◇ ◆
夜宴当日。
翠蓮は茶会に出席した日から、あの夢は見ていなかった。唇をぎゅっと結ぶ。
「やっぱり、あの夢は私の弱さが見せていたんだ」
いつも通り身支度を整え部屋を出る。
後宮の御花園に向かう道は、既に薄暗くなってきていた。途中、紫雲に声をかけられた。
「翠蓮、この間の茶会はごめんなさいね。なにもあなたを助けてあげられなくて……」
その表情には、以前のようなぞくりとさせるような怪しさはない。信用しきるわけではないが、眉を下げて泣き出しそうな顔に思わず絆される。
翠蓮は首を横に振る。
「いいえ……気にしていませんから」
紫雲はにこっと微笑むと、独り言のように呟く。
「まぁ……住む世界が違う人だものね。殿下たちは……」
話しているうちに御花園に着いた。
美しい情景とは裏腹に、物々しい雰囲気を纏った衛兵がいる。
「これより先は、荷物を検閲させていただきます」
紫雲は一瞬動きを止めたように見えたが、直ぐに自身の布づつみを差し出した。
翠蓮もそっと手荷物を差し出す。おかしなものは持ってきていないが、検閲と言われるとドキドキしてしまう。
(すごくしっかり見られるんだな……)
衛兵は楽譜の一枚一枚までめくっている。不審な文書などがないか確認しているようだ。
「こちらは?」
衛兵の問いに翠蓮の心音が跳ねる。
「……香袋です」
衛兵は中身を開けて確認する。香木しか入っていないのを見ると、元通りにして荷物を返してくれた。
翠蓮はほっとした。
隣を見ると、紫雲も何やら聞かれ答えていた。
「こちらは茶葉です。喉に良いので持ち歩いています」
「申し訳ございませんが、飲食物は持ち込み不可です。お茶なら控室にもございますので、そちらをご利用ください」
衛兵に茶葉を没収され、紫雲は肩をすくめた。
控室に入る際も、理由を述べないと入室できなかった。
控室で椅子に座った紫雲は、不満気だった。
「随分と警備が徹底されているのね」
これらは全て、警戒した蒼瑛が手を回したものだった。
間もなく、翠蓮は白地に薄紫の刺繍が施された優雅な衣装を着付けられる。
動くたびに柔らかな光を受けて揺れる。
係りの女性が声を潜めて言った。
「皆様……皇后陛下がお入りになります」
お花園はすっかり日が沈み、夜宴の準備が整っていた。
舞台を囲むように半円の形に妃たちがおり、その中心に、初めて会う皇后は座していた。
(あの方が、皇后さま……)
翠蓮はごくりと生唾を飲む。
美貌だけなら芙蓉妃も負けてはいないが、皇后からは迂闊に近寄ってはいけない気高い雰囲気を感じる。
高座椅子の前へ進み出ると、翠蓮は頭を下げて言葉を待つ。
皇后はゆっくりと口を開いた。
「そなたが翠蓮ね。噂通り美しい……本日は楽しみにしているわ」
言葉は柔らかい。しかしその声の端には、威圧的な響きがあり、翠蓮は思わず背筋を伸ばす。
「恐れながら、皇后さま。ご挨拶申し上げます。本日は精一杯努めさせていただきます」
皇后は唇の端を持ち上げ、頷いた。
◇ ◆
紫雲の出番が終わり、場は和やかに歓談していた。
小卓には見た目も楽しませるご馳走が並んでおり、位の高い者同士、六~八人程度で小卓を囲んでいる。
舞台の正面にある皇后の卓には芙蓉妃、蒼瑛と炎辰のほか、高位の妃。
翠蓮は芙蓉妃の配慮で、茶会の時に助けてくれた妃たちと共に、皇后の右隣の卓についていた。
皇后の左隣の卓から声が上がる。
清苑妃だ。
「紫雲さまのお歌、とても素敵でしたわ。確か軍歌を編曲したものでしたわね」
同じ卓の妃も、皇后の表情をうかがいながら口を開く。
「ええ、やはり国を守り頼るべきは武にございますわね。いくら学問に秀でていようと、いざという時に剣も取れぬ殿下では……民も不安でしょう?」
くすり、と控えめな笑いが漏れた。
その視線は、決して蒼瑛本人を見ない。
それが逆に、名指し以上の鋭さを帯びていた。
いつもならばっさり切り捨てる芙蓉妃も、今宵は別に心があるのだろう。適当に相槌をうっている。
蒼瑛も微笑を保ちつつ、内心しらけていた。
(相変わらずはっきりものを言わず、真綿で首を絞めるようなやり口だな……
