風呂あがり、どきどきしながら交換日記の表紙をめくった。
真っ黒のシャーペンの字がぎっしり。最初に自己紹介と改めて書いてあってなんだか笑ってしまう。
『真野壱弥。血液型、AB型。身長、181センチ。誕生日、12月8日』
へえ、意外。オレより誕生日が遅い。それなのに、なんでオレより背が高いんだよ。
『好きな色、ピンク。初めて買ったシール、桜のシール←今も全部取ってある』
だから水族館のときにピンクを着てたのか。桜のシールを初めて買ったってことは、春にシールにはまったってことだな。
たいしたことは書いてない。書いていないけれど、いろんなことが見えてくる。読み始めるとおもしろくて、ついつい何度も読み返した。部屋の時計が九時半を指していることに気づき、自分もシャーペンを握る。
『一ノ瀬日向。血液型、A型。身長、164センチ←身体測定で伸びてた。誕生日、8月24日。好きな色、青系。初めて買ったシール、犬のシール←コーギーはいなかった』
書いてみると、心に温かさがじわじわと広がっていく。
普段、誰にも言わないようなこと。身長が伸びていて嬉しかったとか、夏休み中でみんなに忘れられる誕生日とか、初めて買ったシールとか。どうでもいいことを話せる相手がいるなんて嬉しすぎる。それだけで一日が変わる。
『夏になったらやりたいこと、夏のシール巡り←真野は浴衣とか花火が好きそう。夏になってもやりたくないこと、夏休みの宿題。オレの苦手科目、全部だから』
書き込んでいるうちに手が調子に乗ってきた。いつの間にか四分の三を埋め尽くしており、最後はなにを書こうか考える。
でも、シール帳を出した。今日、ふたりで一緒に作ったシール。それを眺め、真野が作った一枚をていねいに剥がしてノートに貼った。ぎゅぎゅっと上から押さえる。表紙を閉じるともこっとなるけど、それがシールの醍醐味だ。
『このシール、好き。取っておきたい気もしたけど、やっぱり貼ってこそシールだから。真野も好きなシール貼れよ。次は真野の番。続き、絶対に書け』
書き終えると満足した。自分のを冒頭から読み返すとちょっと恥ずかしい。オレは字も上手くない。でも、一生懸命書いたから読んでほしい。
ノートを閉じるとそわそわした。真野、読んでくれるかな。
月曜日、いつもより早く学校に行った。昇降口で上履きに履き替えるとダッシュで教室へ行く。
まだ、誰もいなかった。ほっとして真野の机の中にノートを押し込む。そわそわしながら英単語帳を開く。今日は小テストだ。
「一ノ瀬、はよ」
隣の席の子が登校してきた。
「一ノ瀬、小テストの勉強してんのか」
「勉強のために早く学校に来て。オレ、英語苦手だから」
「俺、英語は中学で分かんなくなってる。正直やばい」
「受験勉強、地獄だったな」
「うわ、思い出させるなよ」
今日はいつもよりすんなり言葉が出る。あははと笑い声まで出て、なんだか体が熱くなった。
オレ、今日はテンションが高い。真野以外の子とも普通の話ができた。
普通の話。たったそれだけのことなのに、なんでこんなに嬉しいんだろう。中学のときのオレなら、こんな朝は永遠に来ないと思っていた。それがいつの間にか、笑い声が出るようになっている。
真野はいつもどおりの時間に登校してきた。教室に入った途端、いろんな子が「おはよう」と声をかける。相変わらず教室のアイドルだ。
「真野、はよ」
「はよ。今日は日差しが強いな。もう日焼け止めが必要じゃね?」
真野は普通に返事をしていた。だが、席に座って机に手を突っ込んだ途端、一瞬動きを止めた。それを見てから目線を外す。
ちゃんとノートに気づいてくれた。一ノ瀬日向、初の交換日記、手渡し成功です。本日の一大プロジェクト完了。
英語は二時間目。小テスト、相変わらず空欄もあったけど、いつもよりはできた気がする。交換日記を渡す日は、朝早く来て勉強をしよう。
その日は一日ずっとそわそわしていた。家に帰ってからは、どこで読んでるかなとか、どんな顔で読んでるのかなとかあれこれ考える。交換日記って相手に渡しているときも交換日記をやっているって気持ちになる。真野があの部屋であれこれ返事を書いているところを想像して、風呂場の鏡を見たらオレが笑ってた。
何日後に返ってくるかな。そんなふうに思ったのに、翌日真野が「なあ」と教室で話しかけてきた。何事かと驚く。すっと差し出されたのは交換日記のノート。
「これ、先生から返却だって」
「えっ、あっ、うん、そ、そう。ありがと……」
ついあたふたしてしまう。
