放課後のシール交換は、委員長とふたりだけのひみつ


「うわ、なっつ! 俺、小学校の頃に理科見学で来た!」
 晴れの日曜日、真野を連れ出したのは水族館だった。この水族館限定のシールが売られているらしい。
 電車とバスを三本乗り継いだ。本日の移動、往復約二時間半。イベントとしては難易度が高め。でも、バスに乗って遠足って言葉も思い出フォルダに追加される。
 真野、薄いピンクのシャツに明るいグレーのマウンテンパーカー、黒のチノパン。ちゃんと春だった。なんなんだこいつ。メンズ雑誌の四月号かよ。
 一方のオレ、白のパーカーにジーンズ。ザ・普通の高校生。なんの飾り気もなくてちょっと恥ずかしい。
 でも、水族館前に着くとお互いテンションがあがった。
 開館前に着いたのに、もう列ができ始めている。天井がせり出た日陰に入ると、紫外線を感じなくなる。
「整理券をお配りしております。グッズコーナーで回収しますので、なくさないでください」
 列に並んだら、水族館の名前が印字された服のお兄さんに整理券を渡された。多分、シール狙いの人がいるんだろう。案の定真野も意味ありげにこちらを見る。ふたりでいそいそと紙をしまうと、開館時間の音楽とともに中に入った。
「わ、きれい」
 中に入ってまっさきに声が漏れた。薄暗い空間に立ち並ぶ円柱の水槽。いろんな形のクラゲがふわふわと流れている。
 歩く人たちが途端にしんとして、辺りは一気に海の中。水槽の光が床にゆらゆら揺れて、歩くたびに海の底を歩いているみたいだった。キュッというスニーカーが床をこする音も雑音になってしまう。
「水族館って、落ち着く」
 オレがこそっと言うと、真野が口端をあげた。
「分かる。波の音が聞こえてきそう」
 静かで薄暗いクラゲコーナー。まるで時間のスピードが遅くなったみたいに感じられる。
 ゆっくり歩いて、なぜ落ち着くのか気づいた。三年間閉じこもっていた自室の空気に似ているからだ。誰にも邪魔されない静寂。孤独に放り込まれたあの感覚は落ち着くのに、少しだけ息が詰まる
 でも、似てるのに、違う。前はひとりだった。今日は隣に真野がいる。それだけで全然違う。誰かがいるってだけで脳内は楽しい思い出に上書きされる。
 クラゲのコーナーを通り抜けて、珊瑚礁の水槽へ行く。水の反射の光がきらめいて、白い砂やカラフルな珊瑚が眩しい。真野が足を止めてガラスに手をついた。……手、大きい。自分のと比べそうになる。
「青と黄色の魚、いいな。シールになったら映えるんじゃね」
「クマノミもかわいい。珊瑚礁にいる魚はどれもいいよな」
「こういうのはぷっくりでもつやつやのクリア系素材がいいだろ」
「台紙は鮮やかな珊瑚の背景。海の中を泳いでる感じで」
「……俺ら、シール会社に意見書を出したほうがいいんじゃね?」
「なんの担当?」
「ぷっくりシール開発部門海洋生物珊瑚礁企画室」
「そんなコアな場所、絶対にない!」
「俺がそこにいたらチンアナゴを推す」
 別の水槽に行くと、白い砂の間からにょきっと出たチンアナゴが縦に揺れていた。ぶくぶくと泡の音が歩く人の靴音に混ざる。
「オレ、黄色と白のしましまのやつがチンアナゴだと思ってた。違う。ニシキアナゴだって」
「こういうのはシールになると、並んだ一番目と二番目と四番目がニシキアナゴで、三番目が白黒のチンアナゴなんだよ」
「どういう理屈?」
「ガチャの確率と同じ」
「チンアナゴ、SSRなの?」
「SSR」
「だったらニシキアナゴに謝れ」
 オレの言葉に真野が小さく笑う。
 水槽ばかり見ながら歩いていたら、人とぶつかりそうになった。その手前で真野が肩をぐいと引っ張ってよけてくれる。人をかき分けるときは前に立って歩いてくれる。迷子防止みたいで、ちょっと悔しい。でも、真野の大きい背中を追いかけていると、胸の奥がずっとあったかい。
 大水槽の下のトンネルは今日のハイライト。お互いに「すご」と上を見た。
 吸い込まれるように気泡が立ちのぼる中で、エイが横切っていく。天井の光を受けて銀色に群れをなす魚や、我が物顔で突き進むサメがいた。
 言葉が出てこなくなった。
 みんな好きなように生きている。群れの中にいる魚も、一匹で進むサメも。
 なんか、それでいいんだな、と思った。本当かどうか分からない。でも真野が隣にいるとそう思える。
 今この瞬間をスクリーンショットで撮れたらいいのに。真野も一緒に閉じ込めれば、今日が一枚の思い出になる。
「……なんか、いい」
 呟くと、真野が「うん」とズボンのポケットに手を突っ込んだ。頬に青い光が落ちる。
「すごくいいな」
 真野が笑って言う。
