翡翠の歌姫は後宮で声を隠す


 最初に翠蓮(スイレン)が異変を感じたのは、譜がなくなった時だった。
 不注意で失くしたのかと思ったが、その日のうちにボロボロに破かれて出てきた。

 それを皮切りに、一部の楽府員から心ない言葉を浴びせられたり、理由もなく笑われることが増えた。


「翠蓮、元気ない?」「何かあったのか?」

 明鈴(メイリン)太凱(タオガイ)がそう聞いてくれても、翠蓮は曖昧にごまかした。

 心配をかけたくないという気持ちもあるが、人から"そういう"対象にされているということを、認める勇気がなかった。
 


◇ 
 今日は、書庫の掃除と書物の移動を頼まれていた。
 蒼瑛が以前言っていた楽府用の図書館を創るらしい。

 棚が備え付けられただけの簡易的なものだが、翠蓮は『これからここに音楽の本がたくさん並ぶんだ』と想像し、久々に心が明るくなった。


(そういえば、最近の蒼瑛さま……)
 たまに会ってもさっと目を逸らし、表情もぎこちない。まるで翠蓮を避けるように――
 祝宴のときに優しくされたからといって、勘違いしてしまった自分が恥ずかしかった。


 明鈴が手をぱんぱんっとはたきながら言う。

「後は書物の移動か。太凱(タオガイ)にやらせよ~、っていないじゃん」

「ふふっ、太凱なら師匠に呼ばれて行っちゃったよ。私が運ぶよ」

 翠蓮は籠に十冊ほど本を入れると書庫を出る。


「暖かい……」
 春の花が見事に咲き誇り、満開を迎えている。


 その時、すれ違いざまに裾を踏まれて転んでしまった。籠の本が地面に散らばる。

「すみません……」
 顔を上げると楽府員が二人、見下すように立っていた。

「ちょっと、ぶつかったじゃない。あなたの"眼"ちゃんと前見えてるの?」

 翠蓮はその言葉を無視して本を拾い集める。
 蒼瑛が厳しく罰するため、楽府員は露骨に"忌み眼"ということはない。だが、こうして遠回しに匂わせてくる。

 楽府員は、翠蓮が手を伸ばした本を踏みつける。
「あなた字が読めるの? その籠でも持って、路地裏で施しでも受けてきたらいかが?」


(私が一体何をしたの……)

 なぜ瞳が翡翠色だというだけで、こんな仕打ちを受けなければいけないのだろうか。
 踏みつけられた本が自分と重なってひどく惨めに思えた。
 
 そのまま嘲るような笑い声は遠ざかり、翠蓮は動けずに、ただただ本を見ていた。

 やっぱり自分は、彼女たちが言うようにこの世にいる価値のない人間なのかもしれない。

 どれくらいそうしていただろうか。
 あまり遅くなると、明鈴に不思議に思われる。
 最後の一冊に手を伸ばすと、骨ばった大きな手が本に触れた。

「相変わらず泥遊びが好きだな」

「……炎辰殿下」

 好きで泥だらけになっているわけではないのだが、二回も同じような所を見られると恥ずかしい。

 手に取った本に泥の足跡がついているのを見ると、炎辰が眉をひそめる。
 翠蓮は思わずひったくるように本をとってしまった。向かい合ったまま沈黙が流れ、翠蓮はごまかすように言葉を探す。


「あの……この前は助けていただきありがとうございました」

「いつの話をしているんだ」

「なかなかお会いする機会がなくて……申し訳ありません」

 炎辰は不意に目を怪しく光らせる。

「お前は"翠玉"を持っているのか?」

「すいぎょく? なんのことですか?」


 炎辰はふっと口の端を歪めた。

「いや、何でもない」

「はぁ……」

「間の抜けた顔をしていると、また本をばら撒かれるぞ」


 翠蓮は開きっぱなしになっていた口を、慌てて手で押さえた。 
 どうやら、嫌がらせをされていたことはばれていたようだ

 翠玉がなんなのかは分からなかったが、翠蓮は少し心が晴れた気がしていた。


◆ ◆

 書斎で執務を行っていた蒼瑛は、陳偉(チンエイ)に声をかけられた。

蒼瑛(ソウエイ)さま、明日は張氏が参内(さんだい)されますな。」

「あぁ……」

 蒼瑛は手元の書類に目をやり、歯切れの悪い返事をした。
 いつもだったら手を一旦止めて楽府に顔を出したはずだ。
 それなのに足が重かった。

 炎辰に揺さぶられて以来、蒼瑛は自分が翠蓮に弱いということを、嫌というほど自覚させられた。

 下手に動くことで炎辰を刺激したくなかった。


(少し、元気がなかっただろうか……)

 時折見かける翠蓮のことを思い出す。

 彼女を取り巻く環境が暗く変化したことを、蒼瑛はまだ知らない。


(翠蓮を守るために会わない、というのがこんなに辛いとは)
 

 蒼瑛は自嘲気味に微笑むと、手元から顔を上げる。ちょうど今思い出したというように、声を出した。

「……確か王府で急ぎの文書確認があったな」

「おぉ!そうでしたな。すぐに参りましょう」

 陳偉は慌ただしく準備に取り掛かる。

「自分がこんなに臆病だとは知らなかった……」

「……何か?」

 陳偉は振り返るが、蒼瑛は首をただ横に振った。

「いや……さぁ急ごう。日が沈むぞ」