翡翠の歌姫は後宮で声を隠す

 饗宴当日。
 この日は生憎の雨だった。
 せっかく咲いた春の花も、この雨ではすべて散ってしまうだろう。
 地方貴族の張氏が参内(さんだい)するため、殿前(でんぜん)将軍である炎辰(エンシン)は朝から警備に出ていた。

(張氏か……)

 北方の地は国境であるため、隣国との非常時には最前線で戦う立場だ。
 炎辰と張氏の間では軍事権を巡り、幾度か衝突が起きていた。


 重たい雲が垂れ込める空を仰ぎながら、炎辰は先日の翠蓮の様子を思い出す。


『声で争いを治めた一族はその証として、翡翠の瞳と翠玉を持つ』
 遠い昔に、戦で聞いた話だった。
 帰った後史実を読み返したが、どこにもそんな話は書かれていなかった。

 地方に伝わるただの昔話だと納得したはずが、なぜ彼女にあんな話をしたのだろうか。


 本日の饗宴には第一皇子として炎辰も招かれている。
 本来なら張氏の顔など見たくないが仕方ない。

「おもしろいものが、見れるかも知れないしな」

 かすかな笑みを浮かべ、炎辰は馬の手綱を握る手に力を込める。


「将軍、いらっしゃいました!」

 武官の声に合わせ、炎辰は指揮を執る。
 兵士の鎧が鈍く光り、雨に濡れた槍の先端が規則正しく揺れる。
 一糸乱れぬその様子は、炎辰の将軍としての高い統率力を示していた。

◇ ◆

 張氏の一行は、絢爛な馬車と数十人の護衛や従者を連れて正門をくぐる。
 遠目にも、北方の人々らしい、質実ながらも堂々とした雰囲気が漂っている。


 皇帝への挨拶が済んだ張氏は、控えの間で蒼瑛に出迎えられた。

「張氏殿、お待ち申し上げておりました」
 蒼瑛は軽く膝を曲げ、笑みを浮かべて歓迎する。

「これは蒼瑛殿下、お会いできて光栄にございます。この度は成人の儀を迎えられたこと、誠にご祝福申し上げます」

 張氏はふくよかな身体で深々とお辞儀をした。
 皇族に会う時の緊張が張氏から伝わるが、蒼瑛の柔らかな声に、その表情はすぐにほぐれた。

 献上品を差し出そうとする従者を制し、蒼瑛は気遣うように微笑む。

「長旅とこの雨で、皆様お疲れでしょう。湯を用意させますので、まずはお寛ぎください」

 張氏は蒼瑛に会うのは初めてだったが、その物腰の柔和さと心遣いにひどく感動した様子だ。
 普段やりとりする皇族と言えば炎辰なので、張氏のこの反応も無理はない。
 蒼瑛は内務大臣に引き継ぐと、控えめに一礼しその場を後にした。

◇ ◇ ◇

 饗宴は和やかに進んでいた。


 炎辰はまだ到着していないようで、主に張氏との会話は蒼瑛が担当していた。
 料理や酒は、事前に調べておいた張氏の嗜好に合わせてあり、長い机の上にところ狭しと並んでいる。

 そのためもあってか張氏は饒舌だ。


 近隣国との緊張状態で兵が疲弊している。積極的に支援をしてほしいと熱を込めて話していた。

 張氏は盃に入った酒を見つめると、ため息を吐きつつ言う。

「炎辰殿下にも常々お願い申し上げているのですが……」

 蒼瑛は、北方の状況は把握していたつもりだったが、実際に話を聞くと知らないことも多かった。
 張氏ははっきりは言わないが、その言葉の端々から、炎辰への怒りと落胆が伝わってくる。


(国を守る前線であり自国の敬意を払うべき仲間なのに、兄上はなぜ、力欲しさにそのような仕打ちができるのか……)

 恐らく蒼瑛には、炎辰の心境は理解できないだろう。それは逆も言えたことで、この先どこまで行っても二つの線は交わらない。根本的な思考が全く異なるのだ。


「ところで……」

 張氏は舞台を見ると口を開いた。

「今宵は何か催しが?」

「ええ、ご存知かわかりませんが実は最近、楽府を創設いたしまして。
本日はささやかですが、その舞台をお楽しみいただければと考えております」

 張氏は何度も深く頷く。

「それは素晴らしい。国に文化の厚みがなければ、他国から軽んじられますゆえ。
実のところ、北の遊牧の国より、『陽国は武ばかりの野蛮な国』と揶揄されたこともございます」

 張氏は雨音を聞きながら残りの酒をぐいと飲み干す。

「楽しみにしております」

 そこに炎辰が到着した。
 張氏は立ち上がり、参上の挨拶を述べる。
 炎辰の護衛や側近は目を鋭く光らせている。少々ピリついてはいるが、表面上は和やかな空気で談笑していた。

 蒼瑛は張氏に断りを入れ、舞台の最終確認のため席を立った。

――楽しみにしております

 張氏のその言葉を思い返し、蒼瑛の胸にひとつ灯がともる。


 外は雷雨に変わっていた。