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一週間が経過し、翠蓮は内医局を出た。
ひっそりと一人退院するつもりだったのだが、扉を出ると、蒼瑛がいた。
翠蓮は、思わず荷袋を手から離していた。
袋が落ちた音に気づき、彼は束ねた髪を揺らした。
「退院おめでとう。身体はどうだ?」
「大分いいです……」
蒼瑛の顔をまともに見られないのは、炎辰が残していった余韻のせいだろうか。
「話したいことがある。時間をもらってもいいだろうか」
「はい……」
蒼瑛の後に続く。下を向いた視界で、蒼瑛の裾が揺れている。翠蓮はそれをぼんやり見ていた。
清苑妃と紫雲が捕らえられたと聞いたが、その話なのだろうか。
書斎に入ると、白檀香と書の香りがした。安心する匂いに、翠蓮はほっとした。
小さな卓を挟み、二人は向かい合って腰掛ける。
蒼瑛は口を開いた。
「皇后さまから、君を"皇后専属"の歌人にしたいと話が来ている」
(皇后さまが?)
夜宴で翠蓮の歌を聞き、感情のない人形のように涙を流したあの人――
蒼瑛が、声を低くした。
「これは大変名誉なことだ。……ただ、皇后さまの望まれる声の使い方が、そのまま君にとって正しいことかはわからない」
(声の使い方……?)
引っかかる言い方に、翠蓮は疑問をぶつける。
「翠玉のことをご存じなのですか?」
蒼瑛の驚いた顔で、翠蓮は自分の見立てが間違っていなかったことを知る。
「なにか思い出したのか」
蒼瑛の目には、そうあってほしいという願いを感じる。
胸に一瞬炎辰の顔が浮かび、翠蓮は「何のことかわからない」と嘘をついた。
「炎辰殿下から……少しだけ聞きました」
蒼瑛はなるべく顔に出さないようにしているのだろうが、やはり落胆していた。
軽く頭を振ると、彼は事の経緯を教えてくれた。
「……隠し書庫で、古い書物を見た。
翡翠の瞳を持つ者は、翠玉を使えば人の心に働きかけることができる。
それを恐れたかつての皇帝は、一族に"忌み眼"という不名誉な名を付け、王都から追いやり冷遇したんだ」
「では、現在の史実は手を加えられているのですか?」
蒼瑛は「そうだ」と頷き、続ける。
「一族の特定材料である、"翡翠の瞳"と"翠玉"の項目は削除され、一族は、"自ら" 王都を去り、地方のために尽力したことになっている」
一息吸い、蒼瑛は頭を下げた。
「王家の都合で、忌み眼などという差別を生んだ。謝って許されることではないが……」
翠蓮は、きゅっと目をつむった。
浮かんできたのは、小さくなり、いつも何かから逃げるようにしていた母。
そして飢饉の責任を、忌み眼に押し付けた村人。その村人に殺された育ての父――
全て赦せなかった。自分を不幸にした全てが。
(だけど……)
翠蓮は立ち上がり、蒼瑛の前に膝をついた。
下からすくい上げるように見た彼は、苦悩に満ちていた。
「蒼瑛さまに、謝っていただくことではありません」
蒼瑛は黙ったままの翠蓮の手を引き、引き出しの前まで連れて行った。
二人の机の前には、蒼瑛が取り出したちいさな鍵箱。
かちっと言う音と共に蓋を開けると、翠蓮の目に、懐かしい茶色の革袋が飛び込んでくる。
中を開くと、翡翠の首飾りがあった。
間違いない。翠蓮が母からもらい、蒼瑛に渡した翠玉だった。
蒼瑛は、ごまかすように説明した。
「昔、地方に行った時に……たまたま手に入れたんだ」
翠蓮は嘘をつかせたことが心苦しかった。だが、心の整理がつかないまま、蒼瑛に十年前の思い出を語ることは出来なかった。
この翠玉があれば、争いのない理想の国を作ることができるかもしれない。
その考えが胸をよぎり、翠蓮は蒼瑛が目指しているものを、もう一度聞いてみたくなった。
「蒼瑛様は、音楽の力で国を良くしたいとお考えなのですよね? それで楽府を創設されたと聞きました」
蒼瑛は、少しだけ視線を伏せたあと、頷いた。
「そうだ……」
続きを待つ翠蓮の手は、思わず力が入っていた。
「翠蓮、理想の国をつくるというのは……誰か一人の肩に背負わせるものではないと……私は思っている。だから……」
蒼瑛はしばらく黙った。
問いかける資格が、自分にあるのか測るように。
「翠蓮、君はどうしたい?」
それは選択を委ねる言葉であると同時に、力の使い方を問う、問いでもあった。
「私は……力に縛られずに、歌いたいです」
「それなら――」
彼の提案に、翠蓮は目を見開いた。
