放課後のシール交換は、委員長とふたりだけのひみつ

 すると今度は真野が深呼吸した。そしてぽつりと言う。
「知ってた」
「え?」
「日向が不登校だったこと。日向は知らないんだろうけど、俺、同じ中学」
「えっ?」
 思わず顔をあげる。真野の横顔は遠くを見ていて、昔を思い出すように目を細めた。
「日向がシールを落としたとき、たまたま日向のクラスにいた。シールが一枚俺の前に滑ってきて、猫のシールが目に飛び込んできた。ラテが四日前に死んだばっかりで、茶トラに目が行った。あ、ラテがいるって」
 猫のシール。真野と初めて交換したシール。真野はまっさきにあの猫のシールをほしがった。あのとき「全種類あげる」って言ったら真野が喜んでたのは、そういうことだったのか。
「俺がシールを思わず拾ったら、日向はそれをバッて奪った。俺にとられると思ったんだと思う。悪いことしたなって思ったけど、日向はすぐに『拾ってくれてありがと』って言った。あの状況でも、人にお礼を言える子なんだなって思った」
 目が見開いた。全然覚えてない。あのときは必死で、誰となにをしゃべったかなんて記憶にない。胸がどくどくと鳴る。
「翌日、どこで買ったか聞こうと思って学校に行ったら、日向はいなかった」
 胸が痛くなった。その日のオレは布団の中にいた。世界が終わったみたいな気持ちで、シールを引き出しにしまっていた。真野が学校に来ていた日に、オレはいなかった。
「俺はシールを探して回った。春だから桜のシールが多くて、シールの棚で桜が満開みたいだった。きれいだなと思って、一枚買った」
 真野がふうと息をつく。
「それがすごくよかった。シールにはまった。あの猫がほしくていろんなところに探しに行ったんだぜ。でも、違うものしか見つけられなくて。あの猫をどこで手に入れたか、どうしても日向に聞きたかった。一年待った。でも日向は来なかった」
 真野の言葉にどくんと胸が鳴る。あの中学で、オレを待ってくれていた人がいた。
「中二でクラスが一緒になった。でも、一度も来なかった」
「……」
「中三も同じだった。机だけあって、誰もいない」
 オレの席。一度も、オレが座らなかった席。真野はその席を見ながら、シールを増やしていたのか。
「俺のシール帳にシールは増えてったけど、あのときの猫はどこを探してもなかった。中学を卒業した。もう日向には会えないんだなって思った。……ラテにも」
 真野がこちらを見た。目が合って心臓が音を立てる。真野がちょっと笑う。
「高校で会えたとき、信じられなかった。ああ、日向だって。どうやって話しかけよう、どうやったら名前を覚えてもらえるだろう、クラス委員長になればいいって立候補した。翌日文具コーナーで日向の背中を見つけた。話しかけるのにすげえどきどきした。名前知らないって言われて、さすがにちょっとへこんだ」
 真野が少し笑った。でもその笑い方は、今までオレが見たどれとも違う、少しだけ昔を思い出しているみたいな顔だった。
 そうだ。オレ、あのとき名前を覚えていなかった。真野は三年間待ってくれていたのに、オレは名前すら知らなかった。
 真野が息をつく。
「シールの話をしたら、今度は覚えてもらえるかもって思って。だからシールの話ばっかりしてた」
 ああ、と思う。
 シール帳を買えって言われた日。シール交換しようって言われた日。シールを作ろうって言われた日。あれは全部、真野のほうからだった。
「交換日記も、話すきっかけがほしかったから嬉しかった。ノートなら誰にも見られないし、日向も話しやすいかと思って。日向のことが知りたかったっていうのもある」
 胸の奥がじんわり熱くなる。
「秘密基地も誰も来ないし、ふたりでゆっくり話せるだろ。家も同じ。本当に日向と一緒にシールを作りたいって思ったのもあるけど」
 全部、理由があったんだ。シールも。交換日記も。屋上前も。全部、真野には特別なことで、きっと告白だって絶対に言いたいことだった。
 バラバラだった記録が、頭の中で一本の線につながっていく。
 真野がそこで声を明るくさせた。
「日向からもらった猫のシール、あれは特別。三年間ずっと探してたから。あれを交換したときすっげえ嬉しかった。感謝のシールと交換したけど、本当に感謝の気持ちでいっぱいだった。ラテが死んでからずっと悲しかったけど、ずっと探してたのを日向にもらえて元気が出た。日向といるといつも気分が明るくなる」
