その瞬間、私は悟った。
この床屋は、私のような「決断を先延ばしにすることで人生を保存しようとする軟弱な男子学生」を捕獲するために、太古の昔からこの街に設置されていた罠なのだ、と。
理髪椅子に深く腰掛けた私は、己の不覚を恥じた。なぜ私は、雨宿りの女の忠告ひとつで、ここまで追い詰められねばならぬのか。前髪が長いだけで、人生の態度まで問われるとは、資本主義社会はなんと過酷であろう。
「安心したまえ」
店主は、私の内心をすべて見透かしたかのように、にこりともせず言った。
「前髪を切ったからといって、君の人生が劇的に好転することはない」
私は少し安心した。
「だが」
その「だが」が来るのは、人生の常である。
「切らなければ、劇的に停滞する」
なんという暴論。私は抗議しようと口を開いたが、その瞬間、天井の風鈴が高く鳴り、金魚が一斉に尾を打った。過去の私――原稿を落とし、告白を逃し、駅前で黙り込んだ私――が、水面に次々と反射する。
「これは脅しですか」
「いいや、サービスだ」
店主はそう言って、ハサミを構えた。 その構えは、剣豪の居合にも、料理人の包丁さばきにも似ていない。ただ、長年“迷ってきた人間”だけを相手にしてきた者の手つきだった。
私は観念した。 どうせ私は、どの道を選んでも後悔する男である。ならば、せめて髪くらいは、切られてやろうではないか。
「短すぎるのは困ります」
「人間性が残る程度にはしておこう」
ハサミは開く、だが、閉じられることはなかった。
店主は私の頭上で静止したまま、しばし沈黙した。 沈黙は長く、しかし気まずさよりも、試験前の教室に似た緊張を孕んでいた。
「このハサミでは足りぬな。君の髪を切るにはもっと相応しいハサミがいる」
私はごくりと固唾を飲み込んだ。 人生で初めて、「ハサミの性能不足」を理由に断られた瞬間である。
「……どういう意味ですか」
「文字通りだ。君の前髪は、迷いと未練と希望が絡まりすぎている」
「それ、床屋の守備範囲ですか」
「本来はな。しかし、君は少々、青春が長すぎる」
失礼な話である。 青春とは、短いから尊いのであって、長い場合は単なる優柔不断と呼ばれるのが世の常だ。
店主は私から離れ、棚の奥へと歩いていった。 ぎい、と音を立てて引き出しが開く。そこから取り出されたのは、一つのハサミが写った一枚の写真だった。
「……普通のハサミですね」
「そうだ。だが、少し違う。ここをよく見たまえ」
店主はその写真をゆっくりと私に差し出した。 光の反射で、写真のハサミは確かに「普通」なのに、どこか奇妙に輝いて見える。刃先には「沖田」と微細な文字が刻まれており、それが薄暗い店内の光を受けて、淡く浮かび上がっていた。
「……何が違うんですか」
私は息を呑んで文字を凝視する。
店主は微笑むでもなく、眉をひそめるでもなく、ただ淡々と告げた。
「これを、私の元へ持ってきて欲しい」
理解が追いつかなかった。たかだか伸びた髪を切るだけだったはずなのに、何故私が髪を切ってもらえず、挙げ句の果てには床屋の店主の欲しがっているハサミを探してこなければならないのか。
「ハサミなんてなんでもいいですよ。とにかくこの伸びた髪を切ってください」
懇願するも店主は顎を触るだけでうんともすんとも言わなかった。私は頭を抱えたまま椅子に沈み込み、店主の言葉を反芻した。
「沖田……ハサミ……持ってきて……」
それはまるで、無意味に長い哲学の命題のように、店主の声が私の脳内でくるくると回転していた。
「わかりました……」
私はしぶしぶ呟いた。自分でも信じられないほど小さな声だった。しかし、その声は店内に不思議な反響を生み、金魚たちが一斉に尾を打った。
