前髪の切れない男の話。

家に帰り、机と向き合ってから、私は一時間と四十三分、何も書けずにいた。
これは決して怠惰ではない。
断じて怠惰ではない。
これは、創作における「助走」であり、「精神の準備運動」であり、いわば文章を書く前の文章なのである――と、私は自分に向かって三回ほど力強く言い聞かせたが、机の上の原稿用紙は、白紙という名の無言の抗議をやめなかった。
私は椅子に深く座り直し、天井を仰ぐ。
天井はいつも通り、何の啓示も与えてくれない。
こういうとき、天井という存在はまったく無責任である。

「……映画を撮る、だと?」

昼間の自分の発言を思い出し、胃のあたりがひくりと痙攣した。
あれは一体、どこの誰が口にした言葉だったのか。
少なくとも、これまでの人生で、締切を守った試しがなく、企画を完遂した記憶も乏しいこの私――塚原裕二の発言とは、到底思えない。
机の引き出しを開けると、未使用のノートが三冊出てきた。
一冊目は「構想ノート」、二冊目は「プロット用」、三冊目は、なぜか「最終稿」と書かれている。
順序が狂っている。
いや、狂っているのはノートではなく、私の人生設計の方だ。
私は最終稿と書かれたノートをそっと閉じた。
これはまだ見てはならない。
人間には、見ていい現実と、見てはいけない現実がある。
ペンを握る。書く。……書けない。
代わりに、篠崎のあの、やけに楽しそうな顔が脳内で勝手に再生された。

「映画サークルが映画撮らないまま終わる方が、最悪じゃないですか?」

あの一言は卑怯だ。反論の余地がない。
あれは、議論ではなく、事実の提示である。
私はペンを机に置き、頭を抱えた。
なぜ私は、「何かを始める」という行為を、ここまで過剰に神聖化してしまうのだろう。
映画を撮ると言えば、完璧な脚本が必要で、
卓越した演出が必要で、観る者の人生を揺るがすテーマが必要で、少なくとも誰かに「傑作だ」と言わせなければならない――
そんな幻想が、私の思考を雁字搦めにしている。
だが現実には、世の中の大半の映画は、そこそこ撮られ、そこそこ忘れ去られている。
そして、それでいいのだ。
……頭では分かっている。
分かっているが、腹が納得しない。
私は立ち上がり、鏡を見る。
前髪が、相変わらず鬱陶しい。

「お前は、切られるのを待っている」

床屋の店主の声が、幻聴のように蘇る。
まったく、あの男は余計なことしか言わない。
私はハサミを探し、洗面所の棚を開けた。

あった。

普通の、文房具屋で買った、実に凡庸なハサミだ。これで切ってしまえば、沖田ハサミも、傑作の映画制作も、すべてなかったことにできるのではないか。
私は震える指で前髪をつまみ、鏡を睨む。
……だめだ、切れない。
結局私は、ハサミを棚に戻し、机に戻った。
逃げたのである。
再びノートを開き白紙の見つめる。こうしていれば勝手に文字が浮かび上がってきたりしないだろうか。
私は、深呼吸を一つして、こう書いた。
――前髪を切れない男の話。
それだけ書いて、ペンを止めた。
しかし不思議なことに、胸の奥が、ほんのわずかだけ軽くなった。
大作でなくていい。
革命的でなくていい。
幻のハサミが出てこなくてもいい。
これは、優柔不断な男が、切れない前髪と、撮れない映画と、決めきれない人生を抱えたまま、それでも何かを書こうともがく話なのだ。

それなら――

これは、私の守備範囲である。
時計を見ると、すでに深夜だった。
世界は静まり返り、天井は相変わらず無責任だ。
私はペンを持ち直し、書き始める。
失敗する未来は、はっきりと見える。
だが、何も書かない未来よりは、まだマシだ。
こうして私は、
自作映画という名の地獄の入り口に、
原稿用紙一枚分だけ、
そっと足を踏み入れたのであった。

その時だった。大きな物音が隣から聞こえてきたのだ。
地震でも起きたのかと心配したが、違った。
この建物が、地震程度であれほど派手な音を立てるはずがない。ここは、築年数だけは無駄に誇らしげな、大学生向け木造アパートなのである。倒壊はするかもしれないが、予兆としての轟音などという親切な演出は期待できない。
次に思い浮かんだのは、強盗であった。
隣人が、ついに人生に絶望して刃物を振り回している可能性である。
あるいは、家具の反乱。
あるいは、霊的な何か。
いずれにせよ、あまり関わりたくない。
私は耳を澄ませた。
沈黙。
そして――

