前髪の切れない男の話。


川面に揺れる月の光は、まるで映画祭そのものの残像のように瞬いていた。川沿いに座る小野的女史は、必死に吐き気をこらえ、山部はポップコーンを川に投げ続け、仁王立先輩は時折空を指差して、まるで存在そのものを問い直すかのような哲学的な所作をしている。私は篠崎の隣に腰を下ろし、拳ひとつ分の距離を保ちながら、その無言の連帯感に、まるで映画のラストシーンの一コマに迷い込んだかのような奇妙な幸福を覚えた。

「塚原、そのハサミ、どうするんだ?」山部が突然訊ねる。

「……ああ、どうしようか」私は答え、頭の中に会場での不可思議な光景がよみがえった。審査員席に座った店主が沖田のハサミを必死に探していたあの姿——あれもまた、この夜の奇跡の一部だったのだ。

篠崎は月光に照らされ、微かに笑った。川面に映る光に浮かぶ彼女の顔は、映画のスクリーンよりもずっとリアルで、しかし同時に非現実の膜をまとっているかのようだった。

「映画祭って、やっぱり……映画だけじゃないんですね」

私が呟くと、篠崎は小さく頷き、指先で川面を撫でる。そこには、ポップコーンの破片が光を反射し、小さな星々のように揺れていた。

「うん。映画も、祭りも、全部一緒。全部、混ざってるんだと思う」

その瞬間、背後から猫の鳴き声が聞こえた。例の金色の猫だ。空中で軽やかに跳ね、川に落ちたポップコーンを器用にすくい上げる。その姿は、まるで映画祭の守護神か、あるいは夜の精霊か、何か神秘的な存在のようであった。

仁王立先輩は竹刀を肩に担ぎ、川面に映る月を指差す。

「これが……戦いの終わりか、始まりかは知らんが、映画は終わったわけではない」

私は思わず笑った。映画も恋も、奇想天外な祭りも、まだ終わっていなかった。全てがこの夜の鴨川に、星屑のように散らばっている。

そして私は、心の中でひそかに決めた——

「次の映画も、絶対にやり切る」

篠崎は私を見つめ、笑顔は柔らかく、しかし軽やかに鋭く、この先の挑戦を予告するように輝いていた。
彼女の指先が川面を軽くすくう仕草は、不器用だけど愛らしく、月光に透ける目が、いたずらっ子のようにキラリと光る。その瞬間、私は自分の心の奥底で、川の流れと一緒に小さなときめきがそっと揺れているのを感じた——まるで世界が、篠崎の可愛さのために静かに呼吸しているみたいだった。

「塚原先輩、先輩の伸びた髪、切ってあげましょうか?その幻のハサミで」

私は一瞬、息を飲んだ。川面に映る月光が、篠崎の笑顔の反射で揺れ、まるで小さな星屑が私の心に降ってくるかのようだった。

「え……? 今、切るって……?」
私は震える声で訊ねたが、篠崎はいたずらっ子のように目を細め、軽く首を傾げると、まるで決定事項を告げるかのように頷いた。

「ええ。先輩の髪、ちょっと長すぎますから。月光の下で切ったら、きっと映画みたいにきれいに見えますよ」

言葉の端々に可愛さがにじみ出ていて、私は思わず笑いそうになった。いや、笑ってしまった。だが川風が私の顔に当たり、冷たくて心地よいので、笑いを飲み込んだ。

「おねがい、しようかな」
「はい!」

幻のハサミを渡すと、篠崎は私の後ろに回り、指先で私の髪をそっとつまむ。その感触が、ほんの少しだけ、電流のように胸に走る——不思議な感覚だった。月光の下、彼女の指先はまるで魔法の杖のように繊細で、しかし確実に、髪を切る準備をしている。

「……動かないでくださいね」

その声が低く、柔らかく、耳に届いた瞬間、私は心の中で小さな拍手をしてしまった。なんて可愛い声なんだ、と思いながらも、なぜか恥ずかしさで頬が熱くなる。

「はい……始めます」

川風が私の首筋を撫でるたびに、篠崎の手も微妙に揺れ、ハサミの先端が月光に反射して、まるで小さな宝石のように光った。その度に、私は胸の中で小さな悲鳴を上げそうになった。いや、悲鳴というより、心がふわっと浮くような感覚——この浮遊感は、きっと映画祭の熱気と篠崎の指先のせいだ。

「……あ、少し髪の毛が跳ねましたね」

彼女がそう言って微笑むと、その顔の可愛らしさで私は完全に戦意を失った。川風と映画祭の熱気の中で、私はただ座っているだけで十分幸せだった。
カチリとハサミの音が、川面に反射した月光と一緒にリズムを刻む。篠崎は真剣に、しかし楽しそうに髪を切っていく。一本一本、丁寧に、時折私の耳にかかる前髪をそっと撫でながら。指先が耳の横をかすめるたびに、私は何度も息をのんだ。風に揺れる彼女の髪が、月光に溶けて、川面に浮かぶ光の欠片と一緒に揺れている。まるで世界全体が、篠崎の可愛さのためにシーンを作り直しているかのようだった。

「先輩、前髪もちょっと切りますね」

その言葉に私は頷く。胸がドキドキして、声に出せない興奮が体の奥で跳ね回る。篠崎はハサミを軽やかに動かし、前髪を慎重に整える。私の視界の端で、川面のポップコーンが光に揺れ、金色の猫が軽やかに飛び跳ねている。まるでこの夜のすべてが、ひとつの映画のラストシーンを演出しているかのようだった。

「映画製作、先輩は楽しかったですか?

