夏休みも順調に時が流れ、お盆に入る直前、僕は待ち合わせの場所に一人佇んでいた。
蝉の合唱を背に、行き交う人の流れを目で追いながら、胸の奥に小さな高鳴りを抱えてみんなを待つ。
「おっ、結城、早いじゃん!」
一番初めに合流したのは木村君だった。
僕は腰掛けていた車輪止めポールから立ち上がる。
「おはよう。ちょっと早く着いちゃったんだ」
大人数で出かけるなんて今までなかったから、昨日からそわそわして落ち着かなかったとは言えない。
今日は、クラスのみんなと資材の買い出しに行くことになっていた。
「千嵐は?」
「え? これから来るんじゃない? なんで?」
「いや、なんとなく結城と一緒に来るのかと思って」
千嵐君の名前を聞いて、思わず身体に力が入った。
最近、千嵐君の事を思い浮かべると、思考より先に体温が反応する。
「そういえば、俺のヘッドバンド、結城が作ってくれないかな?」
その言葉に、ドクンと胸が弾ける。
『ねぇ、今度こういうの作ってくれない?』
思い出す頻度は少なくなっていたのに、なんで今ここで、このタイミングで思い出すんだろう。
木村君に他意があるわけじゃないのは分っているのに、指先が冷たくなっていくようだった。
「どうした? 具合でも悪い?」
「ごめん、大丈夫……。せっかくなんだし、みんなと一緒に作ってみなよ。案外、面白いものが作れるかもしれないし」
自分の動揺を隠すように、ぎこちない笑顔を作りながら何とか誤魔化す。
どんな理由があっても、自分以外の手に渡るものは、もう作らない──。
「まぁ、そうだよな。みんな自分のものは自分で作るし。俺だけズルしちゃダメだよな」
「わからなかったら教えるし、アドバイスはできるから」
小さくふっと息を吐く。それから、早くなっていた鼓動を落ち着けるように、ゆっくり呼吸を整えた。
木村君と他愛もない話をしながらみんなを待っていると、急に僕の前に人影が落ちる。
「尚、おはよう」
「千嵐君、なんでいつも割って入るの!」
最近、僕がクラスメイトと話していると、千嵐君が間に邪魔するように入ってくることが度々あった。その都度注意するのにやめてくれない。
ふと千嵐君の表情が、少し怒っているように見えて、僕は荒げた声をすっと飲み込んだ。
「名前で呼んでって言ってるじゃん。なんでまだ苗字なの?」
「そんなこと言ったって、ずっと苗字で呼んでたから、言い慣れないんだよ」
そう言い訳しながら、名前で呼ぶことに抵抗があるとは言いづらかった。
家で一人、声に出してみただけで胸がうるさくなる。何とか呼べるようになりたいと思っても、何故か自分の気持ちがコントロールできなくて困ってしまう。
「じゃぁ、今日一日苗字禁止! 苗字で呼んだら罰ゲームな」
「ちょっと! 勝手に決めないでよ!」
「もう決めたからな」
ころっと表情を変え、今度は含みを持たせたような笑顔が逆に怖い。
無駄にドキドキしてしまって、今日が終わるまで僕の心臓はもつのだろうかと不安になる。
そのうちに女子達も合流して、目的の手芸店へと千嵐君に案内を頼んで移動した。
「カチューシャの土台、いくついる? 結ぶタイプの人はいらないよね?」
「接客しながらだと、どっちがいいかな」
「ねぇ、エプロンも装飾する?」
田辺さんを中心とした女子チームは、初めて訪れた手芸店に、興奮した様子で品物を選んでいた。
僕も、普段ネット通販で毛糸やそのほかの材料を買っていたから、ずらっと並んだ色とりどりの毛糸や刺繍糸に心が踊る。
「尚ー。ちょっとこっち来て!」
「なに? どうしたの?」
千嵐君は皆とは離れて、生地を選んでいた。
手芸を趣味にしていても僕は編み物だけだったから、こんなにたくさんの布に囲まれるのが新鮮だった。無地はもちろん、柄がプリントされているものや生地の薄さもそれぞれで、こういうところに身を置くだけでも、いろんなアイデアが浮かんできそうでワクワクする。
「なぁ、これちょっと肩にかけて」
そう言って、千嵐君が反物をザっと広げて僕の肩にかけてきた。
「なにしてるの?」
「尚は色が白いから、あんまり濃い色は浮いて見えそうだな。じゃぁ、次こっち」
「わっ!」
