まず第一に、篠崎がいきなり靴紐を踏みつけ、信じられないほど滑稽に転びそうになったのである。
カエルが車に引かれたような、聞くに堪えない酷い声だった。
転びそうになっただけで済んだのは、幸いにも私が咄嗟に手を差し伸べたからだったが、その瞬間、私たちの尊い冒険感は、まるで砂糖菓子を床に落としたかのようにしぼんだ。
聞き込み調査をしようとするも、山部は黙って店の周囲を観察し、時折腕組みして天を仰ぐのみ。その姿は、まるで路地の神々と交渉しているかのように厳かで、しかし誰も気づかない。私が勇気を出して店の店主に質問を始めると、返ってくるのは「沖田? ハサミ?」と首をかしげるだけの反応である。どうやらこの街の人々にとって、沖田ハサミというのは存在自体が都市伝説の類らしい。
私は、篠崎の手を引きながら、通りすがりの猫にも目を向けた。猫は、まるで我々の冒険を嘲笑うかのように、すっと横切っていく。その背中の毛並みの流れを見つめているうちに、聞き込みの手応えが、まるで泡のように指の間からすり抜けていく気がした
その場で、胸の奥に小さな絶望を感じた。奇妙奇天烈な冒険のはずが、どうやら「迷子になった三人組の昼下がりの徘徊」と化してしまったらしい。
そして篠崎は言った。
「先輩、これって、冒険っていうより、おつかいを失敗した、ただの大学生じゃないですか?」
その一言に、私の心はかすかに震えた。いや、震えるどころか、微妙に膝が揺れるほどだった。尊い恋愛は? 摩訶不思議は? どこに行った?
こうして私たちは、冒険の幕開けを待ちながらも、現実の重力に引き戻される三人組として、ひとまず石畳の迷路を歩き続けるのであった。
最後の希望であったたこ焼き屋さんの前にたどり着くと、そこはどういうわけか完全に無人で、鉄板の上には熱々のたこ焼きが一つもない。代わりに、小さな張り紙が風に揺れていた。
"沖田ハサミは置いてません 今日も平和に営業中"
篠崎は眉をひそめ、私の肩を軽く叩いた。
「平和って……何それ、冒険感ゼロじゃないですか」
山部は無言で唇を引き結び、看板の下の石畳に視線を落とした。その目は、まるで「しかし、これは試練の入り口に過ぎぬ」とでも言いたげである。私は小さく息をつき、たこ焼き屋の前で立ちすくんだまま、冷たい風が頬を撫でるのを感じた。
しかし、ふと目を上げると、店の壁に貼られた紙が風で靡き、奇妙な光が瞬いたのを私は見逃さなかった。
それは、あまりにも胡散臭いポスターであった。
色褪せた紙面に踊る「自作映画コンクール!」の文字は、明らかに過去の栄光を食い潰して生き延びてきた類の勢いを帯びており、「幻のハサミをプレゼント!」に至っては、もはや幻という言葉そのものが照れ隠しに見えるほどである。第一、幻のハサミとは何だ。切れるのか。切れないのか。切ったところで人生は好転するのか。しないだろう。断じて。
即座にこのポスターに関わるべきではないと私は悟った。
人は往々にして「幻」という語に弱いが、私は違う。私はこれまでの人生で、数多の幻――成功の幻、恋愛の幻、締切に間に合う幻――に裏切られてきた男である。幻に期待するほど、愚かな行為はない。
「ねえ……これ、もしかして……」
「これは、ただの宣伝だ。映画祭の。幻とか書いてあるのは、集客のための誇張に決まっている」
篠崎は一瞬、私を見上げ、それからポスターをもう一度じっと眺めた。その目は、猫が開かない戸棚の中身を想像するときのそれに似ていた。
「でも先輩、私達って映画サークルですよね」
この一言は、私の過去を丁寧に整理整頓したうえで、床にぶちまける破壊力を持っている。
脚本を書き、編集に口を出し、編集に追われながら寝れない夜を何度も越した結果として、何一つ完成させなかった。撮りたい映画は山ほどあったが、残る映画は一つもなかった。理想は常にハリウッド規模、予算は常に学食のカレー以下。その落差を埋める勇気が、私にはなかったのである。
上映会と称して居酒屋に集まり、映画論を語るふりをしては終電を逃し、次回作については「次こそは」と言い続けて二年が経過している集団と化してしまった。
「おい、塚原。これよく見てみろよ。この審査員のところ」
