「8日目のタイムマシン」 小野真千
Side木立恭介 2020年7月26日 日曜日
今日は朝からあいにくの雨だった。
駅前の表通りを少し入った場所にあるカフェの窓際の席で、僕はコーヒーを脇にノートパ
ソコンを広げていた。
ガラスに面したカウンター席で、目の前の通りを透明な傘を差しながら行き交う人達を見ていた。
今日は日曜日ということもありスーツ姿の人は見かけない。でも、せっかくの休日を雨に台無しにされた人達の表情は気のせいかどこか暗い。誰もがお気に入りの靴を履けず、おあずけ。と言われた犬のような表情を作り通りに出来た大きな水たまりを避けていく。
今日、このカフェを選んだのは、そんなあいにくの雨の街を行き交う人達を観察して、何か良いアイデアが思いつけばと思ったからだった。
開いたノードパソコンのワード画面上には、
「6月の神様は、空から青色を奪う代わり、地上にカラフルな傘の花を咲かせる。もしよければ、あなたも一緒にキレイな花を街に咲かせませんか?」
と打ち込んだ文字が並んでいる。
それは僕が考えた、傘の販売促進のための広告のキャッチコピー案だった。
僕は今、大学2年生で今、インターンシップで広告代理店の企画部で働かせていただいている。3日後の水曜日が社内コンペの提出期限だった。と言っても実際コンペに参加する訳ではない。それはインターンに参加している学生内だけで開かれる。
安価な透明の傘に市場を奪われ、1年で最も傘が売れる梅雨の時期を前に広告を打つ。老舗の傘メーカー「フジムラ」からの去年の依頼だった。
昼前の窓ガラスに映る僕の表情は、そのキャッチコピーと同じぐらいパッとしていない。
この店に入ってもうすぐ1時間になろうとしていた。窓の外を眺めていても良いアイデアは浮かびそうにない。そんな時だった。
雨粒がついた窓ガラスに映る冴えない僕の表情の向こう側に突然、明らかにまわりの雰囲気とは違う空気感を出している女性が、表通りからこちらに向かって歩いてきた。
皆が避けて通る大きな水たまりを無邪気な子供のように直進していく。彼女は水色と白色の水玉模様の長靴を履いていた。お揃いであろうレインコートを着ている彼女は、たぶん僕と同じぐらいの年齢だろうか。まるでこの雨の日を楽しみにしていたように、目の前を通り過ぎて行く。彼女の後ろ姿からも、それがうかがえた。まるで今にもスキップをし始めそうだった。テーブルに置いた一眼レフカメラを手に取り、思わずシャッターを切った。
そして、気が付くと僕は前屈みになり、窓に顔を寄せ彼女の行方をしばらく追っていた。
すると彼女は、道をはさんだ通りに並ぶ建物の前で立ち止まり、ドアを開けて中に入っていった。
それから10分が過ぎ、20分が過ぎた。一向に雨は止む気配はなかった。そして、キーボードを打つ僕の指は、彼女を見かけてから1文字も打ち込めていない。
ノートパソコンを鞄に直し、首から一眼レフカメラを提げ、カフェを出た。黒い傘を広げると朝よりもきつく雨が傘を叩いている。彼女が入った店の前で、僕は立ちすくむ。傘に当たる雨音を聞きながら、この店のドアを開けることをしばし躊躇していたのだ。
その店には看板はなく、木製のドアには、丸いステンドグラスの窓があり、その下に提げられたプレートには【今日は雨曜日】と水色の文字で書かれていた。
僕は一眼レフカメラのファインダー越しに、
果たしてこれは店名だろうか。それともポエムなのだろうか。そして、一体、ここは何の店だろうか?と考えを巡らせる。扉の横には、切り絵のような立体的なペンギンの形をしたスチール製の置物がある。そこには1本だけ、水玉模様の傘が立てかけられており、それを被写体にしてシャッターを切った。
やっぱり、入らない方がいいのかもしれない。そう思った瞬間、僕の鼻先をほのかに甘い香りがくすぐった。それは、細く開いた、小さな擦りガラスの窓の隙間から漏れてきていた。
僕は、その甘い香りに誘われるように、可愛い傘立てに似合わない黒色の傘を差し込み、少し緊張感を持ちながら扉を開けた。
「いらっしゃいませ」と明るい声の方に目を向ける。そこには先ほど長靴を履いていた女性が僕に微笑みかけていた。
が、すぐに彼女の表情が強張った。気のせいだろうか。いや、やっぱり僕はこの店に招かれざる客なのだろうか。
何気なく辺りを見回すが「男子禁制」とは表記されていない。
この店が一体何の店か分からずに入店した僕の方も迂闊だった。
こちらの緊張感が伝わらないように、もう一度、見回してみる。
店内は僕が知らないカラフルな物で溢れていた。この店は雑貨屋さんのようだった。基本、仕事机の上にはノートパソコン以外、何も置かない主義の僕とは対照的に、きっとネット通販の事務手続きをしているだろうデスクの上のノートパソコンの周りには、雑貨達で埋め尽くされていた。
店内を1周し、改めて、今日の僕の服装上下、モノトーンのスタイルが場違いだと実感した。
「な、何かお探しですか?」
話しかけてきた彼女の声から緊張感が伝わってきた。
そして、突然の言葉に僕は焦った。探しているものなど何もなかったからだ。咄嗟に出た言葉は、
「さっき、偶然、あなたを店の前でお見掛けしたんです。あのレインコートと長靴はお揃いですか?」
だった。ヘンテコな言葉だと思った。
「あ、そうだったんですね」
と少し安堵に似た言葉が彼女から漏れる。
「そうです。お揃いです。今日、はじめて着たんです。雨の日が待ち遠しくて、待ち遠しくて」と、ようやくの雨降りに鳴き声を上げる雨蛙のような軽やかな声色だった。
「今、そのレインコートと長靴は大変、人気がありまして入荷待ち状態なんです」
「そ、そうなんですか。あの、このお店は雨に関する商品が多い気がするんですが」
「そうなんです。実は私、小さい頃から雨が好きで、レイングッツshopをはじめてしまいました」
レイングッツshop?僕の頭の中で大きな疑問符が浮かぶ。初めて聞く言葉のような気がした。きっと僕が腑に落ちない表情をしていたのだろう。
「雨具専門店です」と彼女が和訳した。
「以前はここで祖母が雑貨屋さんをやっていたんですけど、私が継いでやっています」
彼女はそう言い終えるとニッコリと微笑んだ。
「これは何ですか?」
僕は握りこぶしサイズのカエルの形をした商品を手に取る。
「それは自転車に付けるライトです。雨の日ってあまり自転車に乗りたくないですか。でも、これをハンドルに付けるとこのライトが地面を弾く雨に反射して、人工の虹を作ってくれるんです。自分だけが通る道に虹が作れるんですよ。雨の日がワクワクしませんか?」
彼女は両肩を上げ下げして、ワクワク感を表現している。
「ワクワクしますね」
と言いながら僕は商品を元の場所に戻した。
「難点は、ちょっとお値段がしますよね」
と彼女が苦笑いを浮かべる。
「でも、こんなに雨が好きな人にはじめて出会いました。だって雨なんてほとんどの人が――」
嫌い。と言いかけたところで彼女の顔が曇ったような気がして、やめた。
「す、すみません。変なことを言ってしまって」
「いいんです。いいんです。よく言われますから、ぜんぜん気にしてませんよ。私、物心が付く前から雨が好きだったようです」
といたずらぽっく微笑む彼女。
店内には薄く音楽が流れている。今まで気が付かなかったが、どれも雨にまつわる音楽だと気が付いた。彼女はテーブルからカエル型のライトを手に取り、ゆっくりと話し始めた。
「私、小さな頃からずっと偉い人に言いたいことがあるんですね。よく天気予報士の人が「今日はあいにくの雨です」っていう表現を使うじゃないですか。どうしてあいにくの雨なんだろうって。別に今日は雨です。で良くないですか?」
僕は今から1時間前、あいにくの雨という表現をしていたことを思い出し、視線をそらした。
「まあ、でも「あいにく」って表現を使いたい気持ちも分かりますよ。雨が降ったら出来なくなることも知っています。でも、逆に雨の日しかできないことがあったとしたら、雨の日はいまより少しでも好きになれると思うんです私」
「雨の日だけですか」
「はい、たとえばこの店の営業日は雨の日だけです」
僕は苦笑いを浮かべ、「冗談ですよね」と言った。
「本当です」と彼女が真顔で答える。
「ネットショップもありますし、あと私には本業がありますて」
と彼女は笑顔で言った。
「本業?」
「はい。私、今、20歳で大学2年生、美大に通っています。今は夏休みですけど」
「あ、僕も同じ、大学2年生でインターン中です」
そう言い終わるとほぼ同じくらいに、細く開いた窓の外の雨脚が強く鳴る音が聞こえてきた。
「あ、あ、あの、私のこと覚えていますか?」
その言葉は何の脈絡もなく、突然だった。
僕には彼女が初対面だと思っていたが、彼女はそうではなかったみたいだ。
だから僕が入店した時に、一瞬表情が強張ったような気がしたのは顔見知りだと思ったから。だとしたら、どれくらい前の知り合いだろうか。彼女の顔をじっと見つめるが思い出せない。それより、今頃になって彼女が美人だということに気が付く。
思わず、目を逸らしてしまう。
「やっぱり覚えていませんよね。当然です。当然です。一瞬の出来事でしたから」
と彼女は無理に声のトーンを上げる。一瞬の出来事?
「す、すいません。いつぐらいの頃ですか?」
「2年前の7月。7月23日の月曜日の朝です。あの日も雨が降っていました」
具体的な日時まで覚えているということは、彼女にとってなにか特別な日だったのだろうか2年前。2か月前ならともかく何も思い出せない。
でも、待てよ。たしか2年前の7月23日と言えば・・・・・・林さんに再会した日。
いや、その前の週の月曜日。
その週の日曜日。僕は高校卒業以来、偶然、オフィス街で林さんと遭遇した。
林さんは、とても本が好きな女の子で、その日も本を読みながら誰もいないオフィス街を歩いていた。
その日、僕は頼まれていた温かみのある休日のオフィス街の写真を撮っていた。
首元を見下ろす。
そうだ。あの日も一眼レフカメラを首から提げていた。
林さんは、その日はバイトでお昼休みにランチに向かって歩いていた。
そして、僕達は偶然、ぶつかり、食事を共にすることになる。
その日、突然の雨にあった。
駅までの帰り道、相合傘の中で僕は林さんへの想いに気が付いた。
そして、告白した。
返事は1週間後。もし、付き合ってくれるなら、毎年、8月第1日曜日に開催されるある花火大会に一緒に行こう。と誘った。待ち合わせ場所の洋食屋に、林さんは来なかった。
当然だった。
林さんは、本が好きな女の子だった。高校生の頃、僕に興味がある素振りなんて1度もなかった。僕が写した写真の中の林さんは、いつも本を読んでいた。
淡い初恋の思い出。
「ヒント、電車の中です」
雨が好きな女の子の声が僕を現実に戻す。朝の電車の中?
僕が腕組み思案していると彼女は耳に手を当てる仕草を付け加えた。
あ、思い出した。
そう、あの日も朝から雨が降っていた。
前日、友人の家で泊まり、朝の通勤時間の満員電車に乗り、家に戻ろうとしていた。
その時の情景がおぼろげに蘇ってくる。
僕は出入口付近に立ち、つり革につかまっていた。
その前に彼女が座っていた。
隣の席の人が膝の上に置いた大きな鞄を覗き込み、1冊の本を取り出そうとした時だった。
彼女が耳に付けたコードレスイヤホンを操作しようとしていた手に辺り、イヤホンが転げ落ちた。それを僕は拾い、彼女に渡した。
「思い出した、あの日の彼女が君か」
僕がそう言うと彼女は笑顔で大きく頷いた。
「私、あの日からずっとあなたのことを探していたんです。でも、全然再会できなくて」
「でも、どうして?」
「あの日、私テンパっていてあなたにお礼が言えなかったんです。それが心が痛くて、痛くて」
「そんなの気にしなくてもいいのに」
「良くないです。ようやくお礼が出来ます」
彼女はコホンと1つ咳ばらいをし。
「その節は、ありがとうございました」と深く頭を下げた。
顔を上げた彼女は
「あの、少しだけお時間ありますか?」と微笑む。
僕が戸惑いながらうなずくと店の奥に急ぎ足で下がった。
ほどなく彼女は現れ、僕に封筒を差し出し、
「ずっとあなたに渡せなかったもの。洗濯代です」と言い残し、またすぐに奥に引っ込んだ。
封筒を開くと1000円札が1枚入っていた。
少しすると店内に甘い匂いが立ち込めてきた。
店の奥から出て来た彼女に、僕は窓際に設けられたテーブル席に案内される。
「これどうぞ。雨の日だけのサービスです」
そう言うと彼女はテーブルの上に湯気が上がるマグカップを置いた。
すぐにそれが、この店から漏れていた甘い匂いの正体だとわかった。
暖かな、それを一口含むとやけに心が落ち着くような気がした。
「甘酒ですか?」
僕がそう言うと彼女がゆっくりとうなずく。
「でも、どうして甘酒なんですか?」
「これ内緒にしてくださいね」
彼女は人差し指をあご先に当てる。
「私、実は、雨が降る日がわかるんです。朝、目が覚めるとどんなに快晴であっても、今日は雨が降る。天気予報士も今日は洗濯日和です。って言っている日でも今日は雨が降る。
そんな私の勘、外れたことがないんです。不思議ですよね?」
と言って、彼女は僕に向かって微笑みかける。
「でも、それが特別な能力だとは思いませんでした。祖母も私と同様に、雨を予感が出来た人だからです。祖母からは生まれ持った体質だと言われていました。
世の中には、犬並みに嗅覚や聴覚が鋭い人間がいると訊きます。それに似た生まれ付いた体質らしいです。赤ちゃんの時、どんな泣いていても雨が降ると泣き止んだらしいです」
不思議と彼女が嘘や冗談を言っているようには思えなかった。
「世の中には、幽霊が見える人や超能力が使える人もいるみたいだし、特別それが不思議だと僕は思いませんけど」と僕は素直な意見をぶつける。
「そう思って貰えると助かります。私、今は東京に住んでますが、幼い頃は体が弱く、小学校に上がるまで祖母の故郷に住んでいました。祖母の家系は、雨の神様を祀る神社なんです。
私は、そこの湧き水を飲んで育ちました。なにか私の特異体質との因果関係があるんですかね」と彼女はイタズラっ子のような表情を見せた。
「テレビに調査依頼でもしてみますか?」
と僕が言うと、彼女はまた人差し指を唇に当てた。
「雨の神様を祀る神社の境内でも甘酒は飲めるんです。でも、表記は「甘い酒」ではなく、「空から降る酒、雨酒」。です。
今、飲まれている甘酒もその神社から湧き出る水を取り寄せて作っています」
そう説明された僕は手に持つ甘酒、いや雨酒をじっと見つめた。
店を出た僕は黒色の傘を広げ、駅までの道を歩きはじめる。通りに出来た大きな水たまりを小さな子供のようにぴょんと飛び越えた自分に驚く。
僕は首から提げた一眼レフカメラを片手で構え、水たまりを被写体にシャッターを切った。
今日は、キャッチコピーを考えるために来たのに、雨が好きな女の子と出会った。
少しだけ可笑しくなった。傘の下でクククと笑った声が雨音と重なる。
ふと、見上げた空から雨ではなく、いくつかの言葉が頭の中に降ってきた。
『音楽は良質のスピーカーで聴きたい。雨音はフジムラの傘の下で聴きたい。』
出来はどうだろうか。わからない。スマホ取り出し、天気予報を確認する。
今週は1週間、晴マークが並んでいた。
営業日は雨の日だけの不思議な店「今日は雨曜日」。今度雨が降ったら、甘酒、いや、雨酒を飲みに行こうと思った。
5年後
Side木立恭介 2025年7月27日 日曜日
1
猫カフェに1匹チワワが在籍するように、閑静な住宅街にそのコインパーキングはあった。
横並びの5台中すでに4台が停められており、僕は空いている右端に車を停めた。運転席のすぐ隣に見える民家には、閉めた窓からでも匂ってきそうなほどたくさんの種類の花が育てられている。蝶々がひらひらと飛んでいた。
僕は助手席に置いていた学生時代から愛用している一眼レフカメラを首から提げ、車を降りた。暑い。思わず、声が出た。冷房の効いている車内ではそれほど気にならなかったが、半袖のワイシャツの上から着ている、胸と背中に会社名が印字された薄手のジャンバーのせいで尚更のこと暑かった。リュックを背負いながら空を見上げると入道雲が出ていた。一雨来そうな気配がしていた。
5分ほど歩いたところに、目的地のカタツムリ商店街があった。
その商店街は、東西に約300メートル伸び、100近いお店が建ち並んでいる。今僕がくぐり抜けた東口ゲートの端には、イベント用のパイプテントが設置されていた。僕はカメラのファインダーを覗き、紅白の横幕が張られた福引の抽選会場に向かって、カシャリ。シャッターを切った。
僕は小さな出版社で働いている。入社2年目。今日、ここに来た理由は、このカタツムリ商店街をタウン情報誌に紹介するための取材だった。ちなみに撮影や記事の執筆、編集すべて1人でこなさなければいけない。事前に撮影許可は貰っていた。日曜日ということもあり、商店街は賑やかだ。良い写真が撮れそうだった。念のために「撮影中」と書かれた腕章を腕に巻いている。
この商店街に来たのは、1ヵ月ぶりだった。実はこの町に大学生だった頃から合わせて計6年、1か月前まで住んでいた。僕は築50年になる6畳一間風呂なし木造アパートがお気に入りだった。でも、そのアパートは老朽化により1か月前に取り壊され、今は隣の町に住んでいる。
商店街にはアーケードはなく、ジリジリと焼けつくような夏の陽射しに、汗が首筋を何度も伝った。うるさいくらいに蝉が鳴いていた。ハンカチで拭っているとアスファルトの地面に落ちている小さな紙に目が留まった。僕はレンズを向ける。それはこの商店街で100円の買い物につき1枚もらえる切手サイズのスタンプで、可愛いカタツムリのイラストが描かれていた。カシャリ。僕はシャッターを切るとそれをワイシャツの胸ポケットにしまった。
2
僕は首から提げた一眼レフカメラを手に持ちながら、西口に向かってカタツムリ商店街を歩き始めた。
今はまだ早い時間帯とあって、肉屋「ハヤシ」が店先で揚げ立てのコロッケを売っているスペースに列は出来ていなかった。顔見知りの店員さんに声を掛け、カメラのレンズを向けるとコロッケを顔の横に持っていきニコリと笑ってくれた。ここのコロッケは人気があって夕暮れ時になるとずらりと列が出来る。揚げたてのコロッケを食べながらアパートまで帰ったものだった。ファインダー越しに思い出が蘇ってくる。
今はマンションの1階にあるコンビニで済ませることが多くなった。
朝、パジャマのままで天候を気にせずに買いに行ける便利さはあるが、肉屋「ハヤシ」のコロッケのようにいつか懐かしく思い出を振り返ることはない。
1個80円のコロッケを2つ注文したら、肉屋「ハヤシ」の大将に、「今日はいいよ。お代は」と言われた「払います。払います」と言っても代金は受け取って貰えなかった。取材をしていると時々こういうことはある。そんな時は、うちの会社名が入った手のひらサイズのメモ帳を渡すことにしている。いわゆるノベルティーグッズだ。背中からリュックを下し、中を覗くと、あれ?
ノベルティーが入っていないことに気が付いた。
「すいません。あとで、また来ます」
僕はそう言い残し、商店街をまた東口に向かって歩き出した。車のトランクに置いている紙袋の中に、まだたくさんノベルティーがあったことを思い出したのだ。商店街を抜け、速足で歩いていると首から提げる一眼レフカメラのレンズにポタリと何かが落ちた音がした。空を見上げると今度は僕の頬に当たった。
やっぱりな。とため息交じりで口にした僕は、コインパーキングまで駆けだした。
慌てて車内に入ると助手席に一眼レフカメラを置き、車のエンジンをかけた。肩先を濡らしたジャンバーを脱ぎながら、車を激しく叩きはじめた雨に舌打ちをした。
今朝、スマホを見た時は降水確率10%だったはずなのに。
思わず愚痴が漏れた。
次の瞬間だった。ふと俺の頭の中で、同時に2人の女性が話しかけてきた。
1人は「ねっ雨が降るって言ったでしょ」
もう1人は「10%の雨予報だったのに!」
予報外れの雨の日は、時々、彼女たちの記憶を同時に連れて来る。
鞄からタオルを取り出し、カメラと髪を拭った。ワイシャツはジャンバーのおかげで濡れていなかった。そのとき、ふとポケットに入れたスタンプのことを思い出した。雨はしばらく止みそうにないらしい。僕は車のシートを少し倒し、取り出したカタツムリのイラストのスタンプを眺めた。
それを貼る台紙は薄紫色の更紙で、紫陽花のイラストの上から20のマス目が付いている。
スタンプは100円で1枚貰える。つまり2000円で1回、福引のガラガラを回せることになる。台紙には紫陽花が3本、その下に葉っぱが描かれていて、ちょうどその上を1マスずつにカタツムリのスタンプを1枚貼っていく。
築50年のアパートのちゃぶ台を挟み、いつも小さなスタンプの裏にスティック糊を付けるのは、恋人の彩芽の役目だった。それをマス目に合わせて、貼っていくのが僕の役目だった。
3年前の夏。2020年、東京でオリンピックが開催された年。
僕は1人の女性と偶然、雨の日に会った。名前は森平彩芽。
年は僕と同じで、雨が好きな女の子。
誰もがうつむき歩く雨の日、彼女はレインコートを着て楽しそうに歩いていた。
そして、レイングッツ専門のお店の主だった。そこは雨の日だけ営業する変わった店。
彼女と偶然出会った日から1週間後、毎年8月第1週目の日曜日に開催される花火大会に大学時代の友達数人と行った。そこに、彼女も女友達と来ていたのだった。
偶然の再会だった。
「私、1年で唯一テルテル坊主を吊るすんです」と彼女は笑いながら言った。
絶好の雨日和。僕は雨が降ると彼女の店に行った。
「甘酒が美味しくて」と言っていたが、嘘だった。彼女の魅力にひかれていったのだ。
そして、1年後、2021年の夏、8月最初に開かれた花火大会で僕は彼女に交際を申し込んだ。彼女は大学を卒業し、イラストレーターとして働くようになり、実家を出て1人暮らしを始めた。僕はカタツムリ商店街の東口付近に住んでいて、彼女は西口近くにアパートを借りた。お互いの家を行き来した。
彼女が住むアパートはカタツムリ商店西口から徒歩3分ほどの場所にあった。彼女の住むアパートは築年数が浅く出窓があった。当時の僕は貧乏学生で築50年の木造アパートに住んでいた。申し訳程度の台所が付いた、6畳一間の和室。
彼女が部屋に泊まりに来るたびに、少しずつ、少しずつ物が増えていった。
鍋に始まり、フライパン、まな板、調味料。商店街で、楽しそうに日用雑貨を買い揃える彼女の横顔を見ていると、まるで、お飯事を楽しむ小さな女の子のように思えたものだった。
たった1枚のスタンプを見ながら、このカタツムリ商店街で過ごした色々な思い出が蘇ってきた。
老朽化に伴いアパートを取り壊すことが決まっていた。
彼女が一緒に住もうと提案してくれた。嬉しかった。でも、僕はその提案に素直には頷けなかった。それには、ある原因があった。
数か月前、久しぶりに実家に戻り、母からの頼まれごとのために商店街を歩いている時だった。林金物店の前を通りかかったとき、店から1人の女性が出て来た。
思わず、心臓が口から飛び出す感覚をはじめて味わった。
数日前、僕は、ある噂話を耳にしていた。それは林さんが事故で亡くなっていたことだった。それも3年前。全然知らなかった。
「もしかして、木立くん?」
その女性が声を掛けて来た。
「はい」
その女性はどことなく林さんに似ていて、すぐに母親だと気が付いた。
林さんとは小学校は別で中学、高校と地元の学校に通っていたが同じクラスには1度もなったことがなかった。
どうして僕のことを知っているんだろう。そんな表情を浮かべていると
「もしよかったら、娘に会って行ってくれない?」と言われた。
僕は、その言葉の意味をすぐに理解した。
笑顔で映る林さんの遺影の前で、今まで亡くなったことを知らなかった自分を強く恥じた。
「ごめんなさいね。迷ってたんだけれど、娘の供養だと思って」
そう言うとおばさんは、蓋の部分が水玉模様になった円筒型の水色の箱を僕の前に置いた。
「娘の死を受け入れられなくて、部屋は、あの日のままにしてあったんだけれど、最近整理始めたのね。娘の知らない一面を見ることが出来た。あの子、いつも本ばかり読んでいたから。てっきり恋なんてしないもんだから」と言ってケースを開け、中身を僕に差し出した。
それは宛名のない封筒だった。
「未来、あなたに一度も出すことは出来なかったみたいね」
それはすべて僕宛てのラブレターだった。正直、林さんが僕のことを好きだなんて想像もしていなかった。
「いつ娘さんは亡くなられたんですか?」
「5年前の8月。花火大会当日だった。朝から浴衣を着てね。その日はあの子のバイト先の給料日で、その恰好で行くのって言ったら「うん」って楽しそうに出て行ったわ。花火大会何て今まで全く興味が無かった子だったのに。それがまさか最後になるなんて」
おばさんは、こらえきれず涙をこぼした。
自分の身体の震えが止まらなかった。
5年前、僕がまだ18歳、大学1年生だった8月第1日曜日。
待ち合わせした場所に、林さんは来なかった。
僕はてっきりフラれたと思っていた。当然だと思った。でも、違った。
林さんは来なかった訳じゃなかった。来れなかったのだ。
「娘さんはどのような事故に遭われたんでしょうか」
「突然の大雨の中、落雷に遭った。
即死だったそうです。目撃者の情報によると未来は大きなサーフボードを抱えて走っていたそうです。その理由は今でも分かりません」
「サーフボードに雷が落ちたんですか?」
「いえ、沿道の大きな木に雷が落ち、傍を走っていた未来は運悪く感電したようです。事件性はないそうです」
約束したあの日、林さんは僕と待ち合わせの洋食屋に向かっていた。
僕が花火大会に行こうなんて言わなければ、事故に遭うこともなかった。
俺のせいだ。林さんを殺したのは。でも、そんなこと林さんのお母さんには言えなかった。
それからの日々は、苦しかった。
自分1人だけが幸せになっていいのか。あの日、僕に出会わなければ林さんにも素敵な未来があった。すぐに彩芽が俺の異変に気が付いた。
時々、寝言で泣きながら、林さんの名前を呼んで謝っていたらしい。
そんな状態で彼女を幸せに出来るのか不安だった。
彩芽に出来事のすべてを正直に話した。彩芽も理解してくれた。
僕自身、少し時間が欲しかった。心の整理する時間が欲しかった。
4
あいかわらず、雨が車を激しく叩いていた。
僕は運転席のシートをさらに半分ほど倒し、お気に入りの新車の天井を見上げた。購入してからまだ2週間しか経っていない人生初のマイカーだった。引っ越した新築マンションには屋内駐車場があった。築50年のアパートには自転車置き場もなかったけれども。今日の仕事は、直行直帰だったので自家用車でこの町に来た。
実は、このコインパーキングには、ずっと来たいと思っていた。
タウン情報誌に紹介するような、野良猫が十数匹棲みついているとかそんな特徴があるものではない。日本中どこにでもあるコインパーキングだった。でも、僕と彼女にとってこの場所は、かけがえのない場所だった。
この町を出てから1ヵ月。あっという間だった気がする。
会社までの通勤も電車の乗り替えがなくなったぶん楽になったし、部屋も広くなった。寝室もある。木造アパートに住んでいた時は折り畳み式のパイプベッドだったけれど、今は結構値が張る大き目のベッドを買った。ふかふかだ。寝返りを打つたびにきしむことはもうない。
このコインパーキングは、元々、僕が住んでいた築50年の木造アパートがあった場所で、今、この自家用車を停めている場所が僕と彼女の思い出の場所、101号室木造アパートの6畳一間だった。
僕が今、運転席に座っているこの場所に、折り畳み式のパイプベッドを置いていた。
心地よい春の朝、僕が目を覚ますと彼女は、ベッドのすぐ傍にあるすりガラスの窓を開け、隣の民家の花を眺めていた。
「花のある生活って、いいよね」
彼女の言葉が鮮明に蘇ってくる。もちろん、それは僕達の花ではないけれども。彼女と付き合うまでその窓ガラスは隣の民家と近いこともあり、開かずの窓だった。でも、彼女と付き合い始め薄暗かった6畳一間が花のある部屋にかわった。僕は窓の外に目をやる。隣の民家の綺麗な花たちが激しく雨に打たれていた。
そのすりガラスの窓の反面には、置き型のクーラーがあった。それは前の住人が置いていた年代物でPanasonicではなくNationalと表記されていた。彼女は夏になるとそれの頭を撫でるように「今年も壊れないでよ」と乾いた雑巾で拭いていた。
激しく雨に打たれる車のフロントガラスに目を向ける。そこにはかつて一口のコンロしかない台所があった。秋になるとレトロなエプロンをした彼女が焼くサンマの煙に邪魔され「目が痛い」と言いながら、僕はテレビゲームをしていた。
上体を起こし、バックミラーで後部座席を見る。そこには電気ストーブを置いていた。安アパートは隙間風が酷く、冬は半てんはマストで2人寄り添い合いながら、テレビの漫才に笑い声をあげていた。
視線を助手席に向ける。そこには、彼女がリサイクルショップで見つけたちゃぶ台を置いていた。そこで僕達は台紙にスタンプを貼っていた。小さなスタンプの裏に、几帳面な彼女がスティック糊を付ける。それをマス目に合わせて、不器用な僕が貼っていく。6畳一間には、そんなささやかな日常があった。
僕達は毎日いろんな話をした。でも、本当はもっと大切なことを話さなければいけなかったのかもしれない。今ならそう思える。そうすればもっと違う未来が僕達に待っていたのかもしれない。
そして、今、僕達の思い出などどこにも存在しなかったようにコインパーキングがあった。
運転席のシートを戻した僕は、スタンプをまた胸のポケットにしまう。
彼女は、今もこの町に住み、カタツムリ商店街を利用している。スタンプを集めてコツコツと台紙に貼っているのだろう。アパートを出て行ってから1度も会っていない。連絡も取っていなかった。だから、僕が車を購入したことも知らない。ふと思い出の中の彼女が僕に向かって、ちょこんと両手を差し出しているのが頭に浮かんだ。ワイシャツの胸ポケットを手で押える。
あげないよ。思い出の中の彼女は、いつも僕に微笑みかけてくれる。僕はスタンプをもう1度、手に取った。
彼女と出会ってから何十回もガラガラを回した。1回も4等以上は当たらなかった。でも、僕は気が付かなかっただけだった。本当はもっと大切なものにとっくに当選していたことに。
築50年のアパートのちゃぶ台を挟み、いつも小さなスタンプの裏にスティック糊を付けるのは、彼女の役目だった。それをマス目に合わせて、貼っていくのが僕の役目だった。
6畳一間にそんなお飯事のような日常があった。それが何よりの1等賞だったってことに今頃、気が付いた。どんなに悔やんでも、もう林さんは戻ってこない。
「娘のためにも素敵な人生を歩んで欲しい」
彼女の母親からの最後の言葉だった。
僕はスタンプをポケットにしまい一眼レフカメラを手に取る。ファインダーから予報外れの雨を覗いた。雨は激しく車を叩く。シャッターを切った瞬間、轟音と共に雷が光った。
どこか近くに落ちたかもしれない。
僕は車のトランクから傘を取り出し、商店街に向かって駆け出した。
今、会わないともう2度と彩芽に会えなくなるような気がした。
雨のせいで人通りが少ないカタツムリ商店街を駆け抜ける。
今、彩芽が部屋にいるか分からない。それでも良かった。
鉄骨の外階段を駆け上がり、彩芽の部屋の呼び鈴を鳴らす。返答はなかった。
少し迷ったが、合鍵で部屋の中に入り、待たせてもらおうと思った。
玄関先には、ミニチュアのサボテンの数が増えていることに気が付く。
リビングに続くドアを開けるとすぐに異変に気が付いた。
ワンフロアの隅に置かれたベッドの傍の床に、倒れている人影が見えたのだ。
僕は駆け寄る。それはレインコートを着た彩芽だった。
彼女の背中に手を入れて上体をゆっくりと起こした。
「彩芽、彩芽」
名前を呼んだが目覚めない。
部屋は荒らされておらず、ただベランダに出る窓の下に置かれたマットが乱れていた。
息はしている。外傷はない。恐らく足を滑らせて、頭を強打して気絶したのだろう。
「彩芽、彩芽」
僕は呼びかけ続けると、うつろな目で僕を見上げる。良かった。
「大丈夫?」
目を覚ました彩芽がじっと僕の顔を見ている。
「あれ?ここはどこですか?」
彩芽は身体を自分で起こし、アタリを見回しながら言った。
「彩芽の部屋だよ」
たぶん頭を強打して記憶が曖昧なのだろう。
「アヤメの部屋?」
「そうだよ」
「木立くんは洋食屋さんにいるはずじゃないですか」
木立くん?どうして僕に対して敬語で話すのだろう。
この1ヵ月で距離が生まれた。
「ごめん、彩芽の気持ちも考えないで」
「ちょっと待ってください」
彩芽は手のひらをこちらに向けて僕の言葉を制した。
「アヤメって何ですか?」
えっそれは、名前で呼ばないで欲しいってこと?そんなに嫌われてしまった。
「ご、ごめん。森平・・・・・・さん」
「森平さん?」
彩芽がつぶやく。どうすれば許してくれるんだ。
「あれ、木立くん、今日そんなジャンバー着ていました?たしか黒のポロシャツだったはず、えっ髪切りました?」
ん?えっもしかして、記憶喪失。
「いや、俺、ジャンパーだし、髪は切ってない。それに今日は会ってないよ。彩芽に」
僕がそう言うと
「えっ何これ?」
彩芽は自分が着ているレインコートを見ている。
「えっ私は今日、制服を着てたはず」
彩芽は窓の外に目を向ける
「雨・・・・・・」
彩芽は手を叩く。
「そうだ。私は傘を取りに職場に向かった。その途中で呼び止められ、
スマホを落としたことに気づき、受け取った。その時までの記憶はある」
彩芽は立ち上がり、木製フレームの全身鏡に映る自分を見つめた。
「えっ誰!?」
彩芽は鏡に向かって叫んだ。
嘘だろ。自分の容姿も忘れてしまったのか。
「えっ私じゃない、でも、この女の子、知ってるかも」
そう言って彩芽は鏡に近づき、顔の角度を変えて何かを確認している。
「彩芽だよ。君の顔に間違いない。君の名前は森平彩芽」
僕は言う。
「違う。違います。だって私は、林未来」
えっ。林未来。もしかして、彩芽、僕のことからかってる?
