放課後、どんよりした雲の間から少しだけ日が差した。オレはジュースをふたつ買って階段をのぼった。真野のために作ったシールを何度も上からさすり、喜んでくれるかなとそわそわする足を抱えて待つ。
五分ほどしたところでタンタンと階段をのぼってくる足音がした。その足取りが重い。
「よ」
オレが見上げると、今日一日笑顔を見せなかった真野が「よ」と少し笑みを浮かべた。真野、やっぱりイケメン。イケメンは笑顔の破壊力が半端ない。顔が熱くなる。やっぱり真野が好き。ふたりきりになると途端に意識してしまう。
真野がいつもどおり隣に座ると、なぜか周りを見回した。
「……なんか、久しぶりな気がする」
「この間来たときは頭痛がしてたもんな。はい、ジュース」
紙パックのジュースを渡すと、真野は一瞬体を止めた。
「真野、つらそうだから買いに行くのもしんどいかなって」
「……うん。買ってくんの忘れてた。ありがと」
「ちょうどよかった。乾杯しよ」
ぽん。紙パックが乾いた音を立てて、ちゅーっとジュースを吸う。真野も少し遅れてジュースを飲んだ。横目でちらりと見る。真野は少しぼんやりしているように見えた。急いで肉球のシールを出す。
「真野、よかったらこれ」
オレの差し出したシールを真野が見た。
「昨日作ったんだ。前回渡したのとは違う色。動物の肉球っていいよな」
すると真野がゆっくりと笑みを浮かべ、「マジで?」と少し声を高くした。
「作ってくれたんだ?」
「昨日な。久しぶりで結構失敗したけど、これは納得できたもの」
「ちょっとくらい失敗したやつがあってもいいのに」
真野がちらりと歯を見せて笑う。
「日向が作ってくれたってだけで特別」
どきんと胸が跳ねた。嬉しい。好きって言えなくても、真野がそう思ってくれてるなら心があったかくなる。
「この肉球、今シール帳に貼ってもいい?」
「もちろん!」
オレが答えると真野が嬉しそうにシール帳を出した。真野のノートは七冊目になった。まだパンパンって言うには厚みが足りないけど、これからたくさん入る宝石箱っていうのも夢があっていい。
自分も鞄からシール帳を出す。オレは「ほら」と真野にページを見せた。
「ちゃんと真野専用ページは作ってるよ」
真野専用、だって。恥ずかしい。そう思いながら紫陽花のページを見せると、真野の手がぴたっと止まった。
「……紫陽花、どうした?」
「どうしたって、なにが?」
「ピンクの紫陽花がなくなってる」
「ああ、ほしいって言われたから交換した。でも、家には保存用にとってあるし」
途端に真野がぱんっと音を立ててシール帳を閉じた。その音が大きくてびくっとする。真野の目がじろりとこちらを見下ろしてきた。その圧に背筋がぴんと伸びる。
……真野が、怒った? なんで?
「日向……シールは思い出のトリガーになるって言ったのに」
語気が強くて驚いて真野を見る。真野が顔を歪めた。
「なんであげたんだよ?」
「え……同じ柄が何枚かあるから……あげたっていいだろ? シールがここから消えても思い出はなくならないし、家にはちゃんとあるし」
「俺は言った。分け合ってるっていうのがいいって。他の人に分けたら、もう分け合ってねえだろ」
あ、って思った。言われて初めて気づいた。分け合うっていうのは「ふたりだけで」分け合うって意味だったのか。
「でも……それはあげないって言うのも、言いにくいっていうか。せっかく友達になれたのに、断りづらいし」
少し黙ってから真野が口を開く。
「最近さ」
「……なに?」
「オレとの約束、いつも後ろになるよな」
どきっとした。そんなつもりじゃなかった。でも、否定できない。
「ここに来ようって言った日も別の子と帰ったり」
「それは、真野も好きな和柄のシールが買えるかも、って」
「それ、俺を誘ってくれたらよかったのに」
「そう、だけど、そういう流れじゃ、なかったし」
「最近、日向はクラスメイトのことばっかり。日記もそいつらのことでいっぱいだし」
「だって、あった出来事を書くとそうなるし……」
責めてるわけじゃないのに、なんだか責められているみたいだ。上手く言葉が出てこない。
真野が目を伏せる。
「……俺のことは別にどうでもいいんだな」
「そんなことない!」
思わず大きな声が出た。
そんなことない。だって真野が好きだから。真野はオレにとっては特別。大事な人。オレとの時間を大事にしてくれる人。
「真野は特別だよ! 専用ページを作ってるくらい、オレにとっては特別」
「その特別って、どういう意味」
