放課後のシール交換は、委員長とふたりだけのひみつ

 
 試験が終わってからりと晴れる。五月は本当にあっという間だった。また席替えをする。ちょっとだけ寂しいかも。そう思ったら今度は斜め後ろに真野が座った。なんでまた観察される席なんだ。逆にしてほしい。
 でも、事件は掃除中に起きた。
「あれ?」
 女子の声がして、教室の空気がふっとそっちに寄る。箒の先が止まる。机を運んでいた男子も、黒板を拭いていた日直も、なんとなく顔をあげる。
「これ、なに?」
 女子が床から拾いあげたのはチャックがついたオーロラの表紙のシール帳だった。
 瞬間、頭が真っ白になった。オレのだ。思考がフリーズしたみたいに、その先が続かない。急に視界がぐらりと揺れる。
 いつ落とした。鞄からノートを出したときか。掃除の邪魔にならないように机をずらしたときか。分からない。ただ、女子の手の中で見覚えのある表紙が蛍光灯の光を受けてつやつやと光る。
「えー、シール帳なんだけど! 激かわ!」
 女子が大きな声を出す。わっと周りが沸いた。
「マジで! 懐かし!」
「昔持ってたー!」
「これ誰の!?」
「今どきシール帳って逆にすごくない?」
 返して。
 叫びたいのに、口の中で潰れる。
 喉の奥がぎゅっと縮む。指先だけ冷えて、それなのに背中には汗がどっと噴き出した。女子たちの声が遠くなって、耳の奥で昔の声がわんわんと響く。
――男のくせに、こいつ、女みたいなシール集めてる!
――こんな子供みてえなシールが好きなの、お前。
――小学生かよ! あり得ねえ!
 返してほしい。でも、名乗り出られない。全身が冷たくなって体が固まる。
 先生に渡されたらどうしよう。没収されたら困る。あの中には水族館のシールも、雨粒も、紫陽花も入っている。真野と交換し分け合ったシールが、全部入っている。
「――ああ、俺のかも」
 その声に教室の視線が一斉にそちらを向いた。真野が手を軽くあげて女子に近づく。
「えっ、真野の?」
「真野、シール集めてんの!?」
「意外なんだけど!」
 女子がきゃあきゃあと騒ぐ中、真野は平然とシール帳を受け取った。
「馬鹿にすんなよ。今じゃシールがあるからいとこと仲良くできてるんだぜ。交流の必須アイテムだろ」
 さらっと言って、口端が小さく笑う。
「えー、優しいー」
「いとこ、かわいがってそう!」
「なんか分かる」
 空気が変わった。オレが味わったあの冷たい笑いじゃない。男子のひとりがへえ、と言った。
「俺も昔シール集めてた。ほら、お菓子についてくるやつ」
「あ、俺も。レアなキラキラしてるやつもあったよな!」
「なっつ! あれまだ家にあるかも」
 その中でひとりが手をあげた。
「実は俺、今もあのシール集めてる」
「えっマジ?」
「昔のレアものとか、すごく貴重なんだぜ。今じゃ手に入らないんだって」
「へえー。俺、多分家にあるから今度持ってくる」
「いいのか? サンキュー!」
「今日帰ったら探してみるわ」
 ざわざわとシールの話が広がっていく。
 なんだこれ。
 オレは突っ立ってみんなを見た。
 あれ? 誰も笑ってない? 本当に? 見間違いじゃないのか? でも、誰も馬鹿にしていないしされていない。オレの知ってる空気じゃない。
 胸に広がった黒いもやが少しずつ晴れていく。
 今もシールを集めていると言った男子。それはオレが話しかけられるようになった最初の隣の席の子だった。
「……あ、の」
 自分でもびっくりするくらい小さな声が出た。近くにいた女子が「ん?」とすぐにこちらを向く。今ならまだ引ける。そう思ったけど、止められなかった。ごくりと喉を鳴らす。
「それ……多分、オレの……」
 言った瞬間、顔がかーっと熱くなった。心臓がばくばくして、今すぐ教室から逃げ出したい。でも、もう引っ込められない。それに、真野に嘘をつかせるのはダメだ。そんなの、友達じゃない。