っていうか。相当怒っているのか。
「やっぱり、少し雰囲気が変わったけれど、間違いない。さっき私にスマホを拾ってくれた子だ」
でも、冗談を言っている雰囲気はない。
「木立くん、どうしよう。信じて貰えないと思うけれど、私、林未来です」
今にも泣き出しそうな表情で、彼女が言った。
1日目 side森平彩芽 2025年7月27日 日曜日
今日は雨が降る予感がしていた。
朝からうるさいくらいに蝉が鳴いている快晴の日曜日。
私は木製フレームの全身鏡の前で、レインコートを着てポージングを決めていた。
まだ雨は降っていない。
本格的にイラストレーターとして働き始めて4年目。
ついに念願だった私のデザインしたイラストが使われたレインコートが完成したのだ。
今日はお披露目会。と言っても、ただ私が住む部屋の近くにあるカタツムリ商店街で買い物をするだけなのだけれど。
私の雨予報は当たる。天気予報よりも正確に。
私はカタツムリ商店街の西側入り口から少し離れたアパートに一人暮らしをしている。
築40年の古いアパートをフルリノベーションし、デザイナーズアパートとして生まれ変わった物件。雨の日は気分が高揚する。
今日本で、雨降りの日を指折り数えて待つ人は何人いるだろうか?と思う。
お気に入りのレインコート。新作。イラストレーターとして働くようになって3年。
新作のレインコートは私がデザインした。水色地に黄色の水玉模様。よく見ると数個水玉模様の中に黄色のテントウムシが混じっている。私の予想はやっぱり当たった。
私は仕事机に座りながら、強く降り出した雨を見ていた。でも恐らく30分ほどで止むだろう。そんなことまでわかる。物心が付く前から備わっていた特技。
10日後には雑誌の挿絵として依頼された秋野菜のイラストの〆切があった。
今日店はお休みにしよう。でも、雨の日はつい出かけたくなってしまう。
遠くで雷が鳴った。テンションが上がる。
雨上がりの虹を見ると幸せになるように、私は雷を聞くと小さな頃から嬉しくなった。
壁に貼られたカレンダーをめくる。
8月5日。恭介と花火大会。とある。2025年カレンダーを買って1番目に入れた予定。
花火大会は毎年、8月第1日曜日か開催される。
出会ってこれまで5回、今年で6回目だったはずだった。
私と恭介の交際のきっかけでもあり、告白された日でもある。
テーブルには一筆箋。
「今、出ています。帰って来るので待っていてください 彩芽」と書き残した。
今日は恋人の恭介が来る予感がしていた。ただ3日前もそんな予感がしていたけれど、結局来なかった。雨予報みたいにはうまくいかないようだ。1ヵ月前まで私が住む商店街の東側に恋人の木立恭介が住んでいた。老朽化に伴い、取り壊され、今はコインパーキングになっている。一緒に住もうと提案したけれど、彼はうなずかなかった。私はまた彼を苦しめてしまったのかもしれない。彼の心の中には、私の他に違う人がいることは知っている。
消せない過去。それは同時に私も抱える闇。
彼は言った。「彼女を殺したのは俺だ」と。でも、違う。
本当は、彼女を殺したのは私かもしれない。
彼と出会ったのは、18歳の時。
当時、私は美術大1年生で朝のラッシュ時の車内でドア横の席に座っていた私は、ワイヤレスイヤホンを落としてしまった。
運悪く、身動きが取れないほど込み合うドア側に向かって転がり落ち、間もなく次の駅に到着するところだった。それは母親が大学入学祝いに買ってくれた少し値が張るもので、私は顔を強張らせることしかできなかった。そんな時だった。目の前に立っていたベージュのチノパンを履いた背の高い男性がその場で両膝をつき、乗客の脚と脚の隙間に左腕を伸ばした。周囲の冷たい視線や舌打ちも聞こえる中、彼は自分の落とし物のように、拾いあげた。
「はい、どうぞ」きっと大学生、同じくらいの年齢だろう。
あんなに胸が高鳴ったのは、生まれて初めての経験だった。
私が落としたコードレスイヤホンを拾い上げ、彼が左手で差し出したとき、私の心臓の音がイヤホンから聴こえているのではと思うぐらいに、胸が高鳴っていた。
彼の声は、私にとって地球上のどんなメロディよりあたたかく心に届いた。
それなのに私は・・・・・・。
次の日から私は、車内でイヤホンをすることを止めた。それは落とすのが怖いのではなく、もう1度、彼に会って、ちゃんとお礼を伝えたかったからだ。
あの日、朝から強い雨が降っていた。地下鉄なので窓は濡れていないけれど、床は傘から垂れた雨が小さな水たまりを作り、膝をついた彼のズボンは汚れてしまっていた。それなのに私はただ彼に見惚れるだけで、頭を下げることさえしなかった。後悔していた。あの日から私は封筒に洗濯代を入れて、鞄の中に持ち歩いていた。
けれど、彼を見つけることは出来ないでいた。その日から私は彼を探した。
始発駅から乗車する私は席に座りながら、1駅、1駅、東京の夜空に星座を見つけるように、彼を探した。
でも、なかなか見つからなかった。車両や少し時間帯をかえたり、彼が降りた駅のホームで探したり、改札口で待ったこともあった。それでも再会することはなかった。
時間が経てば、イヤホンの出来事は、記憶の中に沈殿していくものかと思っていたけれど、いつになっても私の記憶の1番上でプカプカと浮いていた。それが恋心だと気が付くのに時間はかからなかった。もう1度彼に会いたい。
お守りのように鞄の中に忍ばせた洗濯代の入った封筒は、それから2年後、20歳の時に偶然訪れた。
私はすぐに気が付いたけれど、彼は当然覚えていなかった。
それから偶然が続き、私達は付き合うことになる。
そして、数か月前、彼から衝撃的な言葉を耳にすることになる。
彼が好きだった女の子が事故に遭い、亡くなっていたことを。
彼は自分を責め続けていた。
俺が花火大会に誘わなければ、彼女の未来を奪うことはなかったと。
私はいつまでも待つことに決めている。彼が戻ってくる日まで。
あの日、雨が降らなければ。雷が落ちなければ。
私に出来ることは、彼を待つことだけだろうか。他に何か出来ることはないだろうか。
窓の外を見ていると雷が強く光った。次の瞬間、目の前が暗くなり、すぐに轟音がとどろいた。近くで雷が落ちたかもしれない。
ゆっくりと目を開けると目の前には傘を差し、地べたに尻餅をつく制服を着た女の子がいた。え。思わず、声が出た。誰?
今さっきまで私は自分の部屋に居たはずだけれど、ここは一体どこだ。
雨が私を濡らしていた。私はレインコートを着ている。
でも、これは私がさっきまで着ていたレインコートではなかった。
見覚えはあるが、私がデザインしたイラストのレインコートではない。
なぜか右手には、見覚えのないスマートフォンが握られていた。
「すごい雷でしたね」
制服を着た女の子が私に話しかけてきた。どこかで見た記憶がある。
一体、どういう状況?
「すみません、ありがとうございます」
彼女は私からスマホを取り、頭をさげる。そして、ポケットから何かを取り出し、差し出した。
「グミです。お礼です。急ぎますんで。ありがとうございました」
女の子は私を置いて走り去って行った。
可愛い女の子、どこかで見たような気がする。でも、どこだっけ。
今、人気のアイドルグループに居たような気もする。
でも、私ここに居るんだ。見覚えがある風景。知っている場所。
今、わたしここで何してたっけ。
えっ自分の部屋にいたよな。
買い物に行こうとしていた。雨を見ていた。嬉しい気分になり出掛けようとしたところ。
ここはどこだ?見覚えがあるオフィス街。
でも、なぜ私がこの場所にいる。全く記憶がない。記憶喪失。正直、怖い。
時間が経つにつれ、違和感が増してきた。
斜め掛けする鞄。これ、学生時代に捨てたはずだったんだけどな。
チャックを開け、中身を確かめてみる。厚みがある封筒が入っていた。
中身を確かめると現金30万円が入っていた。全く記憶がない。
鞄からスマホを取り出すとiPhoneXだった。
これは私が大学の入学祝いに祖母が買って貰ったものだ。
混乱していた。とにかく私は場所を移動することにした。
駅前の電器屋のテレビでは、エンゼルス時代の大谷翔平がバッターボックスに立っていた。
今はドジャーズでホームラン争いをしている。
鏡に映る自分を見て驚愕する。か、髪が短い。ショートボブ。
いつのまに。えっ・・・・。
でも、いや、5分前までの記憶はロングヘアだ。
一体どういうこと?夢、今、私は夢の中にいるのか。
そうだ。きっとそうに違いない。
私は自分が営むレイングッツショップ「今日は雨曜日」に行こうと思った。
それにしてもリアルな夢だと思いながら、切符を買う。レインコートを脱ぎ改札を抜けた。
夏の日曜日の雨の昼下がり。各駅停車の電車には私を含め10人足らずの乗客しかいない。
電車の広告には『新築マンション2018冬完成予定』とある。
今は2025年夏。いつからこの広告は外されていないのだ。
店の最寄りの駅名を車掌が告げた時だった。
「あっママ、サンタさんだ!」
電車の7人掛け椅子の端に座る私から2人分離れた場所で、3才くらいの女の子が窓に鼻先を付けながらそう言った。
女の子の「あっ」の声にまず私が反応し、少し遅れてから女の子の向こう側に座る母親が窓の外を見た。
「あら、ほんとサンタさんね」
母親の口調も穏やかで、車窓はひと時、絵本の1ページのように切り取られる。
しかし私の頭は激しく動揺していた。
「あそこでサンタさんは何をしてるのかな?」
母親の問い掛けに、女の子はより鼻先を窓に押し付けて「エントツをさがしてる」と言った。
「そうね、ママもそう思う」と言った母親の横顔に向かって、私は心の中で「正解」とつぶやく。でも、正しくは、サンタさんではなく、ケーキ屋さんのマスコットキャラクター人形がサンタさんの格好をして、1年中お店の屋根で宣伝活動をしているのだけれど。
けれど、そのケーキ屋さんは2025年現在ではなくなっているはずだ。
確か無くなったのは大学3年生の時。復活した?
いや、そんなはずはない。跡地はコインパーキングになっていた。
やっぱり何かが少しずつ可笑しい。まあ、夢だからしかたないのだろう。
私は電車を降りてすぐにホーム上でジャンプしてみた。チート機能はないらしい。
駅前の賑やかな通りを足早に通り過ぎた。通い慣れた道というよりも、どこか少し懐かしい感じがする。そして、違和感は増殖していくばかり。不況の波にのまれ閉店し、空き店舗になっていた店が営業している。
私は歩調を速め、自分の店に向かう。お洒落なカフェを手前で曲がるとシャッターを閉めているはずの私の店に明かりが点いていた。
えっ泥棒。思わずつぶやく。
恐る恐る店内を覗くと泥棒よりもビックリする人がそこにいた。
慌てて扉を開ける。
「お婆ちゃん、どうしてここにいるの」
私の声に祖母はビックリした声で
「私の店に私が居たら変かい、彩芽ちゃん」
祖母は、私が大学2年生の終わり頃に亡くなった。
夢だ。間違いないこれは夢だ。でも、リアルな夢だと思う。
夢の中でも思わず涙がこぼれる。思わず抱きしめる。妙にリアルな感覚が身体に伝わる。
「変な子だね」
「だってお婆ちゃんが生きているから」
「私ゃ死んじゃいないよ」
「でも、私が大学2年の終わり頃に亡くなるんだよ」
「何言ってんの彩芽ちゃんはまだ大学1年生でしょ」
大学1年生ということは今から7年前、2018年。
妙にこの夢は2018年の設定にこだわるな。と思った。
祖母は矢継ぎ早に私へいくつかの質問をした。だんだん祖母の顔が険しくなっていく。
穏やかな祖母の表情しか記憶にない私は少し戸惑った。
「ちなみに彩芽ちゃんは今自分が何歳だと思うんだい?」
「今、25歳。今年26歳。美大を卒業し、お婆ちゃんの店を継いで、イラストレーターとして働いている」
祖母は相変わらず表情は険しかった。
「ここに来るまでに何か違和感があったかい?」
祖母は探偵の眼差しを向ける。
「メジャーリーグに行った大谷選手。今、ドジャーズなのに、エンゼルスにいる。
あと、2018年冬マンション完成の広告、無くなっていたケーキ屋がまだある。
あっそうだ。」
私はポケットから取り出す。
ポケットにグミがあった。よく見たらそれは3年前に製造販売が中止のやつだ。
「どうかした?」
「これ、今では売ってないの」
「そうかいじゃ、買い占めとかだね。あっそうか私も生きてないね。」
祖母は笑う。
「今日は2018年7月29日、日曜日。彩芽ちゃんはこの日に何か心残りとかあるかい?」
祖母は神妙な面持ちで私に訊ねた。
2018年7月29日。私は大学1年生の夏。
恭介とはまだ出会っていない。いや、私は電車の中でイヤホンを落とし、恭介に拾って貰った。そうか。今日、恭介は片思いの女の子と再会して・・・・・・。
グミを見つめる。思い出した。あの女の子。
「お婆ちゃん思い出した。私は2018年に来たいと強く想った理由を」
グミをくれた女の子は、恭介が片思いだった女の子、林さんだ。
今日は7月29日
恭介は8月の第1週目の日曜日、つまり8月5日に彼女を失う。
「お婆ちゃん、私助けたい女の子がいるの。その子は今私がお付き合いしている彼氏が好きだった人」
「ちょっと聞きづらいけれど、その女の子の未来は?」
「今から8日後に不慮の事故で亡くなる」
祖母は深く頷いた。
「ちなみに今日、2018年7月29日の時点で、彩芽ちゃんは、その彼のことに好意はあったのかい?」
「うん・・・・・・。私の初恋だと思う」
私がそう言うと祖母は窓の外を眺める。雨脚が強まったような気がした。
「彩芽ちゃん、2025年の今日、もしかして雷が鳴っていなかったかい?」
「うん、鳴ってた。その直後に、目の前が暗くなって、気が付くと知らない女の子が目の前にいた」
「そうかい、そうかい」
祖母は、すべてを理解でもしたかのように2度3度頷く。
「もしかしたら彩芽ちゃん、2025年からタイムリープしたかもしれんね」
荒唐無稽な言葉が飛び出してきた。
祖母の口からタイムリープというフレーズが出てきたのは意外だったけれど、
小説が好きな祖母なら理解ができた。
えっ。
でも、あまりにも現実離れしている。
「どうしてそう言えるの?」
「どうしてって私も同じ経験があるからだよ」
衝撃的な発言だった。
祖母がタイムリープ経験者だとは。信じられない。
「その女の子がタイムマシンの代わりになり、彩芽ちゃんを2025年から連れて来た」
「でも、どうやって?」
「今から8日後に亡くなると言うことは、すでに身体から半分魂が抜けかけている状態かもしれないね。そこに、龍神様の力を宿らせた、彩芽ちゃんの強い思いがタイムリープさせた」
「龍神様って、あの龍神様?」
「うん、そうだね。あの龍神様。雨の神様。彩芽ちゃんが雨を予感できるのは、龍神様に愛されているからきっとこのタイムリープも」
祖母の発言に妙に納得している自分が居た。
「じゃあ2018年の私は、2025年に行ってるのかな?」
「それは、どうだろう?正直、覚えていないの」
「戻れるの私」
「それは大丈夫だと思うよ。だって今、いるじゃない」
「そっか」
「おそらくタイムマシンの能力が消えたら戻れるのかな」
祖母がぼそりと呟いた。
お婆ちゃんは、いつ、どんな理由でタイムリープしたの。と訊きたかったけれど、
今は訊かないでおこうと思った。
「おばあちゃん、未来は変えられるの?」
「変えられる。その女の子を助けたいのね」
「うん」
「でもね。助けると彼の記憶から彩芽ちゃんは消えるのよ。それでもいいの。大切な人なのに」
そう言われて、私はすぐに返事が出来なかった。代わりに涙が溢れて来た。
「彩芽ちゃん、辛いね。おばあちゃんは、彩芽ちゃんの味方。たとえどんな未来を選んでも」
その日、祖母と電車に乗り、自宅に戻った。
車内で電話の着信が鳴り、LINEが届いた。画面を覗くと幼馴染の青山聡子からだった。
聡子は2025年も仲良くしている親友だ。
「教習所の申し込み行ってきた?」の一文。
そっか。鞄の中の30万円は教習所の入会金だったことを思い出す。
聡子はエスカレーター式で大学に進学することが決まっていたので、高校在学中に自動車免許をすでに取得していた。私は美大を受験したので夏休みに取ろうと計画を立てていた。
別に免許が欲しかったわけではない。でも、祖母がお金は出してあげるからと言われたので、取ることに決めた。
そして、7年前にも青山聡子から同じ文面のLINEが来たことを思い出した。
歴史を変えないように、大学生の頃によく使っていたピースサインのスタンプを押した。
実家の最寄り駅を降りると、すっかり空は暗くなっていた。商店街を抜け、かかとを響かせながら街路樹を見上げる。春になると桜のジュータンが出来る私の好きな道でもあった。向こうに見える森平家に灯が付いていた。
玄関先で靴を脱いでいると物音に気が付いた母が出迎えてくれた。
「おかえり彩芽」
母はあまり変わっていない気がした。高価なサプリを飲んでいるおかげだろうか。
靴を揃えていると視界の隅にジョギングシューズを見つける。それは父のジョギングシューズで、2ヵ月も経たずにつま先が破れた粗悪品だったことも思い出した。2025年は、もう父のジョギングのブームは去っている。改めて私はタイムリープしたことを実感する。
タイムマシンの能力が消えるのは、8日後、このままいけば林さんは不慮の事故に遭い亡くなる。もしくは、私が回避させる。そのどちらかの選択後にタイムマシンは消えるらしい。
「ただいま」
私は7年前の実家に足を踏み入れた。
1日目 Side 木立恭介 2025年7月27日 日曜日
今、僕の目の前にいる女性は、森平彩芽に間違いない。
出会ったのは大学2年生、20歳の夏。雨が好きな女の子。今は、雨が好きな女性と呼ぶ年齢になった。彼女が営む雑貨屋で出会った1年後、交際が始まった。現在25歳。交際歴4年。見た目は彩芽。でも言われてみれば、目の前にいる女性の仕草や口調は、僕の知る彩芽ではない。彼女の言う通り、僕の記憶の中の林さんのように見えた。
でも、林さんは、もうこの世にはいない。
18歳の時、偶然の再会からの告白。その1週間後に洋食屋で待ち合わせをしたが、林さんは来なかった。
そして、時が過ぎ、社会人3年目25歳の春、風の噂で林さんが亡くなったことを知った。
事件性はなく、雷に当たっての事故だった。
「本当に林さん?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「林さんが直近で覚えている記憶はある?」
林さんはアゴ先に指を当て考える。
「今日、高校の卒業式以来、木立くんに会いました。誰も居ないオフィス街。私は文芸情報誌を読みながら信号を渡り終えたところで、木立くんにぶつかりました」
そのことはよく覚えている。そして、その出来事は誰にも話したことがない。もちろん、彩芽にも。
「洋食屋「ボイルドエッグ」でオムライスとスープセットを注文しました。
本日のスープは大根のポタージュで、デザートはかぼちゃのロールケーキ」
嘘でしょ。本当に彩芽と林さんが入れ替わった。いや、映画や小説の世界ならともかくだ。
「林さん信じられないかもしれないけれど、今、2025年、7月27日。僕達が再会したのは2018年7月。ここは7年後の世界なんだ」
林さんは僕よりも困惑した表情を作り、鏡を覗き込んでいた。
信じられないかもしれない。でも、姿見に映る姿は、あきらかに林さん本人ではない。
「だから私が知っている木立くんと少し雰囲気が違って見えるのは、7年後の木立くんだからでしょうか?」
「そう、あの時、俺は18歳の大学生。今は25歳。社会人3年目小さな出版社で働いている」
「私は時空を超えて、この綺麗な女性と入れ替わった。タイムリープしたってことですか?」
鏡を見ながら林さんが言う。
「うん。いや、でも、それはどうだろう。非現実的過ぎる」
あることを思い出した。
僕は夢の中で林さんの名前を呼んでいたことがあると彩芽が教えてくれた。
もしかしたら、名前だけでなく思い出も寝言で呟いていた?