山部が、たこ焼き屋の壁に貼られたポスターを指で叩いた。その指は無駄に太く、無駄に確信に満ちており、まるで“ここを見落とすと人生を誤る”とでも言いたげである。私は気乗りしないまま、視線だけをそちらに滑らせた。
その文字を見ただけで、私は条件反射的に肩をすくめた。審査という行為は、常に私の人生において不利に働いてきたからである。原稿は落とされ、企画は通らず、恋愛に至っては審査の土俵にすら上げてもらえなかった。審査員とは、そうした私の黒歴史を一身に背負った概念装置なのだ。
「……誰だよ」
ぼそりと呟きながら、私はポスターに顔を近づけた。
色褪せたインクで並ぶ数名の名前。その大半は、聞いたこともないか、聞いたことがあるような気がするが調べる気は起きない、非常に中途半端なラインナップである。ところが、その中に、
「あ」
声が、勝手に漏れた。
山部も眉を動かす。篠崎は私の横から覗き込み、首を傾げた。
「この人……」
指先が、一つの名前の上で止まる。私はその文字列を、何度も何度も脳内で反芻した。
沖田 恒一。
それは、映画サークルに入ったばかりの一年生の頃、誰かが酒の席で語っていた名前だった気がする。
自主映画界の変人。一作だけ撮って、忽然と姿を消した監督。あの来栖栗鼠を世に生み出し「編集点を間違えたまま公開した伝説の男」。
真偽のほどは定かではない。だが、確かにその名前は、私の中のどこかに沈殿していた。
「……沖田」
思わず口にした瞬間、篠崎が、はっとしたように私を見る。
「え、先輩。沖田って……」
「ハサミの、だよな」
山部が低く言った。その場の空気が、ほんの一瞬だけ固まった。昼下がりの街のざわめきが、遠くに退き、私たち三人と、この色褪せたポスターだけが、奇妙に切り取られたような感覚。
偶然だ。きっと、ただの同姓同名だ。沖田という名前自体、そこまで珍しくもない。そう思おうとした。思おうとしたのだが。
「……幻のハサミ、ってさ」
篠崎が、小さな声で言った。
「もしかして、”沖田さんが使ってたハサミ”とか、そういう意味じゃないですか?」
私は、何も言えなかった。ポスターの紙が、風に揺れる。
《応募締切:今月末》
私はまだ切られていない前髪に触れた。さっきよりも、確実に邪魔だった。
「……最悪だな」
誰に向けたともなく呟くと、
篠崎が、少しだけ楽しそうに笑った。
「でも先輩、映画サークルが映画撮らないまま終わる方が、もっと最悪な物語じゃないですか?」
その一言は、驚くほど軽く、しかし正確に私の急所を突いてきた。その可能性は、これまで何度も想定してきたはずなのに、改めて言語化されると、急に現実味を帯びるから不思議である。まるで、ずっと部屋の隅に積んで見ないふりをしてきた段ボールに、ある日突然「未完の人生」と油性ペンで書かれたような気分だった。
——さて、困った。
私は、こういう展開に、めっぽう弱い男なのだ。
カエルが車に引かれたような、聞くに堪えない酷い声だった。
転びそうになっただけで済んだのは、幸いにも私が咄嗟に手を差し伸べたからだったが、その瞬間、私たちの尊い冒険感は、まるで砂糖菓子を床に落としたかのようにしぼんだ。
聞き込み調査をしようとするも、山部は黙って店の周囲を観察し、時折腕組みして天を仰ぐのみ。その姿は、まるで路地の神々と交渉しているかのように厳かで、しかし誰も気づかない。私が勇気を出して店の店主に質問を始めると、返ってくるのは「沖田? ハサミ?」と首をかしげるだけの反応である。どうやらこの街の人々にとって、沖田ハサミというのは存在自体が都市伝説の類らしい。
私は、篠崎の手を引きながら、通りすがりの猫にも目を向けた。猫は、まるで我々の冒険を嘲笑うかのように、すっと横切っていく。その背中の毛並みの流れを見つめているうちに、聞き込みの手応えが、まるで泡のように指の間からすり抜けていく気がした
その場で、胸の奥に小さな絶望を感じた。奇妙奇天烈な冒険のはずが、どうやら「迷子になった三人組の昼下がりの徘徊」と化してしまったらしい。
そして篠崎は言った。
「先輩、これって、冒険っていうより、おつかいを失敗した、ただの大学生じゃないですか?」
その一言に、私の心はかすかに震えた。いや、震えるどころか、微妙に膝が揺れるほどだった。尊い恋愛は? 摩訶不思議は? どこに行った?