「うわあああああああっ!」

明確に人間の声だった。
しかも、かなり切実な種類の。
私は立ち上がり、ドアの前まで行って、そこで止まった。
この一歩を踏み出すか否かで、今後の人生が微妙に変わる気がしたからだ。
人生とは、だいたいそういう些細な逡巡の積み重ねでできている。
しかし次の瞬間、ドン、という音とともに、壁が震えた。
これはもう無視できない。
少なくとも、隣人が家具に殺されかけている可能性は高い。
意を決してドアを開け、隣の部屋の前に立つ。
ドアは半開きだった。

「小野的さん!大丈夫ですか!?」

返事はない。

「俺です!塚原です!」

返事は、ない。

「入りますからね!」と言ってドアを引くと、
思ったよりもあっさり開いた。
抵抗はなく、悲鳴もなく、ドラマチックな間もない。
この時点で、私の中の非常ベルは一段階、静かに音量を下げた。

「…小野的、さん?」

そこには露出度の高い部屋着姿の小野的と何故かひっくり返っている二人掛けのソファーがあった。部屋はアルコールの匂いと香水の匂いが混ざった嫌な匂いが充満していた。
正確に言えば、「嫌な匂い」というより「状況を説明しすぎる匂い」である。
安酒の自己主張の強さと、誰かが“これで何とかなるはずだ”と信じて振りかけた香水の虚しさが、空気中で無益な和解を果たしていた。
私は一歩、部屋の中に踏み出した。
ソファーは完全に裏返っている。
あれは事故ではない。明確な意志をもって転倒している。
つまり、この部屋では、少なくとも一度、「感情」が物理法則に勝利した瞬間があったのだ。

「……小野的さん?」

返事はない。
小野的は、床に横たわったまま、片手を中途半端に空へ伸ばしている。
その姿は、遭難者というより、議論に敗れた哲学者に近い。
私はしゃがみ込み、鼻先に手をかざした。
呼吸はある。
ただし、かなり自由奔放だ。

「……生きてますね」

この確認を口に出してしまうあたり、私は相当動揺している。
床には、空になった缶、半分残った缶、なぜか未開封の缶が混在している。
完全に計画性のない飲酒だ。
いや、計画はあったのかもしれないが、開始三十分で放棄されたのだろう。

「……何があったんですか」

唸るような声の後、「…いやぁ、塚原君。こんなところで会うなんて奇遇だね」と言い放った。
私は一瞬、耳を疑った。小野的の声は、まるで寝ぼけた猫が自分の尾を踏んだときのような、なんとも言えない間の抜けた響きを持っていた。

「奇遇……ですか」

私はそっと、床に落ちている空き缶を踏まないように注意しながら近づいた。小野的は、片手を空に伸ばしたまま、まるで重力に抗う儀式でも行っているかのように、床に横たわっている。その露出度の高い部屋着は、まるで「冒険の準備は整った」とでも言うように私を挑発していた。

「…奇遇というか、“偶然の惨状目撃”ですよ、これは。一体何があったんですか?」

「話すのも恥ずかしい限りなのだがね。そこにあるソファーが落ちてきてしまったのだよ」

私は一瞬、言葉を失った。

「……ソファーが、落ちてきた、ですか?」

小野的は床に横たわったまま、片手を宙に浮かせ、まるで天井のソファーに抗議するかのように目を細めた。
その光景は、哲学書の挿絵として出てきてもおかしくない、しかし現実としてはあまりにシュールすぎる場面だった。

「そう、落ちてきたのだよ。全ては偶然の産物で、誰の責任でもない――とは言え、君にとっては驚き以外の何物でもあるまい」

私は天井を見上げる。ソファーは完全に裏返って床に横たわり、その向こう側に、数々の空き缶と香水の瓶が、まるで戦場の残骸のように散乱していた。

「偶然の産物、ですか……」
「そう、偶然だ。だが、人生というものは常に偶然の連鎖で成り立っている。今日ここに君が来たのも、そして私がこのような惨状に遭遇したのも、すべて偶然の必然なのだよ」

