下を、涙を堪えて足を引きずりながら進む。
──やっぱり、僕じゃ力不足かもしれない……。
今まで隠れるように学校生活を送ってきた僕が、夏休みのわずかな期間交流しただけで、変われるはずないんだ。
いきなり目立つようなことをしたって、失敗するに決まっている。
頭をよぎるのは、弱気な言葉ばかりだった。
すると、ポケットの中でごそっと動いた。
──あ……。
それは、奏斗とおそろいで作った蝶の編みぐるみだった。
ポケットから取り出し、僕はじっとそれを見つめる。
──自分で、自分の力で、さなぎからでなきゃ……。
そう思った瞬間、僕は振り返って被服室に戻る為に走りだした。
息が苦しい。
逸る気持ちと身体がバラバラで、思うように息が吸えない。
なんで僕はいつもこうなんだろう。クヨクヨしてる場合じゃないのに、すぐ凹んで逃げ出してしまっただけだ。
──奏斗にアドバイスもらわなきゃ。
そう思った瞬間だった。
『テーマ……』
あの時の奏斗の声が、胸の奥で引っかかっていた。僕も同じだった。そして、奏斗の表情が暗いのは、僕がランウェイに出る前からだったことにふと気づく。
もしかしたら、何かあるのかもしれない。
そう思ったら、逃げ出したことをひどく後悔した。
「あ、うん。今行く」
僕は奏斗に呼ばれて、持っていたかぎ針と、編みかけのレースを一旦机に置いて駆け寄る。
僕たちは、時間の許す限り被服室に入り浸っていた。
奏斗が裁断を終えた布の端に、僕が作ったレースを仮止めする。奏斗に渡した蝶の編みぐるみを見て、奏斗が提案してくれたんだ。
『なぁ、この編みぐるみに使われてる毛糸って、シャギー? 毛足が長いものだよね?』
『あぁ、ファンシーヤーンを僕が引き揃えてるんだ。工場の残糸って安く販売してたりするからいくつか買ってて、好みの色合いになるように組み合わせて毛糸を作るんだ』
『毛糸まで作ってるってこと?』
『そうだよ。買ってきた毛糸も分解して、撚り直したりもするよ』
『マジか! なんかやってること、職人みたいだな!』
そんなやり取りの後、袖のフリルにラメ入りの毛糸で装飾することになった。蝶が羽ばたいたあとの残像を、僕の作ったレースやリボンで表現したいと言ってくれたんだ。
スポットライトが当たってキラキラと反射するように、ラメの糸を探してみたりふわふわとした質感のフェザーヤーンを探したり、見られることを前提とした糸の選別は、今まで一人でこっそり編んでいた僕に、大きな刺激をくれた。
人に見られるということを意識してのものづくりが、こんなにも想像力を掻き立てられるなんて、想像もしていなかった。
目の前が大きく開けて、見える景色がまるで違う。
糸の色が前より鮮やかに感じる。
考え方も、自分の好みじゃなく、どうみられるかに焦点が置かれた。
「尚のこの糸だけ、肩から少し垂らしてみる? これだけ軽さがあったら、歩いた時たなびくかな」
「いいね。ちょっと持ってきてみる」
「おう」
二人で、一つの作品を作り上げている感覚が、高揚感を連れてくる。
楽しくてしょうがない。
胸の奥で、蝶が自由を求めて何度も羽ばたいていた。
慌ただしく過ぎた夏休みももうすぐ終わりを迎え、僕たちの決戦の日が、刻一刻と近づいてきていた──。
夏休みが終わり、授業が再開する。
今までなら何も考えず、机に座って授業を受けていただろう。でも今は、残り僅かになって製作期間にむずむずして、座っているのがつらい。
──リボン、もうちょっと作っておきたいな……。足りないってなったら、もう時間ないよね。
僕は授業を聞くふりをしながら、机の下でそっとかぎ針を動かしていた。
「文化祭迄あともう少し。みんな、準備しっかりとやっておくんだぞ。あと、クラス委員はプログラム配るから、放課後、生徒会室に来るように」
先生の挨拶もそぞろに、ホームルームが終わるとすぐさま教室を後にして、被服室へ向かう。