こうして私たちは、冒険の幕開けを待ちながらも、現実の重力に引き戻される三人組として、ひとまず石畳の迷路を歩き続けるのであった。
最後の希望であったたこ焼き屋さんの前にたどり着くと、そこはどういうわけか完全に無人で、鉄板の上には熱々のたこ焼きが一つもない。代わりに、小さな張り紙が風に揺れていた。
"沖田ハサミは置いてません 今日も平和に営業中"
篠崎は眉をひそめ、私の肩を軽く叩いた。
「平和って……何それ、冒険感ゼロじゃないですか」
山部は無言で唇を引き結び、看板の下の石畳に視線を落とした。その目は、まるで「しかし、これは試練の入り口に過ぎぬ」とでも言いたげである。私は小さく息をつき、たこ焼き屋の前で立ちすくんだまま、冷たい風が頬を撫でるのを感じた。
しかし、ふと目を上げると、店の壁に貼られた紙が風で靡き、奇妙な光が瞬いたのを私は見逃さなかった。
それは、あまりにも胡散臭いポスターであった。
色褪せた紙面に踊る「自作映画コンクール!」の文字は、明らかに過去の栄光を食い潰して生き延びてきた類の勢いを帯びており、「幻のハサミをプレゼント!」に至っては、もはや幻という言葉そのものが照れ隠しに見えるほどである。第一、幻のハサミとは何だ。切れるのか。切れないのか。切ったところで人生は好転するのか。しないだろう。断じて。
即座にこのポスターに関わるべきではないと私は悟った。
人は往々にして「幻」という語に弱いが、私は違う。私はこれまでの人生で、数多の幻――成功の幻、恋愛の幻、締切に間に合う幻――に裏切られてきた男である。幻に期待するほど、愚かな行為はない。
「ねえ……これ、もしかして……」
「これは、ただの宣伝だ。映画祭の。幻とか書いてあるのは、集客のための誇張に決まっている」
篠崎は一瞬、私を見上げ、それからポスターをもう一度じっと眺めた。その目は、猫が開かない戸棚の中身を想像するときのそれに似ていた。
「でも先輩、私達って映画サークルですよね」
この一言は、私の過去を丁寧に整理整頓したうえで、床にぶちまける破壊力を持っている。
脚本を書き、編集に口を出し、編集に追われながら寝れない夜を何度も越した結果として、何一つ完成させなかった。撮りたい映画は山ほどあったが、残る映画は一つもなかった。理想は常にハリウッド規模、予算は常に学食のカレー以下。その落差を埋める勇気が、私にはなかったのである。
上映会と称して居酒屋に集まり、映画論を語るふりをしては終電を逃し、次回作については「次こそは」と言い続けて二年が経過している集団と化してしまった。
「おい、塚原。これよく見てみろよ。この審査員のところ」
山部が、たこ焼き屋の壁に貼られたポスターを指で叩いた。その指は無駄に太く、無駄に確信に満ちており、まるで“ここを見落とすと人生を誤る”とでも言いたげである。私は気乗りしないまま、視線だけをそちらに滑らせた。
その文字を見ただけで、私は条件反射的に肩をすくめた。審査という行為は、常に私の人生において不利に働いてきたからである。原稿は落とされ、企画は通らず、恋愛に至っては審査の土俵にすら上げてもらえなかった。審査員とは、そうした私の黒歴史を一身に背負った概念装置なのだ。
「……誰だよ」
ぼそりと呟きながら、私はポスターに顔を近づけた。
色褪せたインクで並ぶ数名の名前。その大半は、聞いたこともないか、聞いたことがあるような気がするが調べる気は起きない、非常に中途半端なラインナップである。ところが、その中に、
「あ」
声が、勝手に漏れた。
山部も眉を動かす。篠崎は私の横から覗き込み、首を傾げた。
「この人……」
指先が、一つの名前の上で止まる。私はその文字列を、何度も何度も脳内で反芻した。
沖田 恒一。
それは、映画サークルに入ったばかりの一年生の頃、誰かが酒の席で語っていた名前だった気がする。
自主映画界の変人。一作だけ撮って、忽然と姿を消した監督。あの来栖栗鼠を世に生み出し「編集点を間違えたまま公開した伝説の男」。
真偽のほどは定かではない。だが、確かにその名前は、私の中のどこかに沈殿していた。
「……沖田」
思わず口にした瞬間、篠崎が、はっとしたように私を見る。
「え、先輩。沖田って……」
「ハサミの、だよな」
山部が低く言った。その場の空気が、ほんの一瞬だけ固まった。昼下がりの街のざわめきが、遠くに退き、私たち三人と、この色褪せたポスターだけが、奇妙に切り取られたような感覚。
偶然だ。きっと、ただの同姓同名だ。沖田という名前自体、そこまで珍しくもない。そう思おうとした。思おうとしたのだが。
「……幻のハサミ、ってさ」
篠崎が、小さな声で言った。
「もしかして、”沖田さんが使ってたハサミ”とか、そういう意味じゃないですか?」
私は、何も言えなかった。ポスターの紙が、風に揺れる。
《応募締切:今月末》
私はまだ切られていない前髪に触れた。さっきよりも、確実に邪魔だった。
「……最悪だな」
誰に向けたともなく呟くと、
篠崎が、少しだけ楽しそうに笑った。
「でも先輩、映画サークルが映画撮らないまま終わる方が、もっと最悪な物語じゃないですか?」
その一言は、驚くほど軽く、しかし正確に私の急所を突いてきた。その可能性は、これまで何度も想定してきたはずなのに、改めて言語化されると、急に現実味を帯びるから不思議である。まるで、ずっと部屋の隅に積んで見ないふりをしてきた段ボールに、ある日突然「未完の人生」と油性ペンで書かれたような気分だった。
——さて、困った。
私は、こういう展開に、めっぽう弱い男なのだ。