どうせ、翠蓮を呼んだ茶会もこのような雰囲気だったのだろう)
この空間に慣れている自分なら受け流せるが、翠蓮にとっては辛いものだっただろう。
そう思うと心が痛む。
ふと、翠蓮を見ると、こちらを気にするように視線を送っている。しかし、蒼瑛と目が合いかけるとさっと逸らした。
(翠蓮が心を閉ざしたように感じるのは、何故なのか……)
いつも彼女が反応を見せるのは、自分が傷ついた時ではなく誰かのためだった。
(もしかしたら……)
その時、皇后が口を開いた。
「今宵は月が綺麗だわ」
「えぇ、美しい満月ですね」
芙蓉妃が頷く。横から清苑妃が、さも今思いついたと言うように提案する。
「よろしければ、月にちなんで歌人の皆様に一句詠んでいただきましょうよ」
一通り対策したとは言え、そもそも庶民の出の翠蓮は、詩歌に触れてきた期間が圧倒的に少ない。
翠蓮の教育係は「彼女は物事の本質を捉える力に長けているので、詩歌の飲み込みも早い」と言っていた。
(稽古の折も、詩をよどみなく紡いでいたではないか)
そう自分に言い聞かせながらも、蒼瑛はいつしか掌に汗を滲ませていた。
皇后が、承を示すかのように静かに頷く。
莉紫雲と翠蓮の二名が玉階の下へ進み出る。
「恐れながら、詠ませていただきます」
紫雲が半歩前へ出る。
「明月や 千里を照らす兵の行
志高き若将 国と共に進まんことを」
事前に用意していたのだろうか。淀みない声だ。紫雲の眼差しからも、炎辰のための詩であることが蒼瑛には分かった。
そっと炎辰を見るが、特に表情は揺れない。
皇后がわずかに頷いた。
それだけで、出来を測れぬ者はいない。
芙蓉妃が一番に評する。
「兵を詠みながら、血の匂いを残さぬ――とても清らかな志ですね」
"清らかな"と言う部分に、若干の牽制を感じるが、芙蓉妃の穏やかな口調に、他意はないように思えた。
皇后が口を開く。
「国を守る兵たちの心にも月は寄り添うもの。良い詩です」
周囲はやっと息がつけると言ったように感嘆の声を漏らし、口々に紫雲の詩を褒めそやす。
続いて、翠蓮が一歩前へ進み出る。
「恐れながら――」
静かな声で、翠蓮は詠んだ。
「月は遠く 世に知る人なくとも
光を絶やさず 夜を照らすのみ」
歌が終わると、御花園に一拍の静寂が落ちた。その後ほう、と小さく息を呑む声があちこちから上がった。
「美しい……」
「なんて静かな歌なの」
武に焦点をあてた紫雲の詩とは対象的に、月の孤独そのものを詠んでいるようだった。
平易な言葉選びではあるが、それが却って聞く者の心に染み渡る。
芙蓉妃も蒼瑛も、ほっとした表情を見せる。
しかし、その空気を破るように清苑妃が口を開いた。
「……随分と、意味深な月ですこと」
扇の奥で微笑みながら、続ける。
「世に知られず、夜を照らすだけ、ですか。
それはまるで――帝に夜訪れもなく、名も呼ばれぬ妃たちを揶揄しているようにも聞こえますわね」
すぐさま清苑妃の周りの妃たちが応ずる。
「確かに、そうとも取れますわ」
「大体、韻もなく、詩の味わいも浅いですわ。やはり育ちが――」
妃達のあまりの言いように、蒼瑛は抗議しようと身を乗り出す。それを見た翠蓮はさっと顔色を変え、蒼瑛よりも先に声をあげた。
「この詩は、妃様方を揶揄するものでは、決してございません」
真っ直ぐな声に、妃達は驚きを隠さず言葉を飲み込む。
「世に知られずとも、誰に称えられずとも、ただ在るべきところで光を絶やさぬ――」
顔を上げ、翠蓮は皇后を見た。
「帝后の御心を、月に重ねて詠みました」
場が、凍りついたように静まり返る。
皇后が口を開く。
「……帝"后"とな……」
その声は低く、感情の起伏を感じさせない。
一呼吸置き、皇后は僅かに微笑む。
「帝を引き合いに出されては、評するのは無粋というもの。
歌は簡素であるが故に、芯がぶれぬ。
それ以上の評は、不要でしょう」
翠蓮は深く礼をすると、安堵したような表情を見せた。
それは皇后の不評を逃れたからなのか、守るべきものを守れた安堵なのか――
翠蓮は出番のため一度控室に下がった。
皆、酒が入り気づいていないが、
清苑妃は、袖下から何かを取り出し、紫雲へ手渡していた――
