翡翠の歌姫は後宮で声を隠す

 
 翠蓮は夢を見ていた。 

― ― ―

 閉ざされた真っ白な銀世界。
 ひとりぼっちの小さな私に、手を差し伸べてくれた男の子。

――いつか僕のために歌って

 
 握った手が温かくて、冷たさが溶けていくみたいだった。
 
 少し寂しそうに笑う顔を「忘れたくない」って、そう思ったのに。

 なぜ私は、あの約束を思い出せないんだろう――


 ◆ ◆

――目を開けると、部屋には朝日が差し込んでいた。
 翠蓮(スイレン)の目からは涙が溢れている。

「夢……?」
 思い出せない。大切なものがなくなってしまったような喪失感だけが、胸に残されている。

 泣いたのはいつぶりだっただろう。


「昨日懐かしい曲歌ったから、ちょっと感傷的になってるのかな……」

 最終試験の結果は合格だった。
 明鈴も笛の最終試験を突破していた。
 今日はメンバーと顔合わせだ。


 身支度を整えて部屋を出る頃、夢のことはすっかり忘れていた。







「明鈴とくれば良かった……」
 なぜ宮廷というのはこうも広いのだろうか。翠蓮は途方に暮れる。
 
「えっと……南がこっちなんだから……」
 地図の上下左右を返しながら確認する。


「楽府の稽古場に行きたいのか?」
 振り向くと、金髪のツンツン頭。
 二次試験の時に、倒れた女性を背負ってくれた彼だった。
 
「翠蓮だよな? 俺は太凱(タオガイ)。一緒に行こうぜ!」
 太凱は海が近い東の交易地から来たという。
 改めて見ると、髪色だけではない。
 猫のような目、耳にたくさん付いているピアス。
 どことなく都会的な――いや、少し意地悪な雰囲気を感じてしまう。


(いやいや、見た目で判断するのは良くない)
 太凱は、物怖じせず人助けできる性格なのだ。悪い人なはずがない――
 そう思うのだが、少し距離をとってしまう。

 稽古場にたどり着いた翠蓮は、見知った顔を見つけ、ほっとする。


「翠蓮、珍しく遅かったじゃん! どうしたの?」
 明鈴の問いに、太凱(タオガイ)がからかうように答えた。


「だってさ、こいつ地図ぐるぐるまわしてんだもん。方向音痴の典型だよな」

 嫌な予感は当たっていたようだ。面白がって差別をしてきた、村の男の子たちのことが頭をよぎる。
 言い返せばいいのかもしれないが、言葉が出てこなかった。


 小さくなる翠蓮の前に割り込むように、明鈴(メイリン)が入ってくる。普段丸い目は、きっ、と太凱(タオガイ)を睨む。

「ちょっと! そんな言い方ないでしょ! 気になる女子と喋りたいなら、意地悪するのはやめなよ!」
 
 太凱は真っ赤になった。ムキになって反論している。


 そうこうしているうちに他にもメンバーが集まってくる。試験合格者のほか、元々宮廷付きだった者も合わせ、三十名あまりになった。
 その中には絢麗(ケンレイ)の顔もあった。


 前に立った正楽師(せいがくし)の女性が、高い位置で一本に結んだ髪を揺らし、皆を見渡す。

「指導全般を担当する香蘭(コウラン)です。早速だけど、一週間後に入府式があります。そこで短いけど演奏するからね。
初めての公式行事よ」
 
 よく通る声で、てきぱきと一週間のスケジュールを説明すると、香蘭はパンっと手を叩いた。

「さぁ、楽器ごとに別れて。練習しましょう!」





 練習が終わり、宿舎への帰り道。
「はぁー……みっちりしごかれたぁ」
 明鈴はくったりとのびていた。

 太凱(タオガイ)もくたびれていた。
 そんな中、翠蓮は一人だけ目を輝かせている。

「やっぱり正楽師さまってすごいね!音楽理論とか技術とか分かりやすく教えてくれて……
明鈴、笛はどんなこと教えていただいたの? 後で教えて!」

「うわー……一息つかせてぇ~」

 明鈴の悲鳴に、笑いが起きる。

 翠蓮は、仲間がいて音楽を学べる幸せを噛み締めた。少しずつ、辛い記憶が上書きされていくようだった。

◇ ◆

――亥の刻(夜10時)もふけたころ

「失礼いたします。バッジと楽府入府者の最終一覧がご用意できました」
 陳偉(チンエイ)が書斎へ入ると、蒼瑛(ソウエイ)は書き物の最中だった。


「ん……すまない。置いておいてもらえるか」
 整った顔には、少々疲労の色が浮かぶ。

「この間の最終試験は、蒼瑛さまの思惑通りになりましたな」


 見物人たちの目にも、合格者の圧倒的な実力は明らかであり、順調にその話が広まっていた。
 これで合格者に対する難癖や、蒼瑛や翠蓮の汚名は挽回できただろう。


「まぁ……表向きは、な」
 蒼瑛は筆を置く。
 別れ際に見た炎辰の目には、見逃せない嫌悪感が滲んでいた。
 それが翠蓮の歌に対するものであるとは分からなかったが、蒼瑛は不穏な気配を感じ取っていた。


「気が休まりませんな。バッジは正楽師から配布させましょうか」

「いや、直接渡して、一人ずつ(こと)を伝えたいんだ。ここは自分でやりたい」


 入府式までやることは山のようにあるが、蒼瑛は人への礼を欠かさない。
 こういったところが、皇帝や臣下から評価されているのだろう。

「お体を壊したら元も子もないですよ。そろそろお休みになられては?」
 
「臣下を働かせておいて、先に寝る君主はいないだろう?」

 蒼瑛はいたずらっぽく、にっと笑う。

「さようでございますか。そうしましたら、(わたくし)めは先に下がらせていただきます」
 陳偉もわざと大げさに一礼して見せ、書斎を後にした。

 陳偉は空を見上げながら、明日の段取りを考える。

――蒼瑛さま……最終試験の時はご様子がおかしかったが、特に心配はなさそうだな。

 雲に隠れ、月明かりは揺れていた。