晴れの日にふさわしい朝。太華殿の前に楽府員たちが整列する。
(いよいよ入府式……。バッジを付けると身が引き締まるな。)
出来たての官服に袖を通すと、翠蓮は自然と背筋が伸びる。
静かに目を閉じる。
(一人じゃここまで来られなかった)
試験を通して明鈴や太凱という仲間ができた。
蒼瑛の優しさに救われた。
半年前の絶望を、少し受け入れられる気がした。
「皇帝陛下の勅を、諸君に告ぐ――」
低く落ち着いた声の方を見つめる。
蒼瑛は正装を着用している。いつもは簡素に束ねられた蒼い髪が、今日は格式高くまとめられていた。
厳かな装いは、彼の端正な顔立ちをいっそう引き立てる。
(こうして見ると、眩しいくらいだな)
改めて別世界の人なのだと実感させられる。
たった数歩の距離なのに、遥か遠くに立っているようだ。
勅を言い終えた蒼瑛は、楽府員を見回して静かに頷いた。
それを合図に音が紡がれる。
雅楽の形式に慣れず、まだ堅い者もいるが、乱れのない美しい旋律を奏でている。
翠蓮は、その旋律に心を委ねる。
ただ憧れていただけの舞台に、今自分が立っている。
(これからも、たくさんの人に歌を届けたい)
そんな気持ちを象徴するような初々しい歌声が、美しく太華殿へ溶け込んでいった。
蒼瑛は礼をし、式の終わりを告げる。
「皆、入府おめでとう。今宵は祝宴を用意してある。これからの門出を共に祝おう」
楽府員達は顔を見合わせ、小さく沸き立った。
◇ ◆
「無礼講だ~、飲め飲め!」
太凱は一升瓶を握り締め、まだ酒が入ったままの翠蓮のおちょこになみなみと注ぐ。
翠蓮は少しだけ抵抗を試みた。
「太凱、それ、目上の人が言うんだよ……」
「うるせー、堅いこと言うなって!」
太凱は猫のような目を釣り上げ、翠蓮を睨むと、ふらふらとどこかへ行ってしまった。
確かに、無礼講と呼ぶにふさわしい祝宴だった。
ここまで張り詰めてやってきた受験者達は少々――いや、大分飲み過ぎ、中には早々と酔いつぶれるものもいた。
蒼瑛に目線を向けると、女性陣に取り囲まれていた。彼に骨抜きになっているのか、皆目の色が変わっている。
蒼瑛は普段と変わらず、蜜のような甘い笑顔でにこやかに会話していた。
翠蓮はそれを見ると、なぜだか胸の奥が疼く。
(食べ過ぎたかな?)
「あれ~?もしかして蒼瑛さまに見とれてる?」
後ろから抱きつかれ、振り返ると頬にふわっと茶色の癖毛が当たる。明鈴だ。こちらも大分酒が回っており頬が赤い。
(確かに……ちょっと見惚れてたけど……)
「ほら、お前ら飲んでるか~?」
戻ってきた太凱は、明鈴との間に割り込むように入ってくる。
「ちょっと、飲酒強要禁止です~!」
元々元気がいい二人は、お酒の力を借りてさらに盛り上がっている。翠蓮は苦笑した。
だいぶ夜も深まり、既に部屋に戻る者は戻っていた。部屋には酔いつぶれた者が屍のように倒れており、残っているのは、酒豪か介抱する者だけだった。
既に明鈴も太凱も潰れており、頭をくっつけて寝ている。
(仲いいな。なんだかんだ息ぴったりだし)
そろそろ引き上げようとした時、ふっと書の香りがした。
「翠蓮、隣いいか?」
振り向くと、疲れた顔の蒼瑛が立っていた。彼の後ろには大の字の陳偉が、口ひげをフゴフゴ言わせているのが見える。
「あそこにいらっしゃるのは……」
「あぁ、陳偉は酒に弱くてな。大体酔うと私の小さい時の思い出話からはじまって、最近は泣きながら『こんなに大きくなられて!』って……今やっと寝てくれたところだ」
「ふふっ……陳偉様にもそんな一面があるんですね」
今日はもう話す機会はないかと思っていた。こうやって他愛もない会話ができることが嬉しい。
