一匹狼と妖精さん

 
 まさかこんなことになるなんて…

 成り行きで国分さんの家に泊めてもらうことになってしまった。
国分さんの家は、学校の最寄駅から十分もかからない。
お義父さんが営む自動車整備工場の同じ敷地内の奥にあった。
ご両親が再婚と聞いていたが、とても仲が良くて優しくて暖かな家族だ。
そんな中に僕が招かれるなんて。
 国分さんの家族と食べた夕食は、和やかだし賑やかで楽しかった。
そしてどこか懐かしかった。
僕も小さい頃は、家族揃って夕食を食べていた。
それが成長と共に、家族の時間は合わなくなる。
父の仕事も忙しくなり帰りが遅い日もしばしば、アパレルショップに就職した姉も、シフトによっては閉店まで仕事をするので遅くなる上に、不定休なのもあってなかなか顔を合わさなくなっていた。
 夕方、弟のいおり君と一緒に絵本を読んだ。
何故だか随分懐かれてしまったみたいで、幼稚園で描いた絵なんかも見せてくれた。
一緒に読んだ本の中のひとつが、いおり君のお気に入りのようだった。
その物語には妖精が出てきて、主人公の友達だった。
そして、金色の瞳をしていた。

「水澄も妖精さんと一緒だね」

無垢で曇りの無い瞳がじっと僕の顔を覗き込む。
いおり君の言葉に「妖精みたいだ」と言った国分さんの言葉が重なった。
だからあの時、あんなふうに……
同時に国分さんが、弟さんとの時間を大切にしているだろうことも窺い知れた。
 その日の夜は、国分さんの部屋に布団を敷いてもらい、お互いのことを話したりなんかもした。
二人とも、友達の家に泊まったり友達が泊まりに来たりなんて経験が無かったので、今日の出来事で友達としての距離が縮まった気がした。

「俺、中高とも修学旅行は行ってねーから、こういうの…ちょっと青春ぽくて浮かれてるかも」

そう言って笑った国分さんは、いつもの大人びた表情とは打って変わって、年相応の少年らしさが滲んだ。

「僕も…中学は修学旅行、行ってないんです
…だから、なんだか今日は…ワクワクして眠れなさそうです。」
「遠足の前の日の小学生みたいだな。」

お互い顔を見合せて笑った。
 そんな話の流れから、国分さんが振った話題に、僕の思考は凍りついてしまった。

「美術部…入部はしたんですけど…
どうしても、その先に進めなくて……」
「何かあったのか…聞いてもいいか?」
「えっと…僕……」
「ん。無理にとは言わない」

僕はずっと、この話題を心に閉じ込めて誰にも話さずにいた。

「僕、中学の時も美術部だったんです。
それで…三年の夏の…県のコンクールで、審査員特別賞を受賞できたんです」
「すげー!どんな絵描いたんだ?」
「その…僕の住んでるとこって、安川の中でも湖が近くて、それが凄く身近なものだったんです。
…でも、湖のある景色は知ってても、湖の中の…奥底の景色は知らないから、それがどんなだろうって考えて…想像して絵にしたんです」
「あれ、俺…その絵、見たことあるかも……」
「え…?」
「そのコンクールの展示、県立の美術館であったろ?」
「確かに…そうですが……」
「やっぱり。確かあの時、美術館のイベントかなんかで…いおりと一緒に来てたから、そっちも見に行ったんだよ。
その時見た、水の中の絵が…すげー印象的だったの、覚えてる」
「そうだったんですね…」
「あの絵…水澄の絵だったのか……」
「まさか…国分さんが見ててくれたなんて……」

あの絵を見ていてくれた人がいた…そして覚えていてくれた人がいた、それだけで救われた。
しかもそれが国分さんだったなんて、それだけで充分だった。
嬉しい反面、この先の事を話すことが殊更辛くなった。
なぜならあの絵は、今はもう存在しないのだから。
黙り込んだ僕は膝を抱えて俯くしかできなかった。

「どうした?」
「あの絵…あの絵は、もう……」

 知らぬ間に涙が頬を伝っていた。

「水澄?!」
「あ、いえ…あの…ごめんなさい」
「いや、辛いなら…もういいから」

また頭をポンポンと撫で、その手で涙を拭っていった。
僕は国分さんのその手を取ると、両手で包むようにギュッと握った。
心なしか、国分さんに話すことで、何か変化があるかもしれないと思えた。

「あの絵、今はもう存在しないんです」
「…え?!」
「あの絵…コンクールで受賞したあと、美術館に保管されるはずだったんですけど、その前に一週間だけ校内展示されてたんです。
その一週間の間に…誰かに黒く塗りつぶされてて……」
「そんな…酷ぇこと…
信じられねぇ……」

『あれれぇー水澄ちゃん、泣いちゃうの?
泣いちゃうのかなー?』
脳裏に甦るのは、からかうように嘲る声と、それに同調してせせら笑う声。

「きっと、僕が…そういう存在だったから……」
「そんなの、理由にならないだろ?!
誰であれ…人が命削って生み出したモンを、汚していい理由にはならないだろ!」
「…国分さん……」
「それで、学校側は何て?
つーか、器物損壊とかになんねーのかよ?」
「学校側も…一応は調査したりとか、全校集会なんかもあったんですけど、犯人の目星はついていたものの、明確な証拠には繋がらなくてお咎めなしで、学校側からの謝罪はあったけど…結局は有耶無耶になって……
美術館側には、どう対応したのかも…もう知らないし、塗りつぶされた絵も、処分してもらったんです。」

 話し終わった途端、堰を切ったように涙が溢れだした。
あの当時は、涙すら出なかったのに。
僕が今、美術部への扉を開けられない原因となっていることだって、わかっているはずなのに。
今はもう、あの時とは違うってことも、わかっているはずなのに……

「…水澄……
ごめんな、思い出したくもなかっただろうに」

自分でもどうしたらいいのかわからないくらい、涙が止まらなくなった。
嗚咽を漏らしながらしゃくりあげる僕を、国分さんは抱き留めて宥めるように背中を撫でてくれた。
一頻り泣いて、呼吸が整うまでずっと。
 どうしよう。このまま離れたくない。
国分さんを隣のベッドへ戻らせたくない。

「水澄、こっち来いよ」

国分さんは、しがみついたまま離れられないでいる僕を、ベッドに引き上げ横たえた。
添い寝するように背中にまわされた腕の重みが心地好くて、肌を伝って感じる国分さんの鼓動に安心感を貰える。
また迷惑をかけてしまっている自覚はあった。
けれどそれ以上に、この優しい腕の中に身を委ねていたかった。
そうして間もなく、微睡みの中に意識を手放していくのだった。