「楽しかった……というか、妙に胸がいっぱいになったな。映画だけじゃなくて、祭りも、みんなも、篠崎も……全部が入り混じった、不思議な時間だった」

篠崎は小さく息を吐くと、にっこり笑った。月光に照らされたその笑顔は、まるで夜空に浮かぶ小さな星が、ひとつだけ私のために輝いているみたいに愛らしかった。

「そう……ですか。なら、よかった。先輩がそう思ってくれるなら、私も嬉しいです」

彼女の声は低く、けれど柔らかくて、耳に触れるたびに胸の奥のあたりがぽわっと温かくなる。私は思わず小さく笑った。篠崎の小さな手が私の髪を整える仕草に、まるで魔法のような幸福が宿っているようだった。

「でも……」篠崎はハサミをそっと胸元に戻し、顔を少し傾けた。「私は、もう少し映画製作、続けたかったです」

「……続けたい?」

私は首の後ろで髪を切られながら訊ねる。篠崎はハサミを持つ手を軽く止め、微かに首を傾げる。

「はい。先輩と、みんなと、一緒に……もっと映画を作りたかった。終わっちゃうの、ちょっと寂しいです」

その言葉に、私は思わず笑った。なんというか、胸の奥がじんわり温かくなる——映画祭の熱気も、川風も、金色の猫も、全部まとめてこの瞬間のためにあるような気がした。

「……そっか。じゃあ、まだ終わりじゃないってことだな。次も、一緒にやろう」

篠崎は小さく頷き、目を細めて笑った。その笑顔には、いたずらっ子のような鋭さと、静かに燃える決意が混ざっていて、私は思わず背筋を伸ばしたくなった。

「ふふ、じゃあ、約束ですね。次も、一緒に映画を作るって」

篠崎が最後の一本をチョキリと切ると、川風にふわりと髪の毛が舞った。まるで小さな銀色の流れ星が私の周囲をぐるぐると回ったかのようで、私は思わず目を瞬かせた。
最後に篠崎は肩をそっと叩き、後ろから抱きしめるようにして髪を整えた。月光に照らされたその仕草は、まるで映画のラストシーンのワンカットのように美しく、私はただ息を呑むしかなかった。

「はい、終わりました……どうですか、先輩。少しはすっきりしましたか?」

篠崎は少し首を傾げ、髪の毛を指で整えながら私を見上げる。その笑顔は、ふわりと甘く、しかし小悪魔のように軽やかで、私の心臓を無理やり踊らせる。月光に透ける瞳が、まるで「この先の物語も一緒に見てね」と囁いているようで、私はただ黙って頷くしかなかった。

「……完璧です」

私の声は小さかったが、篠崎は満足げに頷き、ハサミをそっと胸元に戻した。

「鏡は持っていないので、川の水面を鏡代わりにして見てみてください」

私はそっと川面を覗き込む。水面に映る自分の姿は、先ほどよりも軽やかで、風に揺れる髪が月光を受けてふわりと輝いていた。まるで、鴨川の水がわざわざ私の髪を称えているかのような、不思議な気分になる。

篠崎は隣でひざを抱え、指先で川面をそっと撫でる。その小さな動きに合わせて光の波紋が踊る様子は、まるで彼女自身が夜の精霊にでもなったかのようだ。私は思わず、これぞ映画の隠れた名シーン、と心の中で呟いた。

「うん、上出来だよ。将来は床屋にでもなったら――」

その瞬間、篠崎の小さな手が異様な勢いで私の背中を押す。

「えい!」

私は全身を氷水に叩き込まれた金属製の人形のように、いや、もっと正確に言えば、鴨川の水面に落ちた巨大ポップコーンのひと粒のように、ズブ濡れで沈む。

「な、なにをするんだあああああ!」

水が耳元でぱしゃぱしゃと拍手する。川面に映る月光がひときわ激しく揺れ、金色の猫は「にゃっ!」と驚きながら軽やかに後退する。どうやら猫も、この突発的な川の祭典には参加したくなかったらしい。

一方、篠崎は川岸から顔だけ出して、いたずらっ子のように微笑んでいる。そこまで深くはないが、私は水面に沈みながら必死に手足をばたつかせる。まるで鴨川そのものが私の体を揺さぶっているかのようで、頭の中で「ここは映画のクライマックスだ」と無理やり自分に言い聞かせる。だが、川水は冷たく、心臓の鼓動も冷却される勢いだ。

「先輩。髪切ってもモテたりしないでくださいね」

その声に、私は水の中から思わず叫ぶ。「なんのことだー!」

水がぱしゃぱしゃと耳元で拍手し、川面の光がぐるぐると踊る。金色の猫は慌てて後ろに飛び退き、まるでこの突発的な川の舞台劇から逃げようとしているようだ。

篠崎は笑いながら手を差し伸べ、「ほら、上がりなさいよ。映画の後片付けは現実でも必要です」と言う。私は水面からもぞもぞと這い上がり、ずぶ濡れのまま川岸に上がると、月光に濡れた髪がキラリと光る。

「……映画のラストシーン、ちょっとやりすぎましたね」と篠崎は楽しそうに言う。私は川の冷たさで体がしゃんとして、笑いながらも胸の奥がぽわりと温かくなるのを感じた——まるで、映画祭の魔法がまだ解けていないみたいだった。