翠蓮が小さな幸せを感じていると、突然、目の端で金色が揺れる。酔いつぶれていたはずの太凱が起き上がっていた。
「どうしたの太凱?」
「気持ち悪い……みず……」
翠蓮はおろおろと水を取りに行く。戻って来ると、蒼瑛が太凱を支えていた。
「飲める?大丈夫?」
そう言いながら、太凱の背中をさすっていると
「スイ……レン、お前って優しいよな……。いつもからかって……ごめんな」
突然反省し出した太凱が怖くなり、いよいよ吐くのかと、目で受けるものを探す。しかし太凱の反省は止まらない。
「かわいくって……つい……」
「ちょっと……何言ってるの?吐くの?蒼瑛さま、もしかしたら汚れてしまうかもしれないので……」
いくら無礼講の祝宴とは言え、皇子に"あれ"がかかるのはさすがにまずい。
翠蓮が太凱を引き取ると、
「もう大丈夫、ちょっと膝貸して……」
そう言って太凱は、猫のように、翠蓮の膝で眠り始めてしまった。
(えぇ……嘘でしょ……)
金髪のツンツンした髪があたって、膝がくすぐったい。
なんとかその辺りを汚さずに済んだが、動けない。
「すみません蒼瑛さま、お見苦しいところを……」
「……」
しばしの沈黙の後、蒼瑛が口を開いた。翠蓮は気づいていないが、その声は少し怒りを含んでいる。
「……膝枕……代わろう」
「え? いえ、そんな。下手に動かすと吐くかもしれませんし……」
蒼瑛は、今度は誰が見ても分かるほどムッとし、口をとがらせる。
「私がそうしたいんだ」
と譲らない。いつもの冷静さは消えていた。
(怒ってる……よね? そんなに膝枕してあげたいってこと?)
「そうしましたら、蒼瑛さまに申し訳ないので、こちらの座布団に移しましょう」
手近な座布団を手に取り、刺激しないように二人がかりで太凱を移す。下ろす時に、耳に付いている沢山のピアスが、しゃらんと音を立てた。
「大丈夫そうだな」
のんきに寝息を立てているのを見て、蒼瑛はほっと一息つく。
「すみません、せっかく申し出てくださったのに、座布団で」
「いや、別に彼に膝枕をしたかったわけでは……さっきは思いつかなかっただけで、座布団の方がよほど良い」
「そうなのですね……?」
「あぁ、翠蓮の膝で寝てるのを……見るのが嫌だっただけだ」
翠蓮にはどうやら意図が伝わっていない。不名誉だが、蒼瑛は『どうしても男を膝枕したかった男』になったようだ。
気づけば、部屋で意識があるのは、蒼瑛と翠蓮だけになっていた。
「翠蓮は、酒を飲んでも変わらないんだな」
「あ、私飲んでいないんです。一度飲んだことがあるんですけど……」
初めて酒を飲んだ時の記憶が翠蓮にはなかった。ただ、育ての父に『お前は絶対酒を飲むな。』とだけ言われた。
理由を聞いても『歌以外で人を虜にするな』としか言われなかった。
(お父さん……もう、会うこともできない……)
心の傷は時間が癒やしてくれていたと思った。なのに、父を殺したあの男の言葉が、呪いのように消えてくれない。
「どうかしたか?」
「私の眼は……本当に、周りを不幸にするんじゃないか。って……」
喉が詰まったようになり、続きは出てこなかった。
蒼瑛はなんとなく事情を察したのか、席を立とうとする翠蓮の手を引く。隣にすとんと座らせた。
「翠蓮の眼は綺麗だ。誰が何と言おうと」
じっと見つめられ、心が痛いほど揺さぶられた。蒼瑛は微笑む。表面上の笑みではない、ふんわりと優しい顔だった。
「それでも、泣きたければ泣いてもいい」
「いえ……泣きません」
「強情なんだな」
「はい……」
翠蓮の身体の震えは、指先から蒼瑛へ伝わる。
蒼瑛は、翠蓮の涙に気づかないふりをして天を仰ぐ。
その心遣いに、翠蓮はここに来るまでのことを思い出していた。