「あの、木立くんに質問があるのですが・・・・・・・」
「うん、何?なんでも訊いて」
「さっきからアヤメと呼ばれている女性と木立くんの関係性は何なのでしょうか?」
困った。でも、嘘を付くと余計にややこしくなると思った。
「えーと恋人です」
「あーなるほど。そうですよね。私と再会した時、えーと7年前にはお付き合いされていたんでしょうか」
「いや、彼女とはまだ。出会ったのは20歳の夏で付き合い始めたのは1年後」
「そ、そうなんですね」
そうか、思い出して行く。僕が林さんへの想いに気が付き、告白するのは、この後、
1本の傘で林さんの職場に向かう途中の出来事。
もしタイムリープしたことが事実ならば、今現時点で、林さんはその傘を持って洋食屋に向かう途中で彩芽と入れ替わったことになる。
だから、今、林さんは僕の想いには気が付いていないことになる。
林さんは、鏡の前で何度も顔を覗き込んでいた。
「あの、さっき木立くんは今、出版社に勤めていると言ってましたよね」
「うん、出版社って言っても社長と社員5人の小さな会社だけれどね」
「あのちなみに、私はどんな仕事に就いているかご存じですか?」
その質問に言葉が詰まる。答えられなかった。言えるはずがない。
「いや、やっぱりいいです。未来は知らない方がいいです。
もしかしたら私、今夢の中にいるんだと思います。
きっと寝たらまた戻れるような気がします」
たしかに、それは一理ある。いや、その考え方の方が正しいのかもしれない。
本当にタイムリープしたとは限らない。
頭をぶつけて混乱しているだけかもしれない。
いや、待てよ。
本当は今、僕が夢の中にいるのかもしれない。
うん、そうに違いない。
きっと時間が解決してくれる。
ぎゅるぎゅるぎゅると彩芽、いや、林さんのお腹が鳴った。
「おかしいなお腹いっぱいオムライスを食べたんだけれど」
「夢の中でもお腹は空くんですね」
「そうみたいだね。何か作るよ」
僕は冷蔵庫に向かう。
「実は、現実世界では、緊張して木立くんとはほとんど話せませんでした。」
「そうだっけ」
「はい。木立くんが大根美味しいねって言ったのに、私、大根の知られざる効能を説明しちゃって。完全に木立くん引いてました」
林さんは微笑みながら話す。その会話を僕は思い出した。
「夢だからかな?」
「だったら、この夢醒めないで欲しいです」
「どうして?」
「ど、どうしてでしょうか?」
彩芽の顔、いや、林さんの顔が赤くなっていく。
僕達は、夢の中でインスタントラーメンを食べた。
でも、夢の中でもこんなに明確に味が再現されるものだろうか。
「あのこれ何ですか?」
彼女は棚の上に置かれた1000円札を指さす。
「ああそれ新紙幣。2024年からね」
「うわ玩具のお金みたいですね」
正直、初めて見た時、僕も思った。
「この人は誰ですか?」
「渋沢栄一」
「何をした人?」
僕が答えられずにいると
「お札になるくらいだから偉人なんでしょうね」と彼女はつぶやいた。
「あの質問なんだけれど?」
「はい」
「林さんの高校の時の文芸部の顧問の先生の名前は?」
「足立先生。たしか、木立くんの高2の時の担任でしたよね」
「うん」
これは絶対に彩芽が知る情報ではない。
「もしかしたら、夢じゃないかも」
僕がそう言うと
「夢じゃないなら、何でしょうか。やっぱりタイムリープでしょうか。」
「ありえない、ありえない」
僕達は同時に首を大きく左右に振った。
「きっと夢から覚めたら、普段の生活に戻っていると思うよ」
何の根拠もないが僕はそう言った。
「そうですね」
と林さんも同意した。
僕達は思い出話をたくさんした。夢が覚めるともう2度と会えないことは分かっていたから。
7年前、僕は林さんのことが好きなことに気が付いた。でも、片思いだった。と思い込んでいた。僕の記憶の中で、林さんは淡い初恋の相手だった。
今、僕の中で、とても複雑な心境だった。
ふと寝息が聞こえてきた。
2日目 Side 森平彩芽 2018年7月30日 月曜日
枕元に置くスマホのアラートが鳴る。止めようと手に取るとiPhoneXだった。
それは私が大学1年生の頃に買ってもらったもの。
2025年今は違うメーカーのスマホを使っている。
そうだ。昨日、私は2025年から2018年にタイムリープしてきたことを思い出す。
ブランケットを畳み、ベッドに腰掛けた。
未来ではなく、私は過去にいるようだった。まるで逆浦島太郎状態。
壁のカレンダーは2018年、7月。
溜め息をひとつつき、顔を洗いに1階洗面所に向かう。現在25歳、今年の11月で26歳になる。洗面台の鏡に映った18歳の私の目元を指で吊り上げてみる。正直、肌のハリとツヤは全然違う。どんなに値の張る美容液でも年齢には勝てないみたいだ。
もちろん、私がタイムリープしていることは家族には内緒。私と祖母だけの秘密。昨夜はずっと考えていた。私がどうして2018年にタイムリープしてきた理由。
それはやはり、林未来さんを助けるためしかない。それは恭介の苦しみの原因を取り除くことにもなる。林さんは、1週間後の日曜日。不慮の事故で亡くなる。
過去を変えると必然的に未来は変わってしまう。
林さんを助けると言うことは、私と恭介の未来は消滅してしまうことになる。
もう私に迷うという選択肢はなかった。林さんを必ず助ける。
でも、どうやって・・・・・・。
作戦が必要だった。2018年、夏。現在、私は恭介に出会っていない。
クローゼットの中から夏服を選ぶ。見覚えのある服が並ぶ。
ワンピースが多い。今はちょっと着られないかも。
高校生の時の制服が掛かってあった。
懐かしいな、7年ぶり。
全身鏡に映った私は、違和感がなかった。だって今、私は18歳。
まだ高校を卒業して半年も経っていない。
いいかも。この姿を見たらきっと恭介も惚れ直すかも。
高校まで女子校に通っていた。大学は美術大学に進学しだ。
恭介と出会ったのは20歳の夏。お互い、初めての恋人だった。
高校生の頃に出会っていたら制服デートとかしていたんだろうなぁと思う。
憧れ。私はベッドに腰掛ける。放課後、自転車2人乗りデート。
私は後部座席に座り、恭介の背中に頬を寄せながら体温を感じる。
私は隣に恭介の背中がある態で腰に腕を回す仕草をする。
そう言えば、まだ1度も恭介と自転車の2人乗りしたことなかったな。
というか。お互い、自転車を持っていなかった。
次の瞬間、ガチャリと部屋のドアが開く。
「何してんの彩芽、朝ごはんよ」
母は間抜けな表情で私のことを見ていた。
朝食後、祖母と一緒に家を出た。
祖母は店に向かい、私は恭介が1人暮らしをするアパートに向かっていた。
私が知っている情報を整理すると2018年の昨日、日曜日に恭介は林さんに告白し、返答は一週間後の洋食屋に来てもらうこと。林さんも恭介のことが好きだから、間違いなく
来る。その途中で事故に遭う。場所は林さんが勤めるバイト先と待ち合わせをした洋食屋の間にあるオフィス街の通り。その範囲はあまりにも広すぎた。
現実的に、2018年の世界線で、林未来さんを見つけなければいけない。
そして、事故を未然に防ぐ。
そのためには、恭介に出会い、林さんの情報を聞き出す必要があった。
タイミングよくアパートから出て来た恭介は、首から一眼レフカメラを提げていた。
カタツムリ商店街を抜け、駅まで歩いて行く。
「今週の日曜日、あなたの好きな人が事故に遭い亡くなるから待ち合わせ時間を変更してくれませんか?」
なんて初対面の相手に言われても、誰も信じてくれないだろう。
作戦が必要だ。
恭介から少し離れて電車に乗った。日曜日の電車は空いていて、恭介の隣も対面も空いていた。座ろうと思ったが躊躇する自分がいた。恭介の目に映らない自分がいることが少し怖かった。扉付近の手すりにつかまり、スマホを眺めるふりをして恭介を盗み見た。
短い区間を2度乗り替えて降りた駅は、近くに大きな公園がある街だった。
恭介の少し後ろをついて歩いた。
公園内では日曜マルシェが開かれており、人だかりができていた。
恭介は自家製レモネードを購入し、大きな噴水の傍にあるベンチに腰掛けた。
この公園は私が子供の頃、毎週日曜日、祖母が通っていた青空写生クラブがこの公園で開かれていた。絵を描くことが好きな私にとって思い出の場所。
恭介はここに来たのは、誰かと待ち合わせしているのだろうか。
今まで、この公園について話題になったことはない。
18歳の恭介はベンチに座りながら、青空に向かってシャッターを切っていた。
どうやって話しかけようか。そこまでは考えていなかった。
ふと、自分の人生を振り返る。
自分から男性に声を掛けたことは、あっただろうか。
今日は雨曜日の店主として、男性客人に声を掛けるのと次元が違う。
早く言えばナンパである。
「女性から男性に声を掛ける方法」をネット検索する。
イマイチだ。
幼馴染みの青山聡子にLINEを送るとすぐに「同類、に訊かないでくれる」と返事が来た。
そうだった。この時は青山も恋人いない歴イコール年齢だった。
2025年の聡子は「待っていても恋は手に入らない」と悟ったように積極的だ。
頭を抱えて居ると目が合った
「この前、電車でイヤホンを落とされませんでしたか?」
そっか。まだ1週間しか経っていないから記憶に残っていたらしい。
「はい。その節はありがとうございました」
私は話を途切らせないように話題を見つける。
「写真を撮られてるんですか?」
「はい。雲が好きななんです。白い雲が」
それは当然知っている。恭介は白い物が好きだ。私は話を続ける。
「よくこの公園には来られるんですか?」
「時々です。子供の頃は毎週日曜日、ここに来ていました。祖母が青空写生クラブに通っていて、僕の実家は神奈川県なんですが、祖母についてきました。ただ僕は絵よりも日曜マルシェの方が目的でしたけどね」とレモネードが入った容器を顔の前に掲げた。
「実は私の祖母も写生クラブに通っていて、私も子供の頃にここに来ていました」
「へぇ失礼ですが、今おいくつですか?」
「18歳です、今年19歳大学1年生です」
「僕も同じです。もしかしたら、同じ時間を過ごしていたかもしれませんね」
ふと映像が蘇る。祖母の隣には、同じくらいの年齢の女性と楽しそうに会話しながら絵を描いていた。そして、その隣にはつまらなそうにして野球帽をかぶった男の子がいた。
「おばあ様はお元気ですか?」
「はい。実は今も写生会に参加しています」
「私の祖母は大学2年の冬に亡くなりました」
恭介が私を怪訝な表情で見つめる。
「えっ今、大学1年生ですよね」
しまった。
「あ、そうでした。まだ祖母は健在です」
朝、会ったばかりじゃないか。
私は昨夜考えた作戦を実行することに決めた。
鞄からハンカチを取り出し、目元を拭った。
「ど、どうかしました」
同情作戦。優しい恭介はめっぽう弱い。
「実は今、私好きな人がいて、勇気がなくて昨日、告白できなかったんです」
棒読み気味なセリフに、嫌な汗が背中に滲んだ。
「じ、実は、昨日、僕も勇気を出して好きな女の子に告白したんです。
その返事は1週間後でまだ結果はわかりませんが・・・・・・ちなみに、告白ができなかったその人は、いい人ですか?」
恭介が言う。
「はい天然記念物くらいに」
「だったら、あなたにも勇気を出して告白して欲しい」
恭介はあご先に指を当て何か考えていた。
「そうだ、ぜひその彼を洋食屋さんに誘ってみて下さい。
すごく雰囲気の良い美味しいお店です。昨日知った店ですが、
美味しいオムレツを食べられる口実に誘ってみて下さい」
「ちなみにその店で告白したんですが?」
「いえ、そこは彼女の行きつけの店らしく、バイトがある日はランチタイムに
通っているみたいですが」
「彼女さんのバイト先が近くにあるんですね」
「そ、そうですね。今週はずっとバイトみたいです。
教習所に通うためにバイトしてお金を貯めるって言っていました」
私は恭介から、その洋食屋さんのホームページを教えてもらった。
私は、明日からランチ時、その店の前で林さんを待つことに決めた。
2日目 Side 木立恭介 2025年7月27日 月曜日
眩しいくらいの朝の光で目が覚めた。
僕は、リビングの床に引かれたラグの上で眠ってしまっていたらしい。
座ったまま部屋を見回し、ここは彩芽の部屋だと認識する。でも、彩芽の姿はなかった。
いや、性格には2018年からタイムリープしてきた林さんなのだけれども。
立ち上がり、ベランダに出ると、やはり眩しいくらいの朝の光が僕を照らす。
昨日の出来事は、やっぱり夢だったのだろうか。2018年から林さんがタイムリープしてくるなんて、ありえない。僕は青空を見上げながら大きく首を左右に振った。
物音に気が付き、ベランダから部屋に戻ると彩芽が紙袋を抱えて立っていた。
僕は彼女の第一声を待った。
「木立くん、新1000円札使えました。私、本当にタイムリープしてしまったかもです」
そう言ってリビングテーブルの上に置いた紙袋には古田ベーカリーと印字されていた。
「パン屋さんのおじさんが会計の時に、珍しいね今日は現金払い。とか言うんです。「ぺいぺい払い」って何ですか?」
そっか2018年はまだ普及していなかったんだ。
僕は丁寧にpaypay払いについて説明した。
「見たこともないお札、大谷選手はドジャーズにいるし、私本当にタイムリープしたかもしれません」
林さんは驚きを隠せないでいた。いや、もちろん僕も驚いている。
でも、まだタイムリープについては信じられそうになかった。
「もし明日、戻れなかったら、七年後の私に会いに、とりあえず実家に行こうと思います」
唐突の提案に、冷蔵庫から取り出した牛乳パックを床に落としそうになった。
それは実にマズイ提案だと思った。
「7年後の未来は楽しみにしておいた方がいいんじゃないかな」
今、生きている世界線が現実なら今日、僕は、会社に行かなければいけない。
「この部屋から出ない方がいい。中身は林さんだけれど、世間の人は森平さんとして接して来るから」
「はい、わかりました」
僕は彩芽の容姿をした林さんに見送られ、ドアを閉めた。
結局、僕は心配になり、会社を早退し、どこにも寄らずに部屋に戻った。けれど林さんは居なかった。
まぎれなくここは夢の世界ではなく、現実の世界だった。
仕事の内容、打ち合わせ。先週のつづきがあった。
職場には嘘の事情を説明し、1週間休みを貰った。
林さんを探しにカタツムリ商店街に向かうとベンチに彩芽、いや、林さんが座っていた。隣の女性から話しかけられていた。
あれは彩芽の幼馴染の青山さん。少し面倒なことな予感が漂っていた。
恐る恐る近づくと案の定、僕は隣のベンチに強制的に座らされた。
「昨日から連絡してもつながらないし、心配して来たら全く別人。間違いなく鬱の症状よ」
違うと思う。でも、タイムリープして来てとは到底言える雰囲気ではない。
部屋に戻るとすぐ林さんは、パソコンを使いたいと言った。
「実は、私、誰にも言ったことはないんですが、小説を書いていまして」
と恥ずかしそうに林さんが言った。
「1度だけネットの小説大賞に応募したことがあります。それは1週間前。
いや、7年前の1週間前。7月22日の日曜日です」
僕は林さんが応募したという小説投稿サイトを開いてみる。
「本来の結果発表は2019年の1月ですが、今は2025年8月。
見られますよね」
林さんが期待を込めた表情で僕に言った。
確かにそうだ。
コンテスト募集のページを開くと第17回大賞の募集要項が出ていた。
「私は第10回に応募しました」
と林さんが僕の真横に来て画面の位置で屈んだ。
画面をクリックする。
コンテスト結果発表の項目の第10回目の上でカーソルを止める。
「クリックしていい?」
僕が訊ねる。
「はい、お願いします」
クリックして開いた画面には、「大賞作品なし」の文字があった。
「残念です」
と背後から聞えた
画面をスクロールしていく。
「ちなみに林さんはペンネームは?」
「いろはにほへと」
「本当に?」
「はい」
優秀賞にも佳作にも、いろはにほへと。の名前は無かった。
「ペンネームで選考から外されたとか」
僕は冗談で言ったつもりだったけれど、
「いや、そんな規定は絶対になかったと思います」
と林さんは割と真剣に答えた。
「どんな内容だったの」
「んー青春恋愛系です」
「読んでみたいな」
俺の思考を断ち切るように、林さんは画面を指さす。
「今でもログインって出来ると思いますか?」
「ああ、使っていたメールはフリーメール?」
「はい」
「じゃあ、たぶん使える。でも、パスワード7年前だけど覚えてる?」
「木立くんには七年前でも私にとってみれば1日前のことだから」
「あっそっか」
タイムリープしている設定を理解するのは、なかなか難しい。
画面にメールアドレスとパスワードを打ち込む。
ログインのボタンを押すと画面が開いた。
ふと気づく。
メールマークに数字が「18」とある。
「開いてくれますか?」
と言った林さんのお願いにクリックする。
「ご連絡のお願い」
のタイトルからメールに切迫感が伺えた。
「ご連絡が頂けないと大賞を取り消さなければいけません」
他のすべてのメールは編集部からのメールだった。
林さんは大賞を受賞した。でも、発表を前に亡くなってしまった。
「でも、どうして2018年の私はこのメールを開かないんですかね」
林さんにとっては素朴な疑問だっただろう。
でも、僕は深刻な問題だった。
「今から、編集部に連絡とってみましょうか。」
「いや、2018年に戻ってからの楽しみにしていた方が良くないかな?」
「あ・・・・・・そ、そうか。それもそうですね」
僕の背中に大粒の汗が流れたのが分かった。
3日目 Side森平彩芽 2018年7月31日 火曜日
緑色のテントが印象的な洋食屋さん。私は、その斜め前にあるチェーン店のカフェの窓際の席でアイスコーヒーを飲んでいた。現在am11:55
恭介と林さんの思い出の洋食屋さん「ボイルドエッグ」
昨日得た情報によれば、林さんはランチタイムによく訪れると言っていた。
恭介が林さんの連絡先や仕事先を知らない限り、手がかりは、この店しかなかった。
ランチの営業時間はam11:00からpm2:00まで。定休日は月曜日。
今日から林さんがとランチタイムに訪れるまで通うつもりだ。
2018年の私と入れ替わって3日目。7年前、大学1年生だった頃の日常の記憶は、なかなか思い出せそうになかった。ただ特別、未来の私にとって重要な出来事はなかったと思う。
友人からのLINEもそつなく返した。
12:30を過ぎても林さんは現れない。
私は場所を変え、洋食屋さんのカウンター席でオムライスを待っていた。
只今12時45
18歳の恭介いわく、この洋食屋さんはオムライスがオススメらしい。
客の来店を知らせるベルが鳴る度に、私はドアの方へ視線を向けた。
林さんは来ない。
3日前の日曜日、恭介は林さんとこの店でオムライスを食べた。
そのシチュエーションを想像しただけで笑みがこぼれてしまう。
それには理由があった。白米は白いまま食べたい派の男子だから。
恭介がオムライスを前に眉間にしわを寄せているのが、簡単に想像がついた。林さんもきっと内心戸惑っていたに違いない。
私は、恭介がオムライスを食べているところはこれまで1度も見たことがない。
林さんが少し羨ましい気もした。
オムライスが運ばれてきた。
たっぷりとかけられたデミソースの甘く濃厚な匂い。
ふわとろタイプの卵にそっとスプーンを差し入れる。
ひと匙目を口に入れると舌の上で卵とチキンライスとデミソースが絡み合う。
ランチタイムが終わり、店を後にする。結局、林さんは洋食屋さんには来なかった。
この店「ボイルドエッグ」がデートの待ち合わせ場所の予定だった。
林さんのアルバイト先はランチタイムに歩いて来られる距離にある。
洋食屋を出て、林さんと入れ替わった場所に向かう。
大きな街路樹が等間隔に並んでいる道を歩く。
過去の出来事であれば、聞き込みをしてどこらへんで事故が起きたのか
調べることは出来るけれど、事故が起こるのは5日後の未来だ。
当日、ここで張り込んでいても、あまりにも広すぎる。
雨の中、傘を差している林さんに、遠くからではきっと声はとどかない。
この通りに来るまでに、阻止する必要があった。
はじめて恭介から当日の状況を聞いてから奥に引っ掛かっていたことがある。
デート当日、雨の中、林さんはサーフボードを抱えて待ち合わせ場所の洋食屋に来た。
そして、サーフボード?の存在がまったくの謎だった。
今日、祖母の雑貨店は定休日で、私はそのまま家に帰った。
3日目 Side木立恭介 2025年7月29日 火曜日
当たってしまった。
蝉の声が搔き消されるほど、商店街に当選を知らせる鐘の音が高らかに鳴り響いていた。
火曜日の夕暮れ時。普段、仕事帰りに立ち寄る夜の商店街とは違い、活気にあふれていた。
抽選所の前で呆然と立ち尽くす僕と林さん。
「木立くん、今までクジに当たったことありますか?」
「な、ない」
僕は大きく首を左右に振った。
恐らく入れ替わるであろう8月3日、日曜日まで残り4日と少し。
林さんは、未来の出来事を知るよりも僕が過ごしてきた日常を追体験したいと言った。
そして今、僕と林さんは福引きの抽選会場のガラガラの前に立ち、追体験ではなく、未体験を味わっていた。
彩芽がコツコツと貯めた抽選券を借りて、福引のガラガラを回しに来た。
見知らぬおばさま達が、よかったわね。とかわるがわるに声を掛けていく。
紫陽花町カタツムリ商店街に引っ越してきて七年。
これまで、シーズンごとに開かれる、カタツムリ商店街の福引に何度挑戦しても下から2番目が最高だったのに、上から2番目の「温泉旅行券」が当たってしまった。
「あれ、彼氏さん久しぶり、彼女さん寂しそうだったわよ。仕事なんて他にいくらでもあるわよ。でも、こんなに素敵な女性はそうはいない。私が保証する」
と八百屋、キノシタの奥さんは胸を叩いた。
八百屋、キノシタの野菜は、スーパーで買うより断然、新鮮で、味が濃くておいしかった。そして、いつもおまけを付けてくれる奥さんとは、彩芽はこの商店街で1番の顔見知りだった。だけれど、奥さんは知らない。彩芽は、本当のところ、2等の温泉旅行券よりも3等の高級炊飯器が欲しかったことを。
そして、僕の隣には見た目は森平彩芽だけれど、中身は林未来ということを。
名探偵コナンくんでも、この謎は解けないだろう。
八百屋の奥さんに「美男美女だね、結婚はもうすぐだね」と冷やかされる。
気まずい。林さんは笑顔を向けているが内心穏やかではないはずだ。
「これからのシーズンは最高よ。彼氏さん、毎回、温泉旅行券狙いだったものね」
八百屋、キノシタの奥さんは、私のシンプルなセーターの首元を飾る、パールネックレスからひとつこぼれ落ちたような2等のピンクの玉をてのひらの上で転がしながら、そう言った。
「そ、そうですね」
僕は、キノシタの奥さんから受け取った温泉旅行の引換券を財布にしまい、夕暮れの家路をたどった。
僕は、気まずい気持ちを紛らわすように、橙色に染まる空を見上げながら、「温泉旅行券と高級炊飯器とを交換してもらえないのかな?」と言った。
すると林さんは、
「3等の景品を2等の景品と換えて欲しいというのは、横暴ですが、2等の景品を3等の景品に換えることは、検討の余地があるのではないでしょうか?」と言った。
僕は今、彩芽のアパートのキッチンで賽の目切りにした、まな板の上のリンゴを見つめながらタコ焼きの生地ではなく、ヨーグルトに入れて食べたら美味しいのにと思っていた。
夕方、林さんから、ロシアンたこ焼きをしてみたいと提案された。
それは高校3の時の文化祭で僕達のクラスがやった出し物で、林さんは全く興味ないと思っていたけれど、そうじゃなかったみたいだった。
カタツムリ商店街で、たこ焼きの材料を揃えた。
僕が変わり種として選んだリンゴの皮を剥き始めたところで、林さんは一口サイズのチョコの包み紙を開け、僕がリンゴを2つに割ったところで、林さんはイクラの醤油漬けを小皿に移していた。完全にロシアンタコパを楽しもうとしていた。
「木立くん、リンゴの皮を剥くの上手ですね。尊敬します」
と流し台の三角コーナーに捨てた、1度も途切れることのなかったリンゴの皮を林さんは指で摘まみ上げながら言った。
オーソドックスな出汁を利かせた関西風のたこ焼きは美味しかった。けれど、変わり種タコパは散々なものに終わった。でも、林さんがこちらの世界に来て、1番の笑顔を見られたのが1番の収穫だった。と言っても彩芽の表情だけれど。
4日目 side森平彩芽 2018年8月1日 水曜日
林さん行きつけ洋食店「ボイルドエッグ」の店員さんが、店の前に置かれた鉢植えの
花に水をあげていた。
私はそれを向いのカフェの窓際の席から見ていた。
店員さんが被る黒色のキャスケットを夏の陽射しが照らしている。
2018年の私と入れ替わった日曜日以降、雨は降っていない。
今日の降水確率10%
でも、私はこの後、一雨来そうな感じがしている。
季節到来の匂いを感じ取れる人がいるという。
雨の匂いを感じる人がいるという。
雨のにおいには、「ペトリコール」という学名がついているけれど、
私の雨が降る予感には、どんな学名がつくのだろうか。
一般的には雨上がりの虹が好まれるが、私は夕立前の雷が好きだ。
祖母が体調を崩したと母からラインに連絡があったのは、洋食店「ボイルドエッグ」の夜の部がオープンする少し前だった。私は慌てて家に戻った。
玄関を開けると母が作った特製スープの匂いがした。森平家の住人が風邪を引くと食べる秘伝の薬膳スープ。
祖母の部屋の扉をゆっくり開けるとベッドで寝息を立てていた。おでこには冷えピタが貼ってあった。少し横になれば問題はないようだった。
大きな本棚から私は1冊、本を抜き取った。
エアコンの音が止まり、今この部屋には、ページをめくる音と祖母の寝息だけが聞こえていた。
祖母が眠るベッドのそばに古びた木の椅子を置き、膝の上で本をひらいた。
私が小さな頃、この部屋のベッドで昼寝から目覚めると、祖母この椅子に腰かけて本を読んでいた光景をよく覚えている。
ひらいた本の奥付を見ると発行は今から30年前。当然私はまだ生まれていない。
発行日の横に3刷とある。子供の頃、この言葉の意味が分からなかった。その言葉の意味を教えてくれたのも祖母だった。
パラパラとめくっていると角が折れたページがあった。そこを開くと『傷つきたくないなら恋はするべきじゃない。だって、恋は傷つくものだから』
と書かれた箇所に薄く赤いラインが引かれていた。
それは祖母が引いたのか、誰が引いたのかはわからない。
でも、それが恋にとって重要な一文であることは分かる気がした。
「彩芽ちゃん、心配かけてごめんね」
本から顔を上げると祖母がこちらを見ていた。
私はキッチンでスープを温め直してから寝室に運んだ。
「食欲があるから大丈夫。ありがとうね、彩芽ちゃん」
良かった。でも、祖母と過ごせる時間があと少ししかないことに心が締め付けられた。
5日目side木立恭介 2025年7月31日 木曜日
「みなさん今晩は。今週も始まりましたフライデー・ポータブル・ガーデン。
DJの池本真美子です。ここ数日は、全国的にサウナ状態。
7月31日、木曜日の夜9時、みなさんはどうお過ごしでしょうか?」
彩芽が、この部屋に決めた理由の1つでもある、脚を伸ばしてゆったりと入られる白いバスタブ。そのふちに置いたスタンド式防水ケースの中のスマホからFMラジオが流れている。僕はバスタブにギリギリまで入れた、人肌よりも4度高い乳白色のお湯にアゴまで沈める。ラジオ番組は、オープニング1曲目が終わり、そのままCMに入った。
僕は潜望鏡みたいに、鼻下までお湯に沈めて、あたりを観察する。
彩芽愛用の3800円のオーガニックシャンプーの隣には僕が使う580円のトニックシャンプーがある。彩芽愛用の高級絹ボディータオルの隣に掛かっていたナイロン製のゴワゴワした奴もオヤジくさい匂いがするシェービングクリームも髭剃りもあの日のまま。
「夏の夜に一服の清涼をお届けしましょう。今夜の2曲目は、
「スティービーワンダーでYou Are The Sunshine Of My Life」
僕はお湯から顔を出し、スマホに近づくと床のタイルにお湯がこぼれた。彩芽が好きな曲だ。
あたたかなメロディーに誘われて、あの楽しかった生活の日々が頭を駆け巡った。
「一緒にお風呂に入ってもいい?」
月に何度か、彩芽はバスルームの扉越しに聞いてきたけれど、1度くらい、彼女の願望を聞き入れてあげればよかったかなと思う。スマホから絶妙なタイミングで、女性DJが感慨深く「そうだよね」とつぶやいた。
お風呂から上がるとベランダで林さんは夜風を浴びていた。
そっと近づき、冷たい缶コーヒーを差し出すと林さんは慌てたように目頭を指で拭った。
掛ける言葉が見つからなかった。
これまで自分のことしか考えていない自分に気が付く。林さんが2018年の世界に戻れるなんて、どこにも保証はないのだ。
ベランダの手すりに手を掛けたまま夜空を見上げていると
「ありがとう、木立くん。私のために嘘をついてくれて」と林さんが涙まじりの声で言った。
僕は、その言葉の意味をすぐに理解できないでいた。
「私、もうすぐ死ぬんですね」
「えっ」
僕は言葉に詰まる。ジリジリと夏の虫の鳴き声と洟を啜る音が重なって聞こえた。
「実は月曜日に木立くんが出勤した後、実家に寄ったんです。友達のフリをして「未来ちゃんいますかって」母に言ったら、「もういない」って言われました。7年前,8月5日に事故に遭ったって」
「たとえそうでも彩芽は2018年の俺と協力して、必ず林さんを助けてくれる」
「本当に?どうして彩芽さんは私のためにそこまでしてくれるんですか?」
「俺は彩芽のことを信じているから」
「歴史を変えるってことはその人の人生を変えることなんです。
こっちの世界に来て、ずっと考えていました。答えは出ていません。逆の立場なら、もしかしたら私には出来ないかもしれません」
僕は缶コーヒーを一気に飲み干し、言った。
「ずっと考えていた。彩芽が2018年にタイムリープした理由を。やっぱりそれは、林さんを助けたいから。そして、それは俺を助けることになるから」
「木立くんを助けることになるとは、どういう意味ですか?」
「林さんに見せたいものがある。明日、俺の実家に一緒に来て欲しい」
6日目 Side森平彩芽 2018年8月3日 金曜日
緑色のテントルーフが印象的な職場近くの洋食屋「ボイルドエッグ」
私はカウンター席に座り、林さんを待っていた。
でも、もう来ないような気がしていた。ランチセット1450円
もしかしたら、週1のご褒美で通っていたのかもしれない。
すでに今週は1度来た。それでも藁をもすがる気持ちで私はこの店に来た。
テーブルに両肘をつき頭を抱えて居るとカウンター席の近くのテーブル席で食事する女性2人組の会話が、ふと耳にとまる。私と同世代みたいだ。
『まだ24歳だし』と笑っていた同級生の友人が、『もう25歳だし』に変わっている事に気がついたそうだ。そして、どことなく言葉尻に悲壮感が漂っている気もする。
職場で現在、婚活に奔走中の女性先輩は、29歳と30歳では、オーストリアとオーストラリアぐらい違うと言っていたようだ。
婚活サイトに登録している先輩は30歳になった途端、毎月100名以上いた[あなたに会いたい希望者]が1桁になったと嘆いていた。
先輩は「男は、女の顔と年齢しか見ていない」と断言しているらしい。
人それぞれ、悩みはあるようだ。
そして、やっぱり、林さんは来なかった。
私は何か方法を間違っているのか。本当に洋食屋で待つしかないのか。
残り2日。 恭介に会いたくなった。会って相談したかった。
実は私、本当は2025年からタイムリープして林さんを助けに来たと正直に言えば、
恭介は信じてくれるだろうか。もしかしたら、恭介なら信じてくれるかもしれない。
信じてくれなくても、きっと邪魔はしないだろう。恭介の住む築50年のアパートに向かった。
駅を降りるとすぐにカタツムリ商店街が東西に延びている。
私が暮す2DKアパートは、西口を出てから3分ほどの場所にあった。
私は、大学生の頃から外食をせずに自炊派の倹約家だった。でも、決して、ケチではない。
たとえば、ピザを食べたいならデリバリーするよりも私は、八百屋、キノシタの新鮮なナスやズッキーニを使って、自分で作った方が安く、美味しいピザを味わえると考えていた。けれど、恭介の考え方は違っていた。
デリバリーピザは、美味しいのはもちろんのこと、プレゼントの箱を開ける時のようなドキドキ感を味わえ、チラシを見ながらどれにしようか悩み、注文し、配達されるまでの時間も楽しめるエンターテイメントだと彼は言う。
彼は、いつもカタツムリ商店街の東口にある本屋、コヤマで購入していた。でも、私は知っていた。西口にある古本屋には、彼が定価で購入している同じ本が、100円で売られていることを。
彼曰く、単行本を定価で購入することは出来ないけれど、文庫本の発売を待って購入するらしい。そして、彼は絶版されていない限り、古本は買わない派だった。その理由は、著者にお金が入らないから。私は新刊でも古本でもなく、図書館で借りる派だった。
そんな価値観の違う二人は時々、小さな衝突を起こすこともあったけれど、あくまで小さな衝突であった。
カタツムリ商店街を西側から幸せそうに腕を組み歩く、お洒落なカップルとすれ違った。
彼女の首元を飾るネックレスが、夕陽を受け、輝いていた。
東西に約300百メートル伸びるカタツムリ商店街の中央あたりには、4人掛けの木製ベンチが3台並んで置かれていた。今は、誰も座っていない。私はそのベンチに腰掛けた。
よくこのベンチに彼と座って、商店街で買ったクレープやアイス、たこ焼きを食べた。
「私が家で作った方が絶対に美味しいよ」
私がそう言うと
「そうかもしれないけれど、このベンチに座って、俺は2人で食べたいんだよ」
と彼は言った。
私はショルダーバッグから財布を取り差し、自動販売機でホットコーヒーを買うために財布を開くと小銭が落ちた。拾い上げようとしゃがむと小銭の近くに100円の買い物につき1枚もらえる小さなスタンプがあった。カタツムリのイラストが描かれている。それを台紙に貼って20枚で1回、福引が出来た。台紙にはカワイイ紫陽花のイラストが描かれていて、その上からマス目が描かれている。家に台紙を切らしていることを思い出した。
私は、福引の景品が欲しくてスタンプを集めていたんじゃない。
夕食後、小さなスタンプの裏に、几帳面な彼がスティック糊を付けてくれる。それをマス目に合わせて、私が貼っていく。それはささやかな私達の幸せの形だった。
福引の景品は、あくまでも、そのおまけであって、本当に私が欲しかったものは、すでに手にしていた。
結局、その日、林さんにも、恭介にも会えず自宅に戻った。
お風呂上りに勉強机のイスに座りながら、2025年の私について考えていた。
2018年の私は過去の自分だから、ある程度は予測が立つ。
2025年のスケジュールは未来だから、誰にも分らない。
依頼されたイラストの仕事は未完成のまま、〆切まで1週間を切っていた。
2025年に戻れたとして、〆切を守れないのは問題だろう。
2018年の手帳を見る。
懐かしい。今日、8月3日の予定は・・・・・イラスト講座7時半とある。
青山校。なつかしいカルチャセンターの人気イラストレーター養成1日講座に行った。
手帳に挟まれていた4つ折りの紙を開くとプリントアウトされた講座の証明書だった。