 真野の言葉が胸に染みこんできて、体がじわじわと熱くなってくる。初めてのシール交換はホントに特別だったけど、真野にとっても特別だったんだ。あのときから、いや中学のときからずっと真野にとってシールもオレも特別だった。
「……なんで」
 気づいたら、そう言っていた。
「なんで、先に言わなかったの。同じ中学だぞって。猫のシールどこで売ってたんだって」
 真野が少し肩をすくめた。
「三年越しの片思いを舐めんなよ。重すぎて日向は逃げる」
「……そんなの分かんないじゃん」
「逃げる」
 即答されて、なにも言い返せなくなる。たしかに、この数日逃げていた。
「だから、シールから始めた方が確実だと思った」
 真野が少しだけ笑う。
「俺調べ」
 なんだそれ。そう思ったのに、笑えなかった。胸がいっぱいで、喉の奥で詰まる。言葉が出てこない。
「三年待って、やっと会えて、同じクラスになって、話せるようになって、シール交換して、日記書いて。やっとここまで来たんだぞ」
 やっとここまで来たんだぞ。
 声のトーンがいつもと同じなのに、言葉の重さが全然違った。真野が照れたように耳を赤くして笑う。
 オレは膝の上でこぶしを握った。三年間。真野はずっとオレを探していた。猫のシールを探していた。猫のシールはオレが持ってたのに、オレは引き出しの奥にしまっていた。
 シール集めをやめていた期間、真野がシールを集めてた。真野がオレをきっかけにシールを集め始めて、オレは真野がきっかけになってシール集めを再開した。多分、こうなる運命だった。シールでつながった縁だから、ここまで仲良くなれた。真野が、それくらいオレだけを見て必死になってくれていた。
「だから、もう一回言う」
 真野がまっすぐこっちを見る。
「日向が好き」
 心臓が大きく跳ねる。
「友達として一番じゃなくて」
 真野が椅子を引いて近づいてくる。
「俺の一番になってほしい」
 好き。一番。上手く処理できなくて、頭がぐるぐるする。
 また放課後の音がする。誰かが帰る笑い声。階段を下りていく音。それなのに、保健室はすごく静かでふたりきり。心臓の音が大きくて真野に聞かれてしまいそうだ。
 真野はイケメンで、勉強ができて、人に囲まれていて、人を引っ張っていくタイプ。でもふたりになると構ってちゃんで、ちょっとわがままに拗ねたりする。それは真野が本当は寂しがり屋で孤独だからだと思っていた。多分、それもある。でも、一番はオレに振り返ってほしかったから。
 顔が赤くなるのが自分でも分かる。三年も前からオレのことを待ってくれていた人。オレはひとりっきりじゃなかった。ずっとオレのことを気にかけてくれている人がいた。三年間、オレはその存在を知らなかったけど、オレには友達がいた。
 その友達が、もっと仲良くなろうと言っている。お互いに一番の存在になろうと言っている。オレにとってはとっくに一番の存在なのに、真野は改めてそう約束しようと言っている。
 高校では逃げずに通おうと思った。だから、ここでも逃げるわけにはいかない。
「……オレ」
 声が上手く出ない。
「オレ、なんて答えたらいいか分かんない」
 ごくりと喉が鳴る。
「どう返事しても、今までのことが全部変わる気がする。シール交換も、交換日記も、秘密基地に行くのも、全部できなくなる気がして」
 ズボンをぎゅっと握る。
「やっと普通に学校に通えるようになって、真野とも話せるようになって、友達もできて、やっとここまで来たのに、ここで失敗したら全部なくなる気がした」
 失敗しない未来って、なに? でも、その考え方は多分違う。失敗しない未来を探すんじゃなくて、失敗しても努力するんだ。それも、多分ひとりでやるんじゃなくて、真野とやっていけばいい。
「なくさなきゃ、いいだろ」
 真野が鞄からシール帳を出した。
「シール交換も続ける。交換日記も続ける。屋上前にも行く。シール巡りもするし、ただ遊びに行きたいとも思う。学校に来て普通に話そうぜ」
 真野がちらっと笑った。
「俺にとってはずっと同じ。友達が先にあったんじゃなくて、最初から好きだった。好きで友達をやってた。それと同じだから。全部変わるなんてこと、ねえと思う」
