その日、翠蓮はゆっくり目を開いた。
天井がいつもと違う。首を横に向けると、白く淡い帳が自分のいる寝台を囲っていた。
(ここは……?)
口の中に、薬のような苦みを感じる。まぶたが、身体が重い。
起き上がって確認しようと思うのに、脳の指令を受け止めてくれなかった。
「っ……」
唾液を飲み込むと、扁桃腺が腫れているのを感じた。試しに声を出そうとすると、喉が内側からちくちく刺されるような痛みを感じた。
その痛みが翠蓮に、夜宴の記憶を思い出させた。
(そうだ、私、紫雲さんに……)
紫雲は、毒を盛るほど傷ついていたのだ。身に覚えがなくても、彼女をそこまで追い詰めたのは自分――
そう思うと、翠蓮の心は暗く沈んでいく。
不意に、するすると帳が上がり、視界が眩しくなる。日が差し込んでいる。どうやら今は朝のようだ。
顔を出したのは若い男性の太医だった。
「おはようございます。お目覚めですか」
急に現実に引き戻される。そういえば、きちんと歌いきったのだろうか。
「夜宴はどうなりましたか」
太医は苦笑した。
「第一声がそれですか……歌は成功したと聞いていますよ。皇后さまが涙を流されたとか」
翠蓮は胸をなで下ろした。それにしても、声が掠れて出しにくい。
起き上がろうとする翠蓮を制して、太医はてきぱきと、脈や顔色を確認する。
「はい、口を開けてください」
ひやっとした金属のへらで舌を下げられた。
一通り診た太医は言う。
「一週間は歌唱禁止。煎じ薬も必ず飲んでくださいね。守らないと、今後歌えなくなるかもしれませんよ」
怯えた表情をする翠蓮に、太医は微笑んだ。
「大丈夫。守っていただければ声は必ず元通りになります。御医を呼んでくれた、炎辰殿下に感謝ですね」
「炎辰殿下が……」
意識を失う前に自分の名を呼んだ声。蒼瑛ではないと思っていたが、炎辰だったのか。
どうして、一番に駆けつけてくれたのだろう。
どうして、わざわざ皇族専門医の御医を呼んでくれたのだろう。
湧き上がる問いに、翠蓮は自分で答えを出す。
(きっと、私の声に利用価値があるから……)
わかっていることなのに、そう思うとなぜか悲しい気持ちになった。
忌み眼に分類された人間は、忌避されるか、利用されるかしかないのだろうか。
翠蓮は周りを見回す。いるはずはないのに、無意識に蒼瑛の姿を探してしまっていた。
扉に目をやる翠蓮を見て、太医が教えてくれた。
「御医と蒼瑛殿下なら、お帰りになりましたよ。翠蓮殿が峠を越えたのを確認してね」
「そうですか……」
(お帰りになるのは当然じゃない……
これ以上、あの方に何を望むというの……)
一歌人である自分に、わざわざ皇子が付き添ってくれた。十分すぎるほどだ。
太医の心配そうな声が聞こえる。
「何処か痛みますか?」
「いいえ、どこも」
締め付けるような胸の痛みは、毒のせいだと言い聞かせ、翠蓮は固く目を閉じる。
(眠れば忘れられる。何もかも、きっと……)
すぐには眠れなかったが、少しずつまどろみ、意識はゆっくりと眠りに沈んでいった。
◆ ◇
意識が揺れ、再び翠蓮が目を開いた時、部屋には誰もいなかった。
どれくらい眠ってしまったのだろう。
右手を喉に当ててみる。
痛みは大分良くなり、声も出しやすくなっていた。
視界の左側で、すっと扉が開く。
誰かが、ゆっくりと部屋に入ってきた。
(回診かな?)