待てよ。ここで隣の席になった女性と連絡先を交換して仲良くなり、数年後、今の仕事先を彼女が紹介してくれたんだ。壁の時計を見ると夕方の6時を少し回っていた。ヤバい。私は家を飛び出した。
高層ビルから扇子を仰ぎながら出で来たご婦人のおかげで、立ち止まることなく開いた自動ドアを抜け、小走りで受付窓口に向かった。
駅を出てからノンストップで駆けた私の火照った頬に、クーラーの冷気はとても心地よかった。
「すいません、イラスト講座の受講を申し込んだ森平と申しますが」
1ヶ月前、受講料の税込み3500円をパソコンからクレジットで支払ったらしい。
その際に発行された証明書をプリントアウトし、必要事項を記入した紙を差し出す。
受付に提出してくださいと書いてあった。
4つに畳んだその紙は、握りしめた指のあとでくぼんでいる。
「少々お待ちください、直ぐお手続きいたしますので」
私が焦っているのを察してくれたのか、事務員が素早く対応してくれる。
腕時計を見る。午後7時12分。
「森平彩芽様、お待たせしました。イラスト講座は8階、805号室になります」
礼を言い、渡されたプリント用紙数枚の案内書を手にエレベーターホールに向かう。
恐らく30分前までは賑やかだったと想像されるこの場所に、人数は少ない。
5、4と降りてくるエレベーターの表示を目で追う。うちわ代わりにして扇ぐ案内書の表紙には、「尾山聡子の1日イラスト講座」と印字されていた。
エレベーターを8階で下りると「801~805は右側通路です」の表示があり、指示に従った。各々の教室から声が漏れてきている。
フラワーアレンジメント、パッチワーク・キルトなど。教室の扉は開かれている。
さっき受付で、名刺サイズのカードを渡された。
そこには、講座名と教室の号室と受講生の氏名と番号が記されている。
それを教室に入る際、入り口付近のテーブルの上のカゴに入れ、
引き換えにテキストプリントを1つ取って下さいと言われた。席に着いた。
見覚えのある人達がいる。でも、今の段階では初対面。
隣に座る女性に私はニッコリと会釈した。
講座は無事終わった。なんとか記憶を呼び起こし、過去を変えずに済んだと思う。
この後食事会をするとあったが、当時、私は断っていた。
理由は、用事があると言ったけれど、本当はお金がなかったからだった。
過去を変えないように、私は教室を後にする。
隣の教室から見覚えのある女の子が出て来た。
教室のドアには「小説講座」と貼り紙が貼られてある。
まさか他人の空似か。
私は気づかれないように、あとをつけた。
彼女は受付に行き、私はその後ろに並んだ。
「すいません、林未来ですが」
女の子が受け付けの女性に話しかける。たぶん間違いない。林さんだ。藁をもすがる思いで、私は林さんの後を付けた。
彼女は、何度か乗り継ぎ、電車は神奈川県に入って行った。
彼女は、駅前の商店街の中にある「林金物店」のドアを開けて入った。
恐らく間違いない。ようやくタイムマシンを見つけた。
6日目side木立恭介 2025年8月1日 金曜日
「また外れた」
カタツムリ商店街のオモチャ屋の前にあるガチャガチャのレバーを女子高生くらいの女の子がしゃがんで回しながら、女友達に嘆いていた。その友達は、立ったまま彼女の頭を撫でている。
僕はカタツムリ商店街の中程にあるシンボルツリーの木陰が出来たベンチに座り、それを見ていた。
一時期、彩芽もミニチュアコレクションのアンブレラ全10種類をコンプリートしようと奮闘していた思い出と重なる。
林さんは今、オモチャ屋の隣にある多摩書店で小説を立ち読みしていた。
もし林さんが生きていたら、この書店にも単行本が並んでいたかもしれない。
そう考えると林さんの未来は明るい。
今日、母は午後から出掛けるらしいので時間を潰していた。
大学生の妹は、夏休みを利用して運転免許合宿に行っていた。
8月1日。夏の1番暑い頃である。
昼は商店街の中華屋の冷やし中華で済ませ、クーラーを利かせた車で神奈川県にある実家に向かった。
林さんは1冊の小説を購入していた。
僕は運転しながら「推しの小説家さん?」と林さんに訊くと彼女が首を左右に振っているのを横目に感じた。
「私が大賞を貰った、その回の優秀賞に選ばれた作家さんの小説です。
購入した本は別の作品、この方の新作です。当時からこの方の作品は知っていました。私が言うのもなんですが、伸びしろがすごいです。7年の時間ってやっぱり大きいですね」
「うん。でも、林さんだって大賞を貰ってるんだから自信を持たなきゃ。
2018年の世界に戻って、芥川賞でも獲ってもらなきゃ割に合わないよ」
僕は冗談めいて言ったつもりだったが、
「そうですね」と林さんは案外真剣に受け取っていた。
実家に着くと母は出掛けており、家には誰にもいなかった。
冷蔵庫の冷えた麦茶をグラスに注ぎ、自室に向かう。
僕は、サークルボックスと呼ばれる丸筒型の黒い箱をクローゼットの1番奥の方から引き出した。
7年前、黒の中折れ帽子を買った。それは少し値の張るもので購入した時に店で入れてくれた箱だった。林さんとの花火大会。何を着て行こうか迷った。
ラジオの相談コーナーで、お洒落な帽子をかぶれば良いと言われ、購入した。
結局、林さんにその帽子を見せることは出来なかったけれども。
その帽子は1度かぶっただけで、友人のフリーマーケットで売ってもらった。
丸筒型の箱には、一眼レフカメラで撮った写真を現像し、この中に入れて保存してあった。
その中から1枚の写真を取り出し、林さんに渡した。
それを見た瞬間、驚きの表情に変わる。
「偶然、再会した日。林さんにすれば、1週間前。俺にとってみれば7年前。
気づいたんだ。俺は林さんのことが好きだってことに」
写真から視線を上げ、じっと林さんは俺を見つめている。
「1本の傘で林さんを職場まで送る途中で、俺は林さんに、その想いを伝える」
林さんは涙を流していた。
僕はもう1つの箱をクローゼットから取り出した。
それも円筒型の水色の箱で、蓋の部分が水玉模様になっていた。
それを見た瞬間、林さんの表情が強張ったのがわかった。
「どうしてこれがここにあるんですか?」
林さんはその箱を手繰り寄せ、ゆっくりと蓋を開けた。
「林さんが亡くなって7年後に、俺は林さんの死を知った。林さんの実家の前を通った時、声を掛けられたんだ。そして、その箱を渡された」
林さんのこぼす涙は、箱の中に落ちていく。
「でも、本当のことは言えなかった。娘さんを亡くした原因は俺のせいだって。
林さんのお母さんの笑顔が、憎しみに変わってしまうことが怖くて」
僕の頬を伝う涙はフローリングの床にポタリポタリと落ちた。
「林さん、ごめんなさい。俺のせいで、林さん、そして、林さんのご家族の人生を狂わせてしまった。俺だけが幸せになっていい訳がない。その想いが消えなかった」
俺は林さんに深く頭を下げた。
「だから、それは木立くんのせいじゃないです。運が悪かっただけ。
誰も悪くない。きっと人生ってそういうもの。もうこれ以上、自分を責めないでください」
林さんが俺の肩に手を当てる。
「木立くんの彼女さんが、2018年の私を助ける理由がよくわかりました」
林さんにそう言って貰えて、救われた気持ちになった。
7日目 土曜日 Side 木立恭介 2025年8月2日 土曜日
部屋の隅に置かれた作業机に僕は座っていた。
「買い物に行ってきます。19時までには戻るのでお先にお風呂でも」
それは僕の決して綺麗ではない文字が綴られた一筆箋の端っこが扇風機の風にめくれる。
それは僕が3ヵ月前に書いたもので、文末には、彼女が描いた可愛いテントウムシのイラストが添えられていた。
彩芽は絵を描き始めると夢中になる癖があった。呼び掛けても声が聞こえなくなるのだ。そんな時、僕はメモ書きを残し、そっと部屋を後にする。
ゴミ箱行になるはずのメモ書きが引き出しの中の可愛い箱の中に丁寧に直されていた。
今日、引き出しの中の箱を開けるまでそのことは知らなかった。
机の前のボートには、イラストレーターの仕事のスケジュールが貼り出されている。
直近は2週間後。雑誌の挿絵のようだ。
机の上に置かれた紙には、さつまいも、かぼちゃ、なす、レンコン、秋野菜のラフスケッチ。
昨日までここに彩芽がいた形跡があった。
机の引き出しから、一筆箋と万年筆を取り出す。
一筆箋は半年前に彩芽と一緒に選んだもので、万年筆は、去年、彩芽の23歳の誕生日に僕がプレゼントした少し値が張る代物。彩芽は僕の真似をして、万年筆を持つようになった。
一筆箋には、こう書き残した。
「テントウムシは、幸福を連れて来る使者だと言われている事を知っていますか?」
文末に彩芽のイラストが添えられる日を僕は信じて待つことを決めた。
その日の夜だった。
明かりの消した部屋のソファーで僕はまだ眠れないでいた。そんなとき、ベッドから林さんの声が聞こえた。
「木立くん、まだ起きていますか?」
「うん」
俺はソファーに寝ころびながら答えた。
「暑い、部屋の温度下げようか?」
「大丈夫です。明日、彩芽さんが18歳の私を助けてくれたら、過去が変って木立くんは彩芽さんのことを忘れてしまうんですよね。そして、私は木立くんとお付き合いがはじめる」
「そうなるね」
「でも、今、25歳の木立くんは彩芽さんのことが好き」
「うん」
「でも、彩芽さんの記憶は存在しない」
「そう言う事になるね」
林さんはベッドから立ち上がり、ソファーで寝転ぶ僕の前で見下ろした。
「木立くん、もう彩芽さんに会えないんですよ。本当にそれで良いんですか?」
僕はソファーに座り直し、俯いたまま何も答えられなかった。
「私なら気にしません」
その言葉に僕は視線を上げると林さんはパジャマのボタンを外しはじめた。
最後のボタンを外し、下着姿になった。
僕は床に落としたパジャマの上着を拾い上げる。
うつむく林さんの身体は震えていた。
見た目は大人の女性だけれど、中身の林さんは18歳の女の子。
「ありがとう。林さん。その気持ちだけで十分だよ。」
僕は彩芽の身体にパジャマを掛けた。
8日目 side森平彩芽 2018年8月5日 日曜日
運命の日曜日。湿度は高く、朝からどんよりと曇っていた。
雨好きの私にとって、爽やかな1日の始まりである。
朝、目覚まし代わりのスマホよりも早く目覚める私。
鼻歌交りで起こされる朝は決まって雨だよ。とか、喜んでいるのは雨蛙くらいだよ。
とか恭介は眠い目をこすりながら、よく言っていた。
私は始発電車で神奈川県にある林さんの実家「林金物店」の近くで待っていた。
現在、朝の6時55分。林さんの自宅から職場がある東京オフィス街まで約1時間と少し。
職場に9時出社なら、あと30分くらいだろうか。
何か急用ができ、すでに始発電車で出勤している場合を想定し、祖母には駅前のカフェで待機して貰っている。
先ほど祖母からLINEで「窓際の席で待機中、「マルタイ」まだ未確認」と連絡が来た。
マルタイとは警察用語で捜査対象者を表す。
警察小説好きの祖母は、ノリノリである。
作戦に抜かりない。林さんの未来が掛かっているのだ。
林さんの自宅は商店街の中程にあり、私は少し離れたところにある自動販売機の前で待機した。リュックから朝、祖母に手渡されたビニール袋を取り出す。中身はアンパンと牛乳だった。私は電柱の後ろから林金物店を監視しながら、アンパンをかじった。
暑い。
8月5日、日曜日。今日の東京の降水確率は50% 雷指数は高い。
ただ昼過ぎには雨は上がり、花火大会は開催される。
実際、7年前、18歳の私は家族で花火大会に行った。
私は少し焦り始めていた。8時を過ぎても林さんが自宅から出てこないのだ。
10時出勤だろうか。恭介との待ち合わせは洋食屋「ボイルドエッグ」に12時
職場から洋食屋まで歩いて10分程度だろう。
そして、ずっと引っかかっている事柄が1つ。
「サーフボード」である。
林さんは何の理由でサーフボードを持参して待ち合わせ場所に向かったのか。
全く理解できなかった。
神奈川県の海岸通りならともかく、日曜日の東京オフィス街。
サーフボードを持って歩いている人なんていない。
楽観的に考えれば、その場で張り込みすればいいのかもしれない。
でも、私は、こう推察している。
おそらくサーフボードは雷に合う直前、車に乗せ忘れた人を追いかけて渡そうとした。
そして、運悪く雷に当たった。妥当な考えだろう。それなら、直前まで彼女がどこにいるのかわからない。
彼女がサーフボードを持って走り出した時、大通りの向こう側の歩道に居たら間に合わない。
洋食屋から林さんが働くであろう雑居ビルまでの範囲が広すぎる。
空模様は今にも雨が降り出しそうにどんよりと曇っている。
8時30分過ぎ、林さんが自宅から出て来た。一気に緊張が走る。
恭介の情報通りに、林さんは浴衣姿だった。でも、まだサーフボードは持っていない。
林さんは商店街を駅のある方へと小走りで向かった。
足元は下駄ではなく、スニーカーだ。私も後を追う。
日曜日の電車は空いていた。
今日は東京の花火大会があることは多くの人が知っているだろう。
ただ朝の時点で浴衣を着ている女の子は林さん1人だけだった。
祖母にLINEで「マルタイ発見、現在、電車の中で尾行中」と送る。
すぐに警察官が敬礼ポーズのスタンプが返って来た。
駅前のカフェの前で立つ祖母と合流した。
賑やかな通りを抜け、閑散としたオフィス街へと歩みを進める。
「お婆ちゃん、ゆっくりでいいからね」
私の声に軽く頷きながら
「この歳になってこんなにドキドキ出来ることがあるなんて考えなかったわ」
と言った。
林さんの足並みは軽い。
ほぼ私と同じ身長の林さんとの歩幅と祖母のスピードは違う。
私は林さんの背中を見逃さないようにしながら、辺りに視線を送る。
カフェを探す。職場に行ってからすぐに出て来るとは限らない。
今の時間帯と死亡推定時刻から逆算しても、まだ2時間近くある。
太陽は厚い雲で覆われているとはいえ、この蒸し暑さの中、
祖母を外で待たせる訳にはいかない。
信号が点滅し始める横断歩道をスキップするかのように、林さんは渡った。
私は止まる。
日曜日のオフィス街。
右を見ても左を見ても車やバイク自転車、歩行者すらいない。
私は歩き出した。林さんを見失う訳にはいかない。
林さんが右に曲がる。
振り返るとまだ祖母は後方を歩いていた。
オフィス街の曲がり角で私は立ち止まり、林さんの背中と祖母を伺う。
気持ちが焦った。
私は指で合図し、祖母が大きく頷いたのを確認し、林さんを追いかけた。
かなり年数が建つ赤レンガの雑居ビルの中に入って行った。
私はテナントを確認する。
4階、「尾灯編集プロダクション」とあった。間違いない。
祖母と合流する。
林さんがバイトする編集プロダクションが入った雑居ビルの並びの角にカフェがあった。
信号の向こう側にはディスカウントストアがあり、こちらの通りはオフィス街と違い人通りが多い。祖母を店に残し、私は自動販売機で甘い缶コーヒーを買った。
待ち合わせの時間12時まであと1時間と少し。
もしかしたら、あのディスカウントショップでサーフボードを購入するのだろうか。
初デートの前にサーフボードを買うものだろうか。
百歩譲って恭介がサーファーでサーフボードが欲しくてサプライズでプレゼントすることはあるかもしれない。でも、そんな話題は今までに1度もない。
ましてや、彼女は教習所に通うためにバイト代を稼いているのだ。
雑居ビルから林さんが重そうにサーフボードを抱えて出て来た。
正直、この展開は全く予想していなかった。
編集プロダクションとサーフボードの関係性をこの短時間では導き出せそうにない。
祖母にラインを送る。
林さんは、洋食屋があるオフィス街ではなく、祖母がいるカフェ方面へと歩き出した。
足早に歩く。私は声を掛けようと近寄る
「あの」と声をかけたと同時に、大きな雷が鳴った。
先を行く林さんが持つロングサーフボードの先が私の手先に触れた。
次の瞬間だった。
私の力が抜けていった。林さんを呼び止めようとしても声が出ない。
私は思わず腰を落とす。
私の前を林さんがサーフボードを重そうに抱えて歩いて行く。
林さんが見る見る小さくなっていく。
嘘でしょ。ここで林さんを見失ってしまうと、もう助けられない。
8日目 side 木立恭介 2025年8月3日 日曜日
運命の日曜日。部屋のカーテンを開けると朝からどんよりと曇っていた。
雨好きの彩芽にとって、爽やかな1日の始まりだろう。
朝、目覚まし代わりのスマホよりも早く目覚める彩芽は、雨の朝、
よく鼻歌交りに起こされた。朝から雨に喜んでいるのは雨蛙くらいだと思う。
僕が眠い目をこすりながら、もう2度とその光景には記憶の中でしか出会えないと思うと胸が締め付けられた。
現在、朝の6時55分
林さんは、まだベッドで寝息を立てていた。
2018年の世界線で彩芽はきっと林さんを助けるための作戦を実行してくれていると思う。僕達はそれを信じて待つ。
朝のこの時間帯でも商店街のパン屋さんだけは開いていた。
晴でも雨でも等しく焼き立てのパンの香ばしい匂いが僕を幸せにしてくれる。
僕は自分と林さんの朝食のパンを選び、店を出た。
部屋に戻ると林さんは化粧を済ませていた。
彩芽は本当にキレイな人だと確信する。
僕の中で、林さんの記憶は止まったままで、やっぱり幼い林さんのままだった。
25歳の林さんを想像するが、うまくいかない。
ダイニングで朝食を用意したけれど、林さんはあまり口を付けなかった。
僕はそのことに何も言わなかった。
「木立くん、ごめんなさい」
林さんが誤った。
「私のせいで、こんな素敵な女性との未来を台無しにしてしまうかもしれない」
「林さんが昨日、俺に言ってくれたじゃない。そういう運命なんだよ。
誰のせいでもない」
僕は心から、そう思ったことを言葉にした。
そう、仕方がない。
彩芽も僕と同じことを考えただろう。
目の前に救える命があるのに、自分の恋のために犠牲にはしない。
ただ心残りがあるとすれば、もう1度会って心から、愛してると言いたかった。
このまま、この部屋にいると何かと問題があるので、待ち合わせの時間は、カタツムリ商店街のいつものベンチで待とうと思う。
彩芽と林さんのタイムリープが終わった瞬間、2025年の僕は、彩芽のことを知らないと思うから。
部屋に鍵を閉めた時、外は、今にも雨が降り出しそうだった。
東西に約300メートル伸びるカタツムリ商店街の中央あたりには、4人掛けの木製ベンチが3台並んで置かれ、その中心には雨宿りが出来るくらいに大きなシンボルツリーがある。
その向かい側にある雨が避けられるベンチに僕と林さんは腰掛けた。
よくこのベンチに彩芽と座って、商店街で買ったクレープやアイス、たこ焼きを食べた思い出の場所。すべての思い出が消えてしまうのかと思うと心が苦しくなった。思わず泣きそうになる。手で胸を押さえていると林さんが僕の肩にそっと頭をあずけてきた。
少しして林さんがうつろな表情でこちらを見つめる。
「恭介」
僕に向かって林さんが叫んだ。ん?どういうことだ。
「恭介、私、彩芽。森平彩芽。わかる私のこと」
「彩芽なのか」
「うん」
「ここは今、西暦何年?」
「2025年.一週間前、突然、彩芽と2018年の林さんが入れ替わって」
と僕は状況を説明すると
「恭介、林さんのこと絶対に助けてみせるから。信じて待って」と彩芽は強く言った。
でも、僕は正直、もう2018年に戻らないで欲しいと思った。
「恭介に出会えて良かった」そう言った彩芽の頬に涙がこぼれる。
「彩芽、愛してる。過去が変わっても俺は必ず彩芽のことを見つけ出すから」
僕は涙を堪えながら、彩芽とくちびるを重ねた。
最終話 side森平彩芽
目を覚ますと祖母が心配そうに私を見つめていた。
アスファルトの地面に尻もちをついた状態で、祖母に支えられていた。
祖母が、私の頬をハンカチで拭う。
ふと私は、空を見上げる。まだ雨は降っていない。そっか。
2018年、18歳の私も泣いていることに気が付いた。
「離れていても、ずっと一緒だから。たとえ記憶が消えても彩芽のこと見つけ出し、必ず会いに行く」
そう最後に言ってくれた恭介の想いが胸を締め付ける。
「もう大丈夫」そう言うと祖母の表情が安堵に変わる。
「おばあちゃん、2025年の世界線で恭介に会えた。私のことを必ず見つけ出すって、記憶もなくなるのに、どうやって見つけ出すんだろうね」
笑いながら、そう言うと祖母は深くうなずき、「そうだね」と涙ながらに呟いた。
私は、この記憶を持ったまま2025年に戻り、過ごす。
ただタイムリープしていない恭介は違う。
道ですれ違っても、きっと恭介は気が付かない。そんな現実を受け入れられるだろうか。不安にまた胸が締め付けられる。
遠くの方で雷がとどろいた。もう時期、雨が降る。
そうだ。感慨に耽っている場合じゃない。
「お婆ちゃん、何分ぐらい経った?」
「5分も経ってないよ」
「林さんは?」
「私がカフェから出てきたら、サーフボードを持った彼女がリサイクルショップに入って行ったよ」
そう言いながら祖母はリサイクルショップの大きな看板が見える交差点の方を指さした。
店内入口付近の壁には、【どこよりも高価買取】と書かれたリサイクルショップ「restart」の看板。
祖母がいたカフェの斜め向かいに、その店はあった。
店に入るとやけにカップルの比率が高く、小さな子供でも知っている陽気な曲が流れていた。店内を見回す。
賑やかな店内でも、ひと際、浴衣を着た林さんは目立っていた。
林さんの手元にはサーフボードはなく、電化製品を眺めていた。私は少し離れた棚に隠れて、その様子を窺った。査定にでも出しているのだろう。
彼女の未来を知る私は、査定不成立に終わることは知っているのだけれど。
「番号札3番のお客様、査定の方が終わりましたので、1番の買取カウンターまでお越しください」
しばらくして、館内放送が流れ、林さんがカウンターに向かう。
時を同じくして祖母が店内に入って来た。
私は祖母に向かって大きく手を振り、手招きする。
[買取りカウンターはこちらです]と表示されたレジに向かった。
祖母と私は買取カウンターに背を向け、商品を選ぶフリをして林さんと店員の話に聞き耳を立てる。しばらく続いた交渉は、やっぱり折り合いが付かなかったようだった。
浴衣姿の林さんは、自分の背丈よりもはるかに長く3メートルはあるであろうサーフボードを抱えて店を出た。店の壁にサーフボードを立て掛け、入り口付近にあるベンチに腰掛ける。私は、そっとと声を掛けた。
「もしよかったら、そのサーフボード私に売ってくれませんか?」
こちらを向いた林さんは、驚いた表情を作り私と祖母を交互に見やる。
「6万5千円で買い取らせてください」
祖母の援護射撃に林さんが戸惑いの表情を浮かべる。
「あの、もしよかったら向かいのカフェで要相談ということでどうでしょうか?」
私がそう言うと林さんは、戸惑いながらも小さく「はい」と頷いた。
信号が変わり、3人で向かいのカフェに向かった。そして、同時にカフェの前で立ち止まり、
3人同時に、あることに気が付いた。
3メートルほどある木の板を小さなカフェに持ち込んでも良い物だろうか。
その時だった。ポツンと私の頬を雨が濡らした。
「あっ雨」林さんが呟く。祖母は店内に入り、店員と話し始めた。
男の店員さんが「サーフボードですね。お預かりします。お好きな席へどうぞ」
と言った後、「僕サーフィンやってるんで」と付け加え、入口付近に立てかけてくれた。
ありがとうございます。助かった。3人同時に頭を下げた。
私達は、リサイクルショップが見える窓際の席を選んだ。
林さんは窓際の座り、私はその隣に座った。
祖母は私の向かい側に座った。
「あの、前にお会いしたことありますよね。1週間前、雨の日にスマホを拾ってくれましたよね」
注文を済ませると林さんが言った。
「覚えてくれてました?」
「はい。とても綺麗な人だったんで」
苦笑いを浮かべる私を祖母が嬉しそうに見ていた。
ふと思った。タイムマシンの発動条件について、
はじめはスマホ、そして、サーフボード。
それを媒介にして私と林さんが接触した瞬間、雷が鳴り、感電するかのようにタイムリープしているような気がした。
「あのーどうしてこのサーフボードが欲しいのですか?」
アイスコーヒーを一口含み、林さんは言った。
正直、その理由は考えていなかった。困った。
祖母に助け舟を出して貰おうと視線を送ると
チョコレートパフェのてっぺんにのっているサクランボのヘタを指でつまみ上げ、
嬉しそうに口の中に入れようとしていた。困った。私はアイスコーヒーをストローでかき混ぜていると
「あなたとリサイクルショップの店員さんの会話のやり取りが良く聞こえて居てね」
と言った祖母は、自分の耳に入った補聴器を指さし林さんに見せた。
「私ね、都内で雑貨屋さんをやってるの。このロングボードっていうの。レトロな感じに
一目惚れしちゃってね。ぜひ、店内にディスプレイしたいなと思ったのよね。駄目かな」
林さんに、イタズラな笑みを向ける。
「いえ、駄目ではないです」
「そう、じゃあそのサーフボード6万5千円で私に売って貰えるかしら」
「はい、お願いします」
交渉成立だ。祖母は私にウインクする。
気が付くと窓の外は本降りになっていた。
「浴衣可愛いですね。もしかしてこれから花火大会ですか?」
「そうです。今朝母には止められたんですけれど、どうしても着たくて」
「もしかして、デートですか?」
私がそう言うと林さんは頬を赤くした。
「いや、デートというか、好きな人に花火大会に誘われて、それで・・・・・・」
そう言って林さんはより赤く頬を染めた。
「へぇー羨ましい。私はまだデートしたことないです」
それは嘘じゃない。私の初デートは21歳の時、恭介だった。
「6年間、片思いでした。正直、付き合えるなんて想像もしていませんでした。
そうだ、この近くで1週間前、偶然再会したんです。そこで彼から告白されました。
私、神奈川県に住んでいて、まさか東京のオフィス街で再会するなんて、でも・・・・・・」
林さんの言葉が途切れる。
「でも何?」
私は疑問符を投げかける。
「告白されたんですが、まだ返事はしていないんです」
私はうなずく。
「まさか私のことが好きだなんて想像もしていなかったし、タイミング悪く、職場の上司から電話が鳴って、私はその場から逃げるように立ち去りました」
「そっか。待ち合わせ場所へ行くことが告白の返事になる訳ですね」
「はい」
「やっぱり、それは林さんの彼への想いが巡り合わせたんですよ」
「えっどうして、私の名前を知っているんですかか?」
しまった。祖母の方を見ると
柄の長いスプーンでチョコレートパフェの底をかいていた。
「リサイクルショップの買取の際に店員さんがそう呼んでいたので」
私はグラスの半分になったアイスコーヒーに話しかけるように言った。
「そ、そうでしたか」
あまり納得していない様子が声色だけでうかがえた。
「私、森平、森平彩芽と言います。で、こちらは私の祖母で」
と改まって自己紹介すると林さんは律義に頭を下げてくれた。
林さんは窓の方に顔を向けたり、壁に掛かった時計を気にしていた。
現在の時刻は11:35
「彼氏さんとは、どこで待ち合わせしているの?」
祖母がホットコーヒーを飲みながら訊いた。
「ここから15分ほどの場所にある洋食屋さんで待ち合わせしています」
「そうですか、せっかくの浴衣が台無しになるので雨が止むまでここに居ませんか?」
「でも彼が心配するかも。あの私、あの日、緊張しすぎて、連絡先訊くの忘れてしまって」
私は席を立とうとする林さんの太ももの上に手を乗せる。そして、
「雨の中、あれを持って歩くんですか?」
私は入り口付近に立てかけられたサーフボードを指さした。
「ちょっとくらい遅刻したくらいで怒り出すような男なら別れた方がいいです。心に余裕がない男はダメです」
と祖母が言う。
「そ、そうですか」
と言った林さんの表情は冴えない。
雨が一段ときつく降り始めてきた。
林さんの表情は暗くなる一方で、一刻でも早く恭介に会いたい気持ちに、心が締め付けられる。でも、林さんの命を助けられるのは、私と祖母しかいない。
「実は手相を見るのが得意なんです」
と私は口から出まかせを言った。林さんの手を取り、
「神秘十字線と言って、この運命線と知能線を結ぶ横線に縦線が交差して十字になっている人は、運命の人を探し出す力があるとされているの」
と適当なことを言った。恭介にこの手相があることを私は知っている。
「私には無いですね」と林さんは自分の手相を覗き込んだ時だった。
ふと視線を感じると店に見覚えのある人物が入店して来た。
恭介。思わず、心の中で名前を呼んだ。首から一眼レフを下げていた。
こちらを窺いながら席に着いた。
私は勘が働いた。
「あの、さっきから向こうにいる男子、林さんのことをチラチラとみているけれど、お知合いですか?」
私は助け舟を出す。
林さんは顔を向ける。
「木立くん」と声を漏らした。
私は席を立ち、彼を手招きする。
「どうぞ、どうぞお座りになって」と祖母が恭介に隣の席を促す。
彼を林さんの対面に座らせた。
「もしかして、この彼が噂の初デートの相手ですね」
と私は冷やかすように林さんに言うと、顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。
「すいません。お邪魔でしたら、すぐに席を移動しますんで」
と居心地悪そうに恭介が言った。
「彩芽ちゃーん」と遠くの席から声がした。
祖母だった。私はすぐに勘が働き、祖母が座る席に移動した。
「お婆ちゃん、素敵な彼氏でしょ」
祖母に彼氏を紹介することが出来て良かった。
窓の外は一段と激しく雨が降っていた。
ふと恭介がいる方に視線を向けると2人が手招きしていた。
無事、告白の返事は出来たようだった。
「この間、公園のベンチでお会いしましたよね?」
「あ、はい」
「告白の方はどうでしたか?」
この展開は予定外だった。すっかり忘れていた。
「これも偶然ですか」と林さんは驚きの表情を見せる。
「それより彼氏さん手相を見せて貰えますか?」
恭介は私に手のひらを差し出した。
「ほら、林さん、彼、神秘十字線あります」
「その手相があったら、どうなんですか?」
「運命の人を手繰り寄せる力がある人らしいです。でも私にはありません」
林さんが残念そうに言った。
「どれどれ、林さんの手相見せてみて」
恭介は林さんの手相を見つめる。
「ありがとう、お婆ちゃん」
私は祖母にだけ聞こえるように、言った。
祖母は私を見ながら何度も頷いた。
18歳の恭平を見納める。
本当にありがとう。もう1度、祖母に合わせてくれて。
「森平さん、手相見せて貰っていいですか?」
林さんが私の手に触れる。
「すごい、すごい、木立くんと同じ手相がある」
と言った林さんの屈託のない笑顔を見て、この人なら恭介と幸せになれると心から思った。
「お2人さん、こっち向いて」
斜め向かいの席に座る恭介が一眼レフカメラのファインダーを覗いていた。
林さんは私の手を触れながら優しい笑顔を作る。
恭介がシャッターを切った瞬間、雷鳴がとどろき、林さんが「きゃ」と悲鳴を上げた声だけが私の意識に届いた。店内の明かりが一瞬暗くなる。そして、私の意識が薄れていくのがわかった。
意識の遠くから心地よい音がする。
まるで小鳥がさえずるように雨音が聞こえる。
私はゆっくりと目を開ける。見覚えがある風景が視界に広がる。
私は今、レイングッツショップ「今日は雨曜日」の店内の椅子に座っていた。
私が2025年を離れたのは、たった8日間。世の中の出来事なんて大して変わっていない。
でも、私は自分の過去を変えてしまった。
正直、どれだけ私の未来が変っているのか想像もつかなかった。
正直、怖かった。私の知らない人が、私のことを知っている世界線。
ひとつだけ確かなこと。それは、もう木立恭介は私の恋人ではないこと。
受け入れるのは時間が掛かりそうだった。上手く対応できないとこれからの人生に差支えがでそうなので、とりあえず、スマホの電源を落とした。
少しずつ順応していこうと決めた。壁掛けの時計を見る。もうすぐお昼の12時。
あっ。思わず声が漏れた。
店の端に、見覚えのあるものが立てかけられていた。
それは祖母が購入してくれたサーフボードだった。
そして、1枚の写真が飾られてある。そこには2018年、18歳だった頃の私と林さんが笑顔で映っていた。もちろん、その写真を撮ったのは恭介だ。
記憶は書き換えられていない。ありがとう、お婆ちゃん。
店の1階は店舗と置くには小さなキッチン、トイレ、風呂。
2階がダイニングキッチンと寝室と物置という間取り。
今日、お店は休みにしようと思う。私は2階へ上がり、テレビを点けた。スポーツコーナーで、ドジャーズの大谷が四年連続40号のホームランを打っていた。
「次の話題です。昨日発表がありました第173回芥川賞、直木賞の結果「受賞者なし」のという発表に書店業界も衝撃がまだ収まらないようです。その様子をお伝えします」
女性アナウンサーが興奮気味に伝える。
「芥川賞候補に挙がった1人、林未来さんのインタビューをどうぞ」
次の瞬間、私はテレビの前へ駆け出した。私が知っている18歳の林さんが7年の時を経て画面越しに再会した。
良かった、良かった。林さんの素敵な未来に思わず涙が溢れる。
店の呼び鈴が鳴った。宅配便だろうか。階段を駆け下りドアを開けると見覚えある女性が立っていた。
「お久しぶりです」
と言った彼女は、あの日と同じように浴衣を着ている。
「中へどうぞ」
「ありがとうございます」
私の頭の中は混乱していた。数分前はまだ幼さが残った女の子から立派な女性に変貌した林さんが目の前にいる。頭を整理する必要があった。
「今日、ここに来たのは、おばあさまに頼まれていたからです。記憶が足りない部分を埋めてあげて欲しいって。もちろん、了承しました。あなたは私の命の恩人ですから」
林さんはそう言ってニッコリと微笑む。その笑顔は7年経っても変わらず可愛い。
恭介が好きなるのもわかった。
「あの、とても言いにくいのですが、恭介さんの記憶の中に彩芽さんはいません」
「それは理解しています。あの林さんはタイムリープした記憶は残っているんですか?」
「はい。ただこの事実を知っているのは私と彩芽さんのおばあさまの二人だけです。
7年前のあの日、大きな雷が鳴ったあと急に彩芽さんが余所余所しくなってまるで、この場所に突然連れてこられたかのように。その瞬間、状況を悟りました。こちらに戻って来た彩芽さんの記憶は消えていることに」
「そうでしたか。あの・・・・・・恭介、いえ、木立さんは今、お元気で過ごしていますか?」
「はい」
林さんが満面の笑顔で答える。それは良かった。
「本当に彩芽さんには感謝しかありません。命を助けてくれ、そして、恭介さんと付き合うことが出来た。でも・・・・・・」と声のトーンが少し下がる。
「でも、なんですか?」
「でも、恭介さんとの交際期間は3年で終わります。これは仕方ないです。誰のせいでもないです」
「そ、そうですよね」と私は愛想笑いを作るが何て言葉を返せば良いか見つからないでいた。
しばらくこの店に雨の音だけが響いた。
「ある日、素敵なお店を見つけた。一緒に行こう」と恭介さんに誘われて来たのが、この店でした。その時、私の恋はもうすぐ終わるんだと思いました」
林さんは窓の外をじっと見つめながら言った。
「え、それはどういうことでしょうか?」
私には、まったく意味が分からなかった。
「やっぱり運命の人はいるんだなって。彩芽さんなら仕方ないって、思いました」
私なら?
