前髪の切れない男の話。

 撮影は予定通り、いや予定など最初から存在しなかったのだが、とにかく「始まった」という事実だけは揺るがなかった。カメラは回り、人は立ち、川は流れている。これだけ条件が揃えば、それはもう撮影と呼んで差し支えないはずである。

「はい、じゃあ次、シーン三。篠崎、セリフいける?」

 山部が声を張る。
 その声には、監督特有の自信と、昨日の反省会で得たはずの反省が、どちらも等量ずつ含まれていた。

「……はい」

 篠崎は小さく頷き、私の方を一瞬だけ見た。
 その視線には、ぎこちなさと、撮影用の集中と、そして説明しきれなかった何かが、きれいに混ざり合っていた。
 人はこういう複雑な感情を抱えたままでも、演技をしなければならないらしい。

「じゃあ、よーい……」

「待った」

 聞き慣れない声が、穏やかに割り込んだ。
 小野的女史である。
 彼女はいつの間にか川辺の石に腰掛け、腕を組み、完成するはずの映画を鑑賞する姿勢に入っていた。
 その姿は、制作現場の人間というより、世界の仕組みそのものを観察しに来た異邦人のようだった。

「このシーン、動機が弱いね」

 山部の眉が、ぴくりと動いた。

「動機、ですか?」

「そう。彼女はなぜここで怒る? なぜ彼は黙る? なぜ川は流れている?」

「川は関係ないでしょう」

「関係ないと思っているうちは、まだ甘い」

 私はこの時点で悟った。
 この撮影は、もう私たちの手を離れつつある。

「まあ、とりあえず撮ってみようよ」

 私は調停者のつもりで言った。
 この発言が、のちに「全ての元凶」として編集室で語られることになるとは、まだ知らない。

 カメラが再び回る。

「……あなたって、いつもそうですよね」

 篠崎のセリフは、脚本通りだった。
 だが、その声色は、脚本の想定より三段階ほど私に刺さった。

「何がだよ」

 私のセリフは、二拍ほど遅れた。
 演技ではない。完全に動揺である。

「大事なところで、何も言わないところ」

 それは、台本にはなかった。

「え?」

 山部が小さく声を漏らしたが、
 音声係は仁王立先輩と何か言い争っており、誰も止めなかった。

「言わないんじゃなくて……」

 私は続けてしまった。
 カメラがあることを、完全に忘れて。

「言う前に、全部ダメになる未来が見えるだけだ」

 沈黙。
 川の音だけが、やけに大きい。

「カット!」

 山部が叫んだ。

「……今の、台本違うだろ!」
「違うけど、使えるでしょ」

 小野的女史が即座に言った。

「今の、かなり“真”が出てたよ」
「映画なんですよ! ドキュメンタリーじゃない!」
「でも現実の方が、だいたい面白い」

 私はその場に立ち尽くしていた。篠崎は俯き、カメラは回りっぱなしで、山部の理性は、川の流れに少しずつ削られている。
 この瞬間、はっきり分かった。
 この映画は、物語を撮っているのではない。
 私たちが、何を言えず、何を誤解し、何を先延ばしにしてきたかを、勝手に記録しているのだ。
 編集で何とかなる、という言葉が、これほど残酷に響いたのは、後にも先にもこの時だけである。
 カメラは無言で回り続けていた。
 まるで、「逃げ場はない」とでも言うように。