ガラッと被服室のドアを開けると、完成間近の作品が、ずらっと並んでいた。
目の前に並んだ作品たちは、僕と同じ高校生が作ったものとは思えなかった。どれもこれも目を引くものばかりで、時間があればゆっくり近くで観察したい。
「凄い……」
でも何より、奏斗の作品に圧倒されていた。
贔屓目もあるのかもしれないけど、群を抜いて光って見えた。
彼の作品が、この美しい蝶が羽ばたくのを、みんなに早く自慢したかった。
──これを、僕が着るんだ……。
そう思うと、身震いしてしまう。
でも何故か、少しだけここに引っかかる何かがある。
するとそこに、奏斗が遅れて被服室に到着した。
「尚、もう来てたんだ」
「なんか、いよいよって感じだね」
「あぁ。明日、進行確認のために軽くリハーサルできるって。まだ仮縫いだけど、一回着てみる?」
「いいの?」
「あぁ。動いてもらって、修正箇所見つける事も出来るしな」
「そっか。それなら着てみたほうがいいね」
「りょーかい、じゃあ。準備しておくよ」
そう言った奏斗の顔は、連日の作業の疲れなのか少し疲れているように見えた。
「僕が手伝えることあったら、遠慮なく言って。本番まであともうちょっとだから、倒れないでよ?」
「ははっ、それは大丈夫」
少しだけ、本当に少しだけだけど、表情に曇りを感じた。
笑っているのに目が笑っていない。
体の中にざわめきを感じて、声を掛けようとしてけど喉につっかえてしまった。
「なぁ……、尚は、この作品どう思う?」
「えっ?」
奏斗の低い声が、更に不安を煽る。
本番を直前に、結果に対する不安を拭いきれないだろうか。
「素人目に見てだけど……、色使いも鮮やかで、蝶の羽ばたく姿が想像できる。テーマにもちゃんと合ってるんじゃないかな」
「テーマ……」
僕の言葉を反復したまま、奏斗は黙ってしまった。
──この綺麗な蝶を、羽ばたかせることができるだろうか……。
改めて、奏斗のテーマが羽化という事を思い出す。
これは、完成した成虫の輝きじゃないか?
そう思った途端、一気に不安が押し寄せた。
本番を前にナーバスになっているだけだ。
ふるふると頭を振って、余計な考えをふるい落とす。
僕はそのまま、その違和感に蓋をした──。
翌日、被服室の扉をガラッと開けると、中は戦場のように人でごった返していた。
「ごめん! ちょっと通るね!」
「ここで着替えらんないから、一旦ステージ脇に運ぼうか」
いつもの倍の人数プラス、それぞれの作品がわらわらと動いていた。
今日は、ファッションショーのリハーサル兼進行確認が行われる。
ランウェイを歩く順番や照明の確認など、事前に確認するらしい。
「尚、俺たちもステージ脇で着替えようか。まだ仮縫いの部分があるから、ここから着て移動するのはリスクありそうだ」
「あ、うん。分かった」
そう言って、二人で奏斗の作品を運び出す。
二人で作品を支えながら体育館までの廊下を進んでいくと、他の教室で文化祭準備をしている生徒たちが、教室の窓から覗き込んできていた。
──いよいよ、お披露目できる。
僕は、緊張よりも興奮が勝っていた。
奏斗の頑張りや才能を、短い期間だけど一番近くで見守っていたんだ。
僕が奏斗に羽ばたかせてもらえたのなら、今度は僕が奏斗を大空へ羽ばたかせる。
そんな使命感が僕の中に宿っていたのだと思う。
手伝ってもらいながら奏斗の作品に腕を通すと、その高揚感は増していった。
「千嵐君! 次だよ!」
そうこうしているうちに体育館に到着して、僕らはステージ脇にスタンバイさせられた。
ステージから声を掛けられ、いよいよランウェイに出る。
「尚、大丈夫? 歩ける?」
「あっ……、うん、大丈夫……」
「仮縫いだけど、もし万が一外れても気にしないで。手直しはここからだから。取り合えず、動けるだけ動いてほしい。布の動き見たいから」
