そのあと、クラスではちょっとしたシール交換が流行った。休み時間に誰かがシール帳を広げると、気づいたら輪ができている。前なら想像もできなかった光景が、今は当たり前になっている。
そんな中、オレは夕飯のあとに広げる交換日記がだんだんつらくなっていることに気づいた。とにかく書き進められないのだ。
前は席に座ったらすぐにノートを取り出していた。今日あったことをそのまま書いて、どうでもいい話も書いて、貼りたいシールを選んで。深く考えることなんてほとんどなかったのに、ページを開いたまま手が止まる。
なにを書けばいいか分からないんじゃない。なにを書いていいのか分からない。オレはシャーペンを持ったままうなった。
今日の出来事を書こうとすると、一行目からもう真野の名前を書きそうになる。現代文の授業で教科書を読み上げているときに聞いていた声がよかったとか、ロッカーに荷物を取りに行こうとして体がぶつかりそうになったとか。書いたら、気持ちがバレる気がする。日記の中はただの友達のふりが難しい。
好きだと気づいてから、全部に意味がつくようになった。たった一行でも、どう思われるか考えてしまう。変じゃないか、重くないか、つまらなくないか。そんなことばかり気にして、気づけば時間だけが過ぎていく。
――仕方ない。こんなの日記じゃないけど、分からなかった数式を書いて、空いた余白にやり方を教えてもらおう。
勉強を言い訳にして日記として渡す。次に返ってきたとき、真野はていねいに途中式を書いてくれていた。白かったところが文字で埋まったことにほっとする。
同じページに自分の字と真野のきれいな字が混ざっているとなんか口がむにゃむにゃとした。ちょっと照れくさい。
数回、同じような方法でごまかした。でも、ネタも尽きる。大きなシールを貼ったりもしたけど、一ページ丸ごと埋めるのは難しくて、どうしても文字数が減ってしまう。
だが、どきっとしたのは同じように真野も文字数が減っていったことだった。しかも内容が単調。「今日の英語はつまんなかった。終わり」とか書いてある。字面がすごく冷たい。文字もちょっと速く書いたみたいで、トメハネが雑だ。普通の真野の字は筆の字みたいにきちんとしてるのに。文字数が少なくなって、距離が遠くなってるみたいだ。
急に怖くなった。オレ、気持ちがバレて気持ち悪がられてるんじゃないか。そう思うとまた手が動かなくなる。
「真野、宿題教えろよ」
教室でクラスメイトが聞く。
「いいぜ、どこ?」
真野は少し笑いながら答える。
オレはそれを斜め前の席からただ聞いているだけ。シール交換でクラスメイトと話すことは増えたけど、真野とは相変わらず話さない。真野は一軍男子と一緒にいて、とても割って入れるような雰囲気じゃない。
交換日記がほぼ唯一のおしゃべりなのに、そのおしゃべりがどんどん減っているのだ。好きな人との会話が減る。胸がぺちゃんこになったみたいで、黒く重たい石がごろごろと腹の中を転がる。
ある日とうとう文字だけでシールが貼られなくなった。
ダメだ、これ以上は耐えられない。どうして急に冷たくなったのか知りたい。
夜、家でメッセージを送ってみる。
『また平日にシール巡りしない? 計画立てたい』
送ってから心臓がばくばくした。既読がつくまで一秒、二秒、三秒。じっとにらめっこしていたら一分もしないうちにチカチカとスマホが光った。すぐに返事が来た。ベッドに寝転がっていたオレは思わず起き上がった。
『じゃあ明日の放課後、屋上前の階段、来られる?』
来られる? 来い、じゃない。ちょっとやわらかい。別に嫌われたわけじゃなかったのかな。そんなふうにも思えてほっとする。
『オッケー』