そう、忌まわしいあの日を――
(いよいよ入府式……。バッジを付けると身が引き締まるな。)
出来たての官服に袖を通すと、翠蓮は自然と背筋が伸びる。
静かに目を閉じる。
(一人じゃここまで来られなかった)
試験を通して明鈴や太凱という仲間ができた。
蒼瑛の優しさに救われた。
半年前の絶望を、少し受け入れられる気がした。
「皇帝陛下の勅を、諸君に告ぐ――」
低く落ち着いた声の方を見つめる。
蒼瑛は正装を着用している。いつもは簡素に束ねられた蒼い髪が、今日は格式高くまとめられていた。
厳かな装いは、彼の端正な顔立ちをいっそう引き立てる。
(こうして見ると、眩しいくらいだな)
改めて別世界の人なのだと実感させられる。
たった数歩の距離なのに、遥か遠くに立っているようだ。
勅を言い終えた蒼瑛は、楽府員を見回して静かに頷いた。
それを合図に音が紡がれる。
雅楽の形式に慣れず、まだ堅い者もいるが、乱れのない美しい旋律を奏でている。
翠蓮は、その旋律に心を委ねる。
ただ憧れていただけの舞台に、今自分が立っている。
(これからも、たくさんの人に歌を届けたい)
そんな気持ちを象徴するような初々しい歌声が、美しく太華殿へ溶け込んでいった。
蒼瑛は礼をし、式の終わりを告げる。
「皆、入府おめでとう。今宵は祝宴を用意してある。これからの門出を共に祝おう」
楽府員達は顔を見合わせ、小さく沸き立った。
◇ ◆
「無礼講だ~、飲め飲め!」
太凱は一升瓶を握り締め、まだ酒が入ったままの翠蓮のおちょこになみなみと注ぐ。
翠蓮は少しだけ抵抗を試みた。
「太凱、それ、目上の人が言うんだよ……」
「うるせー、堅いこと言うなって!」
太凱は猫のような目を釣り上げ、翠蓮を睨むと、ふらふらとどこかへ行ってしまった。
確かに、無礼講と呼ぶにふさわしい祝宴だった。
ここまで張り詰めてやってきた受験者達は少々――いや、大分飲み過ぎ、中には早々と酔いつぶれるものもいた。
蒼瑛に目線を向けると、女性陣に取り囲まれていた。彼に骨抜きになっているのか、皆目の色が変わっている。
蒼瑛は普段と変わらず、蜜のような甘い笑顔でにこやかに会話していた。
翠蓮はそれを見ると、なぜだか胸の奥が疼く。
(食べ過ぎたかな?)
「あれ~?もしかして蒼瑛さまに見とれてる?」
後ろから抱きつかれ、振り返ると頬にふわっと茶色の癖毛が当たる。明鈴だ。こちらも大分酒が回っており頬が赤い。
(確かに……ちょっと見惚れてたけど……)
「ほら、お前ら飲んでるか~?」
戻ってきた太凱は、明鈴との間に割り込むように入ってくる。
「ちょっと、飲酒強要禁止です~!」
元々元気がいい二人は、お酒の力を借りてさらに盛り上がっている。翠蓮は苦笑した。
だいぶ夜も深まり、既に部屋に戻る者は戻っていた。部屋には酔いつぶれた者が屍のように倒れており、残っているのは、酒豪か介抱する者だけだった。
既に明鈴も太凱も潰れており、頭をくっつけて寝ている。
(仲いいな。なんだかんだ息ぴったりだし)
そろそろ引き上げようとした時、ふっと書の香りがした。
「翠蓮、隣いいか?」
振り向くと、疲れた顔の蒼瑛が立っていた。彼の後ろには大の字の陳偉が、口ひげをフゴフゴ言わせているのが見える。
「あそこにいらっしゃるのは……」
「あぁ、陳偉は酒に弱くてな。大体酔うと私の小さい時の思い出話からはじまって、最近は泣きながら『こんなに大きくなられて!』って……今やっと寝てくれたところだ」
「ふふっ……陳偉様にもそんな一面があるんですね」
今日はもう話す機会はないかと思っていた。こうやって他愛もない会話ができることが嬉しい。
