前髪の切れない男の話。


 急いで扉を開けると、篠崎と目が合った。その瞬間、目と目の間にあるはずの空間が、まるで膨らんだ風船のように歪み、世界全体がちょっとだけ傾いた気がした。いや、傾いたのではなく、私の心が勝手に傾いているのだ。

「やあ篠崎、おはよう。今日はいい一日になりそうだね」
「お、おはよう、ございます。あえ?先輩の部屋ってここじゃなかったでしたっけ?いつの間にお引越しなさったんですか?」

「いや、えっと……これには訳が」
「おやおや、塚原君の後輩ちゃんかね」

私の後ろから、小野的女史がひょっこりと現れた。その姿は、夜明け前の静かな街に、突如現れた女帝のようで、乱れた部屋着を整える手つきは、世界の速度に文句をつけることもなく、ただ静かに裾を引っ張り、肩のラインを直している。空気は一瞬だけ厚くなり、篠崎の鼓動は迷子の鳥のように部屋の中を飛び回った。

この状況、非常にまずいのではないか。いや、非常にまずい。
恐らく篠崎は、私と小野的女史が淫らで破廉恥であいまいな関係にあると誤解してしまったに違いない。いや、間違いなく誤解しているのだ。早く、この幻想を破壊しなければ。

例え山部や仁王立先輩に同じ光景を見られても、私の心が痛むどころか、彼らの心が痛むだけだ。まあ、それは許せる。
だが、篠崎は別だ。あの篠崎に、かつて恋した人に誤解されたままの姿を見せるわけにはいかない。そんなことは私が絶対に許せない。

私は心の中で小さな爆発を起こしながら「今すぐ、何としてでも誤解を解かねば!」と思った。

頭の中では、混沌の宇宙に浮かぶ小惑星群を、一つずつ元の軌道に戻す魔法使いのような作業が始まり、篠崎の混乱を少しずつ解消するための戦略が、次々に立ち上がっては消え、また立ち上がる。いや、魔法使いではない。ただの先輩である。ただの先輩として、篠崎を救わなければならないのだ。誤解を解かなければ。
  
「あ、あの、先輩……いや、あの、その、ちょっと待ってください、一旦落ち着かせてください」

篠崎は両手を宙にばたつかせ、まるで見えないロープに縛られた操り人形のように身をよじった。声は途中で空中にぶつかり、弾ける泡のように破裂して消えた。私の頭の中では、彼女の心臓が小型の花火を次々と打ち上げている映像が再生されており、そのたびに部屋の天井がわずかに揺れるような錯覚に陥る。

「ち、違うんだ。これは篠崎が思っているような関係じゃ」

しかしその言葉は、まるで火花になって宙を舞い、重力を無視して漂うだけで届かない。篠崎は部屋の中を三歩前に出て二歩下がり、見えない迷路に迷い込んだ子猫のように、尻尾の代わりに動揺を振り回している。私は思わず、彼女の存在を小さな模型の宇宙で俯瞰している錯覚に陥った。惑星は彼女の動揺に引かれて揺れ、彗星は彼の焦燥に巻き込まれて炎を吹き上げる。

その間にも小野的女史は、全く無関心のまま、静かに部屋着の裾を引っ張り、肩のラインを整える。まるで世界の速度など小野的女史の都合でしかなく、私の焦燥も篠崎の混乱も、ただ滑稽な背景音にすぎないかのようだ。

「先輩って、彼女いたんですか。しかもこんな美人さんが。よかったですね。あ、これから鴨川で撮影始めるんで、先輩も後で来てください。では」
「ち、違うんだ篠崎!これは誤解だ!誤解なんだーー!」

その冷たい目線は、まるで私の胸の奥で細かい雪片が渦を巻き、透明なガラスの破片のようにちらちらと舞い散るかのようだった。叫んでも世界はまるで何事もなかったかのように滑らかに動き続け、私の時間だけが、古びた映画のフィルムの一コマ一コマを引き伸ばすかのように、ゆっくり、しかし確実に歪んでいく。篠崎の背中と小野的女史の静謐な女帝っぷりが、二本の映画が同じスクリーン上に映し出されたように、私の視界の中心に並行して焼き付いていくのだった。

「なるほど、誤解か……どうやら私は何か悪いことをしてしまったらしいな」

小野的女史は、そのままゆるやかに首を傾げ、失恋映画の終盤、余韻を残すエンディングロールの中で微笑む女優のように、静かに笑みを浮かべる。その微笑の奥には、時間の流れすら自分の都合でねじ曲げられそうな、冷静で強い意志がちらついた。
篠崎の背中はもう見えない。彼女の存在は、部屋の隅に置き忘れられた小さな模型のようで、私の胸の中で行方不明になり、静かに漂っている。手を伸ばしても届かず、指先が空気の中に引っかかるような感覚だけが残り、時間だけがゆっくりとねじれていくのだった。