翡翠の歌姫は後宮で声を隠す

 楽府の稽古場で、陳偉が(うやうや)しく礼をする。

翠蓮(スイレン)さま、お迎えにあがりました」

 
 今日は個人と話したいという蒼瑛たっての希望で、一人ずつ彼の書斎を訪問していた。


(皇子さまの書斎なんて、一生縁のない場所だと思ってたな)

 無礼のないようにしなければと顔を強張らせる翠蓮に、陳偉は口ひげを揺らし微笑んだ。


「そんなに緊張なさらずとも大丈夫ですよ。書斎と言うより……恐らく翠蓮さまが想像しているような場所ではありません。さぁ、参りましょう」


 蒼瑛の書斎は楽府から程ない、宮殿の一室にあった。
 元々は皇子用の書房があったらしい。しかし、楽府創設の任を受けてから移動時間も惜しくなり、現在はほとんどこの書斎にいるそうだ。


 「この調子では、近いうちに書斎に住みだすだろう」というのが陳偉の見方だった。
 

 書斎の前まで着くと陳偉は、簡素な扉の前で礼をした。

「蒼瑛さま。翠蓮さまがいらっしゃいましたよ」


 奥で慌てたようにバタバタと音がする。しばらく待つと、蒼瑛が顔を覗かせた。

「入ってくれ」


 私はこちらで、と目で挨拶をし、陳偉はもと来た方へと去って行った。




 書斎に入った翠蓮の目には、おびただしい量の本が飛び込んで来た。
 容量を当に超えた本達は、本棚に色んな向きで詰め込まれている。それでも入り切らない物は床に積まれていた。

(っと……危ない)
 油断すると本の(タワー)を蹴飛ばしてしまいそうだ。


 机は書類がうずたかく積まれ、今にも雪崩を起こしそうになっている。


(すごい……勉強家なんだな……)


 気付けばいつもの、甘い木のような香りがする。白檀(びゃくだん)という(こう)の匂いのようだ。


「先ほどは失礼……君が来ると思っていなかったんだ」

 蒼瑛は雑多な机の上を、取り繕うように片付け――端に寄せた。

 均整のとれた顔と、子供のような仕草の落差に、翠蓮は思わず笑みがこぼれる。
(なんか……ちょっとかわいい……)

 年上のしかも皇子に失礼だと、その感情には気づかなかったことにした。


「申し訳ありません。明鈴がちょうど、合わせ稽古に入ってしまい……代わりに参りました」


「いや、いいんだ。座ってくれ」

 向いに着席を促すと、蒼瑛はバッジを手渡す。


「改めて合格おめでとう。これが歌人の(あかし)だ。明日は、これを着けて入府式に参加してくれ」


 青い布に、声の象徴である波線が刺繍されている。翠蓮は両手で受け取ると、じっくり眺めた。
 「歌人の証」という言葉に胸が躍る。


「恐れ入ります、皇子殿下(こうしでんか)


「『皇子殿下』だなんて、皇太子でもないのに大げさだな。蒼瑛で良い。皆公式の場以外ではそう呼ぶ」


「はい……承知しました、蒼瑛さま」


「ふっ……」

 一応名前呼びになったものの、声が堅いままの翠蓮に、蒼瑛はおかしそうに肩を揺らす。
 いつもの妖精のような笑みではない。

(こうして笑っていらっしゃると、太凱と同じように見えるな……)
 
 事実、蒼瑛も太凱も歳は同じだ。
 こちらが素なのか、試験の時の威厳ある雰囲気は消えていた。
 

「私も楽府の皆のことは、名前で呼ばせてもらう。これからよろしく、翠蓮」
 

 蒼瑛は真面目な顔に戻り、やや声の調子を落とした。見つめられると、思慮深い蒼い目に吸い込まれそうになる。

「楽府のことで気づいたことがあれば、小さなことでも話してほしいんだ」


 蒼瑛は人――特に最前線にいる人の声を大切にしていた。皆が付いてきてくれなければ、裸の王様になってしまう。

「承知いたしました。あの……もし……」


 翠蓮は遠慮がちに目を伏せると、奥の小上がりを見た。蒼瑛は優しく先を促した。

「その……あちらは音楽の書物でしょうか。もし良ければ、少し見てみたいなと……」


 蒼瑛は勢い良く立ち上がった。

 「もちろん、どんどん見てくれ!そうだ、楽府に専用の図書館を作ろう!そこに各国の音楽の本を……」

 はたと我に返ると、蒼瑛は咳払いして、再び椅子に座り直した。

「すまない……嬉しくてつい。とにかく、今みたいに、気づいたことはなんでも言ってくれ」

 はしゃいだところを見らればつが悪かったのか、一瞬叱られた子供のような表情を見せたが、すぐにいつもの蒼瑛に戻っていた。


 にこやかなのに隙を見せない彼と、少年のように素直で無邪気な彼。
 翠蓮は不思議な気分だった。

(どちらが本来の蒼瑛さまなんだろう)

 蒼瑛の笑顔を見ると、自分のことのように嬉しい。


(もちろん、明鈴の笑顔も同じように嬉しい。だけど――だけど……?)



「今日は来てくれてありがとう。まずは明日の入府式を成功させよう。翠蓮……」

 蒼瑛は一瞬言葉をためらい、熱っぽい視線で翠蓮を見た。

「翠蓮、困ったことがあれば、何でも話してほしい。今度こそ……今度こそ君の力になりたいんだ」

 翠蓮は"今度こそ"という言葉に少し引っかかったが、笑顔で返事をした。



◇ ◆

 蒼瑛は一人になった書斎で、皇族男子のみが知る神詩を呟く。
炎華(えんか)の龍、蒼月(そうげつ)の龍、ひとつに集え……」
 続きは言わず、そこまでで口を閉じる。

 蒼月の龍――今ここにはない石に、蒼瑛は思いを馳せる。
 小さな鍵箱から、茶色い革袋を取り出す。そっと袋を開くと、丸い形をした翡翠の首飾りが入っていた。
 幼い翠蓮にもらった物だった。


「やはり、覚えていない……よな」

 一次試験で、翠蓮の雪のような白い肌と、翡翠色の瞳を見た時には "まさか" と思った。
 だが、最終試験で揺りかごの唄を聴いて確信した。

 罪悪感に押し潰されそうで、鍵箱に翡翠色の記憶を閉じ込めたあの日。
 しかし、綺麗に忘れることなどできなかった。

 胸には十年前の翠蓮の、笑顔と泣き顔が残る。

「初恋だったな」

 自身の呟きに"だった"?と自問する。

「今の私には、口にすることは許されない」
 皇子としての身分と、過去の戒めが胸を締めつける。叫びだしたくなる感情を抑えつけ、唇を噛み締めた。