翠蓮が小さな幸せを感じていると、突然、目の端で金色が揺れる。酔いつぶれていたはずの太凱が起き上がっていた。
「どうしたの太凱?」
「気持ち悪い……みず……」
翠蓮はおろおろと水を取りに行く。戻って来ると、蒼瑛が太凱を支えていた。
「飲める?大丈夫?」
そう言いながら、太凱の背中をさすっていると
「スイ……レン、お前って優しいよな……。いつもからかって……ごめんな」
突然反省し出した太凱が怖くなり、いよいよ吐くのかと、目で受けるものを探す。しかし太凱の反省は止まらない。
「かわいくって……つい……」
「ちょっと……何言ってるの?吐くの?蒼瑛さま、もしかしたら汚れてしまうかもしれないので……」
いくら無礼講の祝宴とは言え、皇子に"あれ"がかかるのはさすがにまずい。
翠蓮が太凱を引き取ると、
「もう大丈夫、ちょっと膝貸して……」
そう言って太凱は、猫のように、翠蓮の膝で眠り始めてしまった。
(えぇ……嘘でしょ……)
金髪のツンツンした髪があたって、膝がくすぐったい。
なんとかその辺りを汚さずに済んだが、動けない。
「すみません蒼瑛さま、お見苦しいところを……」
「……」
しばしの沈黙の後、蒼瑛が口を開いた。翠蓮は気づいていないが、その声は少し怒りを含んでいる。
「……膝枕……代わろう」
「え? いえ、そんな。下手に動かすと吐くかもしれませんし……」
蒼瑛は、今度は誰が見ても分かるほどムッとし、口をとがらせる。
「私がそうしたいんだ」
と譲らない。いつもの冷静さは消えていた。
(怒ってる……よね? そんなに膝枕してあげたいってこと?)
「そうしましたら、蒼瑛さまに申し訳ないので、こちらの座布団に移しましょう」
手近な座布団を手に取り、刺激しないように二人がかりで太凱を移す。下ろす時に、耳に付いている沢山のピアスが、しゃらんと音を立てた。
「大丈夫そうだな」
のんきに寝息を立てているのを見て、蒼瑛はほっと一息つく。
「すみません、せっかく申し出てくださったのに、座布団で」
「いや、別に彼に膝枕をしたかったわけでは……さっきは思いつかなかっただけで、座布団の方がよほど良い」
「そうなのですね……?」
「あぁ、翠蓮の膝で寝てるのを……見るのが嫌だっただけだ」
翠蓮にはどうやら意図が伝わっていない。不名誉だが、蒼瑛は『どうしても男を膝枕したかった男』になったようだ。
気づけば、部屋で意識があるのは、蒼瑛と翠蓮だけになっていた。
「翠蓮は、酒を飲んでも変わらないんだな」
「あ、私飲んでいないんです。一度飲んだことがあるんですけど……」
初めて酒を飲んだ時の記憶が翠蓮にはなかった。ただ、育ての父に『お前は絶対酒を飲むな。』とだけ言われた。
理由を聞いても『歌以外で人を虜にするな』としか言われなかった。
(お父さん……もう、会うこともできない……)
心の傷は時間が癒やしてくれていたと思った。なのに、父を殺したあの男の言葉が、呪いのように消えてくれない。
「どうかしたか?」
「私の眼は……本当に、周りを不幸にするんじゃないか。って……」
喉が詰まったようになり、続きは出てこなかった。
蒼瑛はなんとなく事情を察したのか、席を立とうとする翠蓮の手を引く。隣にすとんと座らせた。
「翠蓮の眼は綺麗だ。誰が何と言おうと」
じっと見つめられ、心が痛いほど揺さぶられた。蒼瑛は微笑む。表面上の笑みではない、ふんわりと優しい顔だった。
「それでも、泣きたければ泣いてもいい」
「いえ……泣きません」
「強情なんだな」
「はい……」
翠蓮の身体の震えは、指先から蒼瑛へ伝わる。
蒼瑛は、翠蓮の涙に気づかないふりをして天を仰ぐ。
その心遣いに、翠蓮はここに来るまでのことを思い出していた。
そう、忌まわしいあの日を――