そう思ったが、翠蓮はその人を見て息を止めた。
あまりに意外な訪問者だった。
処置室に入ってきたのは炎辰だった。
助けてくれたと聞き、彼に対する警戒心は少し緩んでいた。
翠蓮は手で身体を支え、ゆっくり半身を起こす。
炎辰は翠蓮の右横にあった椅子に腰掛けると、見舞いの言葉もなしに口火を切った。
「宮廷を去れ」
「なぜですか?」
炎辰は答えなかった。翠蓮の身を案じているのか、彼の拳は、膝上で震えるほど強く握りしめられていた。
翠蓮がそっと手を重ねると、彼の骨ばった手の甲は冷たかった。
「そんなに強く握っては、傷つきますよ」
はっとしたように炎辰は、翠蓮を見た。
「俺が、怖くないのか?」
「怖くないです。今は……」
今の炎辰には、人を威圧し支配するような毒気は感じられなかった。
炎辰は再度確認する。
「出ていく気はないんだな?」
ここを出た所で、翠蓮に戻る場所などなかった。答える代わりに力なく笑う。
そんな翠蓮を見て、炎辰は自身の襟元から何かを取り出した。
彼が取り出したのは首飾りだった。
それを見て翠蓮は驚いた。
翠蓮が持つ、蒼い首飾りと瓜二つだったからだ。
違うのは色だけだった。炎辰の手にかかった首飾りは、炎のような赤色をしていた。
「翠蓮……もしここで生きていくなら、自分が何者か思い出せ」
炎辰の力強い言葉に誘われて、何かが揺り動かされた。
(思い出す……?)
翠蓮は両手で頭を押さえる。
あの頭痛がする。まるで痛みが警告を出しているようだ。
炎辰は立ち上がると、衣類籠にある蒼い首飾りを手に取り、自身の半月型の赤い首飾りと合わせた。
二つの石は"かちり"と嵌ったような音がした。
初めから二つで一つであったかのように、一つの円になる。
円は淡い光を帯び始めた。
翠蓮が息を飲んだ次の瞬間、壁に二匹の龍の影が映し出された。
それは、いつか見た"皇族の紋章"だった。
頭痛が酷くなる。
なぜ母の首飾りが、炎辰の首飾りと対になってこんなものを映し出すのか。
動かないでいる翠蓮の両肩に、炎辰は手を置いた。
「思い出したか?」
翠蓮は割れそうになる頭を、強く左右に振った。
「いや、知らない……」
肩を掴む炎辰の手に力が入った。
その痛みが、逃避しようとする翠蓮を、この場へと引き戻す。
「運命から目を背けるな!」
炎辰の叫び声に、翠蓮は頭を押さえていた手を下ろした。
炎辰の紅い瞳――そこに自分が映っているのを見た。
その刹那、翠蓮の中で何かが音を立てて弾け、視界が真っ白に感じられた。思わず目をつむる。
記憶の中で、粉々になった翡翠色の欠片が組み合わさって、"形"を作っていく。
『やめて』という心の声を無視して、まぶたの裏で、神秘的な輝きを放つ石が完成した。
それは、翡翠の首飾りだった。
翠蓮は、震える身体を両腕で抱き締める。
「翠玉……?」
全てを思い出したわけではない。
ただ、母のこと、蒼い首飾り、幼い頃の蒼瑛、"声の力"――
そんな記憶の断片が次々に浮かび、心と意識をかき乱す。
炎辰の声が、遠くに聞こえる。
「皇后も、この力にきっと気づいた。行くところがないなら、俺のところに来い」
翠蓮は、その言葉の真意を理解できなかった。
思考が追いつかない。整理しようと、手で伏せた顔を覆った時、
「翠蓮」
声に呼び寄せられ顔を上げると、掴まれた肩ごと炎辰に引き寄せられた。
次の瞬間、沈香に似た、ほの苦い香りが翠蓮を包む。
(え――)
熱は一瞬で消えた。
口づけられたのだと理解したときには、炎辰はもう身を離していた。
「なんで……?」
翠蓮はやっと、それだけ言った。
炎辰は寂しそうに笑った。いつでも自信と皮肉に満ちた彼の、初めて見る顔だった。
翠蓮は、去って行く背に声をかけることも出来なかった。
後には、理由の分からない口づけと、沈香の香りだけが部屋に残っていた。
