家に帰ってから自室のベッドに倒れ込んだ。半袖から出た腕に当たるシーツがひんやりしている。目の前のしわが貝殻の模様に似ている。水族館の貝殻みたいだ。
――日向が好きだから一番でいたい。
真野の言葉を思い出し、枕に向かって「あー」と言ってみる。でも、空気の音がしただけで声にならなかった。
好きって、そういう意味で? そんなこと、あり得るのか? 真野みたいなたくさん人に囲まれてるやつが、オレなんかを? なんで? どうして?
いくら考えても分からない。同じ疑問が頭をぐるぐるするだけで答えなんて出ない。
ため息をついて起き上がる。床に転がった鞄を拾い、交換日記をまた広げる。書いてあるのは「もっと話したい」の一言。
もっと話したい。
やっぱり涙がこぼれた。オレだって真野と話したい。真野がいなかったら学校は楽しくないし、ひとりでいた頃と同じ。
でも、もうこの交換日記になにを書いたらいいか分からない。
オレも好きって書いたらどうなる? ごめんって書いたらどうなる? どっちを書いても、今と同じじゃいられない。全部、変わってしまう気がする。
変わるのが怖い。中学のときみたいに、いきなり全部なくなったらどうしよう。大好きだったシールを引き出しにしまったように、好きな真野と上手くいかなくなったらどうしよう。
――答え、考えといて。
手が震える。
ペンケースを出す。でも、どうしてもシャーペンを持つことができなかった。
でも、夕飯を食べて寝れば朝が来て、部屋着を脱げば制服を着る。学校に行くのは怖かったけど、中学と同じにはなりたくない。梅雨の晴れ間、必死に息をして学校に行く。
「一ノ瀬、はよ」
「おはよ」
教室の扉を開ければ昨日と同じ風景。まだ真野は来てないけど、挨拶が当たり前になったクラスメイトがちゃんと話しかけてくれる。
真野はいつもより遅れてやってきた。真野の「はよ」の声が聞こえて、反射的に前を向いた。真野のほうを見られない。結局一日中上の空。お弁当の味も分からない。
プリントを後ろに渡そうとすると真野が視界に入る。ぱちっ。目が合うけど、そのたびに逸らしてしまう。真野は話しかけてこない。屋上前にも行っていない。
家で日記を開いたまま何日もたった。先にシールを選ぼうとしたけど、シール帳を見ると真野と一緒に買いに行ったなとかいろいろ思い出してしまう。真野との関係が変化したら、この思い出だって変わってしまう。せっかくフォルダに溜めてきた思い出を削除するのは嫌だ。
交換日記を返さないまま、一週間が過ぎた。
その日の五時間目は体育だった。青空の下で砂の校庭に立つ。夏前のサッカーは肌が焼けてちょっと痛い。でも、頭がぼんやりとしていてそんなことどうでもよかった。真野との件があってから、オレ、完全に寝不足。
「ボール、ボール!」
「寄こせ!」
砂のグラウンドで砂埃が立ち上がる。別チームが戦っているのをオレは校舎に寄りかかって見ていた。なんか、目の前の現実が現実として感じられない。まるで映画でも見てる感じ。視界の端がぼやけてる。
「真野! そっち行く!」
「任せろ!」
ポーンと山を描いたボールが真野の足元へ行く。真野がすぐに蹴って駆け出して、白いゴールにボールが吸い込まれる。ピピー。体育教師のホイッスルが鳴る。よっしゃあと男子たちの声が弾けて、夏の校庭が元気になる。
なんか、真野ってやっぱりすごい。真野は太陽で、オレはその輪に入れない日陰。それなのになんでオレを好きなんて言うんだろ。ああ、またこの疑問の繰り返し。一週間考えたけどホントに分かんない。
「AチームとBチーム、交代。CチームとDチーム、ゼッケンを受け取ってコートに入れ」
ゼッケン。蛍光オレンジ。目が痛い。見るだけで疲れる。
「一ノ瀬、はい」
クラスメイトに渡されたゼッケンをつい取り落とす。そこでがっと肩を掴まれた。
「熱あるだろ」
見上げれば真野だった。こちらがどきっとしたのも気にせず真野がこちらの額に手を当ててくる。
「熱がある。保健室に行くぞ」
「……え、別に熱ない」
「ある。朝から様子がおかしかった」
真野はそう断言すると「先生ー!」と教師に向かって大声を出した。
「一ノ瀬の具合が悪いので保健室に連れて行きます!」
オレが抗議する間もなく真野が肩をぐいぐいと後ろから押す。
「無理してんじゃねえよ」
「え、無理は、してない」
「してる! 頭ぼーっとしてるだろ」
「え、だとしても、こういうのは保健委員が」
「委員長特権! ぐだぐだ言わずに保健室!」
あれよあれよという間にオレは保健室に連れて行かれて、保健の先生に体温計を渡された。ちょっとだけ鼻につくアルコールのにおい。
「あら、微熱ね」
先生のボールペンが専用用紙に37.4と書き入れる。
「ちょっと寝てらっしゃい。窓際のベッド、空いてるから」
日差しの当たる明るいベッド。オレが靴と靴下を脱ぐと、先生がシャッとカーテンを閉めた。
「真野君、ありがとね」
「いえ、一ノ瀬をよろしくお願いします」
そんな会話が遠くに聞こえ、オレは横になった。シーツが陽だまりのにおいでいっぱいで、体がゆるゆるとほぐれていく。
白くピンと張られたシーツに体が沈み、枕に頭をのせると家の枕より少し固かった。目を瞑ると交換日記の「話したい」の字が蘇る。