「こういうとこにいると、なんも考えなくていい」
 そろっと真野の顔を見た。
 真野、一軍男子の割にあんまり陽キャっぽくない。たまに寂しそうなことを言う。聞こうとしたけど、踏み込めない。真野が底にいるトラフザメを指さして「でけえ」と笑った。
 ペンギンの群れで一羽だけ寝てるのがいて、「日向に似てる」とか訳分かんないことを言う。イルカショーではわざわざ水に濡れる席に座りたがる。
「こういうときは事前準備必須」
 真野がバッグから透明なレインコートを出してきた。コンビニや百均で見かけるやつだ。
「タオルも持ってきたし。海を感じるにはにおいも水飛沫も吸い込まねえと」
 わざわざオレの分も用意してくれていた。気配りがすごい。絶対真似できない。一軍男子、こういうところも一軍男子。
 ドンドンと腹に響く音楽が鳴りだして、光とイルカがプールを駆け抜ける。案の定海水を浴びせられたけれど、真野の言ったことは本当だった。潮のにおいと冷たい水飛沫。水族館に来たって体で感じる。興奮で心がサイダーみたいにぱちぱち弾けて体が熱くなる。
「うわっ」
「思いっきり水被った!」
 イルカのひれて飛んできた海水を浴びても笑い声が出る。夏にはちょっと早いけど、これも夏の先取りをしているみたいで気持ちいい。真野も笑ってる。
「水族館最高!」
 オレの言葉に真野が「だよな!」と明るい声をあげた。
 レインコートを脱いで、いよいよお目当てのお土産コーナーへ。
「うお」
「すご」
 真野と声が重なった。十種類くらいシールが並んでいる。在庫も豊富だ。ゆっくり選べる。
「やば、オレどうしよう。今日は一枚って決めてたのに」
「たまには大胆に小遣いを使ってもいいだろ」
 たしかに、中学のときの使ってないお小遣い、めちゃめちゃ余っている。
「えっと……どれがいいかな。クラゲ、かわいい。つやつやしてる」
「俺はそれがマストバイ」
「チンアナゴは……あるじゃん!」
「マジかよ。俺たちもう意見書送れなくね?」
「真剣に検討してたの!?」
 手に取って眺め、どれにしようかと見比べる。イルカ、絶対にほしい。でもペンギンもかわいい。今日の光景と真野の言葉を思い出すならどれがいいだろう。
「だいじょーぶ!」
 悩みに悩んでいたら、真野がぱんっと背中を叩いてきた。
「あとで交換すればいいし! ふたりで二種類買えば四種類」
 真野、ちょっと力強い。自分の体のでかさに気づいてほしい。
 真野が先に選んだ。クラゲとチンアナゴがいる珊瑚礁のやつ。オレは選びきれなくて、イルカもペンギンも大水槽のエイやサメがいるのもカゴに入れた。
 外に出ると眩しかった。
 真野が目を細めた。逆光で、輪郭だけになる。なんか、きれいだな、と思ってしまった。男がきれいっていうのも変な気がするけど、イケメンにはなんでも似合う。
 昼食がてら、ファミレスに行く。真野はハンバーグ大盛り、オレはからあげ定食。
 でも、ふたりとも早くシールを貼りたくてばくばく食べた。さっさとテーブルを片づけて、真野がていねいにお手拭きでテーブルを拭く。
「では、いざ」
「開封の儀! 手洗った!」
「準備万端!」
 ぺりっ。軽い音にビニール袋を開ける。取り出して五種類を並べてみると、もうそこは水族館だった。すごい。今日の出来事がシールになっている。
「日向、チンアナゴ、やる」
「え? チンアナゴは推しだろ? SSRなんじゃないの?」
「SSR。だからもらってほしい」
 真野が真面目な顔で言った。
「推しだから、日向と交換したい。今日のこと、思い出せるから」
 一瞬、返事ができなかった。
 推しだから、あげたい。自分が一番好きなものを、大事にしてほしい相手に渡す。そういう発想が真野には自然にできるんだ。オレだったら逆だ。大事なものは手放したくなくて、ぎゅっと握りしめてしまう。集めていたシールを引き出しの奥にしまって、誰にも見せなかったように。
 なのに真野は、好きだから渡す、と言う。その言葉がしばらく頭の中をぐるぐるした。真野、かっこよすぎる。そんなの、断れない。
「……ありがとう」
 声が少し小さくなった。嬉しいのに、なんで照れてるんだろう。チンアナゴを受け取った手がちょっとだけ熱い。
 クラゲやクマノミももらって、ペンギンやイルカやエイをあげた。向かい合って新しいページを埋めていく。
「すごい。水族館をシール帳に建てた感じ」
 オレの言葉に真野が口端をあげる。
「分かる。シールって思い出のトリガーになるよな」
「やっぱりシールって特別。買ったときの感情も思い出せる」
「シール交換できるっていいよな」
 真野のシール帳を見る。もうパンパンだ。でも、それは持ち運び用だから、家にはもっとコレクションがあるに違いない。