かけていた布を取ったかと思うと、すぐに次の布が登場する。
そのたびにぶつぶつ呟きながら僕を見つめる瞳は、少し寂しいけど僕を通り越して、その先にある彼の作品を見ているようだった。
──こんなに真剣に、何かを作れるってかっこいいな。僕も……。
その瞬間だった。
「もしかして、結城君?」
いきなり背後から声を掛けられ、その聞き覚えのある声が一瞬にして過去に引き戻す。
足元からガラガラと、何かが崩れるような感覚に一歩も動けなくなり、僕だと確信したその人物は、僕のそんな様子などお構いなしに近づいてきた。
「えー! 久しぶり。中学卒業以来?」
「あ……、井上さん……」
冷汗が背中をつたい、その場に立ってることで精一杯だった。
「わぁ、元気だった?」
そう言って、何事もなかったかのように僕の手を握ってくる。
僕は、手だけじゃなく心臓もぎゅっと掴まれたように、息が出来ない。
「美咲?」
奥から、何故か麻耶さんも出てきて、僕はこの状況が飲み込めない。
「あれ、麻耶も来てたんだ。友達?」
「うわっ、奏斗までいる。そう、友達の井上美咲」
「うわってなんだよ。麻耶たちも材料調達?」
「そう、クラスの買い出しの途中。てか、美咲と結城君て知り合いだったの?」
「結城君とは中学時代の同級生だよ。同じ高校なのに、久しぶりに会話したけど」
今もずっと引きずっている出来事が、フラッシュバックする。
このままじゃ奏斗に知られてしまうかもしれない。
そう思った瞬間、恐怖心が全身を駆け巡った。
「あ、そうだ。うちのクラス、フリマやるんだ。結城君、私の代わりにまた何か作ってよ」
全身から血の気が引いていく。
冷たくなった指先が、フルフルと震え出した。
井上さんは、あの事をなんとも思っていない?
もしかして忘れた?
彼女は、本当に悪気がない顔をしていた。
「な……、なんでそんなこと、平気で言えるの……」
声が震える。
僕を悪者に仕立て上げた張本人なのに、なんでそんなに平気な顔でいられるの?
追いつかない自分の感情に、目の前が真っ暗になっていくようだった。
「え? なに、まだ根に持ってるの? 私だって騙されたようなものじゃん。あのサイトで、私のアカウント停止になったんだからね」
「僕だって、まさか井上さんが売ってるなんて思ってなかったんだっ!」
僕は咄嗟に声をあげた。
彼女は面倒くさくなったのか嫌味のような言葉を吐き、不機嫌を隠さない。
「てかさ、権利とか知ったことかって感じなんだけど。編み図だっけ? どうせ編み物なんてみんな一緒でしょ? それ作ったやつに権利があるとか、訳わかんない」
「あれは泥棒と一緒の事なんだよ! クリエイターへの冒涜だ。僕はもう二度と、他人のものは作らない!」
権利──。
その言葉が出されて、僕は生きた心地がしなかった。
奏斗の顔を見ることが出来ない。
「……どういう事?」
戸惑ったような、怒気を含んで震えた声が聞こえた瞬間、目の前が真っ暗になった。
一番知られたくなかった過去を、一番知られたくない人に知られてしまった──。
僕は、崩れそうな心を必死に繋ぎ止めながら、その場から逃げ出した。
涙でぐちゃぐちゃになりながら家に帰った。
いきなり帰ってしまったから、みんなには奏斗が体調不良で帰ったと説明してくれたらしい。
家に帰ってから思い出すのは、奏斗の冷たい声だった。
『……どういう事?』
いつも朗らかな明るい声が、一気に怒気を含んで低く響いた。
僕がやってしまった事は、クリエイターから総スカンをくらってもしょうがないこと。中学の時と同じように、もう一度周りと関わらないようにすれば、編み物だって家でこっそりやっていれば、周りに知られることはない。
──昔に戻るだけ……。やっぱり僕は、目立たずひっそりしていた方がいいんだ……。
そう自分に言い聞かせても、溢れてくる涙は止まらなかった。
この日から、僕は体調不良を言い訳に、文化祭の準備に行くことを止めてしまった。
数日後、やる気も起きずベッドでゴロゴロしていると、母さんが部屋のドアを叩く。
「尚? お友達が訪ねてきてるけど……」
その言葉に、僕は驚いて涙が止まる。
──え? 友達……?
一体、誰が家まで訪ねてくるというんだ?