夜宴当日。
翠蓮は茶会に出席した日から、あの夢は見ていなかった。唇をぎゅっと結ぶ。
「やっぱり、あの夢は私の弱さが見せていたんだ」
いつも通り身支度を整え部屋を出る。
後宮の御花園に向かう道は、既に薄暗くなってきていた。途中、紫雲に声をかけられた。
「翠蓮、この間の茶会はごめんなさいね。なにもあなたを助けてあげられなくて……」
その表情には、以前のようなぞくりとさせるような怪しさはない。信用しきるわけではないが、眉を下げて泣き出しそうな顔に思わず絆される。
翠蓮は首を横に振る。
「いいえ……気にしていませんから」
紫雲はにこっと微笑むと、独り言のように呟く。
「まぁ……住む世界が違う人だものね。殿下たちは……」
話しているうちに御花園に着いた。
美しい情景とは裏腹に、物々しい雰囲気を纏った衛兵がいる。
「これより先は、荷物を検閲させていただきます」
紫雲は一瞬動きを止めたように見えたが、直ぐに自身の布づつみを差し出した。
翠蓮もそっと手荷物を差し出す。おかしなものは持ってきていないが、検閲と言われるとドキドキしてしまう。
(すごくしっかり見られるんだな……)
衛兵は楽譜の一枚一枚までめくっている。不審な文書などがないか確認しているようだ。
「こちらは?」
衛兵の問いに翠蓮の心音が跳ねる。
「……香袋です」
衛兵は中身を開けて確認する。香木しか入っていないのを見ると、元通りにして荷物を返してくれた。
翠蓮はほっとした。
隣を見ると、紫雲も何やら聞かれ答えていた。
「こちらは茶葉です。喉に良いので持ち歩いています」
「申し訳ございませんが、飲食物は持ち込み不可です。お茶なら控室にもございますので、そちらをご利用ください」
衛兵に茶葉を没収され、紫雲は肩をすくめた。
控室に入る際も、理由を述べないと入室できなかった。
控室で椅子に座った紫雲は、不満気だった。
「随分と警備が徹底されているのね」
これらは全て、警戒した蒼瑛が手を回したものだった。
間もなく、翠蓮は白地に薄紫の刺繍が施された優雅な衣装を着付けられる。
動くたびに柔らかな光を受けて揺れる。
係りの女性が声を潜めて言った。
「皆様……皇后陛下がお入りになります」
お花園はすっかり日が沈み、夜宴の準備が整っていた。
舞台を囲むように半円の形に妃たちがおり、その中心に、初めて会う皇后は座していた。
(あの方が、皇后さま……)
翠蓮はごくりと生唾を飲む。
美貌だけなら芙蓉妃も負けてはいないが、皇后からは迂闊に近寄ってはいけない気高い雰囲気を感じる。
高座椅子の前へ進み出ると、翠蓮は頭を下げて言葉を待つ。
皇后はゆっくりと口を開いた。
「そなたが翠蓮ね。噂通り美しい……本日は楽しみにしているわ」
言葉は柔らかい。しかしその声の端には、威圧的な響きがあり、翠蓮は思わず背筋を伸ばす。
「恐れながら、皇后さま。ご挨拶申し上げます。本日は精一杯努めさせていただきます」
皇后は唇の端を持ち上げ、頷いた。
◇ ◆
紫雲の出番が終わり、場は和やかに歓談していた。
小卓には見た目も楽しませるご馳走が並んでおり、位の高い者同士、六~八人程度で小卓を囲んでいる。
舞台の正面にある皇后の卓には芙蓉妃、蒼瑛と炎辰のほか、高位の妃。
翠蓮は芙蓉妃の配慮で、茶会の時に助けてくれた妃たちと共に、皇后の右隣の卓についていた。
皇后の左隣の卓から声が上がる。
清苑妃だ。
「紫雲さまのお歌、とても素敵でしたわ。確か軍歌を編曲したものでしたわね」
同じ卓の妃も、皇后の表情をうかがいながら口を開く。
「ええ、やはり国を守り頼るべきは武にございますわね。いくら学問に秀でていようと、いざという時に剣も取れぬ殿下では……民も不安でしょう?」
くすり、と控えめな笑いが漏れた。
その視線は、決して蒼瑛本人を見ない。
それが逆に、名指し以上の鋭さを帯びていた。
いつもならばっさり切り捨てる芙蓉妃も、今宵は別に心があるのだろう。適当に相槌をうっている。
蒼瑛も微笑を保ちつつ、内心しらけていた。
(相変わらずはっきりものを言わず、真綿で首を絞めるようなやり口だな……
どうせ、翠蓮を呼んだ茶会もこのような雰囲気だったのだろう)