 真野とぱちりと目が合う。真野の目線の意味を汲み取る前に、ひとりの女子が「ホント!?」と声をあげた。びくっと肩が揺れる。だが、その顔は笑顔だった。
「一ノ瀬、シール帳持ってんだ。実はあたしも持ってる。今度交換しない?」
「え」
「子供っぽいかなと思って言ってなかったけど、同じ趣味の人がいるならいいや」
 それに続くように周りからも声が上がる。
「俺の弟も集めてる。恐竜とか」
「今じゃ男子も普通にやるよ」
 女子も男子も思い思いにしゃべっている。
 真野が「そうだよな」と言った。その声が耳に大きく響く。真野はオレに向かって「はい」とシール帳を差し出してきた。
「お前のシール帳、きれいだな」
 その言葉に声が震えそうになる。必死に言葉を絞り出した。
「あ、ありがと……」
 受け取った瞬間、指が少しだけ触れた。ほんの一瞬なのに、そこだけ熱い。
 元隣の席の男子がすぐに近づいてきた。
「一ノ瀬ってどういうの集めてんの?」
「え、えっと、こういう、ちょっと女子っぽい、やつ。恥ずかしい」
 オレがぎくしゃくしながらシール帳を開くと、彼は「へえ」と目を輝かせた。
「今はそういう立体的なのが流行ってんだ。俺が集めてるの、全部平らだわ」
 オレの周りにクラスメイトが集まってきて、ページをめくる。
「この雨、梅雨の時期って感じ」
「この猫かわいいじゃん」
 あちこちから声をかけられる。
 胸の奥がぐちゃぐちゃになった。怖いのに、まだ怖いのに、でも今笑われていない。信じられない。
「え、えと、ありがと……」
 オレはこそこそと自分の席に引き返した。震える手で鞄の底にシール帳を押し込む。まだ頭がパニックだ。
 オレがそっと教室を出ようとすると、女子の「一ノ瀬!」という声が飛んできた。ぎくしゃくと振り返る。女子が笑顔で手をあげた。
「明日シール交換しよー! あたしもシール帳持ってくるから!」
「う、うん」
 手をあげたつもりだったけど、ちゃんとあがっていたかは分からない。なにかが溢れそうで、肩にかけた鞄をぎゅっと握り締めて教室を出た。
 廊下に出た瞬間、ようやく息が吸えた。だけど足がまだ震えている。
 今のは正しかったのか。大丈夫だったのか。今振り返れば「でもやっぱ男子のシール集めはないわ」なんて笑われてるんじゃないか。真野まで巻き込んでしまったんじゃないか。
 ぐるぐると考えていたら、いつの間にか階段をのぼっていた。気づけば屋上前の踊り場。なぜか息がはあはあと切れて、その場にずるずると座り込む。真野とふたりだけの秘密基地。シールを見せ合ったり、どうでもいい話をしたり、ちょっと息が楽に吸える場所だ。でも足を抱えて座ると理由の分からない涙が出てくる。
 怖い。教室に戻りたくない。でも、明日休みたくない。二ヶ月通えた高校。明日休んだら登校できなくなる気がする。さっきのは正しかったのか。名乗り出てよかったのか。真野に嘘をつかせたままにしなくてよかった。でも、結局真野までシール帳を持ってることがみんなにバレてしまった。真野まで変なふうに見られてたらどうしよう。
 なんで泣いてるのか自分でも分からない。ただ怖かったのと、さっき教室で起こったことが全部一気に押し寄せてきて、胸がきりきりと痛む。
「……あー、いた」
 一体何分たったのか。声がしてぎくっとして顔をあげる。そこにいたのは真野だった。
 心臓が一瞬止まる。なにか言われるんじゃないか。迷惑だって怒鳴られるんじゃないか。なに落としてんだよって責められるんじゃないか。
 ぎゅっとズボンを握り締める。でも、真野はいつもの表情で言った。
「日向、スマホ見た?」
「……え、見てない……」
「どこにいんのって送った。心配で」
「気づかなくて、ごめん」
「いや、いい」
 真野はそれだけ言って、オレの隣に座った。今日はなんだかいつもよりやけに近く感じる。