僕の頭にハテナが飛び交う。僕の家がどこなのか、話した事がある友人なんていないはずだ。
「具合悪いなら、帰ってもらう?」
「……誰が来たの?」
「んー、変わった苗字ね。ちあらし君? だったかな?」
そう言われて、僕は布団から飛び起きた。
ずっと部屋にいたからパジャマのままだし、髪の毛だってぼさぼさだ。顔だって洗っていない。
「わっ、ど、どうしよう! 母さん! ちょっと待ってもらって!」
着替えようにも慌てすぎて、ベッドの端に足をぶつけたり、クローゼットから洋服を取り出そうとして、棚の中身をぶちまけてしまう。
千嵐君の突然の訪問に、心臓のバクバクが全身にまわっていた。
「あぁ、もうっ! 落ち着け、僕っ!!」
何とかパジャマから着替え終わり、寝ぐせは申し訳程度に整えて、大きく深呼吸をする。冷静になると、井上さんとの一件から会っていないし話もしていない。浮かれている場合じゃないってことに気が付いた。
散らかった部屋を少し片づけながら、上がったり下がったりした気持ちをなんとか中心におさめ、リビングに降りていく。
「尚、遅いじゃない。千嵐君、待ってたわよ」
リビングに千嵐君がいる光景が、現実じゃないように見えた。
声が喉に詰まって、なかなか出てこない。
「おう、体調どう?」
「あぁ、うん……。もう大丈夫」
問いかけてきた千嵐君も、答える僕も、どこかぎこちなかった。
「あ……、僕の部屋に行く?」
「そ、そうだな」
そう言って、母さんから飲み物とおやつを受け取って、僕達は移動した。
「散らかっててごめん。言ってくれれば、片付けたのに……」
「いや……、俺の部屋よりきれいだよ」
どこかよそよそしい空気が流れる中、僕は珍しく自分の城に友達がいる事に浮ついていた。そわそわしながら母さんから渡されていた飲み物とおやつをテーブルに並べる。
「そう言えば、尚はどうして編み物始めたの?」
「あぁ、手芸が母さんの趣味だったんだ。僕、一人っ子だから、家で大人しく遊ぶのに、毛糸は丁度良かったみたい」
「そっか……。いいな、家族と仲良さそうで……」
「えっ?」
ぼそっと呟いた最後の言葉が聞き取れず聞き返したけど、それ以降、千嵐君は黙ってしまった。
重い空気があたりに漂う。
ふと彼の方を盗み見ると、僕が作った編み物たちを見つけ、視線を向けていた。
「あれも、尚が作ったの?」
そう言って、壁に飾ってあったタペストリーを指さした。
「あ、うん。マクラメ編みで作ったんだ。結んでいくだけだから結び方の種類覚えたら、スルスルできるよ」
「いいな、編み方で雰囲気だいぶ変わりそう。エスニックにもサーフにもなりそうだし、ネイティブアメリカンもかっこいいな」
「糸の素材変えても、雰囲気変わるからね」
当たり障りのない会話を続けながら、何か探り合っているように感じた。
きっと千嵐君は、この前の井上さんとの件を聞きに来たんだろう。
知られたくない気持ちと、全てを懺悔してしまいたい気持ちが拮抗していたのも事実だった。
僕の過去を話しても、今まで通り友達でいてくれるだろうか。
この重い空気に耐えられず、僕はぎゅっと拳を握った。
「この前はごめんね。変なことに巻き込んで……」
僕からこの話題を振ったことが意外だったのか、千嵐君は一瞬息を呑んだように固まり、ハッと我に返る。
「いや……、それはいいんだ。それより、あいつと何があったか話してくれないか」
真剣な眼差しで、僕にそう問いかける彼が怖かった。
この事で、千嵐君に軽蔑されてもしょうがないと腹を括る。
「僕が中学の文化祭で、編み物の展示をしたのは話したよね」
「あぁ」
「その後、井上さんから何か作って欲しいって言われて、リクエストされたものをいくつか作ったんだ」
「それは、いい事じゃないの?」
僕は途切れ途切れになる呼吸を整えながら、ゆっくり話す。
そうしないと、感情が追い付かなくて、また泣きそうになったから──。
「井上さんに言われるがまま、僕はいくつも作品を作った。そして、それを井上さんは、僕に何も言わずにネットで売り始めていたんだ……」
「もしかして……」
千嵐君の顔色が変わった気がした。
もう、何が起こったのか気付いているんだろう。
「僕は、作家さんが公表している編み図で作っていたんだ……。それを転売してるってわかったのは、出品していたサイトから警告を受けたって、井上さんから連絡がきてから……」
今でも、井上さんから見せられたメールの内容は忘れられない。
僕が参考にしていた編み図の作者から、サイトに問い合わせが入ったという内容だった。それと合わせて、権利侵害になるから販売を中止する旨が伝えられた。
クリエイターにとって、自分の作品の権利は一番大事な財産になる。
これはどんなジャンルでもそうだろう。
僕は、その大事なものを傷つけていた。