今しゃべっちゃったけど。こういうのは「話す」には入らないんだろうな。真野、なんで具合悪いって分かったんだろ。熱があるなんて気づかなかった。
ぐちゃぐちゃ考えていたが、だんだん目蓋が重くなって頭が白く遠くなっていく。気づいたら寝ていた。
キーンコーンカーンコーン。遠くでチャイムの音がして目が覚める。今、何時だろ。そう思っていたら廊下がざわざわし始めた。バイバーイ。そんな声も聞こえる。どうやら六時間目が終わったらしい。体が軽くなっている。
マジか。オレ、二時間がっつり寝ちゃったじゃん。慌てて起きようとしたが、再び体の力を抜いてごろんと横を向く。今教室に帰ったら掃除の時間だ。あれこれ心配されるのもめんどくさい。
ぼんやりとぐるりと囲まれたカーテンの波を見る。すると保健室の扉が開く音がして「失礼します」と声が聞こえた。その足音がまっすぐこちらに来て、「よ」とカーテンが少し開く。真野だった。ポケットに手を突っ込んでちらと笑う。
「具合どう? 鞄、持ってきたけど。着替えは鞄の中に入ってる」
真野、びっくりするほど通常運転。なんだなんだこれ。なんでいつも通りなんだ。いや、状況も掴めないほど頭がぼーっとしてるのかもしれない。
真野がふたつ肩にかけていた鞄をひとつ横の椅子の上に置く。オレの鞄。その中には交換日記が入っている。真野もそれを見たはずだ。
「日向が日向にいる」
言われてカーテンの向こうの窓を見る。
そう言えば、こいつはオレのことを名前で呼んでるな。好きな人を名前で呼ぶって、多分真野の中ではやりたかったことのひとつなんだろう。なんで、そこまでオレなんかに執着するんだろう。シールが好きなだけの名前負けな陰キャ男子なのに。
「はい、体温計。熱下がった?」
「……先生は?」
「いねえみてえ。職員室にでも行ってるんじゃね?」
体温計を渡されるままに熱を測る。ピピッ。電子体温計が数字を吐き出した。36.2。
「熱、下がった」
「よかったな」
会話がそこで止まった。気まずくて目を逸らしたが、真野はそこにあった丸椅子を持ってきてベッドの側に座った。狭いカーテンの内側でふたりきり。
「あの……真野は、帰って大丈夫なんだけど」
「日向が心配だから一緒に帰る」
真野がすぐさま言った。だがそこでふっと笑って付け加える。
「っていうのは建前で、一緒にいたいからここにいる」
「……帰れって言ったら?」
「帰らないって駄々をこねる」
その言葉を聞いたらなんだか急に体の力が抜けた。真野のゴーイングマイウェイには勝てない。
「真野ってたまにかっこ悪い」
「特にかっこよくない。日向の前では余裕なくて全然ダメ」
「……なんでオレ」
「好きだから」
「……一週間考えたけど、やっぱり理由が分からない」
「理由、必要?」
改めて聞かれてちょっと考える。でも、気になる。
いつから、好きだったの? なんで、好きになったの? どうして、オレなの? 考えても考えても分からない。
「少なくともオレには」
すると真野は真剣な顔になってちょっと首を傾げた。それからこっちを見る。
「待つわ」
「え?」
「交換日記の返事。日向が書きたくなったときでいいから」
「理由、言わないつもり?」
「必要ないと思うから」
そう言うと真野は鞄を肩にかけて立ち上がった。
「もうすぐ先生も戻ってくるかも。日向もお大事に」
真野がカーテンを開けて今にでも帰りそうになったので急いで手を伸ばした。
「待って」
真野の袖を掴む。それを引っ張ると真野が弾けたようにこちらを見た。
「交換日記、なんて返せばいいのか分かんないんだ」
すると真野はまた真剣な顔になった。オレが服を引っ張るままに再び椅子に腰かける。だが、今度は少しそわそわしたように何度も座り直した。
「……交換日記なんて、書きたいこと書けばいいだろ」
「……書きたいことって、なに」
「それは日向次第」
「それが、分かんない」
「普通返事を書くだろ」
「……返事とか、分かんない。書いたら、今までと変わる気がして」
話し始めたら、自分の声が思ったよりも小さかった。カーテンの中でしか聞こえないような小さな声。
自分でもなんと言ったらいいか分からず、とりあえず思ったままに話す。
「交換日記も、シール交換も、秘密基地に行くのも。せっかく友達になったのに、全部壊れちゃうかもって。そう思うと書けない」
そこまで言ったら、もう隠していても仕方ない気がした。ごくりと息を呑む。
真野のページに書かれた言葉は「もっと話したい」。話したいことを話せばいい。そう言われてるようで、「オレさ」と口火を切った。
「オレ、中学のとき不登校だったんだよ。中一の四月、学校に行ったのは二週間くらいかな。コレクションしてたシールをうっかり床にばらまいて、そのとき言われた言葉が耳に焼きついて離れなくて。友達がいなかったのはそれが原因。真野が初めてできた友達だった」
秘密を口にしてしまうと、急に肩が軽くなった。座った掛け布団の上から太ももの上に手を置く。耳にはまだ残っている言葉。でも、真野がいると少しだけ遠ざかる。
「……真野は人の目を気にしすぎって言うけど、人の目って意外と怖いんだぞ」