返事にはすぐに既読の文字がついて胸を撫で下ろす。
放課後、階段の上に行くと真野はもう来ていた。
「よ」
真野が笑みを見せる。いつもの場所に座って、膝の上にシール帳を置いている。
「よ」
オレもそう返事をして隣に座った。手持ち無沙汰にそわそわする。ジュースを買ってくればよかった。
「計画って、どのへん行く?」
真野が聞く。
「えっと、この間SNSで見たんだけど、五駅先の文具屋が品揃えいいらしくて」
「あそこか。俺のメモにもある」
「さすが」
短い会話が止まる。真野がシール帳の表紙をぱたぱたと指で叩く。なにか言おうとして、やめた感じがした。
「……なあ」
しばらくして真野が切り出した。
「最近、日記の文字数減ってね?」
来た。背中がひやっとする。
「……減ってる、かも」
「なんで」
「なんか……書くのにいちいち時間がかかって」
真野が少し黙る。膝の上のシール帳をぱたんと横に置いた。
「そっちこそ減ってるじゃん」
オレがそろっと言うと、真野がため息をついて頭を掻いた。
「日向が減らしてきたから、俺が長文書いたら嫌がるかなと思って」
「そんなことない!」
思わず大きな声をあげた。
「違う。そんなこと、ないよ」
すると真野がこちらをちらっと目線だけで見た。
「……もうやめたいのかと思った」
「そんな」
思わず声が震える。そんな勘違いをされてるとは思わなかった。
「そうじゃ、なくて」
「そうじゃなくて?」
好きだから。なにを書いたら大丈夫なのか分かんなくなったんだ。
喉元まで出かかった言葉を呑み込む。それは言えない。するとオレが黙ったのを見て真野が目を逸らした。
「やりたくなくなったなら言えばよかったのに。やめる?」
軽い言葉がぽろっと屋上前に転がって頭が真っ白になった。まるでファミレスでポテトを頼むのをやめるか言うみたいな気軽な口調で、交換日記を蔑ろにされたみたいだ。やめる。その言葉が頭をぐるぐるとして喉がごくりと鳴る。
「……やめたくない」
つい言葉が強くなった。
「やめたくない! そんな簡単に言うなよ! ただ、なにを書くにも時間がかかるようになって」
「ネタが尽きた?」
「そうじゃないんだけど」
オレは言葉をうろうろ探して、ようやく絞り出した。
「なんか、お互い分かりすぎたのかも、って」
なに言ってんだろオレ。でも、真野を引き止めたい気持ちが先走って口から飛び出した。
「真野、シールは和柄と食べ物を優先して集めてる。パール系よりラメ入りが好き。夕飯はパスタを作りがち。雨の日は頭痛がするのか文字がちょっと乱れる」
「……よく覚えてるな」
「そりゃ、何度も読んでるから。前のページを繰り返し読むし」
すると真野がふっと笑った。
「俺も分かる。日向は植物とか動物とか生き物のシールが好き。小さいシールより大きいシールのほうがお得だと思ってる。あと漢字が苦手。よく書いてから書き直してる。跡が残ってる」
「そんなこと覚えてんの?」
「そりゃ、俺だって何度も読み返すし」
屋上前の空気がふわっとやわらかくなった。顎があがった。声が少し明るく出る。
「なんかさ、もっと学校であったこととか気軽に書きたいんだけど、前にも似たようなことあったよなとか思うし」
「思わねえ。同じ話だって聞きたい」
「寝る前に日記を読むのが一番の楽しみなんだ。一日最後のご褒美っていうか」
「俺も本当は寝る前に読んでる」
言うか言わないか迷った。でも、言わないと終わってしまう気がする。
「シール交換は他の人とできるかもしれないけど、交換日記をしたいのは真野だけ」
「……俺も、そう」
真野がシール帳をもう一度膝の上にのせた。
「日向はもう嫌になったのかと思ってた」