「では行くがよい。沖田ハサミは、この街のどこかにある」
店主は背中を向け、何も言わずに棚の奥に消えた。
店を出た私を見た山部と篠崎は、揃って目を丸くした。
「何でまだ切ってないんだよ」
山部の声は、夏の夜に遠くで鳴るカエルの声のように重く響いた。私は肩をすくめる。
「……だって、まだ“沖田ハサミ”を探してないからさ」
私はできるだけ平然を装ったつもりだが、口から出た言葉はどう考えても冒険者が魔法の剣を探す序章のセリフだった。
「……は?」 山部は眉を雷のように吊り上げ、目はまるで私の魂を皿の上に乗せてじっくり観察しているかのようだ。
篠崎は両手を頬にあて、くすくすと笑いをこらえている。
「塚原先輩……ますます怪しくなってますね。床屋から出てきたのに、もう既に小説の主人公みたいです」
私は息を整えながら、ふと空を見上げた。昼下がりの光が、街の建物の間でゆらりと揺れる。影が長く伸びて、まるで私を押すように前方に導いている。
「……まあ、仕方ないだろ。店主に言われたんだ、前髪を切るにはまず沖田ハサミを見つけろ、と」
言葉を口にするたび、街の空気が少しだけ震えるような気がした。まるで私の語る奇妙な真実を、街そのものが受け止めているかのようだ。
山部は無言で私を見つめ、やがて低く吐き出す。
「……お前、床屋に入ったのに、いつも通りだな」
篠崎は肩をすくめ、笑いながらもその目は、どこか期待と好奇心で輝いている。
「塚原先輩、面白くなりそうです……私もついて行っていいですか?」
ふわりと軽く肩に触れる指先に、私は思わず立ち止まる。重力を忘れたように、昼下がりの街に吸い込まれていく感覚。
「……ああ、付き合え」
山部の言葉に続いて、私は小さく頷いた。
そうして三人は、奇妙な冒険の幕を開けるために、街の石畳を歩き出す。奇妙奇天烈、摩訶不思議、笑いあり涙あり、尊い恋愛ある旅が始まる。
理髪椅子に深く腰掛けた私は、己の不覚を恥じた。なぜ私は、雨宿りの女の忠告ひとつで、ここまで追い詰められねばならぬのか。前髪が長いだけで、人生の態度まで問われるとは、資本主義社会はなんと過酷であろう。
「安心したまえ」
店主は、私の内心をすべて見透かしたかのように、にこりともせず言った。
「前髪を切ったからといって、君の人生が劇的に好転することはない」
私は少し安心した。
「だが」
その「だが」が来るのは、人生の常である。
「切らなければ、劇的に停滞する」
なんという暴論。私は抗議しようと口を開いたが、その瞬間、天井の風鈴が高く鳴り、金魚が一斉に尾を打った。過去の私――原稿を落とし、告白を逃し、駅前で黙り込んだ私――が、水面に次々と反射する。
「これは脅しですか」
「いいや、サービスだ」
店主はそう言って、ハサミを構えた。 その構えは、剣豪の居合にも、料理人の包丁さばきにも似ていない。ただ、長年“迷ってきた人間”だけを相手にしてきた者の手つきだった。
私は観念した。 どうせ私は、どの道を選んでも後悔する男である。ならば、せめて髪くらいは、切られてやろうではないか。
「短すぎるのは困ります」
「人間性が残る程度にはしておこう」
ハサミは開く、だが、閉じられることはなかった。
店主は私の頭上で静止したまま、しばし沈黙した。 沈黙は長く、しかし気まずさよりも、試験前の教室に似た緊張を孕んでいた。
「このハサミでは足りぬな。君の髪を切るにはもっと相応しいハサミがいる」
私はごくりと固唾を飲み込んだ。 人生で初めて、「ハサミの性能不足」を理由に断られた瞬間である。
「……どういう意味ですか」
「文字通りだ。君の前髪は、迷いと未練と希望が絡まりすぎている」