「えっと、つまり・・・・・・今、恭介は、」
「彩芽さん、あなたが恭介さんの恋人です」
え!
思わず、店内に私の感嘆の声が響き渡る。
「彩芽さん、またこの店に伺います。今日、これから青空写生クラブが午後からありまして、それでは。あ、そうだそうだ。おばあさまも毎週参加されていますよ」
と林さんが矢継ぎ早に言った。
「ええ、祖母は生きてるんですか?」
「もちろん、えっもしかしてタイムリープしなければ・・・・・・」
「はい。私が大学2年生の時に」
「だからですね。おばあさま、ものすごく食事に気を付けています」
そう言った林さんは、笑いながらドアを開けて帰って行った。
窓の外は、すっかり雨は上がり、青空が広がっていた。
この1週間、とにかく色んなことがあり、疲れてしまった。
スマホの電源を入れると間もなくして、着信音が店に響く。
「もしもし彩芽、電話の電源が切れてたみたいだけど大丈夫?」
私は必死で涙をこらえながら返答した。
「恭介、私、大丈夫じゃないかも」
終
Side木立恭介 2020年7月26日 日曜日
今日は朝からあいにくの雨だった。
駅前の表通りを少し入った場所にあるカフェの窓際の席で、僕はコーヒーを脇にノートパ
ソコンを広げていた。
ガラスに面したカウンター席で、目の前の通りを透明な傘を差しながら行き交う人達を見ていた。
今日は日曜日ということもありスーツ姿の人は見かけない。でも、せっかくの休日を雨に台無しにされた人達の表情は気のせいかどこか暗い。誰もがお気に入りの靴を履けず、おあずけ。と言われた犬のような表情を作り通りに出来た大きな水たまりを避けていく。
今日、このカフェを選んだのは、そんなあいにくの雨の街を行き交う人達を観察して、何か良いアイデアが思いつけばと思ったからだった。
開いたノードパソコンのワード画面上には、
「6月の神様は、空から青色を奪う代わり、地上にカラフルな傘の花を咲かせる。もしよければ、あなたも一緒にキレイな花を街に咲かせませんか?」
と打ち込んだ文字が並んでいる。
それは僕が考えた、傘の販売促進のための広告のキャッチコピー案だった。
僕は今、大学2年生で今、インターンシップで広告代理店の企画部で働かせていただいている。3日後の水曜日が社内コンペの提出期限だった。と言っても実際コンペに参加する訳ではない。それはインターンに参加している学生内だけで開かれる。
安価な透明の傘に市場を奪われ、1年で最も傘が売れる梅雨の時期を前に広告を打つ。老舗の傘メーカー「フジムラ」からの去年の依頼だった。
昼前の窓ガラスに映る僕の表情は、そのキャッチコピーと同じぐらいパッとしていない。
この店に入ってもうすぐ1時間になろうとしていた。窓の外を眺めていても良いアイデアは浮かびそうにない。そんな時だった。
雨粒がついた窓ガラスに映る冴えない僕の表情の向こう側に突然、明らかにまわりの雰囲気とは違う空気感を出している女性が、表通りからこちらに向かって歩いてきた。
皆が避けて通る大きな水たまりを無邪気な子供のように直進していく。彼女は水色と白色の水玉模様の長靴を履いていた。お揃いであろうレインコートを着ている彼女は、たぶん僕と同じぐらいの年齢だろうか。まるでこの雨の日を楽しみにしていたように、目の前を通り過ぎて行く。彼女の後ろ姿からも、それがうかがえた。まるで今にもスキップをし始めそうだった。テーブルに置いた一眼レフカメラを手に取り、思わずシャッターを切った。
そして、気が付くと僕は前屈みになり、窓に顔を寄せ彼女の行方をしばらく追っていた。
すると彼女は、道をはさんだ通りに並ぶ建物の前で立ち止まり、ドアを開けて中に入っていった。
それから10分が過ぎ、20分が過ぎた。一向に雨は止む気配はなかった。そして、キーボードを打つ僕の指は、彼女を見かけてから1文字も打ち込めていない。
ノートパソコンを鞄に直し、首から一眼レフカメラを提げ、カフェを出た。黒い傘を広げると朝よりもきつく雨が傘を叩いている。彼女が入った店の前で、僕は立ちすくむ。傘に当たる雨音を聞きながら、この店のドアを開けることをしばし躊躇していたのだ。
その店には看板はなく、木製のドアには、丸いステンドグラスの窓があり、その下に提げられたプレートには【今日は雨曜日】と水色の文字で書かれていた。
僕は一眼レフカメラのファインダー越しに、
果たしてこれは店名だろうか。それともポエムなのだろうか。そして、一体、ここは何の店だろうか?と考えを巡らせる。扉の横には、切り絵のような立体的なペンギンの形をしたスチール製の置物がある。そこには1本だけ、水玉模様の傘が立てかけられており、それを被写体にしてシャッターを切った。
やっぱり、入らない方がいいのかもしれない。そう思った瞬間、僕の鼻先をほのかに甘い香りがくすぐった。それは、細く開いた、小さな擦りガラスの窓の隙間から漏れてきていた。
僕は、その甘い香りに誘われるように、可愛い傘立てに似合わない黒色の傘を差し込み、少し緊張感を持ちながら扉を開けた。
「いらっしゃいませ」と明るい声の方に目を向ける。そこには先ほど長靴を履いていた女性が僕に微笑みかけていた。
が、すぐに彼女の表情が強張った。気のせいだろうか。いや、やっぱり僕はこの店に招かれざる客なのだろうか。
何気なく辺りを見回すが「男子禁制」とは表記されていない。
この店が一体何の店か分からずに入店した僕の方も迂闊だった。
こちらの緊張感が伝わらないように、もう一度、見回してみる。
店内は僕が知らないカラフルな物で溢れていた。この店は雑貨屋さんのようだった。基本、仕事机の上にはノートパソコン以外、何も置かない主義の僕とは対照的に、きっとネット通販の事務手続きをしているだろうデスクの上のノートパソコンの周りには、雑貨達で埋め尽くされていた。
店内を1周し、改めて、今日の僕の服装上下、モノトーンのスタイルが場違いだと実感した。
「な、何かお探しですか?」
話しかけてきた彼女の声から緊張感が伝わってきた。
そして、突然の言葉に僕は焦った。探しているものなど何もなかったからだ。咄嗟に出た言葉は、
「さっき、偶然、あなたを店の前でお見掛けしたんです。あのレインコートと長靴はお揃いですか?」
だった。ヘンテコな言葉だと思った。
「あ、そうだったんですね」
と少し安堵に似た言葉が彼女から漏れる。
「そうです。お揃いです。今日、はじめて着たんです。雨の日が待ち遠しくて、待ち遠しくて」と、ようやくの雨降りに鳴き声を上げる雨蛙のような軽やかな声色だった。
「今、そのレインコートと長靴は大変、人気がありまして入荷待ち状態なんです」
「そ、そうなんですか。あの、このお店は雨に関する商品が多い気がするんですが」
「そうなんです。実は私、小さい頃から雨が好きで、レイングッツshopをはじめてしまいました」
レイングッツshop?僕の頭の中で大きな疑問符が浮かぶ。初めて聞く言葉のような気がした。きっと僕が腑に落ちない表情をしていたのだろう。
「雨具専門店です」と彼女が和訳した。
「以前はここで祖母が雑貨屋さんをやっていたんですけど、私が継いでやっています」
彼女はそう言い終えるとニッコリと微笑んだ。
「これは何ですか?」
僕は握りこぶしサイズのカエルの形をした商品を手に取る。
「それは自転車に付けるライトです。雨の日ってあまり自転車に乗りたくないですか。でも、これをハンドルに付けるとこのライトが地面を弾く雨に反射して、人工の虹を作ってくれるんです。自分だけが通る道に虹が作れるんですよ。雨の日がワクワクしませんか?」
彼女は両肩を上げ下げして、ワクワク感を表現している。
「ワクワクしますね」
と言いながら僕は商品を元の場所に戻した。
「難点は、ちょっとお値段がしますよね」
と彼女が苦笑いを浮かべる。
「でも、こんなに雨が好きな人にはじめて出会いました。だって雨なんてほとんどの人が――」
嫌い。と言いかけたところで彼女の顔が曇ったような気がして、やめた。
「す、すみません。変なことを言ってしまって」
「いいんです。いいんです。よく言われますから、ぜんぜん気にしてませんよ。私、物心が付く前から雨が好きだったようです」
といたずらぽっく微笑む彼女。
店内には薄く音楽が流れている。今まで気が付かなかったが、どれも雨にまつわる音楽だと気が付いた。彼女はテーブルからカエル型のライトを手に取り、ゆっくりと話し始めた。
「私、小さな頃からずっと偉い人に言いたいことがあるんですね。よく天気予報士の人が「今日はあいにくの雨です」っていう表現を使うじゃないですか。どうしてあいにくの雨なんだろうって。別に今日は雨です。で良くないですか?」
僕は今から1時間前、あいにくの雨という表現をしていたことを思い出し、視線をそらした。
「まあ、でも「あいにく」って表現を使いたい気持ちも分かりますよ。雨が降ったら出来なくなることも知っています。でも、逆に雨の日しかできないことがあったとしたら、雨の日はいまより少しでも好きになれると思うんです私」
「雨の日だけですか」
「はい、たとえばこの店の営業日は雨の日だけです」
僕は苦笑いを浮かべ、「冗談ですよね」と言った。
「本当です」と彼女が真顔で答える。
「ネットショップもありますし、あと私には本業がありますて」
と彼女は笑顔で言った。
「本業?」
「はい。私、今、20歳で大学2年生、美大に通っています。今は夏休みですけど」
「あ、僕も同じ、大学2年生でインターン中です」
そう言い終わるとほぼ同じくらいに、細く開いた窓の外の雨脚が強く鳴る音が聞こえてきた。
「あ、あ、あの、私のこと覚えていますか?」
その言葉は何の脈絡もなく、突然だった。
僕には彼女が初対面だと思っていたが、彼女はそうではなかったみたいだ。
だから僕が入店した時に、一瞬表情が強張ったような気がしたのは顔見知りだと思ったから。だとしたら、どれくらい前の知り合いだろうか。彼女の顔をじっと見つめるが思い出せない。それより、今頃になって彼女が美人だということに気が付く。
思わず、目を逸らしてしまう。
「やっぱり覚えていませんよね。当然です。当然です。一瞬の出来事でしたから」
と彼女は無理に声のトーンを上げる。一瞬の出来事?
「す、すいません。いつぐらいの頃ですか?」
「2年前の7月。7月23日の月曜日の朝です。あの日も雨が降っていました」
具体的な日時まで覚えているということは、彼女にとってなにか特別な日だったのだろうか2年前。2か月前ならともかく何も思い出せない。
でも、待てよ。たしか2年前の7月23日と言えば・・・・・・林さんに再会した日。
いや、その前の週の月曜日。
その週の日曜日。僕は高校卒業以来、偶然、オフィス街で林さんと遭遇した。
林さんは、とても本が好きな女の子で、その日も本を読みながら誰もいないオフィス街を歩いていた。
その日、僕は頼まれていた温かみのある休日のオフィス街の写真を撮っていた。
首元を見下ろす。
そうだ。あの日も一眼レフカメラを首から提げていた。
林さんは、その日はバイトでお昼休みにランチに向かって歩いていた。
そして、僕達は偶然、ぶつかり、食事を共にすることになる。
その日、突然の雨にあった。
駅までの帰り道、相合傘の中で僕は林さんへの想いに気が付いた。
そして、告白した。
返事は1週間後。もし、付き合ってくれるなら、毎年、8月第1日曜日に開催されるある花火大会に一緒に行こう。と誘った。待ち合わせ場所の洋食屋に、林さんは来なかった。
当然だった。
林さんは、本が好きな女の子だった。高校生の頃、僕に興味がある素振りなんて1度もなかった。僕が写した写真の中の林さんは、いつも本を読んでいた。
淡い初恋の思い出。
「ヒント、電車の中です」
雨が好きな女の子の声が僕を現実に戻す。朝の電車の中?
僕が腕組み思案していると彼女は耳に手を当てる仕草を付け加えた。
あ、思い出した。
そう、あの日も朝から雨が降っていた。
前日、友人の家で泊まり、朝の通勤時間の満員電車に乗り、家に戻ろうとしていた。
その時の情景がおぼろげに蘇ってくる。
僕は出入口付近に立ち、つり革につかまっていた。
その前に彼女が座っていた。
隣の席の人が膝の上に置いた大きな鞄を覗き込み、1冊の本を取り出そうとした時だった。
彼女が耳に付けたコードレスイヤホンを操作しようとしていた手に辺り、イヤホンが転げ落ちた。それを僕は拾い、彼女に渡した。
「思い出した、あの日の彼女が君か」
僕がそう言うと彼女は笑顔で大きく頷いた。
「私、あの日からずっとあなたのことを探していたんです。でも、全然再会できなくて」
「でも、どうして?」
「あの日、私テンパっていてあなたにお礼が言えなかったんです。それが心が痛くて、痛くて」
「そんなの気にしなくてもいいのに」
「良くないです。ようやくお礼が出来ます」
彼女はコホンと1つ咳ばらいをし。
「その節は、ありがとうございました」と深く頭を下げた。
顔を上げた彼女は
「あの、少しだけお時間ありますか?」と微笑む。
僕が戸惑いながらうなずくと店の奥に急ぎ足で下がった。
ほどなく彼女は現れ、僕に封筒を差し出し、
「ずっとあなたに渡せなかったもの。洗濯代です」と言い残し、またすぐに奥に引っ込んだ。
封筒を開くと1000円札が1枚入っていた。
少しすると店内に甘い匂いが立ち込めてきた。
店の奥から出て来た彼女に、僕は窓際に設けられたテーブル席に案内される。
「これどうぞ。雨の日だけのサービスです」
そう言うと彼女はテーブルの上に湯気が上がるマグカップを置いた。
すぐにそれが、この店から漏れていた甘い匂いの正体だとわかった。
暖かな、それを一口含むとやけに心が落ち着くような気がした。
「甘酒ですか?」
僕がそう言うと彼女がゆっくりとうなずく。
「でも、どうして甘酒なんですか?」
「これ内緒にしてくださいね」
彼女は人差し指をあご先に当てる。
「私、実は、雨が降る日がわかるんです。朝、目が覚めるとどんなに快晴であっても、今日は雨が降る。天気予報士も今日は洗濯日和です。って言っている日でも今日は雨が降る。
そんな私の勘、外れたことがないんです。不思議ですよね?」
と言って、彼女は僕に向かって微笑みかける。
「でも、それが特別な能力だとは思いませんでした。祖母も私と同様に、雨を予感が出来た人だからです。祖母からは生まれ持った体質だと言われていました。
世の中には、犬並みに嗅覚や聴覚が鋭い人間がいると訊きます。それに似た生まれ付いた体質らしいです。赤ちゃんの時、どんな泣いていても雨が降ると泣き止んだらしいです」
不思議と彼女が嘘や冗談を言っているようには思えなかった。
「世の中には、幽霊が見える人や超能力が使える人もいるみたいだし、特別それが不思議だと僕は思いませんけど」と僕は素直な意見をぶつける。
「そう思って貰えると助かります。私、今は東京に住んでますが、幼い頃は体が弱く、小学校に上がるまで祖母の故郷に住んでいました。祖母の家系は、雨の神様を祀る神社なんです。
私は、そこの湧き水を飲んで育ちました。なにか私の特異体質との因果関係があるんですかね」と彼女はイタズラっ子のような表情を見せた。
「テレビに調査依頼でもしてみますか?」
と僕が言うと、彼女はまた人差し指を唇に当てた。
「雨の神様を祀る神社の境内でも甘酒は飲めるんです。でも、表記は「甘い酒」ではなく、「空から降る酒、雨酒」。です。
今、飲まれている甘酒もその神社から湧き出る水を取り寄せて作っています」
そう説明された僕は手に持つ甘酒、いや雨酒をじっと見つめた。
店を出た僕は黒色の傘を広げ、駅までの道を歩きはじめる。通りに出来た大きな水たまりを小さな子供のようにぴょんと飛び越えた自分に驚く。
僕は首から提げた一眼レフカメラを片手で構え、水たまりを被写体にシャッターを切った。
今日は、キャッチコピーを考えるために来たのに、雨が好きな女の子と出会った。
少しだけ可笑しくなった。傘の下でクククと笑った声が雨音と重なる。
ふと、見上げた空から雨ではなく、いくつかの言葉が頭の中に降ってきた。
『音楽は良質のスピーカーで聴きたい。雨音はフジムラの傘の下で聴きたい。』
出来はどうだろうか。わからない。スマホ取り出し、天気予報を確認する。
今週は1週間、晴マークが並んでいた。
営業日は雨の日だけの不思議な店「今日は雨曜日」。今度雨が降ったら、甘酒、いや、雨酒を飲みに行こうと思った。
5年後
Side木立恭介 2025年7月27日 日曜日
1
猫カフェに1匹チワワが在籍するように、閑静な住宅街にそのコインパーキングはあった。
横並びの5台中すでに4台が停められており、僕は空いている右端に車を停めた。運転席のすぐ隣に見える民家には、閉めた窓からでも匂ってきそうなほどたくさんの種類の花が育てられている。蝶々がひらひらと飛んでいた。
僕は助手席に置いていた学生時代から愛用している一眼レフカメラを首から提げ、車を降りた。暑い。思わず、声が出た。冷房の効いている車内ではそれほど気にならなかったが、半袖のワイシャツの上から着ている、胸と背中に会社名が印字された薄手のジャンバーのせいで尚更のこと暑かった。リュックを背負いながら空を見上げると入道雲が出ていた。一雨来そうな気配がしていた。
5分ほど歩いたところに、目的地のカタツムリ商店街があった。
その商店街は、東西に約300メートル伸び、100近いお店が建ち並んでいる。今僕がくぐり抜けた東口ゲートの端には、イベント用のパイプテントが設置されていた。僕はカメラのファインダーを覗き、紅白の横幕が張られた福引の抽選会場に向かって、カシャリ。シャッターを切った。
僕は小さな出版社で働いている。入社2年目。今日、ここに来た理由は、このカタツムリ商店街をタウン情報誌に紹介するための取材だった。ちなみに撮影や記事の執筆、編集すべて1人でこなさなければいけない。事前に撮影許可は貰っていた。日曜日ということもあり、商店街は賑やかだ。良い写真が撮れそうだった。念のために「撮影中」と書かれた腕章を腕に巻いている。
この商店街に来たのは、1ヵ月ぶりだった。実はこの町に大学生だった頃から合わせて計6年、1か月前まで住んでいた。僕は築50年になる6畳一間風呂なし木造アパートがお気に入りだった。でも、そのアパートは老朽化により1か月前に取り壊され、今は隣の町に住んでいる。
商店街にはアーケードはなく、ジリジリと焼けつくような夏の陽射しに、汗が首筋を何度も伝った。うるさいくらいに蝉が鳴いていた。ハンカチで拭っているとアスファルトの地面に落ちている小さな紙に目が留まった。僕はレンズを向ける。それはこの商店街で100円の買い物につき1枚もらえる切手サイズのスタンプで、可愛いカタツムリのイラストが描かれていた。カシャリ。僕はシャッターを切るとそれをワイシャツの胸ポケットにしまった。
2
僕は首から提げた一眼レフカメラを手に持ちながら、西口に向かってカタツムリ商店街を歩き始めた。
今はまだ早い時間帯とあって、肉屋「ハヤシ」が店先で揚げ立てのコロッケを売っているスペースに列は出来ていなかった。顔見知りの店員さんに声を掛け、カメラのレンズを向けるとコロッケを顔の横に持っていきニコリと笑ってくれた。ここのコロッケは人気があって夕暮れ時になるとずらりと列が出来る。揚げたてのコロッケを食べながらアパートまで帰ったものだった。ファインダー越しに思い出が蘇ってくる。
今はマンションの1階にあるコンビニで済ませることが多くなった。
朝、パジャマのままで天候を気にせずに買いに行ける便利さはあるが、肉屋「ハヤシ」のコロッケのようにいつか懐かしく思い出を振り返ることはない。
1個80円のコロッケを2つ注文したら、肉屋「ハヤシ」の大将に、「今日はいいよ。お代は」と言われた「払います。払います」と言っても代金は受け取って貰えなかった。取材をしていると時々こういうことはある。そんな時は、うちの会社名が入った手のひらサイズのメモ帳を渡すことにしている。いわゆるノベルティーグッズだ。背中からリュックを下し、中を覗くと、あれ?