その“偶然の必然”という言葉に、私は小さくうなずくしかなかった。
ソファーの下から、半分潰れた空き缶を拾い上げると、冷たいアルミの感触が現実を思い出させる。
だが、小野的の視線は、どこか遠くを見据えたままだ。

「……で、ソファーは大丈夫ですか?」

小野的は微かに笑みを浮かべた――いや、笑みなのか、ただ口元が歪んでいるだけなのか。


「ソファーもまた、人生の試練の一部である。直すこともできるが、放置することで得られる教訓もあるのだ」

私は思わず息を吐いた。
この部屋の論理は、家具さえも哲学の教材にしてしまうらしい。


「……なるほど、家具哲学、ですか」
「いや、家具哲学という名前は誰もつけてくれない。しかし、君が今ここで体験していることは、確かに哲学なのだよ」

私は散らかった床を見下ろし、そして小野的の顔を見上げた。


「……じゃあ、この惨状から学ぶべきことは、何ですか?」

小野的はゆっくりと天井を見上げ、少し間を置いてから答えた。

「簡単さ。ソファーは吊るすべきではないと言うことだね」


話を聞くに、小野的女史は近頃、ハンモックで眠る生活に対して、やや過剰とも言える憧憬を募らせていたらしい。日々の業務、締切、報われぬ努力といった諸々の現実から逃避するには、揺れながら眠るという行為が最適解であると言う。その結論自体は、決して理解不能ではない。問題は、その解決方法であった。
小野的女史は、真剣であった。
彼女は、安易に通販サイトでハンモックを購入するような人間ではない。まず部屋の広さを測り、天井を見上げ、梁の有無を確認し、ついでに人生についても一考した末、「ないものは作ればよい」という、非常に前向きで非常に危険な思想に到達したのである。
そこで彼女の視界に入ったのが、あのソファーであった。
寝心地が良い。頑丈である。何より可愛い。可愛いという点は、彼女にとって決定打であったらしい。どうせ吊るすなら、愛着のあるものがいいではないか。人は人生を預ける対象に、必ずしも合理性だけを求めない。小野的女史は、そういうところがある。
かくして彼女は、ソファーを「少し持ち上げて」「揺らして」「眠る」という、誰もが一度は頭の片隅で思いつき、賢明にも即座に却下する構想を、最後まで育て上げてしまったのだ。ロープは十分に太かった。結び目も、ネットで調べた通りに作ったという。努力はしている。方向性が壊滅的に誤っていただけで。
結果は、想像に難くない。
物理法則は一時的に黙認したふりをし、最も油断した瞬間に牙を剥いた。ソファーは落ち、香水は舞い、小野的女史は床に横たわった。しかし彼女は、そこから動こうとしなかった。敗北を受け入れる潔さと、「まあ、こういう日もある」という諦観が、彼女には同居している。

「失敗したとは思っていないのだよ」

床に寝転がったまま、彼女はそう言った。


「試みた、という事実が大切なのだ」

私はその前向きさを、羨ましいと思うべきか、警戒すべきかで少し迷った。
確かに彼女は厄介だ。部屋は散らかり、ソファーは裏返り、隣人の平穏な夜は破壊された。しかし同時に、小野的女史は、私が長年避け続けてきた「やってみる」という行為を、ためらいなく実行してしまう人間でもある。
だから私は、床に転がるソファーを見ながら、ほんの少しだけ思ったのだ。
彼女がもし映画サークルにいたら、私たちはもう、とっくに一本くらい映画を完成させていたのではないか――と。


そうだ、そうだったのだ。近くに居たのに、何故私は気が付かなかったのだろう。小野的女史を今回の応募作に関わらせてしまえば、もしかすると、この映画サークルは、とんでもない速度で一本くらいの作品を完成させられるのではないか――と、床に転がるソファーと、空き缶と、香水の匂いを混ぜた何とも言えぬ空気を眺めながら、私は思った。
だが、普通に勧誘したところでこの人はぴたりとも動かないだろう。
いや、正確に言うと、動かないのではなく、動く理由がなければ、全宇宙が崩壊しても動かないタイプである。動かすためには、いわば“借り”が必要なのだ。たとえそれが、床に散らばった空き缶や倒れたソファーの後始末という、凡庸かつ地味な行為であったとしても。