「それ、床屋の守備範囲ですか」
「本来はな。しかし、君は少々、青春が長すぎる」
失礼な話である。 青春とは、短いから尊いのであって、長い場合は単なる優柔不断と呼ばれるのが世の常だ。
店主は私から離れ、棚の奥へと歩いていった。 ぎい、と音を立てて引き出しが開く。そこから取り出されたのは、一つのハサミが写った一枚の写真だった。
「……普通のハサミですね」
「そうだ。だが、少し違う。ここをよく見たまえ」
店主はその写真をゆっくりと私に差し出した。 光の反射で、写真のハサミは確かに「普通」なのに、どこか奇妙に輝いて見える。刃先には「沖田」と微細な文字が刻まれており、それが薄暗い店内の光を受けて、淡く浮かび上がっていた。
「……何が違うんですか」
私は息を呑んで文字を凝視する。
店主は微笑むでもなく、眉をひそめるでもなく、ただ淡々と告げた。
「これを、私の元へ持ってきて欲しい」
理解が追いつかなかった。たかだか伸びた髪を切るだけだったはずなのに、何故私が髪を切ってもらえず、挙げ句の果てには床屋の店主の欲しがっているハサミを探してこなければならないのか。
「ハサミなんてなんでもいいですよ。とにかくこの伸びた髪を切ってください」
懇願するも店主は顎を触るだけでうんともすんとも言わなかった。私は頭を抱えたまま椅子に沈み込み、店主の言葉を反芻した。
「沖田……ハサミ……持ってきて……」
それはまるで、無意味に長い哲学の命題のように、店主の声が私の脳内でくるくると回転していた。
「わかりました……」
私はしぶしぶ呟いた。自分でも信じられないほど小さな声だった。しかし、その声は店内に不思議な反響を生み、金魚たちが一斉に尾を打った。
「では行くがよい。沖田ハサミは、この街のどこかにある」
店主は背中を向け、何も言わずに棚の奥に消えた。
店を出た私を見た山部と篠崎は、揃って目を丸くした。
「何でまだ切ってないんだよ」
山部の声は、夏の夜に遠くで鳴るカエルの声のように重く響いた。私は肩をすくめる。
「……だって、まだ“沖田ハサミ”を探してないからさ」
私はできるだけ平然を装ったつもりだが、口から出た言葉はどう考えても冒険者が魔法の剣を探す序章のセリフだった。
「……は?」 山部は眉を雷のように吊り上げ、目はまるで私の魂を皿の上に乗せてじっくり観察しているかのようだ。
篠崎は両手を頬にあて、くすくすと笑いをこらえている。
「塚原先輩……ますます怪しくなってますね。床屋から出てきたのに、もう既に小説の主人公みたいです」
私は息を整えながら、ふと空を見上げた。昼下がりの光が、街の建物の間でゆらりと揺れる。影が長く伸びて、まるで私を押すように前方に導いている。
「……まあ、仕方ないだろ。店主に言われたんだ、前髪を切るにはまず沖田ハサミを見つけろ、と」
言葉を口にするたび、街の空気が少しだけ震えるような気がした。まるで私の語る奇妙な真実を、街そのものが受け止めているかのようだ。
山部は無言で私を見つめ、やがて低く吐き出す。
「……お前、床屋に入ったのに、いつも通りだな」
篠崎は肩をすくめ、笑いながらもその目は、どこか期待と好奇心で輝いている。
「塚原先輩、面白くなりそうです……私もついて行っていいですか?」
ふわりと軽く肩に触れる指先に、私は思わず立ち止まる。重力を忘れたように、昼下がりの街に吸い込まれていく感覚。
「……ああ、付き合え」
山部の言葉に続いて、私は小さく頷いた。
そうして三人は、奇妙な冒険の幕を開けるために、街の石畳を歩き出す。奇妙奇天烈、摩訶不思議、笑いあり涙あり、尊い恋愛ある旅が始まる。