「わ、わかった」
足が震えていた。
どんなに強がっていても、初めての事に恐怖心は隠すことが出来ない。
──取り合えず、真っすぐ歩かなきゃ。
僕は、一歩踏み出した。
スポットライトが熱い。
自分の鼓動の音をかき消すようなBGMの音楽。
スポットライトの光が眩しくて、ライトが当たっていないところは真っ暗に見えた。
その先で、奏斗が最終チェックをしている。
──そうだ、動かしてって言われてたんだ。
ただ歩いていた僕は、奏斗からの要望を思い出し、羽のように大きな袖を広げるように動かした。
ぼくが作ったレースやリボンが、スポットライトの光を反射しているのが視界の隅でわかる。
気づけば、丁度ランウェイの先端に到着していた。
「もうちょっとゆっくり歩いて良いからね。作品見せながらを意識すると、自然にゆっくりになるから」
「あっ……、はい……」
先生からそう声を掛けられて、思わず身体が固まってしまう。
そこからUターンして、ステージ袖に帰って僕の役目は終わる。
そう思って振り返った瞬間、袖に身体を引っ張られバランスを崩してよろけてしまった。
「うわぁっ!」
思わず声が出たけど、寸前で踏みとどまって転ぶことは回避できた。
周囲の音が消え、心臓の音だけが耳に残る。
これが本番じゃなくてよかった──。
すっと肝が冷える。
気を取り直して今度は慎重に、作品を傷つけないようにゆっくり歩いた。
ステージ袖に到着して奏斗の顔を見つけた時、どうしようもなく罪悪感が湧き出てくる。
「ごめんっ! 本番は絶対転ばないから!」
僕がステージ上で失敗したら、奏斗の努力が水の泡になってしまう。
分かっていたことだけど、改めてその可能性を目の当たりにして、興奮は一旦引っ込んで恐怖心が全身を覆う。
奏斗の視線は、僕じゃなくて袖の縫い目を追っていた。
「あぁ……、大丈夫」
その反応に、足がすくむ。
がっかりしてる?
期待を裏切った?
本番を前に、僕の積み上げてきた自信はぼろぼろと崩れていった。
僕らは無言のまま、被服室へ戻る。
「奏斗……、ちゃんと歩けなくて、ごめんね。本番ではちゃんと上手くやるから」
「いや、それは大丈夫……。そこじゃないんだ……」
難しい顔をしながら、奏斗は僕が脱いだ作品をトルソーに戻している。
無言がつらい。
ダメ出しでも要望でも、何か言って欲しかった。
「ごめん……、僕、一回クラス戻るね」
クラスの準備もまだ終わっていなかったから、一旦戻って落ち着こうと思った。
それが少しの逃げにも思えて、奏斗の返事は聞かずそそくさと被服室を後にした。
薄暗くなった廊下を、涙を堪えて足を引きずりながら進む。
──やっぱり、僕じゃ力不足かもしれない……。
今まで隠れるように学校生活を送ってきた僕が、夏休みのわずかな期間交流しただけで、変われるはずないんだ。
いきなり目立つようなことをしたって、失敗するに決まっている。
頭をよぎるのは、弱気な言葉ばかりだった。
すると、ポケットの中でごそっと動いた。
──あ……。
それは、奏斗とおそろいで作った蝶の編みぐるみだった。
ポケットから取り出し、僕はじっとそれを見つめる。
──自分で、自分の力で、さなぎからでなきゃ……。
そう思った瞬間、僕は振り返って被服室に戻る為に走りだした。
息が苦しい。
逸る気持ちと身体がバラバラで、思うように息が吸えない。
なんで僕はいつもこうなんだろう。クヨクヨしてる場合じゃないのに、すぐ凹んで逃げ出してしまっただけだ。
──奏斗にアドバイスもらわなきゃ。
そう思った瞬間だった。
『テーマ……』
あの時の奏斗の声が、胸の奥で引っかかっていた。僕も同じだった。そして、奏斗の表情が暗いのは、僕がランウェイに出る前からだったことにふと気づく。
もしかしたら、何かあるのかもしれない。
そう思ったら、逃げ出したことをひどく後悔した。
