翡翠の歌姫は後宮で声を隠す


 翠蓮がいる控えの間では、それぞれの係りや楽府員が忙しく動き回る。楽器や声の音も合わさり、ざわざわとした喧騒を生み出していた。

 絢麗との二重唱は完璧とは言えなかったが、舞台で披露するには十分な出来に仕上がっていた。


「翠蓮さま、本日の衣装はこちらです」
 袖はふわりと天女のように広がり、スカート部分が柔らかく重なっている。
 そしてあちこちに美しい珠飾りが散りばめられていた。

(素敵……)
 これを着て舞台に立つと思うと、翠蓮の胸は希望で満たされる。
 

 段々と出来上がっていく自身の姿を翠蓮は、姿見を通してじっと見つめる。

(いつか本で見たお姫様みたい……なんて言ったら子どもっぽいかな……)

 まるで自分でいて自分ではないようだった。美しい衣装に身を包み、隙のなく結われた髪に化粧。全てが初めてのことで、高揚し、心が弾む。

「素敵ねぇ……」

 周りもうっとりして声を漏らす。
 絢麗(ケンレイ)と二人並ぶと、そこだけ明るく見えるほどだ。


 いつ来たのだろうか。

 蒼瑛は息を止め、翠蓮へそっと視線を寄せている。


「蒼瑛さま、お忙しいのにありがとうございます。きっと今日の舞台は素晴らしいものになります。」

 香蘭は悠然と微笑むと、蒼瑛を今日の主役の元へ案内する。
 蒼瑛は翠蓮の前に立つと声をかけるでもなく、どこか後ろめたげに視線を外した。


(やっぱり、避けられてる……)
 翠蓮は唇を結ぶが、すぐにいつもの表情に戻した。
 そして挨拶のため深く身をかがめるようとすると、不意に、衣装係が緊迫した声を上げる。

「動かないで――」


――遅かった。


 布が裂ける音とともに、長居の(ひだ)が引き攣り、輝く珠飾りが弾け飛ぶ。


 最後の光が、重力で床に吸い寄せられる。


 かつんっ――


「きゃーっ」
 その音が止むと同時に、誰かが悲鳴をあげた。


「な……に……?」
 状況を把握できず、翠蓮は肩越しに視線を向ける。
 美しかった衣装は、右後ろあたりが腿から胴まで大きく裂けていた。

 足がもつれたように絡む。

「大丈夫か!?」
 咄嗟に蒼瑛が手を出したが、翠蓮はそのまま床へと崩れ落ちた。


 香蘭は真っ青になりながらも、確認する。
「……今、次第は!?」

「琵琶が演奏中で……出番まで十分を切ってます!」 

 蒼瑛は素早く衣装の後ろに回り込み、腰を下ろす。
 損傷した部分を手にとると、裏地の一部分に不審な点がある。自然に裂けたのとは別の、鋭利な切れ込みだ。

 その小さな切れ込みは、まるで舞台上で衣装が裂けることを狙ったように見えた。
 歌唱前、両手を広げ身を沈めるように行礼(こうれい)する――その瞬間を。
 蒼瑛はぞっとした。
「もし観客の前で破けていたら……」

 すぐに陳偉(チンエイ)に、指示を出す。

「控室を封鎖して、直ちに内官府(ないかんふ)へ調査を依頼してくれ」

「承知いたしました」
 陳偉は弾けるように出て行った。

(舞台は中止するしか……)
 蒼瑛が声を出そうとした時、鋭い声が響き渡る。


「待って!針と糸を!!」
 声の主は絢麗だった。
 

「……修復できるのか?」
 蒼瑛は衣装に手をかけたまま絢麗に尋ねた。
 この日は饗宴の舞台に合わせ、演者ごとに採寸し、衣装を誂えていた。
 他の衣装を取りに行ったとしても着付けが間に合わないだろう。

「針と糸ならここに……」
 針子が裁縫道具を差し出すと、絢麗は冷静に言う。

「スカート部分は荒く縫って。見えないよう念の為、下袴も同色のものを!
それから……帯を高く合わせて、胴の裂けた部分を隠して!」


 その場にいる誰もが固唾を飲んで成り行きを見守っている。


 蒼瑛は、翠蓮の正面から様子を確認する。
 がっくりと肩を落とし、力なく頭を垂れている。まるで糸が切れた操り人形だ。


 琵琶の演奏は最後の盛り上がりを見せ、拍手がこちらまで聞こえてくる。


「もう出番が……」
 進行係は蒼瑛と香蘭を代わる代わる見やる。


 予断を許さない空気の中、蒼瑛は重々しく口を開く。
「舞台は中止だ。責任は私がとる」

「蒼瑛さま!それでは……」

「わかっている」
 香蘭の言葉を手で制する。これが大事な政治的駆け引きを含む饗宴の場だということは、蒼瑛も理解していた。
 中止ともなれば、あらゆる方面から追及は免れない。

 蒼瑛は翠蓮から目を離し、炎辰の影を恐れ、何も策を講じなかった自分を悔いた。

 舞台に向かおうとする蒼瑛の足を、絢麗が両手を大きく広げて阻む。
 驚く蒼瑛を横目に、絢麗は振り返り、翠蓮の肩を掴んだ。


「翠蓮! この程度で歌えなくなるようなら、私は貴方を軽蔑するわ」
 その言葉に、翠蓮ははっと顔を上げた。
 翡翠の瞳には動揺の色が見えるが、閉ざされてはいなかった。
 
 
「もう本当に時間が……お急ぎください!」
 進行係に急かされ、二人は舞台に向かっていく。

 蒼瑛はその後ろ姿を見守るしかなかった。



 舞台の幕が上がり、二人は手を取り合ったまま、ゆっくりと行礼(こうれい)する。

 一際大きな拍手は、陽国の歌姫と呼ばれる絢麗(ケンレイ)への、期待の高さの表れだろう。


 口を開いた歌姫二人の歌声は、しなやかにハーモニーが紡ぐ。
 翠蓮の声はわずかに弱く、絢麗が何とか声量でカバーしていた。

 翠蓮は、何とか立て直そうともがいていた。絢麗の言う通り、こんな嫌がらせに負けてはいけない。

 だが、もがけばもがくほど水の底に沈んでいくようだ。


(声が出ない……息ができない……)


――助けて

 そう思った時、握った手の震えが指先から伝わってきた。

 絢麗が震えている――
 どうして気づかなかったのだろう。
 絢麗とて、楽府に入府してから初めて舞台だったというのに。

(私は自分のことばかりで……
助けてもらうんじゃなく、自分の足で立たないと)

 そう決意すると気持ちが軽くなり、声に艶と伸びが戻ってきた。

 呼応するように絢麗の声も美しく合わさる。
 まるで最初から二人で一つであったかのような美しいハーモニーは、観客の心に深く響き、魅了する。

 圧巻だった。

 歌唱が終わると、二人は額にうっすらと汗をかき、頬は上気していた。互いにしっかりと視線を合わせると、晴れやかに微笑んだ。

 灯が温かく二人を照らし、観客の拍手はとどまることを知らなかった。