修学旅行から数日。研修レポートを作り終えたところで、季節が変わってしまった。ジメジメした空気が空を覆う頃には、すっかりと旅の気分はなくなってしまった。
あれだけ不思議な楽しさがあった修学旅行で、いろんなことがあったというのに、結局普段の教室では、俺は五十嵐の背中しか拝むことができない。別に、絡む必要もないと言えばそうだし。仕方ない。そう。仕方のないこと。
でも、なんだか面倒くさいと思うことは多々ある。ジトジトした空気は、エアコンだけではどうにもならず、わりと早い段階で夏服に替えることになったけれど、それはそれで、袖がない分、暑さが直射で来る。
学ランのむしっとした暑さに耐えるべきか、ジリジリと焦がしていく太陽とトモダチになるべきか、正直悩ましい季節だ。
そして、雨の翌日、というのが非常にやっかいな時期だと、クラスに着いてから気付いてしまった。
「……っ、うっわ、マジか」
通学用の鞄を漁る。今日の授業の分として仕分けていたはずのそれが、どう見ても明日の授業のものと入れ替わっていた。五教科のうち、今日は生物がない。
はずなのに、ここに生物の一式が入っている。そして、その代わりに今からする歴史の一式が丸々ない。
後ろは女子だ。あんまり話したこともなければ、興味もない。
となれば、前の男に声をかけるしかない。さっきの休み時間は機を逃したが、次の授業が歴史なのだから、もう逃げるわけにはいかない。
一応、先生に言えばいろいろしてもらえるのだろうが、また真中センセーにバレたら宿題が増えるに決まっている。
ゆえに、俺は前者を選んだ。
五十嵐のでかい背中をツンツンと突いて、振り返った彼に声を掛ける。
「どうした、宇田将也」
「あー……あの、さ」
正直、声をかけるのに戸惑った。
周りの視線、というか対角線からじとっとにらまれている気配を痛いほど感じる。が、これは仕方がないこと、と思ってぐっとこらえる。
「……」
「五十嵐、悪い。教科書貸して」
「は?」
何を言っているかわからない、という言葉を一音で表した五十嵐は、眉間の皺を深く深く沈めて俺を見た。
「ちょっとでいいんだ、その、ノートに写すまででいいから」
持ってくるのを忘れたのは、歴史の教科書だった。
資料集は置き勉してたし、ノートはほかの教科のを使えば良い。毎回プリントを配るタイプの面倒な授業だから、正直困るほどでもないといえば、ないはず。
ちゃんと授業を聞いている、というていができていればそれでいいだろう。
そう思って頭を下げたのだが、五十嵐の反応は違っていた。
「……いい」
「へ?」
「だいたい内容は覚えているから、正直、貸してもいい」
「……」
五十嵐はそう言うと、自分のすこしくたびれた教科書を差し出してくれた。
すっと受け取るのも癪で、じっとそのくるくると丸まった教科書の角を見つめているのが不審だったらしい。五十嵐も怪訝な顔でのぞき込んできた。。
「……なんだ」
「嫌み?」
「貸さないぞ」
「悪い、頼む。五十嵐先生っ!」
俺のキャラじゃない、度会なら言いそうな調子のいい台詞を吐いてみた。けれど、五十嵐の反応はかんばしくない。
「……そんなもんじゃないけどな」
ほら、と渡された教科書に向かって「ありがとう」とはっきり言って、たしか前回この辺だった、と思われるページに至るまで、ぱらぱらと開いたそこを見て、唖然とした。
「うお……っ」
彼の教科書の白さはだいぶ失われていた。
いじめとかそういうのではなく、使い込まれた状態だということ。
特に、年号やよく見る武将やなんだかんだは、赤色以外にもいくつかの色の蛍光ペンで何度も塗りつぶされていて、正直読めるところなんてないんだけど。
「いや、五十嵐ってマジなんだな……」
「なにが」
「……いや、俺正直ここまでできないから、使えるかわかんねーけど」
がんばるけど、普通に借りる。
そう言ったら五十嵐は、するりと前を向いてしまった。呆れられただろうか。
そうだとしても、別にいい。
予鈴はずいぶん前に鳴り終わっていた。だから、もうすぐ授業も始まってしまう。
「これ……当たり前、じゃないんだよなあ」
教科担の先生が入ってくる。相変わらず、ちょっとくすんだ色のコピー用紙に添えられた手製のテキスト。解説なしでは全然解けない、質問形式の授業用紙。でも、ここに書かれていることも、五十嵐の手製の注釈には入っている。
丁寧に補記されている教科書。きっと、コレを何度も読んでいるのだろう。俺の粗雑な扱いでボロボロになったものとは違う、読み癖のついた教科書。