ノベルティーが入っていないことに気が付いた。
「すいません。あとで、また来ます」
僕はそう言い残し、商店街をまた東口に向かって歩き出した。車のトランクに置いている紙袋の中に、まだたくさんノベルティーがあったことを思い出したのだ。商店街を抜け、速足で歩いていると首から提げる一眼レフカメラのレンズにポタリと何かが落ちた音がした。空を見上げると今度は僕の頬に当たった。
やっぱりな。とため息交じりで口にした僕は、コインパーキングまで駆けだした。
慌てて車内に入ると助手席に一眼レフカメラを置き、車のエンジンをかけた。肩先を濡らしたジャンバーを脱ぎながら、車を激しく叩きはじめた雨に舌打ちをした。
今朝、スマホを見た時は降水確率10%だったはずなのに。
思わず愚痴が漏れた。
次の瞬間だった。ふと俺の頭の中で、同時に2人の女性が話しかけてきた。
1人は「ねっ雨が降るって言ったでしょ」
もう1人は「10%の雨予報だったのに!」
予報外れの雨の日は、時々、彼女たちの記憶を同時に連れて来る。
鞄からタオルを取り出し、カメラと髪を拭った。ワイシャツはジャンバーのおかげで濡れていなかった。そのとき、ふとポケットに入れたスタンプのことを思い出した。雨はしばらく止みそうにないらしい。僕は車のシートを少し倒し、取り出したカタツムリのイラストのスタンプを眺めた。
それを貼る台紙は薄紫色の更紙で、紫陽花のイラストの上から20のマス目が付いている。
スタンプは100円で1枚貰える。つまり2000円で1回、福引のガラガラを回せることになる。台紙には紫陽花が3本、その下に葉っぱが描かれていて、ちょうどその上を1マスずつにカタツムリのスタンプを1枚貼っていく。
築50年のアパートのちゃぶ台を挟み、いつも小さなスタンプの裏にスティック糊を付けるのは、恋人の彩芽の役目だった。それをマス目に合わせて、貼っていくのが僕の役目だった。
3年前の夏。2020年、東京でオリンピックが開催された年。
僕は1人の女性と偶然、雨の日に会った。名前は森平彩芽。
年は僕と同じで、雨が好きな女の子。
誰もがうつむき歩く雨の日、彼女はレインコートを着て楽しそうに歩いていた。
そして、レイングッツ専門のお店の主だった。そこは雨の日だけ営業する変わった店。
彼女と偶然出会った日から1週間後、毎年8月第1週目の日曜日に開催される花火大会に大学時代の友達数人と行った。そこに、彼女も女友達と来ていたのだった。
偶然の再会だった。
「私、1年で唯一テルテル坊主を吊るすんです」と彼女は笑いながら言った。
絶好の雨日和。僕は雨が降ると彼女の店に行った。
「甘酒が美味しくて」と言っていたが、嘘だった。彼女の魅力にひかれていったのだ。
そして、1年後、2021年の夏、8月最初に開かれた花火大会で僕は彼女に交際を申し込んだ。彼女は大学を卒業し、イラストレーターとして働くようになり、実家を出て1人暮らしを始めた。僕はカタツムリ商店街の東口付近に住んでいて、彼女は西口近くにアパートを借りた。お互いの家を行き来した。
彼女が住むアパートはカタツムリ商店西口から徒歩3分ほどの場所にあった。彼女の住むアパートは築年数が浅く出窓があった。当時の僕は貧乏学生で築50年の木造アパートに住んでいた。申し訳程度の台所が付いた、6畳一間の和室。
彼女が部屋に泊まりに来るたびに、少しずつ、少しずつ物が増えていった。
鍋に始まり、フライパン、まな板、調味料。商店街で、楽しそうに日用雑貨を買い揃える彼女の横顔を見ていると、まるで、お飯事を楽しむ小さな女の子のように思えたものだった。
たった1枚のスタンプを見ながら、このカタツムリ商店街で過ごした色々な思い出が蘇ってきた。
老朽化に伴いアパートを取り壊すことが決まっていた。
彼女が一緒に住もうと提案してくれた。嬉しかった。でも、僕はその提案に素直には頷けなかった。それには、ある原因があった。
数か月前、久しぶりに実家に戻り、母からの頼まれごとのために商店街を歩いている時だった。林金物店の前を通りかかったとき、店から1人の女性が出て来た。
思わず、心臓が口から飛び出す感覚をはじめて味わった。
数日前、僕は、ある噂話を耳にしていた。それは林さんが事故で亡くなっていたことだった。それも3年前。全然知らなかった。
「もしかして、木立くん?」
その女性が声を掛けて来た。
「はい」
その女性はどことなく林さんに似ていて、すぐに母親だと気が付いた。
林さんとは小学校は別で中学、高校と地元の学校に通っていたが同じクラスには1度もなったことがなかった。
どうして僕のことを知っているんだろう。そんな表情を浮かべていると
「もしよかったら、娘に会って行ってくれない?」と言われた。
僕は、その言葉の意味をすぐに理解した。
笑顔で映る林さんの遺影の前で、今まで亡くなったことを知らなかった自分を強く恥じた。
「ごめんなさいね。迷ってたんだけれど、娘の供養だと思って」
そう言うとおばさんは、蓋の部分が水玉模様になった円筒型の水色の箱を僕の前に置いた。
「娘の死を受け入れられなくて、部屋は、あの日のままにしてあったんだけれど、最近整理始めたのね。娘の知らない一面を見ることが出来た。あの子、いつも本ばかり読んでいたから。てっきり恋なんてしないもんだから」と言ってケースを開け、中身を僕に差し出した。
それは宛名のない封筒だった。
「未来、あなたに一度も出すことは出来なかったみたいね」
それはすべて僕宛てのラブレターだった。正直、林さんが僕のことを好きだなんて想像もしていなかった。
「いつ娘さんは亡くなられたんですか?」
「5年前の8月。花火大会当日だった。朝から浴衣を着てね。その日はあの子のバイト先の給料日で、その恰好で行くのって言ったら「うん」って楽しそうに出て行ったわ。花火大会何て今まで全く興味が無かった子だったのに。それがまさか最後になるなんて」
おばさんは、こらえきれず涙をこぼした。
自分の身体の震えが止まらなかった。
5年前、僕がまだ18歳、大学1年生だった8月第1日曜日。
待ち合わせした場所に、林さんは来なかった。
僕はてっきりフラれたと思っていた。当然だと思った。でも、違った。
林さんは来なかった訳じゃなかった。来れなかったのだ。
「娘さんはどのような事故に遭われたんでしょうか」
「突然の大雨の中、落雷に遭った。
即死だったそうです。目撃者の情報によると未来は大きなサーフボードを抱えて走っていたそうです。その理由は今でも分かりません」
「サーフボードに雷が落ちたんですか?」
「いえ、沿道の大きな木に雷が落ち、傍を走っていた未来は運悪く感電したようです。事件性はないそうです」
約束したあの日、林さんは僕と待ち合わせの洋食屋に向かっていた。
僕が花火大会に行こうなんて言わなければ、事故に遭うこともなかった。
俺のせいだ。林さんを殺したのは。でも、そんなこと林さんのお母さんには言えなかった。
それからの日々は、苦しかった。
自分1人だけが幸せになっていいのか。あの日、僕に出会わなければ林さんにも素敵な未来があった。すぐに彩芽が俺の異変に気が付いた。
時々、寝言で泣きながら、林さんの名前を呼んで謝っていたらしい。
そんな状態で彼女を幸せに出来るのか不安だった。
彩芽に出来事のすべてを正直に話した。彩芽も理解してくれた。
僕自身、少し時間が欲しかった。心の整理する時間が欲しかった。
4
あいかわらず、雨が車を激しく叩いていた。
僕は運転席のシートをさらに半分ほど倒し、お気に入りの新車の天井を見上げた。購入してからまだ2週間しか経っていない人生初のマイカーだった。引っ越した新築マンションには屋内駐車場があった。築50年のアパートには自転車置き場もなかったけれども。今日の仕事は、直行直帰だったので自家用車でこの町に来た。
実は、このコインパーキングには、ずっと来たいと思っていた。
タウン情報誌に紹介するような、野良猫が十数匹棲みついているとかそんな特徴があるものではない。日本中どこにでもあるコインパーキングだった。でも、僕と彼女にとってこの場所は、かけがえのない場所だった。
この町を出てから1ヵ月。あっという間だった気がする。
会社までの通勤も電車の乗り替えがなくなったぶん楽になったし、部屋も広くなった。寝室もある。木造アパートに住んでいた時は折り畳み式のパイプベッドだったけれど、今は結構値が張る大き目のベッドを買った。ふかふかだ。寝返りを打つたびにきしむことはもうない。
このコインパーキングは、元々、僕が住んでいた築50年の木造アパートがあった場所で、今、この自家用車を停めている場所が僕と彼女の思い出の場所、101号室木造アパートの6畳一間だった。
僕が今、運転席に座っているこの場所に、折り畳み式のパイプベッドを置いていた。
心地よい春の朝、僕が目を覚ますと彼女は、ベッドのすぐ傍にあるすりガラスの窓を開け、隣の民家の花を眺めていた。
「花のある生活って、いいよね」
彼女の言葉が鮮明に蘇ってくる。もちろん、それは僕達の花ではないけれども。彼女と付き合うまでその窓ガラスは隣の民家と近いこともあり、開かずの窓だった。でも、彼女と付き合い始め薄暗かった6畳一間が花のある部屋にかわった。僕は窓の外に目をやる。隣の民家の綺麗な花たちが激しく雨に打たれていた。
そのすりガラスの窓の反面には、置き型のクーラーがあった。それは前の住人が置いていた年代物でPanasonicではなくNationalと表記されていた。彼女は夏になるとそれの頭を撫でるように「今年も壊れないでよ」と乾いた雑巾で拭いていた。
激しく雨に打たれる車のフロントガラスに目を向ける。そこにはかつて一口のコンロしかない台所があった。秋になるとレトロなエプロンをした彼女が焼くサンマの煙に邪魔され「目が痛い」と言いながら、僕はテレビゲームをしていた。
上体を起こし、バックミラーで後部座席を見る。そこには電気ストーブを置いていた。安アパートは隙間風が酷く、冬は半てんはマストで2人寄り添い合いながら、テレビの漫才に笑い声をあげていた。
視線を助手席に向ける。そこには、彼女がリサイクルショップで見つけたちゃぶ台を置いていた。そこで僕達は台紙にスタンプを貼っていた。小さなスタンプの裏に、几帳面な彼女がスティック糊を付ける。それをマス目に合わせて、不器用な僕が貼っていく。6畳一間には、そんなささやかな日常があった。
僕達は毎日いろんな話をした。でも、本当はもっと大切なことを話さなければいけなかったのかもしれない。今ならそう思える。そうすればもっと違う未来が僕達に待っていたのかもしれない。
そして、今、僕達の思い出などどこにも存在しなかったようにコインパーキングがあった。
運転席のシートを戻した僕は、スタンプをまた胸のポケットにしまう。
彼女は、今もこの町に住み、カタツムリ商店街を利用している。スタンプを集めてコツコツと台紙に貼っているのだろう。アパートを出て行ってから1度も会っていない。連絡も取っていなかった。だから、僕が車を購入したことも知らない。ふと思い出の中の彼女が僕に向かって、ちょこんと両手を差し出しているのが頭に浮かんだ。ワイシャツの胸ポケットを手で押える。
あげないよ。思い出の中の彼女は、いつも僕に微笑みかけてくれる。僕はスタンプをもう1度、手に取った。
彼女と出会ってから何十回もガラガラを回した。1回も4等以上は当たらなかった。でも、僕は気が付かなかっただけだった。本当はもっと大切なものにとっくに当選していたことに。
築50年のアパートのちゃぶ台を挟み、いつも小さなスタンプの裏にスティック糊を付けるのは、彼女の役目だった。それをマス目に合わせて、貼っていくのが僕の役目だった。
6畳一間にそんなお飯事のような日常があった。それが何よりの1等賞だったってことに今頃、気が付いた。どんなに悔やんでも、もう林さんは戻ってこない。
「娘のためにも素敵な人生を歩んで欲しい」
彼女の母親からの最後の言葉だった。
僕はスタンプをポケットにしまい一眼レフカメラを手に取る。ファインダーから予報外れの雨を覗いた。雨は激しく車を叩く。シャッターを切った瞬間、轟音と共に雷が光った。
どこか近くに落ちたかもしれない。
僕は車のトランクから傘を取り出し、商店街に向かって駆け出した。
今、会わないともう2度と彩芽に会えなくなるような気がした。
雨のせいで人通りが少ないカタツムリ商店街を駆け抜ける。
今、彩芽が部屋にいるか分からない。それでも良かった。
鉄骨の外階段を駆け上がり、彩芽の部屋の呼び鈴を鳴らす。返答はなかった。
少し迷ったが、合鍵で部屋の中に入り、待たせてもらおうと思った。
玄関先には、ミニチュアのサボテンの数が増えていることに気が付く。
リビングに続くドアを開けるとすぐに異変に気が付いた。
ワンフロアの隅に置かれたベッドの傍の床に、倒れている人影が見えたのだ。
僕は駆け寄る。それはレインコートを着た彩芽だった。
彼女の背中に手を入れて上体をゆっくりと起こした。
「彩芽、彩芽」
名前を呼んだが目覚めない。
部屋は荒らされておらず、ただベランダに出る窓の下に置かれたマットが乱れていた。
息はしている。外傷はない。恐らく足を滑らせて、頭を強打して気絶したのだろう。
「彩芽、彩芽」
僕は呼びかけ続けると、うつろな目で僕を見上げる。良かった。
「大丈夫?」
目を覚ました彩芽がじっと僕の顔を見ている。
「あれ?ここはどこですか?」
彩芽は身体を自分で起こし、アタリを見回しながら言った。
「彩芽の部屋だよ」
たぶん頭を強打して記憶が曖昧なのだろう。
「アヤメの部屋?」
「そうだよ」
「木立くんは洋食屋さんにいるはずじゃないですか」
木立くん?どうして僕に対して敬語で話すのだろう。
この1ヵ月で距離が生まれた。
「ごめん、彩芽の気持ちも考えないで」
「ちょっと待ってください」
彩芽は手のひらをこちらに向けて僕の言葉を制した。
「アヤメって何ですか?」
えっそれは、名前で呼ばないで欲しいってこと?そんなに嫌われてしまった。
「ご、ごめん。森平・・・・・・さん」
「森平さん?」
彩芽がつぶやく。どうすれば許してくれるんだ。
「あれ、木立くん、今日そんなジャンバー着ていました?たしか黒のポロシャツだったはず、えっ髪切りました?」
ん?えっもしかして、記憶喪失。
「いや、俺、ジャンパーだし、髪は切ってない。それに今日は会ってないよ。彩芽に」
僕がそう言うと
「えっ何これ?」
彩芽は自分が着ているレインコートを見ている。
「えっ私は今日、制服を着てたはず」
彩芽は窓の外に目を向ける
「雨・・・・・・」
彩芽は手を叩く。
「そうだ。私は傘を取りに職場に向かった。その途中で呼び止められ、
スマホを落としたことに気づき、受け取った。その時までの記憶はある」
彩芽は立ち上がり、木製フレームの全身鏡に映る自分を見つめた。
「えっ誰!?」
彩芽は鏡に向かって叫んだ。
嘘だろ。自分の容姿も忘れてしまったのか。
「えっ私じゃない、でも、この女の子、知ってるかも」
そう言って彩芽は鏡に近づき、顔の角度を変えて何かを確認している。
「彩芽だよ。君の顔に間違いない。君の名前は森平彩芽」
僕は言う。
「違う。違います。だって私は、林未来」
えっ。林未来。もしかして、彩芽、僕のことからかってる?
っていうか。相当怒っているのか。
「やっぱり、少し雰囲気が変わったけれど、間違いない。さっき私にスマホを拾ってくれた子だ」
でも、冗談を言っている雰囲気はない。
「木立くん、どうしよう。信じて貰えないと思うけれど、私、林未来です」
今にも泣き出しそうな表情で、彼女が言った。
1日目 side森平彩芽 2025年7月27日 日曜日
今日は雨が降る予感がしていた。
朝からうるさいくらいに蝉が鳴いている快晴の日曜日。
私は木製フレームの全身鏡の前で、レインコートを着てポージングを決めていた。
まだ雨は降っていない。
本格的にイラストレーターとして働き始めて4年目。
ついに念願だった私のデザインしたイラストが使われたレインコートが完成したのだ。
今日はお披露目会。と言っても、ただ私が住む部屋の近くにあるカタツムリ商店街で買い物をするだけなのだけれど。
私の雨予報は当たる。天気予報よりも正確に。
私はカタツムリ商店街の西側入り口から少し離れたアパートに一人暮らしをしている。
築40年の古いアパートをフルリノベーションし、デザイナーズアパートとして生まれ変わった物件。雨の日は気分が高揚する。
今日本で、雨降りの日を指折り数えて待つ人は何人いるだろうか?と思う。
お気に入りのレインコート。新作。イラストレーターとして働くようになって3年。
新作のレインコートは私がデザインした。水色地に黄色の水玉模様。よく見ると数個水玉模様の中に黄色のテントウムシが混じっている。私の予想はやっぱり当たった。
私は仕事机に座りながら、強く降り出した雨を見ていた。でも恐らく30分ほどで止むだろう。そんなことまでわかる。物心が付く前から備わっていた特技。
10日後には雑誌の挿絵として依頼された秋野菜のイラストの〆切があった。
今日店はお休みにしよう。でも、雨の日はつい出かけたくなってしまう。
遠くで雷が鳴った。テンションが上がる。
雨上がりの虹を見ると幸せになるように、私は雷を聞くと小さな頃から嬉しくなった。
壁に貼られたカレンダーをめくる。
8月5日。恭介と花火大会。とある。2025年カレンダーを買って1番目に入れた予定。
花火大会は毎年、8月第1日曜日か開催される。
出会ってこれまで5回、今年で6回目だったはずだった。
私と恭介の交際のきっかけでもあり、告白された日でもある。
テーブルには一筆箋。
「今、出ています。帰って来るので待っていてください 彩芽」と書き残した。
今日は恋人の恭介が来る予感がしていた。ただ3日前もそんな予感がしていたけれど、結局来なかった。雨予報みたいにはうまくいかないようだ。1ヵ月前まで私が住む商店街の東側に恋人の木立恭介が住んでいた。老朽化に伴い、取り壊され、今はコインパーキングになっている。一緒に住もうと提案したけれど、彼はうなずかなかった。私はまた彼を苦しめてしまったのかもしれない。彼の心の中には、私の他に違う人がいることは知っている。
消せない過去。それは同時に私も抱える闇。
彼は言った。「彼女を殺したのは俺だ」と。でも、違う。
本当は、彼女を殺したのは私かもしれない。
彼と出会ったのは、18歳の時。
当時、私は美術大1年生で朝のラッシュ時の車内でドア横の席に座っていた私は、ワイヤレスイヤホンを落としてしまった。
運悪く、身動きが取れないほど込み合うドア側に向かって転がり落ち、間もなく次の駅に到着するところだった。それは母親が大学入学祝いに買ってくれた少し値が張るもので、私は顔を強張らせることしかできなかった。そんな時だった。目の前に立っていたベージュのチノパンを履いた背の高い男性がその場で両膝をつき、乗客の脚と脚の隙間に左腕を伸ばした。周囲の冷たい視線や舌打ちも聞こえる中、彼は自分の落とし物のように、拾いあげた。
「はい、どうぞ」きっと大学生、同じくらいの年齢だろう。
あんなに胸が高鳴ったのは、生まれて初めての経験だった。
私が落としたコードレスイヤホンを拾い上げ、彼が左手で差し出したとき、私の心臓の音がイヤホンから聴こえているのではと思うぐらいに、胸が高鳴っていた。
彼の声は、私にとって地球上のどんなメロディよりあたたかく心に届いた。
それなのに私は・・・・・・。
次の日から私は、車内でイヤホンをすることを止めた。それは落とすのが怖いのではなく、もう1度、彼に会って、ちゃんとお礼を伝えたかったからだ。
あの日、朝から強い雨が降っていた。地下鉄なので窓は濡れていないけれど、床は傘から垂れた雨が小さな水たまりを作り、膝をついた彼のズボンは汚れてしまっていた。それなのに私はただ彼に見惚れるだけで、頭を下げることさえしなかった。後悔していた。あの日から私は封筒に洗濯代を入れて、鞄の中に持ち歩いていた。
けれど、彼を見つけることは出来ないでいた。その日から私は彼を探した。
始発駅から乗車する私は席に座りながら、1駅、1駅、東京の夜空に星座を見つけるように、彼を探した。
でも、なかなか見つからなかった。車両や少し時間帯をかえたり、彼が降りた駅のホームで探したり、改札口で待ったこともあった。それでも再会することはなかった。
時間が経てば、イヤホンの出来事は、記憶の中に沈殿していくものかと思っていたけれど、いつになっても私の記憶の1番上でプカプカと浮いていた。それが恋心だと気が付くのに時間はかからなかった。もう1度彼に会いたい。
お守りのように鞄の中に忍ばせた洗濯代の入った封筒は、それから2年後、20歳の時に偶然訪れた。
私はすぐに気が付いたけれど、彼は当然覚えていなかった。
それから偶然が続き、私達は付き合うことになる。
そして、数か月前、彼から衝撃的な言葉を耳にすることになる。
彼が好きだった女の子が事故に遭い、亡くなっていたことを。
彼は自分を責め続けていた。
俺が花火大会に誘わなければ、彼女の未来を奪うことはなかったと。
私はいつまでも待つことに決めている。彼が戻ってくる日まで。
あの日、雨が降らなければ。雷が落ちなければ。
私に出来ることは、彼を待つことだけだろうか。他に何か出来ることはないだろうか。
窓の外を見ていると雷が強く光った。次の瞬間、目の前が暗くなり、すぐに轟音がとどろいた。近くで雷が落ちたかもしれない。
ゆっくりと目を開けると目の前には傘を差し、地べたに尻餅をつく制服を着た女の子がいた。え。思わず、声が出た。誰?
今さっきまで私は自分の部屋に居たはずだけれど、ここは一体どこだ。
雨が私を濡らしていた。私はレインコートを着ている。
でも、これは私がさっきまで着ていたレインコートではなかった。
見覚えはあるが、私がデザインしたイラストのレインコートではない。
なぜか右手には、見覚えのないスマートフォンが握られていた。
「すごい雷でしたね」
制服を着た女の子が私に話しかけてきた。どこかで見た記憶がある。
一体、どういう状況?
「すみません、ありがとうございます」
彼女は私からスマホを取り、頭をさげる。そして、ポケットから何かを取り出し、差し出した。
「グミです。お礼です。急ぎますんで。ありがとうございました」
女の子は私を置いて走り去って行った。
可愛い女の子、どこかで見たような気がする。でも、どこだっけ。
今、人気のアイドルグループに居たような気もする。
でも、私ここに居るんだ。見覚えがある風景。知っている場所。
今、わたしここで何してたっけ。
えっ自分の部屋にいたよな。
買い物に行こうとしていた。雨を見ていた。嬉しい気分になり出掛けようとしたところ。
ここはどこだ?見覚えがあるオフィス街。
でも、なぜ私がこの場所にいる。全く記憶がない。記憶喪失。正直、怖い。
時間が経つにつれ、違和感が増してきた。
斜め掛けする鞄。これ、学生時代に捨てたはずだったんだけどな。
チャックを開け、中身を確かめてみる。厚みがある封筒が入っていた。
中身を確かめると現金30万円が入っていた。全く記憶がない。
鞄からスマホを取り出すとiPhoneXだった。
これは私が大学の入学祝いに祖母が買って貰ったものだ。
混乱していた。とにかく私は場所を移動することにした。
駅前の電器屋のテレビでは、エンゼルス時代の大谷翔平がバッターボックスに立っていた。
今はドジャーズでホームラン争いをしている。
鏡に映る自分を見て驚愕する。か、髪が短い。ショートボブ。
いつのまに。えっ・・・・。
でも、いや、5分前までの記憶はロングヘアだ。
一体どういうこと?夢、今、私は夢の中にいるのか。
そうだ。きっとそうに違いない。
私は自分が営むレイングッツショップ「今日は雨曜日」に行こうと思った。
それにしてもリアルな夢だと思いながら、切符を買う。レインコートを脱ぎ改札を抜けた。
夏の日曜日の雨の昼下がり。各駅停車の電車には私を含め10人足らずの乗客しかいない。
電車の広告には『新築マンション2018冬完成予定』とある。
今は2025年夏。いつからこの広告は外されていないのだ。
店の最寄りの駅名を車掌が告げた時だった。
「あっママ、サンタさんだ!」
電車の7人掛け椅子の端に座る私から2人分離れた場所で、3才くらいの女の子が窓に鼻先を付けながらそう言った。
女の子の「あっ」の声にまず私が反応し、少し遅れてから女の子の向こう側に座る母親が窓の外を見た。
「あら、ほんとサンタさんね」
母親の口調も穏やかで、車窓はひと時、絵本の1ページのように切り取られる。
しかし私の頭は激しく動揺していた。
「あそこでサンタさんは何をしてるのかな?」
母親の問い掛けに、女の子はより鼻先を窓に押し付けて「エントツをさがしてる」と言った。
「そうね、ママもそう思う」と言った母親の横顔に向かって、私は心の中で「正解」とつぶやく。でも、正しくは、サンタさんではなく、ケーキ屋さんのマスコットキャラクター人形がサンタさんの格好をして、1年中お店の屋根で宣伝活動をしているのだけれど。
けれど、そのケーキ屋さんは2025年現在ではなくなっているはずだ。
確か無くなったのは大学3年生の時。復活した?
いや、そんなはずはない。跡地はコインパーキングになっていた。
やっぱり何かが少しずつ可笑しい。まあ、夢だからしかたないのだろう。
私は電車を降りてすぐにホーム上でジャンプしてみた。チート機能はないらしい。
駅前の賑やかな通りを足早に通り過ぎた。通い慣れた道というよりも、どこか少し懐かしい感じがする。そして、違和感は増殖していくばかり。不況の波にのまれ閉店し、空き店舗になっていた店が営業している。
私は歩調を速め、自分の店に向かう。お洒落なカフェを手前で曲がるとシャッターを閉めているはずの私の店に明かりが点いていた。
えっ泥棒。思わずつぶやく。
恐る恐る店内を覗くと泥棒よりもビックリする人がそこにいた。
慌てて扉を開ける。
「お婆ちゃん、どうしてここにいるの」
私の声に祖母はビックリした声で
「私の店に私が居たら変かい、彩芽ちゃん」
祖母は、私が大学2年生の終わり頃に亡くなった。
夢だ。間違いないこれは夢だ。でも、リアルな夢だと思う。
夢の中でも思わず涙がこぼれる。思わず抱きしめる。妙にリアルな感覚が身体に伝わる。
「変な子だね」
「だってお婆ちゃんが生きているから」
「私ゃ死んじゃいないよ」
「でも、私が大学2年の終わり頃に亡くなるんだよ」
「何言ってんの彩芽ちゃんはまだ大学1年生でしょ」
大学1年生ということは今から7年前、2018年。
妙にこの夢は2018年の設定にこだわるな。と思った。
祖母は矢継ぎ早に私へいくつかの質問をした。だんだん祖母の顔が険しくなっていく。
穏やかな祖母の表情しか記憶にない私は少し戸惑った。
「ちなみに彩芽ちゃんは今自分が何歳だと思うんだい?」
「今、25歳。今年26歳。美大を卒業し、お婆ちゃんの店を継いで、イラストレーターとして働いている」
祖母は相変わらず表情は険しかった。
「ここに来るまでに何か違和感があったかい?」
祖母は探偵の眼差しを向ける。
「メジャーリーグに行った大谷選手。今、ドジャーズなのに、エンゼルスにいる。
あと、2018年冬マンション完成の広告、無くなっていたケーキ屋がまだある。
あっそうだ。」
私はポケットから取り出す。
ポケットにグミがあった。よく見たらそれは3年前に製造販売が中止のやつだ。
「どうかした?」
「これ、今では売ってないの」
「そうかいじゃ、買い占めとかだね。あっそうか私も生きてないね。」
祖母は笑う。
「今日は2018年7月29日、日曜日。彩芽ちゃんはこの日に何か心残りとかあるかい?」
祖母は神妙な面持ちで私に訊ねた。
2018年7月29日。私は大学1年生の夏。
恭介とはまだ出会っていない。いや、私は電車の中でイヤホンを落とし、恭介に拾って貰った。そうか。今日、恭介は片思いの女の子と再会して・・・・・・。
グミを見つめる。思い出した。あの女の子。
「お婆ちゃん思い出した。私は2018年に来たいと強く想った理由を」
グミをくれた女の子は、恭介が片思いだった女の子、林さんだ。
今日は7月29日
恭介は8月の第1週目の日曜日、つまり8月5日に彼女を失う。
「お婆ちゃん、私助けたい女の子がいるの。その子は今私がお付き合いしている彼氏が好きだった人」
「ちょっと聞きづらいけれど、その女の子の未来は?」
「今から8日後に不慮の事故で亡くなる」
祖母は深く頷いた。
「ちなみに今日、2018年7月29日の時点で、彩芽ちゃんは、その彼のことに好意はあったのかい?」
「うん・・・・・・。私の初恋だと思う」
私がそう言うと祖母は窓の外を眺める。雨脚が強まったような気がした。
「彩芽ちゃん、2025年の今日、もしかして雷が鳴っていなかったかい?」
「うん、鳴ってた。その直後に、目の前が暗くなって、気が付くと知らない女の子が目の前にいた」
「そうかい、そうかい」
祖母は、すべてを理解でもしたかのように2度3度頷く。
「もしかしたら彩芽ちゃん、2025年からタイムリープしたかもしれんね」
荒唐無稽な言葉が飛び出してきた。
祖母の口からタイムリープというフレーズが出てきたのは意外だったけれど、
小説が好きな祖母なら理解ができた。
えっ。
でも、あまりにも現実離れしている。
「どうしてそう言えるの?」
「どうしてって私も同じ経験があるからだよ」
衝撃的な発言だった。
祖母がタイムリープ経験者だとは。信じられない。
「その女の子がタイムマシンの代わりになり、彩芽ちゃんを2025年から連れて来た」
「でも、どうやって?」
「今から8日後に亡くなると言うことは、すでに身体から半分魂が抜けかけている状態かもしれないね。そこに、龍神様の力を宿らせた、彩芽ちゃんの強い思いがタイムリープさせた」
「龍神様って、あの龍神様?」
「うん、そうだね。あの龍神様。雨の神様。彩芽ちゃんが雨を予感できるのは、龍神様に愛されているからきっとこのタイムリープも」
祖母の発言に妙に納得している自分が居た。
「じゃあ2018年の私は、2025年に行ってるのかな?」
「それは、どうだろう?正直、覚えていないの」
「戻れるの私」
「それは大丈夫だと思うよ。だって今、いるじゃない」
「そっか」
「おそらくタイムマシンの能力が消えたら戻れるのかな」
祖母がぼそりと呟いた。
お婆ちゃんは、いつ、どんな理由でタイムリープしたの。と訊きたかったけれど、
今は訊かないでおこうと思った。
「おばあちゃん、未来は変えられるの?」
「変えられる。その女の子を助けたいのね」
「うん」
「でもね。助けると彼の記憶から彩芽ちゃんは消えるのよ。それでもいいの。大切な人なのに」
そう言われて、私はすぐに返事が出来なかった。代わりに涙が溢れて来た。
「彩芽ちゃん、辛いね。おばあちゃんは、彩芽ちゃんの味方。たとえどんな未来を選んでも」
その日、祖母と電車に乗り、自宅に戻った。
車内で電話の着信が鳴り、LINEが届いた。画面を覗くと幼馴染の青山聡子からだった。
聡子は2025年も仲良くしている親友だ。
「教習所の申し込み行ってきた?」の一文。
そっか。鞄の中の30万円は教習所の入会金だったことを思い出す。
聡子はエスカレーター式で大学に進学することが決まっていたので、高校在学中に自動車免許をすでに取得していた。私は美大を受験したので夏休みに取ろうと計画を立てていた。
別に免許が欲しかったわけではない。でも、祖母がお金は出してあげるからと言われたので、取ることに決めた。
そして、7年前にも青山聡子から同じ文面のLINEが来たことを思い出した。
歴史を変えないように、大学生の頃によく使っていたピースサインのスタンプを押した。
実家の最寄り駅を降りると、すっかり空は暗くなっていた。商店街を抜け、かかとを響かせながら街路樹を見上げる。春になると桜のジュータンが出来る私の好きな道でもあった。向こうに見える森平家に灯が付いていた。
玄関先で靴を脱いでいると物音に気が付いた母が出迎えてくれた。
「おかえり彩芽」
母はあまり変わっていない気がした。高価なサプリを飲んでいるおかげだろうか。
靴を揃えていると視界の隅にジョギングシューズを見つける。それは父のジョギングシューズで、2ヵ月も経たずにつま先が破れた粗悪品だったことも思い出した。2025年は、もう父のジョギングのブームは去っている。改めて私はタイムリープしたことを実感する。
タイムマシンの能力が消えるのは、8日後、このままいけば林さんは不慮の事故に遭い亡くなる。もしくは、私が回避させる。そのどちらかの選択後にタイムマシンは消えるらしい。
「ただいま」
私は7年前の実家に足を踏み入れた。
1日目 Side 木立恭介 2025年7月27日 日曜日
今、僕の目の前にいる女性は、森平彩芽に間違いない。
出会ったのは大学2年生、20歳の夏。雨が好きな女の子。今は、雨が好きな女性と呼ぶ年齢になった。彼女が営む雑貨屋で出会った1年後、交際が始まった。現在25歳。交際歴4年。見た目は彩芽。でも言われてみれば、目の前にいる女性の仕草や口調は、僕の知る彩芽ではない。彼女の言う通り、僕の記憶の中の林さんのように見えた。
でも、林さんは、もうこの世にはいない。
18歳の時、偶然の再会からの告白。その1週間後に洋食屋で待ち合わせをしたが、林さんは来なかった。
そして、時が過ぎ、社会人3年目25歳の春、風の噂で林さんが亡くなったことを知った。
事件性はなく、雷に当たっての事故だった。
「本当に林さん?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「林さんが直近で覚えている記憶はある?」
林さんはアゴ先に指を当て考える。
「今日、高校の卒業式以来、木立くんに会いました。誰も居ないオフィス街。私は文芸情報誌を読みながら信号を渡り終えたところで、木立くんにぶつかりました」
そのことはよく覚えている。そして、その出来事は誰にも話したことがない。もちろん、彩芽にも。
「洋食屋「ボイルドエッグ」でオムライスとスープセットを注文しました。
本日のスープは大根のポタージュで、デザートはかぼちゃのロールケーキ」
嘘でしょ。本当に彩芽と林さんが入れ替わった。いや、映画や小説の世界ならともかくだ。
「林さん信じられないかもしれないけれど、今、2025年、7月27日。僕達が再会したのは2018年7月。ここは7年後の世界なんだ」
林さんは僕よりも困惑した表情を作り、鏡を覗き込んでいた。
信じられないかもしれない。でも、姿見に映る姿は、あきらかに林さん本人ではない。
「だから私が知っている木立くんと少し雰囲気が違って見えるのは、7年後の木立くんだからでしょうか?」
「そう、あの時、俺は18歳の大学生。今は25歳。社会人3年目小さな出版社で働いている」
「私は時空を超えて、この綺麗な女性と入れ替わった。タイムリープしたってことですか?」
鏡を見ながら林さんが言う。
「うん。いや、でも、それはどうだろう。非現実的過ぎる」
あることを思い出した。
僕は夢の中で林さんの名前を呼んでいたことがあると彩芽が教えてくれた。
もしかしたら、名前だけでなく思い出も寝言で呟いていた?
