◇ ◆
夜宴の前日。月明かりに照らされた道に、ひっそりたたずむ人影。
隠し書庫から出た蒼瑛だった。顔色が悪い。
床下に隠された古い書物――そこからかつての王家が隠し続けた真実を、蒼瑛は知ってしまった。
かつての皇帝が声を持つ者を迫害したこと、忌み眼という差別用語を創り出したこと。
(これを知ったら、翠蓮はどう思うだろうか……)
責められても仕方はない。それだけのことをしている。
そう思うのに、彼女に真実を告げることを躊躇する自分がいた。ずるい考えであることは分かっている。
――なのに……
「夜宴が終わったら……そうしたらきっと話そう……」
"まずは、夜宴を無事終わらせよう"と自分に言い聞かせる。
(明日の夜宴……皇后は何を仕掛けてくるのだろうか)
出来る対策はとったはずなのに、蒼瑛は不安がぬぐえなかった。
歩くたび、湿った夜気が衣の内にこもり、肌にまとわりつく。
茶会があった日、紫雲につけていた目付からの報告で、急遽芙蓉妃に仲裁に入ってもらっていた。
翠蓮は芙蓉妃に礼だけ述べ、すぐに稽古場へ帰ったと、そう聞いている。
『泣くでも震えるでもなく、怖いくらい落ち着いていた』
――芙蓉妃の言葉が、胸の奥に引っかかって離れない。
蒼瑛は息を長く吐き出す。
(あそこで騙し討ちのように開かれる茶会なんて、ろくなものではない)
それに出席してなお、平然としていたというのはどういうことなのか。
ちょうど、宿舎へ戻る翠蓮の姿が見える。こちらに気づくと、彼女は一瞬、周りを気にしたように見えた。
「夜分に失礼いたします」
その声は、どこか硬く冷たい。
「あぁ、明日はいよいよ夜宴だな。急なことで準備も大変だっただろう」
「いえ、少しでも皆様にお楽しみいただきたいので」
声だけではない。
表情もまた、以前より明らかに硬い。
薄闇をまとった翠蓮は、ついこの前までとは別人のようだった。
「茶会があったと聞いたが……
何か――」
何かあったのではないか。
そう口にしかけた瞬間、翠蓮と目が合う。
だが、その瞳の奥からは、感情が一切読み取れなかった。
「無理は……しないでくれ……」
「はい。役目を果たせるように努めます。それでは、失礼いたします」
夜宴のために所作を磨いたせいだろうか。
ゆるやかに腰を折るその動きが、蒼瑛の目には酷くゆっくりと、そして妙に美しく映った。
――これ以上、踏み込むな。
そう告げられた気がして、蒼瑛はただ翠蓮の背中を見送ることしかできなかった。
気づけば月は雲に隠れている。
蒼瑛は頭を整理しようと、来た道を引き返した。
(『役目を果たせるように』、か……)
まるで、自分を感情のない人形のように扱う翠蓮の態度。
(無理にでも聞けばよかったのだろうか……)
蒼瑛は自分のこの感情が、独りよがりな庇護欲に過ぎないのではないかと思えてくる。
(夜に考え事などするものではないな)
悪い方へと傾きかけた思考を断ち切ろうと顔を上げると、いつの間にか普段は足を運ばない宮廷の外れまで来ていた。
人気のない回廊から、男女の声が聞こえる。
どうやら、揉めているらしい。
(兄上――?)
女は長い髪に顔を隠し、誰かは分からない。
だが、縋りつくように炎辰の胸元を掴むその姿から、必死さだけは嫌というほど伝わってきた。
それとは対照的に、炎辰の声は冷え切っている。
「知らぬと言っているだろう」
「嘘です……あの子に惹かれているのでしょう…?
私は……っ……あなたが誰のものにもならないと思ったから。ここまで……」
嗚咽混じりの声は、聞いている蒼瑛の胸まで締めつける。
「お前とは、今日限りだ」
「炎辰さま……」
「本気になるなら終わりだと、始めから言っていたはずだ」
女はしばらく、炎辰の胸に顔を埋めて泣きじゃくっていたが、やがて諦めたように身を離した。
――その時夜風に髪が揺れ、顔が明かりに照らされる。
(紫雲か……)
紫雲は涙を隠すように顔を押さえ、蒼瑛とは反対側へ駆けて行った。
何が楽しくて、兄が女性と別れる場面など見なければならないのか。
だが、あそこまで想われることが少し羨ましくもあった。
蒼瑛がそっとその場を離れようとしたとき、背後から不満げな声が飛んできた。
「覗き見するなら、もう少し上手くやったらどうだ」
足を止めて振り返ると、炎辰がこちらへ歩いてくる。
「……別に、覗いていたわけではありませんよ。
兄上こそ、もう少し場所を選んでください……」
炎辰は蒼瑛の前で立ち止まり、胸の前で腕を組むと、静かに言った。
「……夜宴は明日か」
「はい……」
炎辰が会話を続けること自体、何か裏があるように思えてしまい、身構える。
雲が風に流れ、再び月明かりが二人を照らす。
蒼瑛が視線を上げると、満ちかけの月が、白く重たげに浮かんでいた。
それにつられるように、炎辰もまた天を仰ぎ見る。
こうして並んでいると、いがみ合う前の幼い頃に戻ったようだ。
炎辰が、ぽつりと口を開く。
「昔は――」
「兄上……?」
「いや。詮無きことだな」
思わず、そのまま驚きを顔に出してしまっていた。
まさか兄も、自分と同じように過去を懐かしんでいるとでも言うのだろうか。
だが、炎辰は、蒼瑛の顔に気付くと嘲るように口元を歪めた。
「だからお前は甘いと言うんだ。明日は、せいぜい、あの女の盾にでもなってやるんだな」
そう言い捨て、振り返りもせず去っていく。
「……気のせい、なのか」
“昔は”
そう言ったときの炎辰の横顔に、ほんの一瞬、憂いが滲んだように見えた。
それは、兄を信じたいという自分の気持ちが見せた、ただの幻想だったのだろうか。