「小野的さん! この部屋の掃除を、私に一任してはいただけませんか?」

私としては、かなり思い切った提案をしたつもりであった。人は往々にして、散らかった部屋に足を踏み入れた瞬間、「これは自分の管轄外だ」と判断して撤退するものである。

しかし私は違った。
なぜなら、この悲惨な状況をどうにかして好機と変貌させるためである。
小野的女史は、床に横たわったまま、片眉をわずかに動かした。その動きには、「その申し出、誠に興味深いが、どこか致命的な誤解が含まれているね」という含みがあった。

「それは何故だい?」

彼女はゆっくりと問い返す。
その声は落ち着いており、まるで今自分の部屋が戦場の跡地であるという事実を、一時的に棚上げしているかのようだった。

「流石の私でもね、履き終えた下着をその辺に投げたりはしないのだよ。ちゃんとその日のうちに洗濯してしまう」

私は反射的に、聞きたくなかった情報を聞いてしまった顔になった。

「だから仮に塚原君が、あちこちくまなく探したとしてもだ。見つかる保証はどこにも無い。むしろ、見つからない可能性の方が高い」

彼女はそこで一息つき、どこか誇らしげに付け加えた。

「これはね、整理整頓の問題ではなく、生活習慣の勝利なのだよ」

私は言葉を失った。
掃除を申し出たつもりが、いつの間にか下着管理の哲学を講釈されている。しかも、論理の筋だけは通っているのが厄介である。

「……いえ、その、そういう意味ではなくてですね」

私は慎重に言葉を選んだ。ここで不用意な発言をすれば、話題は香水、飲酒、あるいはソファーの吊り方にまで拡散しかねない。

「単純に、危険物が多いので。缶とか、瓶とか、あとその……倒れた家具とか」
「ふむ」

小野的女史は天井を見上げたまま、満足そうに頷いた。

「確かに、現状は少々、初心者には厳しいダンジョン構成かもしれないね」

ダンジョン。
そう表現されると、急にこの部屋が攻略対象のように見えてくるから不思議である。

「では、任せようじゃないか」

彼女はそう言って、片手をひらりと振った。

「私は床で思索に耽っている。その間に、君は世界を整えるといい」
「……人の部屋を掃除するのに、そんな壮大な役割を与えられるとは思ってませんでした」
「何事も、役割意識が大切なのだよ」

私は小さくため息をつき、まずは目の前の空き缶を一つ拾い上げた。
冷たい金属の感触が、奇妙に現実的だった。
この人は、確かに厄介だ。
だが同時に、倒れたソファーの下からでも平然と人生を語り始めるこの人を、私はどこか憎めずにいた。
少なくとも――
この人は、やってしまった後で考えるタイプなのだ。

朝、目が覚めた私の目前には、清々しいほどの綺麗な部屋が広がっていた。
何と言うことでしょう。床の見えなかった部屋が――まるで昨夜の混沌が夢だったかのように――すっかり姿を現しているではありませんか。
空き缶は跡形もなく消え、倒れたソファーはきちんと元の位置に戻り、香水の匂いもどこか遠くへ飛んでいったかのようだ。天井は相変わらず何の啓示も与えず、ただ静かに朝の光を受け止めている。
私はそっと床に手を置いた。冷たく、しかし確かに現実的な感触。指先から伝わる木の温もりに、昨夜の騒動がまるで別世界の出来事だったかのように思えてくる。あまりの変貌に、私は涙を堪えることで精一杯だった。
隣に目を落とすと、小野的女史が依然としてそこに横たわっていることに気がついた。片手をだらりと伸ばし、もう一方の手は胸の上で組まれ、まるで“混沌の後に静寂を楽しむ哲学者”のようだ。彼女の表情は、まったくもって平然としている。いや、平然を通り越して、どこか満足げでさえある。

「……君、よく眠れたかい?」と、かすかに微笑むその声が、清々しい空気の中に静かに溶け込む。
私は立ち上がり、軽く頭をかきながら応えた。


「ええ……まるで、昨夜の悪夢が夢幻のごとく消えたみたいです」

小野的女史はにやりと笑い、片手を床に伸ばして軽く腕を突っ張った。


「そうだろう?混沌を片付けるのも、たまには悪くないものだな」