「あの、木立くんに質問があるのですが・・・・・・・」
「うん、何?なんでも訊いて」
「さっきからアヤメと呼ばれている女性と木立くんの関係性は何なのでしょうか?」
困った。でも、嘘を付くと余計にややこしくなると思った。
「えーと恋人です」
「あーなるほど。そうですよね。私と再会した時、えーと7年前にはお付き合いされていたんでしょうか」
「いや、彼女とはまだ。出会ったのは20歳の夏で付き合い始めたのは1年後」
「そ、そうなんですね」
そうか、思い出して行く。僕が林さんへの想いに気が付き、告白するのは、この後、
1本の傘で林さんの職場に向かう途中の出来事。
もしタイムリープしたことが事実ならば、今現時点で、林さんはその傘を持って洋食屋に向かう途中で彩芽と入れ替わったことになる。
だから、今、林さんは僕の想いには気が付いていないことになる。
林さんは、鏡の前で何度も顔を覗き込んでいた。
「あの、さっき木立くんは今、出版社に勤めていると言ってましたよね」
「うん、出版社って言っても社長と社員5人の小さな会社だけれどね」
「あのちなみに、私はどんな仕事に就いているかご存じですか?」
その質問に言葉が詰まる。答えられなかった。言えるはずがない。
「いや、やっぱりいいです。未来は知らない方がいいです。
もしかしたら私、今夢の中にいるんだと思います。
きっと寝たらまた戻れるような気がします」
たしかに、それは一理ある。いや、その考え方の方が正しいのかもしれない。
本当にタイムリープしたとは限らない。
頭をぶつけて混乱しているだけかもしれない。
いや、待てよ。
本当は今、僕が夢の中にいるのかもしれない。
うん、そうに違いない。
きっと時間が解決してくれる。
ぎゅるぎゅるぎゅると彩芽、いや、林さんのお腹が鳴った。
「おかしいなお腹いっぱいオムライスを食べたんだけれど」
「夢の中でもお腹は空くんですね」
「そうみたいだね。何か作るよ」
僕は冷蔵庫に向かう。
「実は、現実世界では、緊張して木立くんとはほとんど話せませんでした。」
「そうだっけ」
「はい。木立くんが大根美味しいねって言ったのに、私、大根の知られざる効能を説明しちゃって。完全に木立くん引いてました」
林さんは微笑みながら話す。その会話を僕は思い出した。
「夢だからかな?」
「だったら、この夢醒めないで欲しいです」
「どうして?」
「ど、どうしてでしょうか?」
彩芽の顔、いや、林さんの顔が赤くなっていく。
僕達は、夢の中でインスタントラーメンを食べた。
でも、夢の中でもこんなに明確に味が再現されるものだろうか。
「あのこれ何ですか?」
彼女は棚の上に置かれた1000円札を指さす。
「ああそれ新紙幣。2024年からね」
「うわ玩具のお金みたいですね」
正直、初めて見た時、僕も思った。
「この人は誰ですか?」
「渋沢栄一」
「何をした人?」
僕が答えられずにいると
「お札になるくらいだから偉人なんでしょうね」と彼女はつぶやいた。
「あの質問なんだけれど?」
「はい」
「林さんの高校の時の文芸部の顧問の先生の名前は?」
「足立先生。たしか、木立くんの高2の時の担任でしたよね」
「うん」
これは絶対に彩芽が知る情報ではない。
「もしかしたら、夢じゃないかも」
僕がそう言うと
「夢じゃないなら、何でしょうか。やっぱりタイムリープでしょうか。」
「ありえない、ありえない」
僕達は同時に首を大きく左右に振った。
「きっと夢から覚めたら、普段の生活に戻っていると思うよ」
何の根拠もないが僕はそう言った。
「そうですね」
と林さんも同意した。
僕達は思い出話をたくさんした。夢が覚めるともう2度と会えないことは分かっていたから。
7年前、僕は林さんのことが好きなことに気が付いた。でも、片思いだった。と思い込んでいた。僕の記憶の中で、林さんは淡い初恋の相手だった。
今、僕の中で、とても複雑な心境だった。
ふと寝息が聞こえてきた。
2日目 Side 森平彩芽 2018年7月30日 月曜日
枕元に置くスマホのアラートが鳴る。止めようと手に取るとiPhoneXだった。
それは私が大学1年生の頃に買ってもらったもの。
2025年今は違うメーカーのスマホを使っている。
そうだ。昨日、私は2025年から2018年にタイムリープしてきたことを思い出す。
ブランケットを畳み、ベッドに腰掛けた。
未来ではなく、私は過去にいるようだった。まるで逆浦島太郎状態。
壁のカレンダーは2018年、7月。
溜め息をひとつつき、顔を洗いに1階洗面所に向かう。現在25歳、今年の11月で26歳になる。洗面台の鏡に映った18歳の私の目元を指で吊り上げてみる。正直、肌のハリとツヤは全然違う。どんなに値の張る美容液でも年齢には勝てないみたいだ。
もちろん、私がタイムリープしていることは家族には内緒。私と祖母だけの秘密。昨夜はずっと考えていた。私がどうして2018年にタイムリープしてきた理由。
それはやはり、林未来さんを助けるためしかない。それは恭介の苦しみの原因を取り除くことにもなる。林さんは、1週間後の日曜日。不慮の事故で亡くなる。
過去を変えると必然的に未来は変わってしまう。
林さんを助けると言うことは、私と恭介の未来は消滅してしまうことになる。
もう私に迷うという選択肢はなかった。林さんを必ず助ける。
でも、どうやって・・・・・・。
作戦が必要だった。2018年、夏。現在、私は恭介に出会っていない。
クローゼットの中から夏服を選ぶ。見覚えのある服が並ぶ。
ワンピースが多い。今はちょっと着られないかも。
高校生の時の制服が掛かってあった。
懐かしいな、7年ぶり。
全身鏡に映った私は、違和感がなかった。だって今、私は18歳。
まだ高校を卒業して半年も経っていない。
いいかも。この姿を見たらきっと恭介も惚れ直すかも。
高校まで女子校に通っていた。大学は美術大学に進学しだ。
恭介と出会ったのは20歳の夏。お互い、初めての恋人だった。
高校生の頃に出会っていたら制服デートとかしていたんだろうなぁと思う。
憧れ。私はベッドに腰掛ける。放課後、自転車2人乗りデート。
私は後部座席に座り、恭介の背中に頬を寄せながら体温を感じる。
私は隣に恭介の背中がある態で腰に腕を回す仕草をする。
そう言えば、まだ1度も恭介と自転車の2人乗りしたことなかったな。
というか。お互い、自転車を持っていなかった。
次の瞬間、ガチャリと部屋のドアが開く。
「何してんの彩芽、朝ごはんよ」
母は間抜けな表情で私のことを見ていた。
朝食後、祖母と一緒に家を出た。
祖母は店に向かい、私は恭介が1人暮らしをするアパートに向かっていた。
私が知っている情報を整理すると2018年の昨日、日曜日に恭介は林さんに告白し、返答は一週間後の洋食屋に来てもらうこと。林さんも恭介のことが好きだから、間違いなく
来る。その途中で事故に遭う。場所は林さんが勤めるバイト先と待ち合わせをした洋食屋の間にあるオフィス街の通り。その範囲はあまりにも広すぎた。
現実的に、2018年の世界線で、林未来さんを見つけなければいけない。
そして、事故を未然に防ぐ。
そのためには、恭介に出会い、林さんの情報を聞き出す必要があった。
タイミングよくアパートから出て来た恭介は、首から一眼レフカメラを提げていた。
カタツムリ商店街を抜け、駅まで歩いて行く。
「今週の日曜日、あなたの好きな人が事故に遭い亡くなるから待ち合わせ時間を変更してくれませんか?」
なんて初対面の相手に言われても、誰も信じてくれないだろう。
作戦が必要だ。
恭介から少し離れて電車に乗った。日曜日の電車は空いていて、恭介の隣も対面も空いていた。座ろうと思ったが躊躇する自分がいた。恭介の目に映らない自分がいることが少し怖かった。扉付近の手すりにつかまり、スマホを眺めるふりをして恭介を盗み見た。
短い区間を2度乗り替えて降りた駅は、近くに大きな公園がある街だった。
恭介の少し後ろをついて歩いた。
公園内では日曜マルシェが開かれており、人だかりができていた。
恭介は自家製レモネードを購入し、大きな噴水の傍にあるベンチに腰掛けた。
この公園は私が子供の頃、毎週日曜日、祖母が通っていた青空写生クラブがこの公園で開かれていた。絵を描くことが好きな私にとって思い出の場所。
恭介はここに来たのは、誰かと待ち合わせしているのだろうか。
今まで、この公園について話題になったことはない。
18歳の恭介はベンチに座りながら、青空に向かってシャッターを切っていた。
どうやって話しかけようか。そこまでは考えていなかった。
ふと、自分の人生を振り返る。
自分から男性に声を掛けたことは、あっただろうか。
今日は雨曜日の店主として、男性客人に声を掛けるのと次元が違う。
早く言えばナンパである。
「女性から男性に声を掛ける方法」をネット検索する。
イマイチだ。
幼馴染みの青山聡子にLINEを送るとすぐに「同類、に訊かないでくれる」と返事が来た。
そうだった。この時は青山も恋人いない歴イコール年齢だった。
2025年の聡子は「待っていても恋は手に入らない」と悟ったように積極的だ。
頭を抱えて居ると目が合った
「この前、電車でイヤホンを落とされませんでしたか?」
そっか。まだ1週間しか経っていないから記憶に残っていたらしい。
「はい。その節はありがとうございました」
私は話を途切らせないように話題を見つける。
「写真を撮られてるんですか?」
「はい。雲が好きななんです。白い雲が」
それは当然知っている。恭介は白い物が好きだ。私は話を続ける。
「よくこの公園には来られるんですか?」
「時々です。子供の頃は毎週日曜日、ここに来ていました。祖母が青空写生クラブに通っていて、僕の実家は神奈川県なんですが、祖母についてきました。ただ僕は絵よりも日曜マルシェの方が目的でしたけどね」とレモネードが入った容器を顔の前に掲げた。
「実は私の祖母も写生クラブに通っていて、私も子供の頃にここに来ていました」
「へぇ失礼ですが、今おいくつですか?」
「18歳です、今年19歳大学1年生です」
「僕も同じです。もしかしたら、同じ時間を過ごしていたかもしれませんね」
ふと映像が蘇る。祖母の隣には、同じくらいの年齢の女性と楽しそうに会話しながら絵を描いていた。そして、その隣にはつまらなそうにして野球帽をかぶった男の子がいた。
「おばあ様はお元気ですか?」
「はい。実は今も写生会に参加しています」
「私の祖母は大学2年の冬に亡くなりました」
恭介が私を怪訝な表情で見つめる。
「えっ今、大学1年生ですよね」
しまった。
「あ、そうでした。まだ祖母は健在です」
朝、会ったばかりじゃないか。
私は昨夜考えた作戦を実行することに決めた。
鞄からハンカチを取り出し、目元を拭った。
「ど、どうかしました」
同情作戦。優しい恭介はめっぽう弱い。
「実は今、私好きな人がいて、勇気がなくて昨日、告白できなかったんです」
棒読み気味なセリフに、嫌な汗が背中に滲んだ。
「じ、実は、昨日、僕も勇気を出して好きな女の子に告白したんです。
その返事は1週間後でまだ結果はわかりませんが・・・・・・ちなみに、告白ができなかったその人は、いい人ですか?」
恭介が言う。
「はい天然記念物くらいに」
「だったら、あなたにも勇気を出して告白して欲しい」
恭介はあご先に指を当て何か考えていた。
「そうだ、ぜひその彼を洋食屋さんに誘ってみて下さい。
すごく雰囲気の良い美味しいお店です。昨日知った店ですが、
美味しいオムレツを食べられる口実に誘ってみて下さい」
「ちなみにその店で告白したんですが?」
「いえ、そこは彼女の行きつけの店らしく、バイトがある日はランチタイムに
通っているみたいですが」
「彼女さんのバイト先が近くにあるんですね」
「そ、そうですね。今週はずっとバイトみたいです。
教習所に通うためにバイトしてお金を貯めるって言っていました」
私は恭介から、その洋食屋さんのホームページを教えてもらった。
私は、明日からランチ時、その店の前で林さんを待つことに決めた。
2日目 Side 木立恭介 2025年7月27日 月曜日
眩しいくらいの朝の光で目が覚めた。
僕は、リビングの床に引かれたラグの上で眠ってしまっていたらしい。
座ったまま部屋を見回し、ここは彩芽の部屋だと認識する。でも、彩芽の姿はなかった。
いや、性格には2018年からタイムリープしてきた林さんなのだけれども。
立ち上がり、ベランダに出ると、やはり眩しいくらいの朝の光が僕を照らす。
昨日の出来事は、やっぱり夢だったのだろうか。2018年から林さんがタイムリープしてくるなんて、ありえない。僕は青空を見上げながら大きく首を左右に振った。
物音に気が付き、ベランダから部屋に戻ると彩芽が紙袋を抱えて立っていた。
僕は彼女の第一声を待った。
「木立くん、新1000円札使えました。私、本当にタイムリープしてしまったかもです」
そう言ってリビングテーブルの上に置いた紙袋には古田ベーカリーと印字されていた。
「パン屋さんのおじさんが会計の時に、珍しいね今日は現金払い。とか言うんです。「ぺいぺい払い」って何ですか?」
そっか2018年はまだ普及していなかったんだ。
僕は丁寧にpaypay払いについて説明した。
「見たこともないお札、大谷選手はドジャーズにいるし、私本当にタイムリープしたかもしれません」
林さんは驚きを隠せないでいた。いや、もちろん僕も驚いている。
でも、まだタイムリープについては信じられそうになかった。
「もし明日、戻れなかったら、七年後の私に会いに、とりあえず実家に行こうと思います」
唐突の提案に、冷蔵庫から取り出した牛乳パックを床に落としそうになった。
それは実にマズイ提案だと思った。
「7年後の未来は楽しみにしておいた方がいいんじゃないかな」
今、生きている世界線が現実なら今日、僕は、会社に行かなければいけない。
「この部屋から出ない方がいい。中身は林さんだけれど、世間の人は森平さんとして接して来るから」
「はい、わかりました」
僕は彩芽の容姿をした林さんに見送られ、ドアを閉めた。
結局、僕は心配になり、会社を早退し、どこにも寄らずに部屋に戻った。けれど林さんは居なかった。
まぎれなくここは夢の世界ではなく、現実の世界だった。
仕事の内容、打ち合わせ。先週のつづきがあった。
職場には嘘の事情を説明し、1週間休みを貰った。
林さんを探しにカタツムリ商店街に向かうとベンチに彩芽、いや、林さんが座っていた。隣の女性から話しかけられていた。
あれは彩芽の幼馴染の青山さん。少し面倒なことな予感が漂っていた。
恐る恐る近づくと案の定、僕は隣のベンチに強制的に座らされた。
「昨日から連絡してもつながらないし、心配して来たら全く別人。間違いなく鬱の症状よ」
違うと思う。でも、タイムリープして来てとは到底言える雰囲気ではない。
部屋に戻るとすぐ林さんは、パソコンを使いたいと言った。
「実は、私、誰にも言ったことはないんですが、小説を書いていまして」
と恥ずかしそうに林さんが言った。
「1度だけネットの小説大賞に応募したことがあります。それは1週間前。
いや、7年前の1週間前。7月22日の日曜日です」
僕は林さんが応募したという小説投稿サイトを開いてみる。
「本来の結果発表は2019年の1月ですが、今は2025年8月。
見られますよね」
林さんが期待を込めた表情で僕に言った。
確かにそうだ。
コンテスト募集のページを開くと第17回大賞の募集要項が出ていた。
「私は第10回に応募しました」
と林さんが僕の真横に来て画面の位置で屈んだ。
画面をクリックする。
コンテスト結果発表の項目の第10回目の上でカーソルを止める。
「クリックしていい?」
僕が訊ねる。
「はい、お願いします」
クリックして開いた画面には、「大賞作品なし」の文字があった。
「残念です」
と背後から聞えた
画面をスクロールしていく。
「ちなみに林さんはペンネームは?」
「いろはにほへと」
「本当に?」
「はい」
優秀賞にも佳作にも、いろはにほへと。の名前は無かった。
「ペンネームで選考から外されたとか」
僕は冗談で言ったつもりだったけれど、
「いや、そんな規定は絶対になかったと思います」
と林さんは割と真剣に答えた。
「どんな内容だったの」
「んー青春恋愛系です」
「読んでみたいな」
俺の思考を断ち切るように、林さんは画面を指さす。
「今でもログインって出来ると思いますか?」
「ああ、使っていたメールはフリーメール?」
「はい」
「じゃあ、たぶん使える。でも、パスワード7年前だけど覚えてる?」
「木立くんには七年前でも私にとってみれば1日前のことだから」
「あっそっか」
タイムリープしている設定を理解するのは、なかなか難しい。
画面にメールアドレスとパスワードを打ち込む。
ログインのボタンを押すと画面が開いた。
ふと気づく。
メールマークに数字が「18」とある。
「開いてくれますか?」
と言った林さんのお願いにクリックする。
「ご連絡のお願い」
のタイトルからメールに切迫感が伺えた。
「ご連絡が頂けないと大賞を取り消さなければいけません」
他のすべてのメールは編集部からのメールだった。
林さんは大賞を受賞した。でも、発表を前に亡くなってしまった。
「でも、どうして2018年の私はこのメールを開かないんですかね」
林さんにとっては素朴な疑問だっただろう。
でも、僕は深刻な問題だった。
「今から、編集部に連絡とってみましょうか。」
「いや、2018年に戻ってからの楽しみにしていた方が良くないかな?」
「あ・・・・・・そ、そうか。それもそうですね」
僕の背中に大粒の汗が流れたのが分かった。
3日目 Side森平彩芽 2018年7月31日 火曜日
緑色のテントが印象的な洋食屋さん。私は、その斜め前にあるチェーン店のカフェの窓際の席でアイスコーヒーを飲んでいた。現在am11:55
恭介と林さんの思い出の洋食屋さん「ボイルドエッグ」
昨日得た情報によれば、林さんはランチタイムによく訪れると言っていた。
恭介が林さんの連絡先や仕事先を知らない限り、手がかりは、この店しかなかった。
ランチの営業時間はam11:00からpm2:00まで。定休日は月曜日。
今日から林さんがとランチタイムに訪れるまで通うつもりだ。
2018年の私と入れ替わって3日目。7年前、大学1年生だった頃の日常の記憶は、なかなか思い出せそうになかった。ただ特別、未来の私にとって重要な出来事はなかったと思う。
友人からのLINEもそつなく返した。
12:30を過ぎても林さんは現れない。
私は場所を変え、洋食屋さんのカウンター席でオムライスを待っていた。
只今12時45
18歳の恭介いわく、この洋食屋さんはオムライスがオススメらしい。
客の来店を知らせるベルが鳴る度に、私はドアの方へ視線を向けた。
林さんは来ない。
3日前の日曜日、恭介は林さんとこの店でオムライスを食べた。
そのシチュエーションを想像しただけで笑みがこぼれてしまう。
それには理由があった。白米は白いまま食べたい派の男子だから。
恭介がオムライスを前に眉間にしわを寄せているのが、簡単に想像がついた。林さんもきっと内心戸惑っていたに違いない。
私は、恭介がオムライスを食べているところはこれまで1度も見たことがない。
林さんが少し羨ましい気もした。
オムライスが運ばれてきた。
たっぷりとかけられたデミソースの甘く濃厚な匂い。
ふわとろタイプの卵にそっとスプーンを差し入れる。
ひと匙目を口に入れると舌の上で卵とチキンライスとデミソースが絡み合う。
ランチタイムが終わり、店を後にする。結局、林さんは洋食屋さんには来なかった。
この店「ボイルドエッグ」がデートの待ち合わせ場所の予定だった。
林さんのアルバイト先はランチタイムに歩いて来られる距離にある。
洋食屋を出て、林さんと入れ替わった場所に向かう。
大きな街路樹が等間隔に並んでいる道を歩く。
過去の出来事であれば、聞き込みをしてどこらへんで事故が起きたのか
調べることは出来るけれど、事故が起こるのは5日後の未来だ。
当日、ここで張り込んでいても、あまりにも広すぎる。
雨の中、傘を差している林さんに、遠くからではきっと声はとどかない。
この通りに来るまでに、阻止する必要があった。
はじめて恭介から当日の状況を聞いてから奥に引っ掛かっていたことがある。
デート当日、雨の中、林さんはサーフボードを抱えて待ち合わせ場所の洋食屋に来た。
そして、サーフボード?の存在がまったくの謎だった。
今日、祖母の雑貨店は定休日で、私はそのまま家に帰った。
3日目 Side木立恭介 2025年7月29日 火曜日
当たってしまった。
蝉の声が搔き消されるほど、商店街に当選を知らせる鐘の音が高らかに鳴り響いていた。
火曜日の夕暮れ時。普段、仕事帰りに立ち寄る夜の商店街とは違い、活気にあふれていた。
抽選所の前で呆然と立ち尽くす僕と林さん。
「木立くん、今までクジに当たったことありますか?」
「な、ない」
僕は大きく首を左右に振った。
恐らく入れ替わるであろう8月3日、日曜日まで残り4日と少し。
林さんは、未来の出来事を知るよりも僕が過ごしてきた日常を追体験したいと言った。
そして今、僕と林さんは福引きの抽選会場のガラガラの前に立ち、追体験ではなく、未体験を味わっていた。
彩芽がコツコツと貯めた抽選券を借りて、福引のガラガラを回しに来た。
見知らぬおばさま達が、よかったわね。とかわるがわるに声を掛けていく。
紫陽花町カタツムリ商店街に引っ越してきて七年。
これまで、シーズンごとに開かれる、カタツムリ商店街の福引に何度挑戦しても下から2番目が最高だったのに、上から2番目の「温泉旅行券」が当たってしまった。
「あれ、彼氏さん久しぶり、彼女さん寂しそうだったわよ。仕事なんて他にいくらでもあるわよ。でも、こんなに素敵な女性はそうはいない。私が保証する」
と八百屋、キノシタの奥さんは胸を叩いた。
八百屋、キノシタの野菜は、スーパーで買うより断然、新鮮で、味が濃くておいしかった。そして、いつもおまけを付けてくれる奥さんとは、彩芽はこの商店街で1番の顔見知りだった。だけれど、奥さんは知らない。彩芽は、本当のところ、2等の温泉旅行券よりも3等の高級炊飯器が欲しかったことを。
そして、僕の隣には見た目は森平彩芽だけれど、中身は林未来ということを。
名探偵コナンくんでも、この謎は解けないだろう。
八百屋の奥さんに「美男美女だね、結婚はもうすぐだね」と冷やかされる。
気まずい。林さんは笑顔を向けているが内心穏やかではないはずだ。
「これからのシーズンは最高よ。彼氏さん、毎回、温泉旅行券狙いだったものね」
八百屋、キノシタの奥さんは、私のシンプルなセーターの首元を飾る、パールネックレスからひとつこぼれ落ちたような2等のピンクの玉をてのひらの上で転がしながら、そう言った。
「そ、そうですね」
僕は、キノシタの奥さんから受け取った温泉旅行の引換券を財布にしまい、夕暮れの家路をたどった。
僕は、気まずい気持ちを紛らわすように、橙色に染まる空を見上げながら、「温泉旅行券と高級炊飯器とを交換してもらえないのかな?」と言った。
すると林さんは、
「3等の景品を2等の景品と換えて欲しいというのは、横暴ですが、2等の景品を3等の景品に換えることは、検討の余地があるのではないでしょうか?」と言った。
僕は今、彩芽のアパートのキッチンで賽の目切りにした、まな板の上のリンゴを見つめながらタコ焼きの生地ではなく、ヨーグルトに入れて食べたら美味しいのにと思っていた。
夕方、林さんから、ロシアンたこ焼きをしてみたいと提案された。
それは高校3の時の文化祭で僕達のクラスがやった出し物で、林さんは全く興味ないと思っていたけれど、そうじゃなかったみたいだった。
カタツムリ商店街で、たこ焼きの材料を揃えた。
僕が変わり種として選んだリンゴの皮を剥き始めたところで、林さんは一口サイズのチョコの包み紙を開け、僕がリンゴを2つに割ったところで、林さんはイクラの醤油漬けを小皿に移していた。完全にロシアンタコパを楽しもうとしていた。
「木立くん、リンゴの皮を剥くの上手ですね。尊敬します」
と流し台の三角コーナーに捨てた、1度も途切れることのなかったリンゴの皮を林さんは指で摘まみ上げながら言った。
オーソドックスな出汁を利かせた関西風のたこ焼きは美味しかった。けれど、変わり種タコパは散々なものに終わった。でも、林さんがこちらの世界に来て、1番の笑顔を見られたのが1番の収穫だった。と言っても彩芽の表情だけれど。
4日目 side森平彩芽 2018年8月1日 水曜日
林さん行きつけ洋食店「ボイルドエッグ」の店員さんが、店の前に置かれた鉢植えの
花に水をあげていた。
私はそれを向いのカフェの窓際の席から見ていた。
店員さんが被る黒色のキャスケットを夏の陽射しが照らしている。
2018年の私と入れ替わった日曜日以降、雨は降っていない。
今日の降水確率10%
でも、私はこの後、一雨来そうな感じがしている。
季節到来の匂いを感じ取れる人がいるという。
雨の匂いを感じる人がいるという。
雨のにおいには、「ペトリコール」という学名がついているけれど、
私の雨が降る予感には、どんな学名がつくのだろうか。
一般的には雨上がりの虹が好まれるが、私は夕立前の雷が好きだ。
祖母が体調を崩したと母からラインに連絡があったのは、洋食店「ボイルドエッグ」の夜の部がオープンする少し前だった。私は慌てて家に戻った。
玄関を開けると母が作った特製スープの匂いがした。森平家の住人が風邪を引くと食べる秘伝の薬膳スープ。
祖母の部屋の扉をゆっくり開けるとベッドで寝息を立てていた。おでこには冷えピタが貼ってあった。少し横になれば問題はないようだった。
大きな本棚から私は1冊、本を抜き取った。
エアコンの音が止まり、今この部屋には、ページをめくる音と祖母の寝息だけが聞こえていた。
祖母が眠るベッドのそばに古びた木の椅子を置き、膝の上で本をひらいた。
私が小さな頃、この部屋のベッドで昼寝から目覚めると、祖母この椅子に腰かけて本を読んでいた光景をよく覚えている。
ひらいた本の奥付を見ると発行は今から30年前。当然私はまだ生まれていない。
発行日の横に3刷とある。子供の頃、この言葉の意味が分からなかった。その言葉の意味を教えてくれたのも祖母だった。
パラパラとめくっていると角が折れたページがあった。そこを開くと『傷つきたくないなら恋はするべきじゃない。だって、恋は傷つくものだから』
と書かれた箇所に薄く赤いラインが引かれていた。
それは祖母が引いたのか、誰が引いたのかはわからない。
でも、それが恋にとって重要な一文であることは分かる気がした。
「彩芽ちゃん、心配かけてごめんね」
本から顔を上げると祖母がこちらを見ていた。
私はキッチンでスープを温め直してから寝室に運んだ。
「食欲があるから大丈夫。ありがとうね、彩芽ちゃん」