「そんなことない。そりゃ、宿題に時間を取られたりはするけど、勉強の合間に読むことで頑張れてたし」
「……そうなんだ?」
真野が少しほっとしたようにこちらを見て口端をあげた。
「日向、最近勉強についていけなくなってる。特に数学」
「えー、それ分かってんの? オレ、多分理系じゃないんだよ。国語が好き」
「文系か。来年から理系と文系でクラス分かれるんだろ」
「そうしたら交換日記大事じゃん。クラス別々になっちゃうだろうし、お互いの学校の様子なんて分かんなくなる」
言ってからはっとした。同じクラスがいいと言ってしまっている。でも真野は「だよな!」と笑った。
「話せないことも書けるのが交換日記って感じがする」
真野がちょっとだけ言葉を探した。喉仏が上下する。
「……たしかに知りすぎたのかも。もっといろんなことをしゃべっていいんだよな。もっとくだらなくてもいいっていうか」
ようやくいつもの雰囲気が戻ってきた。いや、どちらかというといつもより照れくさい。知りすぎたとか、自分で言っておいてなんだけど結構恥ずかしいこと言ってる。
「そうそう。もっと気楽に書きたいんだよ。あー、宿題めんどくせ、とかさ」
「分かる。こないだ食堂の生姜焼きがいつもよりちょっと辛くてさ。今までは俺の中で二位だったんだけど、チキン南蛮定食が二位に浮上した」
「チキン南蛮、タルタルソースがあんまり好きじゃないんだよな。味が全部タルタルに持っていかれる」
「えっマジで? 世の中マヨに勝てるものなんてねえだろ」
「それは醤油だろ。日本人ならおろしに醤油」
顔を見合わせ、同時に吹き出した。ははっという声が踊り場に響く。冷たい床に座ってたのに、温度がどっか行った。背もたれていた壁から体を起こす。オレはまだ書いてない日記の入った鞄を撫でた。
「今日、オレの好きな料理書いていい? これから夏になると家ではキーマカレーが流行りがちなんだけど」
「書けよ。作れそうなら夕飯に作ってみたいし」
「真野は家庭的だよな。オレなんて肉も焼けないのに」
「肉を焼くなんてフライパンに置いて火をつけるだけだろ」
「油の量とか分かんないもん」
「家庭科を真面目に受けろ」
言われてうっと言葉に詰まる。
でも、すごく元気が出た。真野に嫌われたわけじゃなかったんだ。それが分かっただけで胸の奥がぽっと温かくなる。頬にも熱がぱっと散った。
そろっと真野の顔を見る。真野もなんだかやけに嬉しそう。真野が喜んでくれるなら、日記をまたちゃんと書きたい。
翌日から、日記は前みたいに戻った。シール巡りも行ったし、完全に元通り。まだ書けないことはあるけど、少し本音で話せる範囲が広がった。
その日は富士山などの和柄をクラスメイト交換してもらった日で、あとで真野に見せてやろうとシートに貼ったまま交換日記に挟んでいた。帰ろうとして廊下を歩きながら鞄にノートをしまおうとする。
「あれ、お前、一ノ瀬?」
突然名前を呼ばれて、足が止まった。
振り向いて、自分より背が高い男子を見上げる。あれと思った。同じクラスのやつじゃない。でもどこかで見たことがある。誰だっけ。
頭の中でデータを探る。目の前の顔に眼鏡がかかり、はっとした。中一のときに同じクラスだったやつだ。心臓がどん、と大きな音を立ててひっくり返りそうになる。体が一瞬フリーズしたみたいに動かなくなった。
「やっぱり一ノ瀬だ。久しぶりじゃん」
「……久しぶり」
急に喉がからからに渇いて、上手く声が出ない。掠れた小さな声が自信なさげに廊下に落ちる。
「同じ高校だったんだ。知らなかった」
「……そうだな」
「てか、一ノ瀬、高校に進学できたんだ。中学のときほとんど来なかったのに」
その一言で体が縮こまった。足が廊下に貼りつく。