知らなかったとは言え、編み図を参考にしていたものを、販売していた事実は消すことができない。
それに──。
「勝手に販売していたのは井上さんだけど、僕も薄々気づいていたんだ。だって、作ってって言われたものは、個人で所有するには多すぎたもん」
千嵐君が息を呑みこんだのがわかった。
無言なのが一番堪える。
僕は彼の顔を見れないまま、震えた手のひらをぎゅっと固く握っていた。
「ちゃんと、井上さんに説明しなかった僕が悪かったんだ。周りにもそう話してたみたいで、もともと文化祭の時のこともあるから、僕への風当たりは大きくなるだけだった……。だからもう、誰かの為に作ることはしないって、その時決めたんだ」
反省しても、この後悔はいつまでたっても消えることはないだろう。
無言の時間は、僕たちを残して過ぎていく。
編み物は、作家になってもそれだけで生計を立てていくのが難しいジャンルだ。作品を仕上げる時間に制作コストがかかり、どうしても一つの商品の値段が高額になってしまう。
だからこそ、編み図を本にして販売したり、ワークショップや教室を開いて収入源にしている。それを別の人が利用して、販売するなんてもってのほかだった。
「俺たちの世界じゃ、デザインの盗用は一番の恥だ。でも、それを一番悔しがってる尚を、俺は笑わない」
千嵐君が、僕を真っ直ぐ見つめながらそう言ってきた。
真剣なその眼差しに一瞬で涙が止まり、彼の熱のこもった瞳が僕の心を抉る。
僕は何も言えず、目に涙を溜めた。
「俺が拾ったあのチャームは、尚のオリジナルじゃないの?」
「あれは……、僕が作ったよ。今は、自分の考えた形に作れるようになったから……」
「それが出来るなら、もう怖がらなくていい。せっかく作った作品を評価してもらえなかった悔しさは、ちゃんと作品で晴らそう。尚が作ったものまで否定しろって言われたら、俺は無理だ。尚が傷つけられたことに、腹が立ったからな」
ゆっくり、言い聞かせるように話す千嵐君の声は、さっきと打って変わって優しかった。
背中を押される。
ずっと欲しかった言葉。
ずっと欲しかった仲間。
殻に閉じこもって、その狭い世界しか見ていなかったのかもしれない。
彼の言葉に、僕は少しだけ外の空気に触れられたような気がした──。
「……奏斗」
無意識に口をついたその響きが、静かな部屋に溶けていく。
言った瞬間に、心臓が跳ねた。
「あ……っ!」
耳の付け根から顔全体に、一気に血が上るのがわかった。
さっきまでの重苦しい空気はどこかへ吹き飛び、代わりに頭の中が真っ白なパニックで埋め尽くされる。
「ご、ごめん! 今の、その、何も考えてなくて……、えっと、違くてっ……!」
慌てて両手で顔を覆ったけれど、指の隙間から漏れる体温が、余計に自分の動揺を際立たせるだけだった。
「……やっと呼んだな」
頭上から降ってきたのは、揶揄うような、それでいてひどく穏やかな声だった。
恐る恐る指を広げて視線を上げると、奏斗が少しだけ照れくさそうに、けれど満足げに口角を上げている。
「ずーっと苗字呼びだったもんな。罰ゲーム、免除してやってもいいぞ。今の、すごく自然だったし」
「……う、うるさい」
僕は膝を抱え込み、顔を半分埋めた。
二人の間に、静かな熱が満ちていく。
けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
自分の醜い部分を全部見せて、それでも軽蔑されなかったという安堵が、名前に乗って零れ落ちたのかもしれない。
奏斗が、座っていたクッションを少しだけ僕の方へ寄せた。
肩が触れ合うほどの距離。
「尚」
今度は彼が、僕の名前を呼んだ。
柔らかく、温かい響き。
「もう一回、編み直そうぜ。今度は、誰かに言われて作るんじゃなくて、尚が作りたいものをさ」
奏斗の手が、僕の丸まった背中にそっと置かれる。
その大きな手のひらから伝わってくる熱が、冷え切っていた僕の指先を、じわじわと解かしていくようだった。
「……うん。僕、やってみる。奏斗が驚くようなもの、編んでみせるから」
顔を上げると、視線が真っ直ぐにぶつかった。
近い──。
近すぎてまた心臓がうるさくなったけれど、今度は逃げ出したいとは思わなかった。
絡まった糸を一目ずつ丁寧に解くように、僕たちの新しい関係が、ここから静かに編み上がり始めていた。
その日の夜、そわそわした身体を落ち着けるように、クッションに顔をうずめる。
──僕だって、奏斗の為に何かできるはず……。
奏斗が初めて僕に持った印象は“さなぎ”だった。
僕は無意識に、自分の周りに防御壁を編んでいたのかもしれない。
それを奏斗は見抜いていて、始まりの一目だけを解いてくれた。
僕は、そのまま糸を引っ張れる?
また編みなおして、塞いでしまう?
