店は、大学から二本裏の通りにあった。派手な看板もなく、赤白青のサインポールが回っているわけでもない。代わりに、色あせた木製の看板が、まるで「ここにあること自体が仕事です」とでも言うように、静かにぶら下がっている。
扉を押すと、外の世界の湿度やざわめきが急に遠のき、まるで別の次元に足を踏み入れたかのようだった。店内は、斜めから差し込む光が窓ガラスを通り抜け、微かに埃混じりの光の筋となって床に落ちている。しかしその光は一定ではなく、風もないのにゆらりと揺れ、時間そのものが息をしているかのような錯覚を覚える。
中央に置かれた理髪椅子は、見た目こそ普通の革張り椅子なのに、座るとわずかに宙に浮くような感覚があり、背もたれに寄りかかると過去の自分と未来の自分が、影のように背後で交錯するように感じられた。天井から吊るされた小さな風鈴は、客の心拍に合わせるのか、あるいは独自の意思なのか、音程を微妙に変えながら鳴る。耳に届く音は瞬間的だが、頭の奥で残響が増幅し、心臓の裏側で小さな雷が鳴ったような感覚になる。
壁際の小さな棚には、色とりどりのボトルや古びた櫛、奇妙に湾曲したハサミが並んでいる。手に取ったら壊してしまいそうな儚さを漂わせ、それを扱う店主の手つきは時間の流れを無視している。刃先に指が触れた瞬間、過去の出来事や未来の微かな選択肢が、目の端にちらちらと映り込むようだった。
ひとつだけ置かれた金魚鉢では、水面が絶えず揺れ、金魚の尾ひれが作る波紋は、客の運命を映す鏡のようだ。尾の一振りごとに、過去の選択や選ばなかった道が水面に映る影となって揺れ、ただ座っているだけで、自分の人生の端々をこっそり覗かれている気分になる。
店全体が、日常と幻想の境界を微かに曖昧にしている。時計の針は進むが、時間が止まったかのような錯覚にとらわれ、外界の音も遠ざかる。椅子に腰を下ろした私に、店主はふと顔を上げ、低く響く声で告げた。
「今日の君の前髪は、まだ切られるのを待っている」
言葉の意味を咀嚼するより先に、なぜか胸の奥に微かな緊張が走るのを感じた。髪の毛など、ただの髪の毛に過ぎないはずなのに、店主の声は、まるで未来の小さな選択肢まで予告するかのように響いた。
「やあ映画サークルの諸君。こんなところで会うなんて奇遇だね」
声の主は隣でシャンプーの泡を被った仁王立先輩だった。私は瞬きをした。泡まみれの仁王立先輩は、どう見ても洗髪中なのに、その姿勢は戦場の将軍のように厳かで、泡で覆われた頭はまるで小さな雪山のようだった。私の胸の奥に、微妙な浮遊感が生まれた。椅子に座っているはずなのに、自分の体がゆっくりと宙に浮かんで、床と椅子の境界が曖昧になっていくような感覚。
「……先輩、こんなところで何を?」
言葉は泡の膜に吸い込まれ弱、微かに振動して塚原の耳の奥にだけ残った。
仁王立先輩は泡を少し跳ねさせながら、低く、しかし響き渡る声で答えた。
「ふふ、ここはただの床屋じゃないんだよ、塚原。時間の重さと軽さ、過去の後悔と未来の小さな選択肢を、全部味わえる場所なんだ」
私は椅子の背もたれに沈み込むように座り直した。店内の空気はゆらりと揺れ、天井の風鈴は勝手に音程を変え、金魚鉢の水面はまるで私の心の迷いを映す鏡のようにさざ波を立てた。光の筋は微妙に揺れ、時間の流れがわずかに歪んでいるようだった。
「つまり……映画サークルの日誌のネタ、ってことですか?」私は半分冗談めかして口に出すが、泡の向こうで先輩の目がじっと光り、私の心の裏側まで透かして覗いているかのよう。
先輩は笑いながら、指先で泡を弾いた。その小さな動きが、店内の空気をふわりと震わせる。
「違うよ。ここは君自身の物語を、映画のように切り取って見せてくれる場所さ。カット割りは必要ない。全てが、目の前で起こる――前髪ひと房すら、まだ切られるのを待っている」

