翠蓮は、皇后主催の夜宴に出ると決まってから、目の回るような忙しさだった。
曲の練習、礼儀作法の習得、詩歌の勉強。
それに加え、調整してくれたとは言え、楽府の業務もあった。
不意に後ろから声がかかった。太凱が、荷車に乗った楽器に手をかけている。
「翠蓮、これ運んどくからな」
「ありがとう太凱、でもそれ私の仕事で……」
「翠蓮! それくらい太凱に任せちゃいなよ。こっちは私がやっておくから!」
明鈴は、安心させるように笑顔を向ける。
「みんな……ありがとう……」
不安がある中頑張れているのは、仲間が応援してくれているからだった。
時間が過ぎるのも忘れ、夢中で練習していた。
翠蓮がふと気がつくと、稽古場で最後の一人になっていた。帰ろうとしていると、声をかけられる。
「色々と大変ね」
声の主は紫雲だった。
紫雲から直接嫌がらせをされたことはない。だが、周りの話から翠蓮は、彼女が自分の味方ではないと気づいていた。
(紫雲さんの目的は何なの……?)
警戒心をよそに、紫雲はにこやかに話しかけてくる。
「翠蓮、知っていると思うけど私も後宮の夜宴に出るのよ」
「……はい」
「私ね、後宮の歌坊出身なのよ。だから……」
紫雲の手が自分に伸びてくる。
翠蓮は身構えたが、ひやりとした指が頬に触れただけだった。
「分からないことがあれば、なんでも聞いてちょうだい……」
「ありがとうございます」
紫雲は目つきを鋭くする。
「ねぇ、翠蓮。あなた炎辰殿下にお会いしたこと……ある?」
――炎辰
その名を聞くと、後宮での威圧的な態度が思い出される。
無意識に緊張が走り、声が揺れた。
「はい……あの……少しだけですが」
「翠蓮、あなたって、かわいいのね……食べてしまいたくなるわ……」
紫雲の冷たい指が、するりと頬から首の方までおりてくる。
首筋を伝ってその指が喉仏をかすめた時、翠蓮は冷たい汗が背中を伝うのを感じ、身を引いた。
「いやっ――」
「ふふっ……本当に可愛いのね……少し分かった気がするわ……少し、ね」
紫雲は目を細めて笑顔を作る。
(なんのこと……?)
困惑する翠蓮をよそに、紫雲は「いい夜宴にしましょう」と言い、稽古場を出て行ってしまった。
気づけば鳥肌が立っていた。
「なぜ……炎辰殿下の名前を?」
二人は何か関係があるのだろうか。
もしや、突然決まった後宮での夜宴も、自分の知らないところで何かがあるのだろうか。
よろよろと立ち上がり、翠蓮も稽古場を出た。すでに暗くなった帰り道。誰かに見張られているようで怖かった。
急いで宿舎まで帰り着く。
自分の喉が渇ききっていることに気がついた。
「……早く寝よう」
だけど、眠ればまたあの夢を見てしまう。言いしれぬ不安に心が休まらなかった。
「大丈夫……」
そう呟いて現実から逃げるように布団を頭まで被った。
