君のためなら

 齊藤が訪ねて来たのは、その翌日のことだった。
 突然の訪問だったが、あえて両親がいない間を狙ったのだろうと察せられて、その配慮がありがたかった。
「へえ、綺麗に片付いていますね」
「殺風景と言っていいです」
 齊藤は柔和な顔立ちをしており、学生と見紛うほど若い。
「先生、何歳なんですか」
「ああ、僕?今年で三十路です。見えないでしょう」
 へらりと笑ってみせる齊藤を見て、その気の抜けた表情に、木山と同系統の人間かもしれないと落胆し始めた。
 まあでも、いいか。
 香月とクラスが変わったかどうかだけ、確かめられたら。
「先生」
「はい」
「クラスに……」
 香月がいるかどうか尋ねようとして、そうすれば事情を説明しないといけなくなると気がつき、言葉をのむ。
 だが、齊藤はすぐに察してくれた。
「クラスメイトが気になりますか?」
「はい……」
「佐倉君に、いいニュースと悪いニュースがありますが、聞きますか」
 齊藤の目をじっと見ると、笑顔を引っ込め、鞄から書類を取り出した。
「本当はこれは、新学期が始まる前に木山先生の方から説明をしないといけなかったんですけどね」
 手渡された紙には、留年についての説明書きがあった。
「先生、これは……」
「実はお母様のご意向で、ぎりぎりまで本人には知らせないようにと言われていたみたいでして。転校をすると佐倉君がいつ言い出してもいいようにと待っていらっしゃったと伺っています。でも、学校側としては、転校以外にも道があるということを示したかったんです。同じ学校の中に、佐倉君が嫌な思いをした相手はそのまま一緒にいることになりますが、学年が違えば接する機会は格段に減るはずです。佐倉君がどうしても無理というなら、転校してもいいです。それは佐倉君の自由です。ですが、この困難を乗り越えたら、社会に出た時、君の強みになるはずです。そうなるために、先生は全力でサポートします」
「サポート?」
 思わず鼻で笑った。
「先生に何ができるんです?香月を俺の代わりに殴ってくれるんですか?転校させてくれるんですか?できないでしょう?綺麗ごと言わないで下さい」
 俺は齊藤を試したかったのかもしれない。
 黙り込めば、追い返したり、おもちゃにしたりすることも考えた。
 だが、そうはならなかった。
「僕が代わりにしても意味はありません。君自身が乗り越えなければ、現実は何も変わらない」
 齊藤の言葉は、鋭利な刃物となって突き刺さる。
 けれどそれと同時に、全く別の感情を抱かせた。

 この先生――齊藤恋は、木山とは違う。
 信じてみても、いいかもしれない。

 その感情の動きを知ったのかどうかは分からないが、齊藤はそっと付け加えた。
「また、明日も来ます。佐倉君が答えを出すまで、何度でも」
 去っていく後ろ姿が、とてつもなく大きく見えた。