 変わるのが怖かった。今の関係が壊れるのが怖かった。
 でも、考えてみたら、もうとっくに変わっていた。シールを交換するようになって、交換日記を書くようになって、屋上前に来るようになって、水族館に行って、専用ページを作って。
 真野といることでいろんなことが楽しくなる。思い出はいくらでも上書きできる。失敗しても真野とやり直せばいい。
 オレたちは、少しずつ、ずっと変わってきた。それでも、壊れなかった。むしろ、前より近くなった。だったら、今回の変化も、きっと同じだ。
 変わることが怖いんじゃない。失うのが怖いだけだ。真野を失うほうが、ずっと怖い。
「……じゃあ、いいのかな」
 喉がごくりと鳴る。息が上手く吸えているのか分からない。声が震える。でも、多分オレの答えは間違ってない。
「オレが言いたい返事をしてもいいのかな」
「いいんじゃね? 好きなものを好きって言うの、普通じゃねえの」
 思わず吹き出した。なにそれ。オレが真野を好きなの前提じゃん。でも、こういうゴーイングマイウェイは嫌いじゃない。だって本当のことだから。
 真野がオレを見て笑う。放課後は誰もが好きなことをして楽しんでいる。オレもそうしたい。だからオレは今真野を選ぶ。
「……オレも真野が好き。真野が一番。真野とこれからもシール交換して、交換日記して、テス勉して、しゃべって遊びたい」
「……やべ、七月の試験、もうすぐだ」
「勉強の仕方、教えてよ。元不登校児、勉強のやり方が分かんないんだよ」
「またファミレスに行ってやろうぜ。熱々のポテトを食わねえと」
「真野、すぐ食べ物に偏る」
「勉強中に適度なカロリーは必要。俺調べ」
 思わず顔を合わせてははっと笑う。でも、真野の顔も赤いし、きっとオレの顔も赤い。でも、夕日色に染まっているこの空間はふたりだけのもの。
 そのとき、ガラガラと保健室の扉が開く音がした。ふたりでびくっとなる。
「一ノ瀬君、放課後になったけど、具合はどう? あら、真野君も来てたのね」
「あ、はい。鞄を届けに」
 真野が今にも帰りそうになって、慌てて布団を剥ぐ。
「すみません、ご迷惑をおかけしました。もう大丈夫です」
「ひとりで帰れる?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます。真野君が、途中まで一緒なんで」
 真野がオレの言葉にぴくっと肩を揺らした。ベッドから下りて上履きを履く。爪先をトントンと整えて、自分の鞄を持つ。
「先生、ありがとうございました」
「今日はよく寝てね。気をつけて帰ってね」
「はい、ありがとうございます。真野、帰ろ」
 真野の背中を押して保健室を出る。ふたりきりの空気が消えて放課後の時間が戻ってきた。真野が肩をすくめる。
「……なんか、腹減った」
「ほら、すぐ食べ物に偏る」
 でも、今からが最初のデートだ。オレの脳内に新たなフォルダが追加される。
「……壱弥、ファミレス行かない?」
 真野が弾けるようにこちらをぽかんとしたように見下ろす。その顔を見て急に恥ずかしくなった。
「あ、えっと、やっぱり今の取り消し! 恥っず」
 オレが先にすたすたと歩きだすと、真野が慌てたように追いかけてくる。
「待って! もう一回言って!」
「やだ」
「一回! 一回でいいから!」
「やだ!」
 思わず駆け出すと、すぐに真野が「待てって!」とこちらの腕を掴んだ。でも、耳たぶを赤くして「行こうぜ」と腕を引っ張る。
「行くだろ、ファミレスデート」
 やっぱりこういう一致、ずるい。気持ちが通じたって思うと嬉しくなる。
 いや、もうとっくに通じてる。真野が好き。真野もオレが好き。ふたりで一緒にどこかに出かけたい。
 オレは腕を振り払った。自分から真野の手を取る。真野が歯を見せて笑い、手を握り返してきた。その頬が夕日の差す廊下で明るく光っている。真野がいつもよりきらきらして見える。幸せそうで、心から喜びが込み上げてくる。もうオレも笑うしかない。
「日向」
 リノリウムの廊下の足元で影が追いかけっこする。
「大好き」
「オレも!」
 だんだん足が速くなる。オレたちの笑い声が梅雨の放課後に響いていた。

【了】