一匹狼と妖精さん

  
 まるで、何もなかったかのように…
あの日までと何ら変わりないような日常が戻ってきた。
ただ一つ、あの日以来の心残りを除いては……

 国分さんに付いてきて貰って、美術室の扉に手をかける。
反対の手は国分さんが握ってくれている。
意を決してゆっくり扉を開くと、中にいた生徒の視線が一点に集まる。
そして、僕の姿に気付いた顧問の先生が駆け寄ってきてくれた。

「船木君だね。待っていたよ。」
「はい…すみません」
「…と、隣にいるのは国分か?
珍しい組み合わせだな」
「え?あ、西岡…先生?」
「…?」
「申し遅れた。
美術部顧問の西岡だ、よろしくな」
「は…はい、よろしくお願いします」

未だ状況が読めていない僕に国分さんが教えてくれた。

「俺の担任なんだ。
顧問が西岡先生なら安心だろ。」
「二人に交流があったとはな。
まぁとにかく入りなさい。
国分はどうする?見ていくか?」
「いや、俺はこれから図書委員の仕事なんで。」
「そうか。しっかりな。」

西岡先生に促され、美術室に入る。

「君の事は知っているよ。
昨年の受賞作品…本当に残念で遺憾だよ。
さぞ辛かっただろう…」
「えっと…何故にご存じで…?」
「あのコンクール、私も審査員を務めていたのだよ。」
「そうだったんですか...」
「ああいう事があると、筆を折る者も少なくない。
だが、よく来てくれたよ。」
「いえ、僕は…。国分さんのおかげで……」
「国分が…か。
事情はともあれ、君が前に進めた事が大事だよ。」

国分さんが「安心」と言った意味がわかる。
生徒に寄り添ってくれる、良い先生だと思った。

「では部長、案内してやってくれ。」
「承知!」

部長は、なんだか快活な雰囲気がする人だ。
そして圧が強そう。

「部長の村前月子(むらまえつきこ)だ。よろしくな。
君には大いに期待している。」
「そ、そんな期待だなんて…大袈裟な……」
「何も大袈裟ではない。
我が美術部は今年の入部者が少なくてな…
部の存続の危機。部員確保は死活問題なのだよ。
しかし君が来てくれれば心強い!」
「いえ、…過度の期待は…荷が重いというかなんというか…」

そこに西岡先生の鶴の一声。

「村前、その辺にしといてやれ」
「すまない、つい勢い余ってな」
「い…いえ……」
「ところで船木少年!
今年の夏のコンクールに出品してはみないか?」
「夏の...コンクール、ですか……」
「そうだ。まだ猶予はある。
無理にとは言わないが前向きに考えてほしい。」

 それから部長の村前さんは、部の活動内容等を説明してくれて、僕の席を用意してくれた。

「さっきも言ったが、我が美術室は部員不足の危機に瀕している。
三年生は、私と副部長との二人。
二年生は七人いるものの、一年生は君を含めても二人だ。
加えて、この夏のコンクールで私達も引退。
夏休み開けには文化祭の有志の展示に向けて、合同作品に取りかかってもらう。
新体制美術部での最初の一大イベントだ。
何かとわからないこともあると思うが、私達もできる限りのサポートをするつもりだから頑張ってくれたまえ。」

 完全に部長の勢いに圧倒されてしまっていた。
けれど部活に来たことで、コンクールや文化祭への参加といった新しい道が拓けていく。
ここから僕がどう変わっていけるかはわからないけれど…

 「とりあえず…今日はコンクール出品に向けての準備をしましょうか。」
「は、はい…えっと……」
「あ、私…
副部長の本庄冴(ほんじょう さえ)です。
よろしくお願いします」
「あ…僕は、船木水澄です。
よろしくお願いします……」
部長に変わって僕の元に来たのは、両手に大荷物を抱えた副部長だった。
部長とは正反対の大人しそうな感じの人だ。
両手に抱えたパネルやらケント紙、テープとホッチキスに刷毛等の道具を僕の机に置いた。

「船木君が来る時の為に発注しておいたんです。
サイズは三種類から選べるんですが、今回一年生は全員Pの10号…えっと…四つ切り画用紙くらいのサイズでの制作になりますね。」
「わかりました。」
「早速ですが、今日は水張りから始めていきましょうか。
私もお手伝いしますね。」
「あ…ありがとうございます」
「終わったら、乾かしがてら描く題材なんかを考えてもらって…もちろん下描きに入ってもらっても良いですよ。」
「さ、さすがにそこまでは……
あ…あの、今回のテーマとかはあるんですか?」
「テーマ…ですか……
うーん、毎回特には決まってないので自由で良いんですけど…そういうのがあっても面白かったかもしれませんね。」
「そう、ですか…」
「何か描きたい題材とかありました?」
「い、いえ…まだ全然……」
「ですよね、今日来て急には…ですよね。
とりあえず、作業に入りましょうか。
ちなみに、中学校でも水張りは経験ありますよね?」
「はい…毎回水張りから始めてましたので…」
「なら安心ですね。」

副部長に手伝ってもらいながら作業を始めた。
ケント紙に刷毛で水を塗っていく。
なんだか懐かしい感覚。
パネルを置いて、空気を抜きながら濡らしたテープで固定していく。
これから僕の作品を描いていくのだというワクワク感に満ちている。
角の部分はパネルの裏側にホッチキスで固定するとズレにくい。
ひとつひとつの作業が、僕の感覚を甦らせていった。
そうだった。
やっぱり僕は絵を描くのが好きなんだと改めて思い知った。

「さすがに慣れていますね。完璧です。」
「ありがとうございます。
…それに、先輩のお時間をもらってしまって…」
「大丈夫ですよ。
それよりも、船木君の作品を楽しみにしてますね」

そう言って副部長は席に戻って行った。
 目の前のキャンバスに向かって、何を描こうか考える。
その時、頭の中で国分さんの顔が過った。
僕が今日ここに来れたのも、国分さんのお陰なんだ。
いつだって僕を救ってくれて、寄り添ってくれる。
ならばその感謝の気持ちを、何かしらの形で絵にできれば…とぼんやりと考えた。
感謝の気持ちって、どんな形なんだろう。
どんな色で、どんなふうに表現できるだろうか。
 一番大切な友達。
きっとそれ以上の感情が芽生えていることも、もう目を背けられないくらいには自覚しているのだ。