この空間に慣れている自分なら受け流せるが、翠蓮にとっては辛いものだっただろう。
そう思うと心が痛む。
ふと、翠蓮を見ると、こちらを気にするように視線を送っている。しかし、蒼瑛と目が合いかけるとさっと逸らした。
(翠蓮が心を閉ざしたように感じるのは、何故なのか……)
いつも彼女が反応を見せるのは、自分が傷ついた時ではなく誰かのためだった。
(もしかしたら……)
その時、皇后が口を開いた。
「今宵は月が綺麗だわ」
「えぇ、美しい満月ですね」
芙蓉妃が頷く。横から清苑妃が、さも今思いついたと言うように提案する。
「よろしければ、月にちなんで歌人の皆様に一句詠んでいただきましょうよ」
一通り対策したとは言え、そもそも庶民の出の翠蓮は、詩歌に触れてきた期間が圧倒的に少ない。
翠蓮の教育係は「彼女は物事の本質を捉える力に長けているので、詩歌の飲み込みも早い」と言っていた。
(稽古の折も、詩をよどみなく紡いでいたではないか)
そう自分に言い聞かせながらも、蒼瑛はいつしか掌に汗を滲ませていた。
皇后が、承を示すかのように静かに頷く。
莉紫雲と翠蓮の二名が玉階の下へ進み出る。
「恐れながら、詠ませていただきます」
紫雲が半歩前へ出る。
「明月や 千里を照らす兵の行
志高き若将 国と共に進まんことを」
事前に用意していたのだろうか。淀みない声だ。紫雲の眼差しからも、炎辰のための詩であることが蒼瑛には分かった。
そっと炎辰を見るが、特に表情は揺れない。
皇后がわずかに頷いた。
それだけで、出来を測れぬ者はいない。
芙蓉妃が一番に評する。
「兵を詠みながら、血の匂いを残さぬ――とても清らかな志ですね」
"清らかな"と言う部分に、若干の牽制を感じるが、芙蓉妃の穏やかな口調に、他意はないように思えた。
皇后が口を開く。
「国を守る兵たちの心にも月は寄り添うもの。良い詩です」
周囲はやっと息がつけると言ったように感嘆の声を漏らし、口々に紫雲の詩を褒めそやす。
続いて、翠蓮が一歩前へ進み出る。
「恐れながら――」
静かな声で、翠蓮は詠んだ。
「月は遠く 世に知る人なくとも
光を絶やさず 夜を照らすのみ」
歌が終わると、御花園に一拍の静寂が落ちた。その後ほう、と小さく息を呑む声があちこちから上がった。
「美しい……」
「なんて静かな歌なの」
武に焦点をあてた紫雲の詩とは対象的に、月の孤独そのものを詠んでいるようだった。
平易な言葉選びではあるが、それが却って聞く者の心に染み渡る。
芙蓉妃も蒼瑛も、ほっとした表情を見せる。
しかし、その空気を破るように清苑妃が口を開いた。
「……随分と、意味深な月ですこと」
扇の奥で微笑みながら、続ける。
「世に知られず、夜を照らすだけ、ですか。
それはまるで――帝に夜訪れもなく、名も呼ばれぬ妃たちを揶揄しているようにも聞こえますわね」
すぐさま清苑妃の周りの妃たちが応ずる。
「確かに、そうとも取れますわ」
「大体、韻もなく、詩の味わいも浅いですわ。やはり育ちが――」
妃達のあまりの言いように、蒼瑛は抗議しようと身を乗り出す。それを見た翠蓮はさっと顔色を変え、蒼瑛よりも先に声をあげた。
「この詩は、妃様方を揶揄するものでは、決してございません」
真っ直ぐな声に、妃達は驚きを隠さず言葉を飲み込む。
「世に知られずとも、誰に称えられずとも、ただ在るべきところで光を絶やさぬ――」
顔を上げ、翠蓮は皇后を見た。
「帝后の御心を、月に重ねて詠みました」
場が、凍りついたように静まり返る。
皇后が口を開く。
「……帝"后"とな……」
その声は低く、感情の起伏を感じさせない。
一呼吸置き、皇后は僅かに微笑む。
「帝を引き合いに出されては、評するのは無粋というもの。
歌は簡素であるが故に、芯がぶれぬ。
それ以上の評は、不要でしょう」
翠蓮は深く礼をすると、安堵したような表情を見せた。
それは皇后の不評を逃れたからなのか、守るべきものを守れた安堵なのか――
翠蓮は出番のため一度控室に下がった。
皆、酒が入り気づいていないが、
清苑妃は、袖下から何かを取り出し、紫雲へ手渡していた――