少し考えてから、僕は毛糸を手に取った。
蝉の合唱を背に、行き交う人の流れを目で追いながら、胸の奥に小さな高鳴りを抱えてみんなを待つ。
「おっ、結城、早いじゃん!」
一番初めに合流したのは木村君だった。
僕は腰掛けていた車輪止めポールから立ち上がる。
「おはよう。ちょっと早く着いちゃったんだ」
大人数で出かけるなんて今までなかったから、昨日からそわそわして落ち着かなかったとは言えない。
今日は、クラスのみんなと資材の買い出しに行くことになっていた。
「千嵐は?」
「え? これから来るんじゃない? なんで?」
「いや、なんとなく結城と一緒に来るのかと思って」
千嵐君の名前を聞いて、思わず身体に力が入った。
最近、千嵐君の事を思い浮かべると、思考より先に体温が反応する。
「そういえば、俺のヘッドバンド、結城が作ってくれないかな?」
その言葉に、ドクンと胸が弾ける。
『ねぇ、今度こういうの作ってくれない?』
思い出す頻度は少なくなっていたのに、なんで今ここで、このタイミングで思い出すんだろう。
木村君に他意があるわけじゃないのは分っているのに、指先が冷たくなっていくようだった。
「どうした? 具合でも悪い?」
「ごめん、大丈夫……。せっかくなんだし、みんなと一緒に作ってみなよ。案外、面白いものが作れるかもしれないし」
自分の動揺を隠すように、ぎこちない笑顔を作りながら何とか誤魔化す。
どんな理由があっても、自分以外の手に渡るものは、もう作らない──。
「まぁ、そうだよな。みんな自分のものは自分で作るし。俺だけズルしちゃダメだよな」
「わからなかったら教えるし、アドバイスはできるから」
小さくふっと息を吐く。それから、早くなっていた鼓動を落ち着けるように、ゆっくり呼吸を整えた。
木村君と他愛もない話をしながらみんなを待っていると、急に僕の前に人影が落ちる。
「尚、おはよう」
「千嵐君、なんでいつも割って入るの!」
最近、僕がクラスメイトと話していると、千嵐君が間に邪魔するように入ってくることが度々あった。その都度注意するのにやめてくれない。
ふと千嵐君の表情が、少し怒っているように見えて、僕は荒げた声をすっと飲み込んだ。
「名前で呼んでって言ってるじゃん。なんでまだ苗字なの?」
「そんなこと言ったって、ずっと苗字で呼んでたから、言い慣れないんだよ」
そう言い訳しながら、名前で呼ぶことに抵抗があるとは言いづらかった。
家で一人、声に出してみただけで胸がうるさくなる。何とか呼べるようになりたいと思っても、何故か自分の気持ちがコントロールできなくて困ってしまう。
「じゃぁ、今日一日苗字禁止! 苗字で呼んだら罰ゲームな」
「ちょっと! 勝手に決めないでよ!」
「もう決めたからな」
ころっと表情を変え、今度は含みを持たせたような笑顔が逆に怖い。
無駄にドキドキしてしまって、今日が終わるまで僕の心臓はもつのだろうかと不安になる。
そのうちに女子達も合流して、目的の手芸店へと千嵐君に案内を頼んで移動した。
「カチューシャの土台、いくついる? 結ぶタイプの人はいらないよね?」
「接客しながらだと、どっちがいいかな」
「ねぇ、エプロンも装飾する?」
田辺さんを中心とした女子チームは、初めて訪れた手芸店に、興奮した様子で品物を選んでいた。
僕も、普段ネット通販で毛糸やそのほかの材料を買っていたから、ずらっと並んだ色とりどりの毛糸や刺繍糸に心が踊る。
「尚ー。ちょっとこっち来て!」
「なに? どうしたの?」
千嵐君は皆とは離れて、生地を選んでいた。
手芸を趣味にしていても僕は編み物だけだったから、こんなにたくさんの布に囲まれるのが新鮮だった。無地はもちろん、柄がプリントされているものや生地の薄さもそれぞれで、こういうところに身を置くだけでも、いろんなアイデアが浮かんできそうでワクワクする。
「なぁ、これちょっと肩にかけて」
そう言って、千嵐君が反物をザっと広げて僕の肩にかけてきた。
「なにしてるの?」
「尚は色が白いから、あんまり濃い色は浮いて見えそうだな。じゃぁ、次こっち」
「わっ!」
かけていた布を取ったかと思うと、すぐに次の布が登場する。