真野は平然と「はい」とオレに手渡すとすっと離れていく。クラスメイトの誰かが話しかけた。明るい顔で「なに」と返事をして、いつもどおりクラスに溶け込んでいく。
秘密を大胆に渡してくるなんて、真野、勇気がある。いや、秘密ってなんだよ。大袈裟な言い方をするな、オレ。
家の自室でノートを広げると、まっさきに目に入ったのは真野の貼ったシールだった。オレが作ったちょっといびつなやつだ。
『←好き。やっぱり色の組み合わせがセンスいい』
シールの横にはそんなコメントがついていた。にやける。だが、真野からの日記を読み始めて思わず突っ伏した。
『五時間目の数学、うつらうつらしてた。後ろのやつがちょっと笑ってた』
恥っず。真野、観察すんな。五時間目はいつも眠いんだよ。
オレ、出席番号一番だから一番前の席。背の高い真野からは丸見えじゃん。これから五時間目は気を引き締めないとダメだ。はあと息をついてまた読む。
『食ってる弁当がうまそうだった。俺はいつも購買。購買のオススメは焼きそばパンとチキンカレー』
……真野は親が忙しいのか。真野は毎日購買に行って、あの広いリビングで夕飯はメモを見ながらひとりで食べてるんだよな。学校では人に囲まれていても、家に帰ったら静かな部屋でリリットとふたりきり。それが普通の一日なんだ。
お弁当を作ってもらっているオレ、親に感謝しなきゃいけないんだな。お弁当の蓋を開けるたびに、誰かが朝起きて作ってくれたものだって、当たり前すぎて考えたこともなかった。
ちょっと反省した。いまさら言うのも変だけど、明日からはちゃんとお礼を言おう。そして、交換日記に真野の夕飯のことを書いてみよう。どんなものを食べてるか、聞いてみたい。
真野の日記の最後は「今日は早く寝ろ」で締められていて、よしとすぐに立ち上がった。台所で夕食の皿を洗っていた母親に弁当の礼を言い、風呂に入ると宣言する。
でも、翌日の宿題で手一杯で、返事は書けなかった。毎日書くって約束したわけじゃないし。そう思って登校した翌日、オレは激しく後悔した。
視線がすごい。窓際の席のほうからぐさぐさ刺さる。
ちらと真野を見れば、くるくる回っていたペン回しがぴたっと止まり、頬杖をついたイケメンの目がじろりとこちらを向く。やばい。
「真野、なんか機嫌悪くねえ?」
「俺、雨が近づくと頭痛がするんだよ。もうすぐ雨降るぜ」
「え、マジ? 傘持ってきてない」
嘘。絶対に嘘。すんごい拗ねてる。日記を返さなかっただけで拗ねる? 既読スルーとか許せないタイプか。真野、意外と構ってちゃんだな。王子で余裕たっぷりなのかと思いきや、そういうところがあるから憎めない。
すると、六時間目の途中で本当に雨が降ってきた。クラスメイトは「真野の頭痛、すげえ」とか、訳分かんない盛り上がり方をしてる。頭痛までモテる真野、やっぱりすごいのかもしれない。
「……てか、頭痛、雨にすんなよ……」
帰りの昇降口でため息をつくオレ。オレも傘持ってきてない。
日記を書かなかっただけで、真野が拗ねて雨が降る。フリ、フリ、オチ。三段落ち。なんの漫才だよ。
ボタボタと大粒の雨を降らす曇り空を見上げると、横に大きな影が立った。ちらとそちらを見れば、天気予報士真野が登場。
真野、今すぐ雨を止めろ。湿気がすごいんだよ。
「傘、持ってねえの?」
雨、サイアクー。
そんな声たちが校舎から出て行く中、真野が話しかけてきた。これは帰りがけに出会ったクラスメイトとしては普通の距離。
「……天気予報、晴れのち曇りだった」
すると真野は少し考えるように空を見て、鞄から折りたたみ傘を出した。「これ」とオレに差し出してくる。
「俺の頭痛、マジで当たるから」
そう言って折りたたみ傘を手に押しつけてきた。真野が傘立てを指さす。
「俺は普通の傘も持ってきてる。これ、貸す」
「え、いいの?」
拗ねて冷たくされるかと思ったら違った。さも当たり前かのように言う。
「雨に濡れると風邪引くだろ。貸す」
「え、あ、ありがとう」
押しつけられた傘を握ると、真野は軽く顎を引いた。だが、最後にじいっと鞄を見つめてくる。
「……宿題、大変だったから……」
日記の言葉は出さずに小さく言い訳する。真野は「それはそう」とだけ言って傘立てから紺色の傘を取った。
「また明日な」
それだけ言うと、真野は傘を広げて校舎を出た。真野の傘が、他の生徒の中に混ざって遠くへ流れていく。手に折りたたみ傘の重さを感じる。湿った風が鼻先を通り抜ける。少し涼しい。気持ちが軽くなる。
今日の日記、天気は晴れのち雨。でも、真野は雨が降っても優しかった。頭痛、早く治れ。