「……オレも持ち運び用と保存用のシール帳がほしいな」
 呟いてから、なんか恥ずかしくなった。つい言い訳してしまう。
「ほ、ほら、真野からもらった『感謝』とかは誰とも交換したくないし。誰とも交換なんてしないけど、家に置いておきたいっていうか」
「だよな!」
 真野が目をきらきらさせてぐいと身を乗り出してきた。
「気持ち的に分けたいってあるよな。シール帳、買いに行こうぜ! これは決定事項!」
 こういうとき、真野のゴーイングマイウェイはいい。ぐいぐい引っ張ってってくれる。オレがためらうこともやろうぜって簡単に言う。真野のそういうところが羨ましい。でも、真野と一緒にいると、オレにもできる気がしてくる。どうしてだろう。真野といると、オレがオレじゃないみたいに軽くなる。
 真野がスマホをポチポチとタップした。
「なあ、今度別の水族館にも行こうぜ。限定シールを売ってるとこって結構あるみてえ」
「俺調べ?」
「公式サイト調べ」
 それを聞いてオレも検索した。
「あっ、博物館とかにもあるらしい。鉱石とか、化石とか」
「うお、大人っぽい。そういうタイプ、レアじゃね?」
「いいな……鉱石のグラデーション、実物を見てみたい」
「よし、それもデート先の候補に入れようぜ」
 デート。その言葉にぱっと顔をあげると、真野がちょっと照れたように顔を赤くした。
「ふたりで出かけるってデートだろ」
 真野、やっぱりちょっとおかしい。そこで照れたら本気みたいだろ。一瞬返事が遅れたけど、一応ツッコんだ。
「オレで練習ってこと? 将来の彼女がシールに理解があるといいね」
 さすが一軍男子、抜かりない。まだ入学してひと月もたってないのに彼女探しか。
「練習って、俺が失礼なやつみたいじゃねえか」
「そうは言ってないけど」
 言ってから、なんか変な感じがした。頑張れよ、って言おうとしたけど、口から出てこなかった。なんでだろう。別にオレには関係ないのに。
「最近はなかなか普通の店にシール置いてないよな」
 オレが話題を変えると真野も「そうなんだよなあ」と頭を掻いた。
「こういうところに出かけて限定をゲットするのもいいけど、ふらっと立ち寄った店でいいのを見つけるっていうのもいいんだよ」
「二冊目を買うのに、シール帳がスカスカになるのはちょっとやだ」
「分かる。パンパンくらいがテンションあがるんだよ」
 すると真野がまた照れたような顔をした。
「実は……最近はシールを自分で作ってんだ。あんまり出会わないし、出会っても好きなのとは限らねえし」
「えっ」
「手作りだから、ぷっくりシールの偽物って言われたらそれまでだけど」
「ええっ」
 オレは興奮して思わず席を立ち上がった。
「すごいじゃん! 手作りなんてできるんだ!?」
「動画を探してみろよ。いろいろ試した。あんまりかなって思ったけど、できあがると意外とよかったり、いいかなって思ったけど、できはよくなかったり、いろいろ」
 真野、すごい。さすが一軍男子、手先も器用。
 オレが座ると真野はちょっとだけそわそわした。喉仏が上下する。
「よかったら……今度一緒に作らねえ? 家に材料もあるし。日向がそういうのが好きか分かんねえけど」
「やりたい! 自分の好みが手に入るなんて夢のまた夢じゃん!」
「じゃあ次の土曜は? 五月に入ると定期試験って空気になっちゃうしさ」
 定期試験。そんなものすっかり忘れてた。オレ、一度も教室で受けたことがない。
「定期試験って難しい? あ、いや、高校って中学と違う?」
「うちの生徒のレベルに合わせてくるだろ? 極端に簡単な問題が出るとは思えねえ」
「ああ、勉強しないと。オレ、どうも英語が苦手で」
「英語は単語だろ。単語さえ覚えれば結構いける」
 真野、それは中学でしっかり勉強してきた人のセリフだ。高校も推薦じゃなくて一般受験のオレは、中三になってから必死だっただけ。今だって授業についていくのに必死。普通に勉強ができない。小テストもいっつも一桁しか取れないし。
 マンガではこういうときに前髪をあげるとイケメンだったり、隠れた別の才能があったりするけど、どっちもオレには縁がない。童顔だし、背も小さいし、勉強も運動も中の下。いや、下かも。
 そのあと、最寄り駅に戻るとふたりでシール帳を買いに行った。チャックの部分がブルーに縁取りされたものを買った。今日は散財したけど、後悔はゼロ。
 家に帰るとずっとシール帳を眺めていた。真野のくれたチンアナゴが縦に泳いでいる。
――真野の家に行くのが楽しみ。
 オレはスケジュールアプリに「真野家訪問」と書き込んだ。