そのたびにぶつぶつ呟きながら僕を見つめる瞳は、少し寂しいけど僕を通り越して、その先にある彼の作品を見ているようだった。
──こんなに真剣に、何かを作れるってかっこいいな。僕も……。
その瞬間だった。
「もしかして、結城君?」
いきなり背後から声を掛けられ、その聞き覚えのある声が一瞬にして過去に引き戻す。
足元からガラガラと、何かが崩れるような感覚に一歩も動けなくなり、僕だと確信したその人物は、僕のそんな様子などお構いなしに近づいてきた。
「えー! 久しぶり。中学卒業以来?」
「あ……、井上さん……」
冷汗が背中をつたい、その場に立ってることで精一杯だった。
「わぁ、元気だった?」
そう言って、何事もなかったかのように僕の手を握ってくる。
僕は、手だけじゃなく心臓もぎゅっと掴まれたように、息が出来ない。
「美咲?」
奥から、何故か麻耶さんも出てきて、僕はこの状況が飲み込めない。
「あれ、麻耶も来てたんだ。友達?」
「うわっ、奏斗までいる。そう、友達の井上美咲」
「うわってなんだよ。麻耶たちも材料調達?」
「そう、クラスの買い出しの途中。てか、美咲と結城君て知り合いだったの?」
「結城君とは中学時代の同級生だよ。同じ高校なのに、久しぶりに会話したけど」
今もずっと引きずっている出来事が、フラッシュバックする。
このままじゃ奏斗に知られてしまうかもしれない。
そう思った瞬間、恐怖心が全身を駆け巡った。
「あ、そうだ。うちのクラス、フリマやるんだ。結城君、私の代わりにまた何か作ってよ」
全身から血の気が引いていく。
冷たくなった指先が、フルフルと震え出した。
井上さんは、あの事をなんとも思っていない?
もしかして忘れた?
彼女は、本当に悪気がない顔をしていた。
「な……、なんでそんなこと、平気で言えるの……」
声が震える。
僕を悪者に仕立て上げた張本人なのに、なんでそんなに平気な顔でいられるの?
追いつかない自分の感情に、目の前が真っ暗になっていくようだった。
「え? なに、まだ根に持ってるの? 私だって騙されたようなものじゃん。あのサイトで、私のアカウント停止になったんだからね」
「僕だって、まさか井上さんが売ってるなんて思ってなかったんだっ!」
僕は咄嗟に声をあげた。
彼女は面倒くさくなったのか嫌味のような言葉を吐き、不機嫌を隠さない。
「てかさ、権利とか知ったことかって感じなんだけど。編み図だっけ? どうせ編み物なんてみんな一緒でしょ? それ作ったやつに権利があるとか、訳わかんない」
「あれは泥棒と一緒の事なんだよ! クリエイターへの冒涜だ。僕はもう二度と、他人のものは作らない!」
権利──。
その言葉が出されて、僕は生きた心地がしなかった。
奏斗の顔を見ることが出来ない。
「……どういう事?」
戸惑ったような、怒気を含んで震えた声が聞こえた瞬間、目の前が真っ暗になった。
一番知られたくなかった過去を、一番知られたくない人に知られてしまった──。
僕は、崩れそうな心を必死に繋ぎ止めながら、その場から逃げ出した。
涙でぐちゃぐちゃになりながら家に帰った。
いきなり帰ってしまったから、みんなには奏斗が体調不良で帰ったと説明してくれたらしい。
家に帰ってから思い出すのは、奏斗の冷たい声だった。
『……どういう事?』
いつも朗らかな明るい声が、一気に怒気を含んで低く響いた。
僕がやってしまった事は、クリエイターから総スカンをくらってもしょうがないこと。中学の時と同じように、もう一度周りと関わらないようにすれば、編み物だって家でこっそりやっていれば、周りに知られることはない。
──昔に戻るだけ……。やっぱり僕は、目立たずひっそりしていた方がいいんだ……。
そう自分に言い聞かせても、溢れてくる涙は止まらなかった。
この日から、僕は体調不良を言い訳に、文化祭の準備に行くことを止めてしまった。
数日後、やる気も起きずベッドでゴロゴロしていると、母さんが部屋のドアを叩く。
「尚? お友達が訪ねてきてるけど……」
その言葉に、僕は驚いて涙が止まる。
──え? 友達……?
一体、誰が家まで訪ねてくるというんだ?