五十嵐の実直なスタンスがわかった気がして、なんとなく、その日は一日、いやその授業の後数時間だけ、賢くなった気がしていた。
あれだけ不思議な楽しさがあった修学旅行で、いろんなことがあったというのに、結局普段の教室では、俺は五十嵐の背中しか拝むことができない。別に、絡む必要もないと言えばそうだし。仕方ない。そう。仕方のないこと。
でも、なんだか面倒くさいと思うことは多々ある。ジトジトした空気は、エアコンだけではどうにもならず、わりと早い段階で夏服に替えることになったけれど、それはそれで、袖がない分、暑さが直射で来る。
学ランのむしっとした暑さに耐えるべきか、ジリジリと焦がしていく太陽とトモダチになるべきか、正直悩ましい季節だ。
そして、雨の翌日、というのが非常にやっかいな時期だと、クラスに着いてから気付いてしまった。
「……っ、うっわ、マジか」
通学用の鞄を漁る。今日の授業の分として仕分けていたはずのそれが、どう見ても明日の授業のものと入れ替わっていた。五教科のうち、今日は生物がない。
はずなのに、ここに生物の一式が入っている。そして、その代わりに今からする歴史の一式が丸々ない。
後ろは女子だ。あんまり話したこともなければ、興味もない。
となれば、前の男に声をかけるしかない。さっきの休み時間は機を逃したが、次の授業が歴史なのだから、もう逃げるわけにはいかない。
一応、先生に言えばいろいろしてもらえるのだろうが、また真中センセーにバレたら宿題が増えるに決まっている。
ゆえに、俺は前者を選んだ。
五十嵐のでかい背中をツンツンと突いて、振り返った彼に声を掛ける。
「どうした、宇田将也」
「あー……あの、さ」
正直、声をかけるのに戸惑った。
周りの視線、というか対角線からじとっとにらまれている気配を痛いほど感じる。が、これは仕方がないこと、と思ってぐっとこらえる。
「……」
「五十嵐、悪い。教科書貸して」
「は?」
何を言っているかわからない、という言葉を一音で表した五十嵐は、眉間の皺を深く深く沈めて俺を見た。
「ちょっとでいいんだ、その、ノートに写すまででいいから」
持ってくるのを忘れたのは、歴史の教科書だった。
資料集は置き勉してたし、ノートはほかの教科のを使えば良い。毎回プリントを配るタイプの面倒な授業だから、正直困るほどでもないといえば、ないはず。
ちゃんと授業を聞いている、というていができていればそれでいいだろう。
そう思って頭を下げたのだが、五十嵐の反応は違っていた。
「……いい」
「へ?」
「だいたい内容は覚えているから、正直、貸してもいい」
「……」
五十嵐はそう言うと、自分のすこしくたびれた教科書を差し出してくれた。
すっと受け取るのも癪で、じっとそのくるくると丸まった教科書の角を見つめているのが不審だったらしい。五十嵐も怪訝な顔でのぞき込んできた。。
「……なんだ」
「嫌み?」
「貸さないぞ」
「悪い、頼む。五十嵐先生っ!」
俺のキャラじゃない、度会なら言いそうな調子のいい台詞を吐いてみた。けれど、五十嵐の反応はかんばしくない。
「……そんなもんじゃないけどな」
ほら、と渡された教科書に向かって「ありがとう」とはっきり言って、たしか前回この辺だった、と思われるページに至るまで、ぱらぱらと開いたそこを見て、唖然とした。
「うお……っ」
彼の教科書の白さはだいぶ失われていた。
いじめとかそういうのではなく、使い込まれた状態だということ。
特に、年号やよく見る武将やなんだかんだは、赤色以外にもいくつかの色の蛍光ペンで何度も塗りつぶされていて、正直読めるところなんてないんだけど。
「いや、五十嵐ってマジなんだな……」
「なにが」
「……いや、俺正直ここまでできないから、使えるかわかんねーけど」
がんばるけど、普通に借りる。
そう言ったら五十嵐は、するりと前を向いてしまった。呆れられただろうか。
そうだとしても、別にいい。
予鈴はずいぶん前に鳴り終わっていた。だから、もうすぐ授業も始まってしまう。
「これ……当たり前、じゃないんだよなあ」
教科担の先生が入ってくる。相変わらず、ちょっとくすんだ色のコピー用紙に添えられた手製のテキスト。解説なしでは全然解けない、質問形式の授業用紙。でも、ここに書かれていることも、五十嵐の手製の注釈には入っている。
丁寧に補記されている教科書。きっと、コレを何度も読んでいるのだろう。俺の粗雑な扱いでボロボロになったものとは違う、読み癖のついた教科書。
五十嵐の実直なスタンスがわかった気がして、なんとなく、その日は一日、いやその授業の後数時間だけ、賢くなった気がしていた。