切り込まれて、言葉を呑み込む。
「……どうって……友達の中で一番って言うか」
真野がふっと笑った。全然楽しそうじゃない口元のほくろ。
「友達、そんなに大事?」
真野が顔を覗き込んできた。
「俺がいればよくない? シール、俺と交換できればよかったんじゃねえの?」
「え」
「俺とシール交換して、交換日記して、ここで話して。最初はそれでよかっただろ」
「そう、だけど」
「俺は……日向がいればいい。日向だって、友達と交換する必要ないだろ」
当然と言った口調に顔がカッとなった。真野はぼっちのオレのままでいいって言う。オレが三年間どれだけつらかったかも知らないで、簡単にそんなふうに言う。
いつだって人に囲まれている真野。頭が痛くたって心配されている真野。でも、オレには三年間ずっと友達がいなかった。真野が初めてできた友達で、そこから友達の輪が広がった。
「真野には、分かんないんだな」
気づいたら口にしていた。
「いつも人に囲まれてる真野には分かんない! オレは……オレは、中学のとき友達がいなかった。三年間ずっとひとりだったオレが、やっと友達ができたんだよ。クラスで笑えるようになったんだよ。それがどれだけ嬉しいか、真野には分かんないんだろ! 真野はずっとクラスの中心にいるんだから! オレはずっと真野が羨ましかった!」
言った瞬間しまったと思った。真野が黙る。
その顔が、見たことない表情をしていた。怒ってるわけじゃない。傷ついた、というのとも違う。
……あ。
言い過ぎた。真野だって、孤独だったのに。広い家でひとりで夕飯を食べて、本当に好きなものを誰にも言えなくて。シールを集めているのが人にバレるのが怖かった。真野はオレよりひとりきりだったかもしれないのに。
喉が詰まる。後悔の黒い気持ちが腹に広がった。
「……真野、ごめん。今のは」
「ごめん」
真野が首を横に振った。
「日向が楽しそうにしてるのは、いい。でも、俺との時間まで減るのは違うっていうか……一緒に帰ろうって言ったあの日だって……俺、最近ずっと後回しにされてる気がする」
声が少し低くなる。
「日向の中で俺の優先順位が下がったみたいで嫌だった。俺は、日向とじゃないと意味がねえ。シール交換も、交換日記も」
真野がぎゅっとこぶしを握る。
「日向が誰かと楽しそうにしてるのを見ると、俺じゃなくてもいいんだって思えて、それが嫌で」
真野はひとつ呼吸を置き、ゆっくりと言った。
「一番じゃなくなった気がして、嫌だった」
「ごめん、でも真野はちゃんと大事な友達だと思ってるし」
急いでとりなす。
「初めてシール交換をしてくれたのも、シール帳デビューおめでとうって言ってくれたのも、全部真野だし」
少し照れたけど、勇気を出して言う。でも、真野は黙ったまま下を向く。
「……それだけじゃ足りない」
「え?」
「俺は友達としてじゃなくて」
真野が言葉を探すみたいに、少しだけ間が空く。
「……もっと特別な意味で、一番でいたかった」
「え、えっと、どういうこと?」
真野がぎゅっとくちびるを噛む。そしてぼそっと「好きだから」と言った。
「え?」
「……日向が、好き」
真野が目に力を入れたようにまっすぐにこっちを見て言った。
「日向が、好きだから一番でいたい!」
大きな声が踊り場に吸い込まれて消える。
好き。好き? 真野が、オレを?
思考回路が停止した。急に体が強張って動けなくなる。ジュースを持った手が宙で止まった。
「……」
「……」
なにか言わなきゃいけないのに、言葉が出てこない。
好き? 真野がオレを? オレと同じ意味で好きってこと? ……それは怖い。だって、オレなんか真野に見合わない。きっと関係が壊れる。シール交換もできない。交換日記も終わる。ここにも来られなくなる。オレは一番の理解者を失う。
なにも答えないオレから真野が目を逸らした。鞄から交換日記を出してきて、シャーペンでなにか書きつける。それを床に置くと、飲みかけのパックジュース片手に鞄を持って立ち上がった。
「……答え、考えといて」
「……あ」
止めなきゃと思ったのに、真野は振り返らずに階段を下りていく。足音がどんどん遠ざかる。
辺りが静まり返る。しばらく、動けなかった。
床に置かれた交換日記を拾う。開くと、たった一行だけ書いてあった。
『もっと話したい』
それだけだった。告白の言葉でも、怒りの言葉でもなく。ただ、もっと話したい。
胸がぎゅっとなった。涙が出てきそうになって、慌ててまぶたを押さえる。真野、それは、オレだって同じだ。