僕の頭にハテナが飛び交う。僕の家がどこなのか、話した事がある友人なんていないはずだ。
「具合悪いなら、帰ってもらう?」
「……誰が来たの?」
「んー、変わった苗字ね。ちあらし君? だったかな?」
そう言われて、僕は布団から飛び起きた。
ずっと部屋にいたからパジャマのままだし、髪の毛だってぼさぼさだ。顔だって洗っていない。
「わっ、ど、どうしよう! 母さん! ちょっと待ってもらって!」
着替えようにも慌てすぎて、ベッドの端に足をぶつけたり、クローゼットから洋服を取り出そうとして、棚の中身をぶちまけてしまう。
千嵐君の突然の訪問に、心臓のバクバクが全身にまわっていた。
「あぁ、もうっ! 落ち着け、僕っ!!」
何とかパジャマから着替え終わり、寝ぐせは申し訳程度に整えて、大きく深呼吸をする。冷静になると、井上さんとの一件から会っていないし話もしていない。浮かれている場合じゃないってことに気が付いた。
散らかった部屋を少し片づけながら、上がったり下がったりした気持ちをなんとか中心におさめ、リビングに降りていく。
「尚、遅いじゃない。千嵐君、待ってたわよ」
リビングに千嵐君がいる光景が、現実じゃないように見えた。
声が喉に詰まって、なかなか出てこない。
「おう、体調どう?」
「あぁ、うん……。もう大丈夫」
問いかけてきた千嵐君も、答える僕も、どこかぎこちなかった。
「あ……、僕の部屋に行く?」
「そ、そうだな」
そう言って、母さんから飲み物とおやつを受け取って、僕達は移動した。
「散らかっててごめん。言ってくれれば、片付けたのに……」
「いや……、俺の部屋よりきれいだよ」
どこかよそよそしい空気が流れる中、僕は珍しく自分の城に友達がいる事に浮ついていた。そわそわしながら母さんから渡されていた飲み物とおやつをテーブルに並べる。
「そう言えば、尚はどうして編み物始めたの?」
「あぁ、手芸が母さんの趣味だったんだ。僕、一人っ子だから、家で大人しく遊ぶのに、毛糸は丁度良かったみたい」
「そっか……。いいな、家族と仲良さそうで……」
「えっ?」
ぼそっと呟いた最後の言葉が聞き取れず聞き返したけど、それ以降、千嵐君は黙ってしまった。
重い空気があたりに漂う。
ふと彼の方を盗み見ると、僕が作った編み物たちを見つけ、視線を向けていた。
「あれも、尚が作ったの?」
そう言って、壁に飾ってあったタペストリーを指さした。
「あ、うん。マクラメ編みで作ったんだ。結んでいくだけだから結び方の種類覚えたら、スルスルできるよ」
「いいな、編み方で雰囲気だいぶ変わりそう。エスニックにもサーフにもなりそうだし、ネイティブアメリカンもかっこいいな」
「糸の素材変えても、雰囲気変わるからね」
当たり障りのない会話を続けながら、何か探り合っているように感じた。
きっと千嵐君は、この前の井上さんとの件を聞きに来たんだろう。
知られたくない気持ちと、全てを懺悔してしまいたい気持ちが拮抗していたのも事実だった。
僕の過去を話しても、今まで通り友達でいてくれるだろうか。
この重い空気に耐えられず、僕はぎゅっと拳を握った。
「この前はごめんね。変なことに巻き込んで……」
僕からこの話題を振ったことが意外だったのか、千嵐君は一瞬息を呑んだように固まり、ハッと我に返る。
「いや……、それはいいんだ。それより、あいつと何があったか話してくれないか」
真剣な眼差しで、僕にそう問いかける彼が怖かった。
この事で、千嵐君に軽蔑されてもしょうがないと腹を括る。
「僕が中学の文化祭で、編み物の展示をしたのは話したよね」
「あぁ」
「その後、井上さんから何か作って欲しいって言われて、リクエストされたものをいくつか作ったんだ」
「それは、いい事じゃないの?」
僕は途切れ途切れになる呼吸を整えながら、ゆっくり話す。
そうしないと、感情が追い付かなくて、また泣きそうになったから──。
「井上さんに言われるがまま、僕はいくつも作品を作った。そして、それを井上さんは、僕に何も言わずにネットで売り始めていたんだ……」
「もしかして……」
千嵐君の顔色が変わった気がした。
もう、何が起こったのか気付いているんだろう。
「僕は、作家さんが公表している編み図で作っていたんだ……。それを転売してるってわかったのは、出品していたサイトから警告を受けたって、井上さんから連絡がきてから……」
今でも、井上さんから見せられたメールの内容は忘れられない。
僕が参考にしていた編み図の作者から、サイトに問い合わせが入ったという内容だった。それと合わせて、権利侵害になるから販売を中止する旨が伝えられた。
クリエイターにとって、自分の作品の権利は一番大事な財産になる。
これはどんなジャンルでもそうだろう。
僕は、その大事なものを傷つけていた。