ただ事実を言っただけ。でも、その言葉があっという間に三年遡って、中学のときの記憶がぱかっと開いた。
ぱさっと落ちたシール。床に散らばる色。上から降ってきた視線。
返事ができない。目を合わせられない。息が苦しい。
「ちゃんと来られてるならよかったじゃん。高校デビューってやつ?」
笑い声が頭に響く。「よかったじゃん」の言葉が胸をひと突きにする。
笑えオレ。誇っていい。高校は休まず通ってるんだから。――でも、今すぐこの場を離れたい。
そう思ったとき、手から交換日記が滑り落ちた。床に落ちた拍子に散らばる和柄のシール。富士山、桜、星、金魚。
あ、と思わずしゃがみ込む。上から落ちてくるあのときと同じ視線。
「一ノ瀬、お前まだそんなシール集めてんの?」
その言葉で背中が一気に冷えた。中学のときと同じだ。男なのにって、小学生みたいだって、変だって、そう思われる。指が震えて、シールを上手く拾えない。
そのとき、後ろから声がした。
「あ、俺のノート」
振り向くと、真野が立っていた。
「どこでなくしたのかと思った。拾ってくれたのか。サンキュー」
真野は自然な動きでしゃがみ込んで、シールをひとつひとつ拾い始める。
「これもこれも俺の。助かった」
そう言いながらシールを交換日記に挟んで立ち上がる。助けてくれたんだ。そう思った瞬間、一気に顔が熱くなった。
同級生が驚いた顔をして真野を見上げた。
「え、真野のなの?」
「ああ、そう。シール集めてんだよ。今、うちのクラスでちょっと流行ってるし」
真野はごく普通の口調で言った。
「人の趣味、笑うなよ」
強い言い方じゃない。ちょっと笑いながら言った。でも、はっきりとした声が廊下に響く。
「……いや、別に笑ってねえし。ただ懐かしいなと思って」
オレはその言葉にぐっとくちびるを噛みしめ、立ち上がった。逃げるな、って思った。今のオレは昔とは違う。真野を見上げて言う。
「それ、いいな。和柄っていい」
真野がちょっと驚いたように目を見開く。だがすぐに笑った。
「だよな。大和魂をくすぐられる」
「オレも集めようかな。そういうの」
息を吸って言う。
「前は笑われると思って秘密にしてたけど、好きなことを好きって言えるの、すごくいいと思う」
同級生が真野とオレを見比べる。なにか言いかけて、やめた。
「……まあ、好きならいいんじゃねえの」
少しだけ困ったみたいな顔で行って、手をひらっとあげた。
「じゃ、俺行くわ」
同級生が去る姿を見ていると、真野が「日向、行こうぜ」とオレを促す。歩きながらちらっとオレを見下ろして小さな声で言った。
「昔のこと言ったの、わざとだろ」
「うん」
「日向、変わったな。かっけえ」
「それは助けてくれた真野だろ」
「このノートは四捨五入すれば俺のもん」
「なんだその計算」
オレがぷはっと笑うと真野も口に笑みを浮かべた。グータッチを出されて、にっと笑ってコツンと合わせる。触れた温かいこぶしに真野がまた嬉しそうに笑った。さっきまで胸に張りついていた重たいものがいつの間にか薄くなっている。
「日向、帰ろうぜ」
「そうだな」
廊下の窓から夕方の日が差して、床に長く影が伸びる。真野の影のほうがやっぱり大きい。その横に自分の影が並んだ。真野がなにも言わずに歩幅を少し緩めたのが分かって、また胸が熱くなる。
中学のときの自分なら、きっとなにも言い返せなかった。でも、今は少しだけ違う。昔の記憶は消えないけれど、いくらだっていいものに上書きできる。真野がいればオレはやれる気がする。
やっぱり、真野が好き。
横顔をちらりと見上げる。くちびるの下のほくろがこちらを向いている。
真野が好きって、シールみたいに言えたらいいのに。