 沈黙だけが流れる。なにか言わなきゃと思うのに言葉が出てこない。また涙が出てきそうになって、慌てて鼻を啜った。
「……ありがとな」
 真野が開口一番に言ったのはそれだった。思わず真野の横顔を見る。真野は下を向いたまま膝の辺りを見ていた。少し顔が疲れている。
「日向が、きっかけをくれた」
「……え」
「俺、シール集めしてるの、別に隠してたわけじゃないけど、わざわざ言う必要はないって思ってた」
「……うん」
「でもさっき、みんなの前で言っても、誰も変な顔をしなかった」
 真野が長い息を吐き出す。
「俺、自分の趣味を誰かに見られても平気だと思ってたけど」
「……うん」
「やっぱ、ちょっと、怖かったみてえ」
 目が丸くなる。意外だった。真野が腕を組んでそこに顎をのせる。
「……あのあと、お前も見せろよって言われてシール帳を見せたけど、みんなへえって感じで変な顔とかしなくて」
 真野は言葉が続かなくなったようで、息をつく。
 真野も、怖かったのか。
 ようやく現実が戻ってくる。
 イケメンで、なんでもできて、クラスの中心にいて、勉強もできて、先生にも頼られて、みんなに好かれていて。そういうやつだと思ってた。オレとは違う世界の人だと思ってた。――でも、違った。真野もオレと同じだった。
 ずっと羨ましかった。真野みたいに好きなことを堂々と言える人が。でも真野も怖かったんだ。それでも言えたのは、真野が特別に強いからじゃなくて、真野なりに勇気を出したからなんだ。
「……オレも、怖かった」
「だよな」
「きっと、笑われるって、そう思って」
「分かる」
「でも、真野が」
 そこで言葉に詰まる。なんて言えばいいのか分からない。助けてくれた、と言うのも違う。かばってくれた、は逆に失礼な気もする。
「そういうのじゃねえから」
「え?」
「本当に俺のかもって思っただけで」
「……そうなの?」
「だって、俺も持ち歩いてるし。嘘ついたとかじゃなくて。俺もやばって思ったし」
 少しだけ真野の口端があがる。
「結果的に俺が助けたみたいになってるけど……俺も助かった」
 その言葉に胸がぎゅっとなる。
 真野が、少しだけこっちに寄りかかってくる。
「日向、ありがとな」
 肩がぶつかる。真野の頬が軽くオレの頭の上にのる。触れ合ったところから一気に熱が弾ける。
「悪く言われなくて、本当によかった……」
 真野はそれだけ呟いて黙った。真野の体が、重い。触れているところからじんわり熱が伝わってくる。動けない。真野の息をする音が近い。放課後の屋上前は静まり返っている。
 なんか、変だ。さっきまで怖くて仕方なかったのに、今はすごく落ち着く。
 雨の日に傘を貸してくれたときも、窓から小さく手を振ってくれたときも、ファミレスで向かいに座って勉強していたときも。
 真野は、いつも近くにいた。目が合うたび、笑いかけてくれていた。
 真野が笑うと嬉しい。
 真野が困ると気になる。
 真野は、他のやつとは全然違う。
 頬がじんわりと熱くなって、息が少しだけ浅くなる。
 真野なら、オレの気持ちを分かってくれる。真野になら、さらけ出せる。多分、真野は唯一無二の人で。
 ああ、そうか。
 突然、分かってしまった。
――オレ、真野が好きだ。
 心の中で言葉になった瞬間、心臓の音が聞こえた。とんとんとんとん、どんどん音が速くなっていく。
 どうしよう。こんな気持ち、どこに置いたらいいんだろう。言えない。言えるわけがない。でも、真野が近くにいるだけで、こんなに胸がうるさい。シール帳に貼りきれないシールみたいに、気持ちがはみ出しそうだ。
 だけど、真野は「腹減ったな」とかいつもどおり言い出しそうだ。もう少しだけふたりの空間を味わっていたい。
 だから、なにも言わなかった。ただ、少しだけ肩が触れたままそのまま座っていた。真野の体温だけが残っていた。