蒼瑛に、芙蓉妃の前で歌ってほしいと言われた日の夕刻。
「翠蓮さま、お迎えにあがりました」
芙蓉貴妃付きの女官が迎えに来たのは、書状に記載された時刻きっかりだった。侍女二名を伴っている。
翠蓮は後宮に入るのは初めてだった。たまに明鈴が面白おかしくしてくれる噂話で、そこが皇帝のための花園だということは知っていた。
どきどきしながら女官に付いて冷たい石畳を歩くと、すぐに高い門がそびえ立っている。そばには門番が二人背ずじを伸ばしてたっていた。
「お名前と、所属をお聞かせください」
「楽府から参りました、翠蓮と申します。貴妃様への謁見の許可をいただきました」
翠蓮は小さく頭を下げ、蒼瑛から受け取った紹介状を両手で差し出す。
門番は確認し頷く。女官が翠蓮を内廷へと導くと、通路の両側には美しい庭が広がり、薄紅色の灯籠が揺れていた。
「こちらが貴妃宮です」
(すごい……大きい)
案内された先は、楽府の稽古場や宿舎を合わせたより広大な宮殿だった。
貴妃は側室の中で最も高位で、皇后に次ぐ妃の称号だ。
「きっと芙蓉妃さまはお住まいもすごく豪華だと思うよ!」
そう言っていた明鈴の言葉通り、まるでこの宮殿は、皇帝の寵愛の大きさを示すようだ。
きらびやかな内装に圧倒されつつ、長い廊下を女官たちと歩く。
「貴妃様、件の歌人が参りました」
女官がそっと声をかける。中から気品ある穏やかな声が聞こえてきた。
「どうぞ、お入りになって」
翠蓮はその言葉に胸がはやる。
一歩踏み入れると、香炉の煙とともに甘い香りが室内に満ちている。
(蒼瑛さまと同じ香り……。白檀香?)
部屋は柔らかい色調で統一され、ところどころに花が生けてある。
華美ではない、ほっと落ち着くような居室だった。
「あなたが翠蓮ね」
「お目にかかれて光栄にございます」
「さぁ、そんなに堅くならないで。こちらへいらっしゃい」
翠蓮は恐る恐る、芙蓉妃の前の椅子に腰をおろす。
(蒼瑛さまに似ていらっしゃる)
芙蓉妃の深い蒼い瞳の色。聡明で穏やかな人柄が分かる顔立ちは、蒼瑛とよく似ている。
「まぁ、なんて可愛らしい方なの。お茶を用意させたのよ。お口に合うかしら」
芙蓉妃が手を軽く上げると、侍女がすぐに蓮の花茶と、砂糖でコーティングされた餅菓子を机に差し出した。
「芙蓉妃さま、蓮の香りをお楽しみいただくため、花茶は冷やしてございます」
侍女の言葉に芙蓉妃は微笑んだ。
「蓮の花、気品がある清らかな香りよね。大好きなのよ」
促され、翠蓮はそっとお茶を口に含む。
(初めていただいたけれど、いい香り)
翠蓮の名に ちなんで、蓮の花茶を用意してくれたのだろう。その心遣いに緊張が少しだけ和らいだ。
「翠蓮、今回は突然のことに驚いたでしょう。最近、夜の眠りが浅くて何度も起きてしまうの」
芙蓉妃は茶器をそっと置くと、寂しそうな表情を見せた。
美しい顔には深い疲労が潜んでいた。その辛そうな顔が、病気で亡くなったと母と重なる。
「いいえ、少しでも芙蓉妃さまのお心が休まれば良いのですが……」
(初対面の私にこのように気遣いをくださるのだから、きっとお優しい方なんだ……
色々気付きすぎると、お疲れになることもあるのかな)
翠蓮はふと、芙蓉妃が温めるように手をさすっているのが目にとまった。
(もしかして……)
「芙蓉妃さま、恐れ多いのですが少し……お手に触れてもよろしいでしょうか」
芙蓉妃は不思議な顔をするが、手を差し出す。その手はひんやりと冷たい。
「よろしければ、お目を閉じてください」
翠蓮は、こちらを見ている侍女に頷き、明かりを落としてもらう。
自分の体温が移るように気持ちを込めて、優しく芙蓉妃の手を包み込んだ。
「翠蓮の手、温かいわね……」
芙蓉妃の冷えていた手は少しずつ温かくなり、頬にも心なしか血色が戻っていた。
「芙蓉妃さま、眠りのご準備が整いました」
侍女が言うと、芙蓉妃は穏やかな笑顔を翠蓮に向けた。
「ありがとう…なんだか眠れそうだわ」
翠蓮は香炉の煙が寝台に届かぬように扇でそっと遮り、横になった芙蓉妃の足元に毛布をかける。蝋燭を消すと静かに、呟くように歌い始めた。
水面をたゆたうような優しい歌声に、芙蓉妃はゆっくりと眠りに落ちていった。
翌日、侍女が芙蓉妃の居室前で朝の挨拶を行う。
返事がない。
「失礼いたします。芙蓉妃さま……?」
不審に思い、そっと扉を開いた侍女はぎょっとした。
寝台にもたれるようにして翠蓮が寝ている。その手は芙蓉妃の手を握っていた。
「ちょっとあなた、まさか一晩ここで?風邪ひくわよ」
呆れた顔で揺り動かすと、翠蓮は目を覚ました。
「……すみません、寝てしまって」
芙蓉妃はまだ眠っている。翠蓮は安堵し、侍女にお礼を言ってそっと部屋を出た。
外は明るい朝日に満ちていた。
「少しでもお役に立てたならよかった」
翠蓮は朝の空気を胸いっぱいに吸込み、一度部屋に戻ってから、楽府の稽古場へ足を向けた。
中には既に明鈴たちが揃っていた。挨拶をしようと開いた口からは、くしゃみが飛び出す。
「あれ? 翠蓮、風邪?」
明鈴は心配そうに声をかけ、翠蓮のおでこに手を当てる
「……熱はなさそうだけど」
まだ眠そうに目をこする太凱が、明鈴の後ろから顔を出す。
「誰かに噂されてたりしてな」
「くしゅんっ」
二つ目のくしゃみだ。
「二回くしゃみは憎まれっていうんだぜ」
「いやいや、普通に風邪でしょ」
明鈴に横目で睨まれ太凱は大人しくなった。
「くしゅっ……ごめん、移したら大変だから今日外で練習してくる」
三回目のくしゃみで稽古場から出ていく翠蓮を見て、太凱はぼそっと呟く。
「三、惚れられ……か」
太凱の横顔を、明鈴が何とも言えぬ表情で見つめていた。
翠蓮は一人稽古場を出たものの、やはり風邪なのか庭でぼーっとしていた。
「いい天気……」
暖かいはずなのに寒気がする。両腕で身体を抱きしめ擦っていると、胸元で飾り紐が揺れて当たった。母の形見の首飾りだ。
弱っている時ほど無意識に触れたくなるのだろうか。翠蓮はそっと取り出し、母のぬくもりを思い出すように石を撫でる。
「あれ……?」
ふと、手の影に比べて、石の影が薄いのに気づいた。中が透けているようにも見える。
石を通して落ちる、薄く揺らめく影。
「なに……模様?」
陽の光にかざして見てみる。
影は何かの形にも見えるが、はっきりは分からなかった。
頭の奥がズキンと痛んだ。
「またこの感覚……」
何か大事なことを忘れている気がするが、どうしても思い出せない。
翠蓮は首飾りをそっとしまった。