知らなかったとは言え、編み図を参考にしていたものを、販売していた事実は消すことができない。
それに──。
「勝手に販売していたのは井上さんだけど、僕も薄々気づいていたんだ。だって、作ってって言われたものは、個人で所有するには多すぎたもん」
千嵐君が息を呑みこんだのがわかった。
無言なのが一番堪える。
僕は彼の顔を見れないまま、震えた手のひらをぎゅっと固く握っていた。
「ちゃんと、井上さんに説明しなかった僕が悪かったんだ。周りにもそう話してたみたいで、もともと文化祭の時のこともあるから、僕への風当たりは大きくなるだけだった……。だからもう、誰かの為に作ることはしないって、その時決めたんだ」
反省しても、この後悔はいつまでたっても消えることはないだろう。
無言の時間は、僕たちを残して過ぎていく。
編み物は、作家になってもそれだけで生計を立てていくのが難しいジャンルだ。作品を仕上げる時間に制作コストがかかり、どうしても一つの商品の値段が高額になってしまう。
だからこそ、編み図を本にして販売したり、ワークショップや教室を開いて収入源にしている。それを別の人が利用して、販売するなんてもってのほかだった。
「俺たちの世界じゃ、デザインの盗用は一番の恥だ。でも、それを一番悔しがってる尚を、俺は笑わない」
千嵐君が、僕を真っ直ぐ見つめながらそう言ってきた。
真剣なその眼差しに一瞬で涙が止まり、彼の熱のこもった瞳が僕の心を抉る。
僕は何も言えず、目に涙を溜めた。
「俺が拾ったあのチャームは、尚のオリジナルじゃないの?」
「あれは……、僕が作ったよ。今は、自分の考えた形に作れるようになったから……」
「それが出来るなら、もう怖がらなくていい。せっかく作った作品を評価してもらえなかった悔しさは、ちゃんと作品で晴らそう。尚が作ったものまで否定しろって言われたら、俺は無理だ。尚が傷つけられたことに、腹が立ったからな」
ゆっくり、言い聞かせるように話す千嵐君の声は、さっきと打って変わって優しかった。
背中を押される。
ずっと欲しかった言葉。
ずっと欲しかった仲間。
殻に閉じこもって、その狭い世界しか見ていなかったのかもしれない。
彼の言葉に、僕は少しだけ外の空気に触れられたような気がした──。
「……奏斗」
無意識に口をついたその響きが、静かな部屋に溶けていく。
言った瞬間に、心臓が跳ねた。
「あ……っ!」
耳の付け根から顔全体に、一気に血が上るのがわかった。
さっきまでの重苦しい空気はどこかへ吹き飛び、代わりに頭の中が真っ白なパニックで埋め尽くされる。
「ご、ごめん! 今の、その、何も考えてなくて……、えっと、違くてっ……!」
慌てて両手で顔を覆ったけれど、指の隙間から漏れる体温が、余計に自分の動揺を際立たせるだけだった。
「……やっと呼んだな」
頭上から降ってきたのは、揶揄うような、それでいてひどく穏やかな声だった。
恐る恐る指を広げて視線を上げると、奏斗が少しだけ照れくさそうに、けれど満足げに口角を上げている。
「ずーっと苗字呼びだったもんな。罰ゲーム、免除してやってもいいぞ。今の、すごく自然だったし」
「……う、うるさい」
僕は膝を抱え込み、顔を半分埋めた。
二人の間に、静かな熱が満ちていく。
けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
自分の醜い部分を全部見せて、それでも軽蔑されなかったという安堵が、名前に乗って零れ落ちたのかもしれない。
奏斗が、座っていたクッションを少しだけ僕の方へ寄せた。
肩が触れ合うほどの距離。
「尚」
今度は彼が、僕の名前を呼んだ。
柔らかく、温かい響き。
「もう一回、編み直そうぜ。今度は、誰かに言われて作るんじゃなくて、尚が作りたいものをさ」
奏斗の手が、僕の丸まった背中にそっと置かれる。
その大きな手のひらから伝わってくる熱が、冷え切っていた僕の指先を、じわじわと解かしていくようだった。
「……うん。僕、やってみる。奏斗が驚くようなもの、編んでみせるから」
顔を上げると、視線が真っ直ぐにぶつかった。
近い──。
近すぎてまた心臓がうるさくなったけれど、今度は逃げ出したいとは思わなかった。
絡まった糸を一目ずつ丁寧に解くように、僕たちの新しい関係が、ここから静かに編み上がり始めていた。
その日の夜、そわそわした身体を落ち着けるように、クッションに顔をうずめる。
──僕だって、奏斗の為に何かできるはず……。
奏斗が初めて僕に持った印象は“さなぎ”だった。
僕は無意識に、自分の周りに防御壁を編んでいたのかもしれない。
それを奏斗は見抜いていて、始まりの一目だけを解いてくれた。
僕は、そのまま糸を引っ張れる?
また編みなおして、塞いでしまう?
少し考えてから、僕は毛糸を手に取った。
