前髪の切れない男の話。

 翌朝の鴨川は、何も知らない顔で流れていた。
 昨日あれほど私の人生的混乱を映し込んだくせに、今日はただの観光パンフレットみたいな水面である。こういうところが川という存在の信用ならない点だ。

 私は集合時間より二十分早く到着してしまった。
 早く着いたところで、前髪が切れるわけでも、人間関係が改善されるわけでもない。分かってはいるが、じっとしていられなかったのだ。

 ベンチに腰を下ろし、カメラバッグを開けたり閉めたりしていると、背後から足音がした。

「あ」

 その一音だけで、私の背骨は一瞬で直立不動になった。

「……おはようございます、先輩」

 篠崎だった。
 昨日と同じ篠崎であるはずなのに、空気の密度がまるで違う。まるで昨日まで普通に通っていた道に、急に「この先落石注意」の看板が立ったような気分だ。

「お、おはよう。早いね」
「先輩こそ」

 それきり、会話が止まった。
 川は流れている。鳥は鳴いている。自転車は通り過ぎていく。
 しかし、私たちの間だけ、時間が渋滞している。

 昨日の誤解。
 説明し損ねた言葉。
 言えば言うほど墓穴を掘りそうな予感。

 私は脳内で、あらゆる選択肢をシミュレーションした。
 正直に話す未来、冗談で済ませる未来、何も触れない未来。
 どれを選んでも、ろくなエンディングが想像できない。

「……昨日は」

 篠崎が先に口を開いた。
 その瞬間、私は心の中で正座した。

「昨日は、ちょっと……びっくりしました」

「だよね」

 私は即答した。
 速すぎる即答は、たいてい防御反応である。

「あの人、すごく……その……」

 篠崎は言葉を探し、空を見上げた。
 その仕草が、あまりにも無邪気で、私は胸の奥を軽く殴られた。

「すごい人ですよね」

「うん。すごい。いろんな意味で」

 これは事実であり、逃げでもあった。

「先輩の……彼女さん、じゃないんですよね?」

 来た。
 本題という名の断崖絶壁である。

「違う。断じて違う」

 私は、昨日より三割増しの真剣さで言った。
 この人生で、これほど即座に否定したことは少ない。

「じゃあ……」

 篠崎は、少しだけ困った顔をした。

「じゃあ、先輩は、何であんなところにいたんですか?」

 それは、私自身が一番知りたい問いだった。
 説明しようとすると、人生の説明書を最初から朗読する必要がある。

「……成り行き、かな」

 我ながら最低の回答である。
 だが、篠崎はなぜか、少しだけ笑った。

「ですよね」

 その「ですよね」は、責めでも諦めでもなく、
 「この人はそういう人だ」という暫定的な理解の音だった。

 私は、その理解に救われたような、突き放されたような、不思議な気持ちになった。

「今日も撮影、頑張りましょう」

 篠崎はそう言って、少し先を歩き出した。
 昨日より、ほんの半歩分だけ距離を残して。

 私はその背中を見ながら思った。誤解は解けたのかもしれない。だが、なぜ篠原がそこまで私と小野的女史の関係を気にするのかし越す不思議でもあった。

 昨日よりは、ほんの少しだけ、この、前髪を切れない男の物語が進んだ気がした。鴨川は、相変わらず何も知らない顔で流れていた。