良かった。でも、祖母と過ごせる時間があと少ししかないことに心が締め付けられた。
5日目side木立恭介 2025年7月31日 木曜日
「みなさん今晩は。今週も始まりましたフライデー・ポータブル・ガーデン。
DJの池本真美子です。ここ数日は、全国的にサウナ状態。
7月31日、木曜日の夜9時、みなさんはどうお過ごしでしょうか?」
彩芽が、この部屋に決めた理由の1つでもある、脚を伸ばしてゆったりと入られる白いバスタブ。そのふちに置いたスタンド式防水ケースの中のスマホからFMラジオが流れている。僕はバスタブにギリギリまで入れた、人肌よりも4度高い乳白色のお湯にアゴまで沈める。ラジオ番組は、オープニング1曲目が終わり、そのままCMに入った。
僕は潜望鏡みたいに、鼻下までお湯に沈めて、あたりを観察する。
彩芽愛用の3800円のオーガニックシャンプーの隣には僕が使う580円のトニックシャンプーがある。彩芽愛用の高級絹ボディータオルの隣に掛かっていたナイロン製のゴワゴワした奴もオヤジくさい匂いがするシェービングクリームも髭剃りもあの日のまま。
「夏の夜に一服の清涼をお届けしましょう。今夜の2曲目は、
「スティービーワンダーでYou Are The Sunshine Of My Life」
僕はお湯から顔を出し、スマホに近づくと床のタイルにお湯がこぼれた。彩芽が好きな曲だ。
あたたかなメロディーに誘われて、あの楽しかった生活の日々が頭を駆け巡った。
「一緒にお風呂に入ってもいい?」
月に何度か、彩芽はバスルームの扉越しに聞いてきたけれど、1度くらい、彼女の願望を聞き入れてあげればよかったかなと思う。スマホから絶妙なタイミングで、女性DJが感慨深く「そうだよね」とつぶやいた。
お風呂から上がるとベランダで林さんは夜風を浴びていた。
そっと近づき、冷たい缶コーヒーを差し出すと林さんは慌てたように目頭を指で拭った。
掛ける言葉が見つからなかった。
これまで自分のことしか考えていない自分に気が付く。林さんが2018年の世界に戻れるなんて、どこにも保証はないのだ。
ベランダの手すりに手を掛けたまま夜空を見上げていると
「ありがとう、木立くん。私のために嘘をついてくれて」と林さんが涙まじりの声で言った。
僕は、その言葉の意味をすぐに理解できないでいた。
「私、もうすぐ死ぬんですね」
「えっ」
僕は言葉に詰まる。ジリジリと夏の虫の鳴き声と洟を啜る音が重なって聞こえた。
「実は月曜日に木立くんが出勤した後、実家に寄ったんです。友達のフリをして「未来ちゃんいますかって」母に言ったら、「もういない」って言われました。7年前,8月5日に事故に遭ったって」
「たとえそうでも彩芽は2018年の俺と協力して、必ず林さんを助けてくれる」
「本当に?どうして彩芽さんは私のためにそこまでしてくれるんですか?」
「俺は彩芽のことを信じているから」
「歴史を変えるってことはその人の人生を変えることなんです。
こっちの世界に来て、ずっと考えていました。答えは出ていません。逆の立場なら、もしかしたら私には出来ないかもしれません」
僕は缶コーヒーを一気に飲み干し、言った。
「ずっと考えていた。彩芽が2018年にタイムリープした理由を。やっぱりそれは、林さんを助けたいから。そして、それは俺を助けることになるから」
「木立くんを助けることになるとは、どういう意味ですか?」
「林さんに見せたいものがある。明日、俺の実家に一緒に来て欲しい」
6日目 Side森平彩芽 2018年8月3日 金曜日
緑色のテントルーフが印象的な職場近くの洋食屋「ボイルドエッグ」
私はカウンター席に座り、林さんを待っていた。
でも、もう来ないような気がしていた。ランチセット1450円
もしかしたら、週1のご褒美で通っていたのかもしれない。
すでに今週は1度来た。それでも藁をもすがる気持ちで私はこの店に来た。
テーブルに両肘をつき頭を抱えて居るとカウンター席の近くのテーブル席で食事する女性2人組の会話が、ふと耳にとまる。私と同世代みたいだ。
『まだ24歳だし』と笑っていた同級生の友人が、『もう25歳だし』に変わっている事に気がついたそうだ。そして、どことなく言葉尻に悲壮感が漂っている気もする。
職場で現在、婚活に奔走中の女性先輩は、29歳と30歳では、オーストリアとオーストラリアぐらい違うと言っていたようだ。
婚活サイトに登録している先輩は30歳になった途端、毎月100名以上いた[あなたに会いたい希望者]が1桁になったと嘆いていた。
先輩は「男は、女の顔と年齢しか見ていない」と断言しているらしい。
人それぞれ、悩みはあるようだ。
そして、やっぱり、林さんは来なかった。
私は何か方法を間違っているのか。本当に洋食屋で待つしかないのか。
残り2日。 恭介に会いたくなった。会って相談したかった。
実は私、本当は2025年からタイムリープして林さんを助けに来たと正直に言えば、
恭介は信じてくれるだろうか。もしかしたら、恭介なら信じてくれるかもしれない。
信じてくれなくても、きっと邪魔はしないだろう。恭介の住む築50年のアパートに向かった。
駅を降りるとすぐにカタツムリ商店街が東西に延びている。
私が暮す2DKアパートは、西口を出てから3分ほどの場所にあった。
私は、大学生の頃から外食をせずに自炊派の倹約家だった。でも、決して、ケチではない。
たとえば、ピザを食べたいならデリバリーするよりも私は、八百屋、キノシタの新鮮なナスやズッキーニを使って、自分で作った方が安く、美味しいピザを味わえると考えていた。けれど、恭介の考え方は違っていた。
デリバリーピザは、美味しいのはもちろんのこと、プレゼントの箱を開ける時のようなドキドキ感を味わえ、チラシを見ながらどれにしようか悩み、注文し、配達されるまでの時間も楽しめるエンターテイメントだと彼は言う。
彼は、いつもカタツムリ商店街の東口にある本屋、コヤマで購入していた。でも、私は知っていた。西口にある古本屋には、彼が定価で購入している同じ本が、100円で売られていることを。
彼曰く、単行本を定価で購入することは出来ないけれど、文庫本の発売を待って購入するらしい。そして、彼は絶版されていない限り、古本は買わない派だった。その理由は、著者にお金が入らないから。私は新刊でも古本でもなく、図書館で借りる派だった。
そんな価値観の違う二人は時々、小さな衝突を起こすこともあったけれど、あくまで小さな衝突であった。
カタツムリ商店街を西側から幸せそうに腕を組み歩く、お洒落なカップルとすれ違った。
彼女の首元を飾るネックレスが、夕陽を受け、輝いていた。
東西に約300百メートル伸びるカタツムリ商店街の中央あたりには、4人掛けの木製ベンチが3台並んで置かれていた。今は、誰も座っていない。私はそのベンチに腰掛けた。
よくこのベンチに彼と座って、商店街で買ったクレープやアイス、たこ焼きを食べた。
「私が家で作った方が絶対に美味しいよ」
私がそう言うと
「そうかもしれないけれど、このベンチに座って、俺は2人で食べたいんだよ」
と彼は言った。
私はショルダーバッグから財布を取り差し、自動販売機でホットコーヒーを買うために財布を開くと小銭が落ちた。拾い上げようとしゃがむと小銭の近くに100円の買い物につき1枚もらえる小さなスタンプがあった。カタツムリのイラストが描かれている。それを台紙に貼って20枚で1回、福引が出来た。台紙にはカワイイ紫陽花のイラストが描かれていて、その上からマス目が描かれている。家に台紙を切らしていることを思い出した。
私は、福引の景品が欲しくてスタンプを集めていたんじゃない。
夕食後、小さなスタンプの裏に、几帳面な彼がスティック糊を付けてくれる。それをマス目に合わせて、私が貼っていく。それはささやかな私達の幸せの形だった。
福引の景品は、あくまでも、そのおまけであって、本当に私が欲しかったものは、すでに手にしていた。
結局、その日、林さんにも、恭介にも会えず自宅に戻った。
お風呂上りに勉強机のイスに座りながら、2025年の私について考えていた。
2018年の私は過去の自分だから、ある程度は予測が立つ。
2025年のスケジュールは未来だから、誰にも分らない。
依頼されたイラストの仕事は未完成のまま、〆切まで1週間を切っていた。
2025年に戻れたとして、〆切を守れないのは問題だろう。
2018年の手帳を見る。
懐かしい。今日、8月3日の予定は・・・・・イラスト講座7時半とある。
青山校。なつかしいカルチャセンターの人気イラストレーター養成1日講座に行った。
手帳に挟まれていた4つ折りの紙を開くとプリントアウトされた講座の証明書だった。
待てよ。ここで隣の席になった女性と連絡先を交換して仲良くなり、数年後、今の仕事先を彼女が紹介してくれたんだ。壁の時計を見ると夕方の6時を少し回っていた。ヤバい。私は家を飛び出した。
高層ビルから扇子を仰ぎながら出で来たご婦人のおかげで、立ち止まることなく開いた自動ドアを抜け、小走りで受付窓口に向かった。
駅を出てからノンストップで駆けた私の火照った頬に、クーラーの冷気はとても心地よかった。
「すいません、イラスト講座の受講を申し込んだ森平と申しますが」
1ヶ月前、受講料の税込み3500円をパソコンからクレジットで支払ったらしい。
その際に発行された証明書をプリントアウトし、必要事項を記入した紙を差し出す。
受付に提出してくださいと書いてあった。
4つに畳んだその紙は、握りしめた指のあとでくぼんでいる。
「少々お待ちください、直ぐお手続きいたしますので」
私が焦っているのを察してくれたのか、事務員が素早く対応してくれる。
腕時計を見る。午後7時12分。
「森平彩芽様、お待たせしました。イラスト講座は8階、805号室になります」
礼を言い、渡されたプリント用紙数枚の案内書を手にエレベーターホールに向かう。
恐らく30分前までは賑やかだったと想像されるこの場所に、人数は少ない。
5、4と降りてくるエレベーターの表示を目で追う。うちわ代わりにして扇ぐ案内書の表紙には、「尾山聡子の1日イラスト講座」と印字されていた。
エレベーターを8階で下りると「801~805は右側通路です」の表示があり、指示に従った。各々の教室から声が漏れてきている。
フラワーアレンジメント、パッチワーク・キルトなど。教室の扉は開かれている。
さっき受付で、名刺サイズのカードを渡された。
そこには、講座名と教室の号室と受講生の氏名と番号が記されている。
それを教室に入る際、入り口付近のテーブルの上のカゴに入れ、
引き換えにテキストプリントを1つ取って下さいと言われた。席に着いた。
見覚えのある人達がいる。でも、今の段階では初対面。
隣に座る女性に私はニッコリと会釈した。
講座は無事終わった。なんとか記憶を呼び起こし、過去を変えずに済んだと思う。
この後食事会をするとあったが、当時、私は断っていた。
理由は、用事があると言ったけれど、本当はお金がなかったからだった。
過去を変えないように、私は教室を後にする。
隣の教室から見覚えのある女の子が出て来た。
教室のドアには「小説講座」と貼り紙が貼られてある。
まさか他人の空似か。
私は気づかれないように、あとをつけた。
彼女は受付に行き、私はその後ろに並んだ。
「すいません、林未来ですが」
女の子が受け付けの女性に話しかける。たぶん間違いない。林さんだ。藁をもすがる思いで、私は林さんの後を付けた。
彼女は、何度か乗り継ぎ、電車は神奈川県に入って行った。
彼女は、駅前の商店街の中にある「林金物店」のドアを開けて入った。
恐らく間違いない。ようやくタイムマシンを見つけた。
6日目side木立恭介 2025年8月1日 金曜日
「また外れた」
カタツムリ商店街のオモチャ屋の前にあるガチャガチャのレバーを女子高生くらいの女の子がしゃがんで回しながら、女友達に嘆いていた。その友達は、立ったまま彼女の頭を撫でている。
僕はカタツムリ商店街の中程にあるシンボルツリーの木陰が出来たベンチに座り、それを見ていた。
一時期、彩芽もミニチュアコレクションのアンブレラ全10種類をコンプリートしようと奮闘していた思い出と重なる。
林さんは今、オモチャ屋の隣にある多摩書店で小説を立ち読みしていた。
もし林さんが生きていたら、この書店にも単行本が並んでいたかもしれない。
そう考えると林さんの未来は明るい。
今日、母は午後から出掛けるらしいので時間を潰していた。
大学生の妹は、夏休みを利用して運転免許合宿に行っていた。
8月1日。夏の1番暑い頃である。
昼は商店街の中華屋の冷やし中華で済ませ、クーラーを利かせた車で神奈川県にある実家に向かった。
林さんは1冊の小説を購入していた。
僕は運転しながら「推しの小説家さん?」と林さんに訊くと彼女が首を左右に振っているのを横目に感じた。
「私が大賞を貰った、その回の優秀賞に選ばれた作家さんの小説です。
購入した本は別の作品、この方の新作です。当時からこの方の作品は知っていました。私が言うのもなんですが、伸びしろがすごいです。7年の時間ってやっぱり大きいですね」
「うん。でも、林さんだって大賞を貰ってるんだから自信を持たなきゃ。
2018年の世界に戻って、芥川賞でも獲ってもらなきゃ割に合わないよ」
僕は冗談めいて言ったつもりだったが、
「そうですね」と林さんは案外真剣に受け取っていた。
実家に着くと母は出掛けており、家には誰にもいなかった。
冷蔵庫の冷えた麦茶をグラスに注ぎ、自室に向かう。
僕は、サークルボックスと呼ばれる丸筒型の黒い箱をクローゼットの1番奥の方から引き出した。
7年前、黒の中折れ帽子を買った。それは少し値の張るもので購入した時に店で入れてくれた箱だった。林さんとの花火大会。何を着て行こうか迷った。
ラジオの相談コーナーで、お洒落な帽子をかぶれば良いと言われ、購入した。
結局、林さんにその帽子を見せることは出来なかったけれども。
その帽子は1度かぶっただけで、友人のフリーマーケットで売ってもらった。
丸筒型の箱には、一眼レフカメラで撮った写真を現像し、この中に入れて保存してあった。
その中から1枚の写真を取り出し、林さんに渡した。
それを見た瞬間、驚きの表情に変わる。
「偶然、再会した日。林さんにすれば、1週間前。俺にとってみれば7年前。
気づいたんだ。俺は林さんのことが好きだってことに」
写真から視線を上げ、じっと林さんは俺を見つめている。
「1本の傘で林さんを職場まで送る途中で、俺は林さんに、その想いを伝える」
林さんは涙を流していた。
僕はもう1つの箱をクローゼットから取り出した。
それも円筒型の水色の箱で、蓋の部分が水玉模様になっていた。
それを見た瞬間、林さんの表情が強張ったのがわかった。
「どうしてこれがここにあるんですか?」
林さんはその箱を手繰り寄せ、ゆっくりと蓋を開けた。
「林さんが亡くなって7年後に、俺は林さんの死を知った。林さんの実家の前を通った時、声を掛けられたんだ。そして、その箱を渡された」
林さんのこぼす涙は、箱の中に落ちていく。
「でも、本当のことは言えなかった。娘さんを亡くした原因は俺のせいだって。
林さんのお母さんの笑顔が、憎しみに変わってしまうことが怖くて」
僕の頬を伝う涙はフローリングの床にポタリポタリと落ちた。
「林さん、ごめんなさい。俺のせいで、林さん、そして、林さんのご家族の人生を狂わせてしまった。俺だけが幸せになっていい訳がない。その想いが消えなかった」
俺は林さんに深く頭を下げた。
「だから、それは木立くんのせいじゃないです。運が悪かっただけ。
誰も悪くない。きっと人生ってそういうもの。もうこれ以上、自分を責めないでください」
林さんが俺の肩に手を当てる。
「木立くんの彼女さんが、2018年の私を助ける理由がよくわかりました」
林さんにそう言って貰えて、救われた気持ちになった。
7日目 土曜日 Side 木立恭介 2025年8月2日 土曜日
部屋の隅に置かれた作業机に僕は座っていた。
「買い物に行ってきます。19時までには戻るのでお先にお風呂でも」
それは僕の決して綺麗ではない文字が綴られた一筆箋の端っこが扇風機の風にめくれる。
それは僕が3ヵ月前に書いたもので、文末には、彼女が描いた可愛いテントウムシのイラストが添えられていた。
彩芽は絵を描き始めると夢中になる癖があった。呼び掛けても声が聞こえなくなるのだ。そんな時、僕はメモ書きを残し、そっと部屋を後にする。
ゴミ箱行になるはずのメモ書きが引き出しの中の可愛い箱の中に丁寧に直されていた。
今日、引き出しの中の箱を開けるまでそのことは知らなかった。
机の前のボートには、イラストレーターの仕事のスケジュールが貼り出されている。
直近は2週間後。雑誌の挿絵のようだ。
机の上に置かれた紙には、さつまいも、かぼちゃ、なす、レンコン、秋野菜のラフスケッチ。
昨日までここに彩芽がいた形跡があった。
机の引き出しから、一筆箋と万年筆を取り出す。
一筆箋は半年前に彩芽と一緒に選んだもので、万年筆は、去年、彩芽の23歳の誕生日に僕がプレゼントした少し値が張る代物。彩芽は僕の真似をして、万年筆を持つようになった。
一筆箋には、こう書き残した。
「テントウムシは、幸福を連れて来る使者だと言われている事を知っていますか?」
文末に彩芽のイラストが添えられる日を僕は信じて待つことを決めた。
その日の夜だった。
明かりの消した部屋のソファーで僕はまだ眠れないでいた。そんなとき、ベッドから林さんの声が聞こえた。
「木立くん、まだ起きていますか?」
「うん」
俺はソファーに寝ころびながら答えた。
「暑い、部屋の温度下げようか?」
「大丈夫です。明日、彩芽さんが18歳の私を助けてくれたら、過去が変って木立くんは彩芽さんのことを忘れてしまうんですよね。そして、私は木立くんとお付き合いがはじめる」
「そうなるね」
「でも、今、25歳の木立くんは彩芽さんのことが好き」
「うん」
「でも、彩芽さんの記憶は存在しない」
「そう言う事になるね」
林さんはベッドから立ち上がり、ソファーで寝転ぶ僕の前で見下ろした。
「木立くん、もう彩芽さんに会えないんですよ。本当にそれで良いんですか?」
僕はソファーに座り直し、俯いたまま何も答えられなかった。
「私なら気にしません」
その言葉に僕は視線を上げると林さんはパジャマのボタンを外しはじめた。
最後のボタンを外し、下着姿になった。
僕は床に落としたパジャマの上着を拾い上げる。
うつむく林さんの身体は震えていた。
見た目は大人の女性だけれど、中身の林さんは18歳の女の子。
「ありがとう。林さん。その気持ちだけで十分だよ。」
僕は彩芽の身体にパジャマを掛けた。
8日目 side森平彩芽 2018年8月5日 日曜日
運命の日曜日。湿度は高く、朝からどんよりと曇っていた。
雨好きの私にとって、爽やかな1日の始まりである。
朝、目覚まし代わりのスマホよりも早く目覚める私。
鼻歌交りで起こされる朝は決まって雨だよ。とか、喜んでいるのは雨蛙くらいだよ。
とか恭介は眠い目をこすりながら、よく言っていた。
私は始発電車で神奈川県にある林さんの実家「林金物店」の近くで待っていた。
現在、朝の6時55分。林さんの自宅から職場がある東京オフィス街まで約1時間と少し。
職場に9時出社なら、あと30分くらいだろうか。
何か急用ができ、すでに始発電車で出勤している場合を想定し、祖母には駅前のカフェで待機して貰っている。
先ほど祖母からLINEで「窓際の席で待機中、「マルタイ」まだ未確認」と連絡が来た。
マルタイとは警察用語で捜査対象者を表す。
警察小説好きの祖母は、ノリノリである。
作戦に抜かりない。林さんの未来が掛かっているのだ。
林さんの自宅は商店街の中程にあり、私は少し離れたところにある自動販売機の前で待機した。リュックから朝、祖母に手渡されたビニール袋を取り出す。中身はアンパンと牛乳だった。私は電柱の後ろから林金物店を監視しながら、アンパンをかじった。
暑い。
8月5日、日曜日。今日の東京の降水確率は50% 雷指数は高い。
ただ昼過ぎには雨は上がり、花火大会は開催される。
実際、7年前、18歳の私は家族で花火大会に行った。
私は少し焦り始めていた。8時を過ぎても林さんが自宅から出てこないのだ。
10時出勤だろうか。恭介との待ち合わせは洋食屋「ボイルドエッグ」に12時
職場から洋食屋まで歩いて10分程度だろう。
そして、ずっと引っかかっている事柄が1つ。
「サーフボード」である。
林さんは何の理由でサーフボードを持参して待ち合わせ場所に向かったのか。
全く理解できなかった。
神奈川県の海岸通りならともかく、日曜日の東京オフィス街。
サーフボードを持って歩いている人なんていない。
楽観的に考えれば、その場で張り込みすればいいのかもしれない。
でも、私は、こう推察している。
おそらくサーフボードは雷に合う直前、車に乗せ忘れた人を追いかけて渡そうとした。
そして、運悪く雷に当たった。妥当な考えだろう。それなら、直前まで彼女がどこにいるのかわからない。
彼女がサーフボードを持って走り出した時、大通りの向こう側の歩道に居たら間に合わない。
洋食屋から林さんが働くであろう雑居ビルまでの範囲が広すぎる。
空模様は今にも雨が降り出しそうにどんよりと曇っている。
8時30分過ぎ、林さんが自宅から出て来た。一気に緊張が走る。
恭介の情報通りに、林さんは浴衣姿だった。でも、まだサーフボードは持っていない。
林さんは商店街を駅のある方へと小走りで向かった。
足元は下駄ではなく、スニーカーだ。私も後を追う。
日曜日の電車は空いていた。
今日は東京の花火大会があることは多くの人が知っているだろう。
ただ朝の時点で浴衣を着ている女の子は林さん1人だけだった。
祖母にLINEで「マルタイ発見、現在、電車の中で尾行中」と送る。
すぐに警察官が敬礼ポーズのスタンプが返って来た。
駅前のカフェの前で立つ祖母と合流した。
賑やかな通りを抜け、閑散としたオフィス街へと歩みを進める。
「お婆ちゃん、ゆっくりでいいからね」
私の声に軽く頷きながら
「この歳になってこんなにドキドキ出来ることがあるなんて考えなかったわ」
と言った。
林さんの足並みは軽い。
ほぼ私と同じ身長の林さんとの歩幅と祖母のスピードは違う。
私は林さんの背中を見逃さないようにしながら、辺りに視線を送る。
カフェを探す。職場に行ってからすぐに出て来るとは限らない。
今の時間帯と死亡推定時刻から逆算しても、まだ2時間近くある。
太陽は厚い雲で覆われているとはいえ、この蒸し暑さの中、
祖母を外で待たせる訳にはいかない。
信号が点滅し始める横断歩道をスキップするかのように、林さんは渡った。
私は止まる。
日曜日のオフィス街。
右を見ても左を見ても車やバイク自転車、歩行者すらいない。
私は歩き出した。林さんを見失う訳にはいかない。
林さんが右に曲がる。
振り返るとまだ祖母は後方を歩いていた。
オフィス街の曲がり角で私は立ち止まり、林さんの背中と祖母を伺う。
気持ちが焦った。
私は指で合図し、祖母が大きく頷いたのを確認し、林さんを追いかけた。
かなり年数が建つ赤レンガの雑居ビルの中に入って行った。
私はテナントを確認する。
4階、「尾灯編集プロダクション」とあった。間違いない。
祖母と合流する。
林さんがバイトする編集プロダクションが入った雑居ビルの並びの角にカフェがあった。
信号の向こう側にはディスカウントストアがあり、こちらの通りはオフィス街と違い人通りが多い。祖母を店に残し、私は自動販売機で甘い缶コーヒーを買った。
待ち合わせの時間12時まであと1時間と少し。
もしかしたら、あのディスカウントショップでサーフボードを購入するのだろうか。
初デートの前にサーフボードを買うものだろうか。
百歩譲って恭介がサーファーでサーフボードが欲しくてサプライズでプレゼントすることはあるかもしれない。でも、そんな話題は今までに1度もない。
ましてや、彼女は教習所に通うためにバイト代を稼いているのだ。
雑居ビルから林さんが重そうにサーフボードを抱えて出て来た。
正直、この展開は全く予想していなかった。
編集プロダクションとサーフボードの関係性をこの短時間では導き出せそうにない。
祖母にラインを送る。
林さんは、洋食屋があるオフィス街ではなく、祖母がいるカフェ方面へと歩き出した。
足早に歩く。私は声を掛けようと近寄る
「あの」と声をかけたと同時に、大きな雷が鳴った。
先を行く林さんが持つロングサーフボードの先が私の手先に触れた。
次の瞬間だった。
私の力が抜けていった。林さんを呼び止めようとしても声が出ない。
私は思わず腰を落とす。
私の前を林さんがサーフボードを重そうに抱えて歩いて行く。
林さんが見る見る小さくなっていく。
嘘でしょ。ここで林さんを見失ってしまうと、もう助けられない。
8日目 side 木立恭介 2025年8月3日 日曜日
運命の日曜日。部屋のカーテンを開けると朝からどんよりと曇っていた。
雨好きの彩芽にとって、爽やかな1日の始まりだろう。
朝、目覚まし代わりのスマホよりも早く目覚める彩芽は、雨の朝、
よく鼻歌交りに起こされた。朝から雨に喜んでいるのは雨蛙くらいだと思う。
僕が眠い目をこすりながら、もう2度とその光景には記憶の中でしか出会えないと思うと胸が締め付けられた。
現在、朝の6時55分
林さんは、まだベッドで寝息を立てていた。
2018年の世界線で彩芽はきっと林さんを助けるための作戦を実行してくれていると思う。僕達はそれを信じて待つ。
朝のこの時間帯でも商店街のパン屋さんだけは開いていた。
晴でも雨でも等しく焼き立てのパンの香ばしい匂いが僕を幸せにしてくれる。
僕は自分と林さんの朝食のパンを選び、店を出た。
部屋に戻ると林さんは化粧を済ませていた。
彩芽は本当にキレイな人だと確信する。
僕の中で、林さんの記憶は止まったままで、やっぱり幼い林さんのままだった。
25歳の林さんを想像するが、うまくいかない。
ダイニングで朝食を用意したけれど、林さんはあまり口を付けなかった。
僕はそのことに何も言わなかった。
「木立くん、ごめんなさい」
林さんが誤った。
「私のせいで、こんな素敵な女性との未来を台無しにしてしまうかもしれない」
「林さんが昨日、俺に言ってくれたじゃない。そういう運命なんだよ。
誰のせいでもない」
僕は心から、そう思ったことを言葉にした。
そう、仕方がない。
彩芽も僕と同じことを考えただろう。
目の前に救える命があるのに、自分の恋のために犠牲にはしない。
ただ心残りがあるとすれば、もう1度会って心から、愛してると言いたかった。
このまま、この部屋にいると何かと問題があるので、待ち合わせの時間は、カタツムリ商店街のいつものベンチで待とうと思う。
彩芽と林さんのタイムリープが終わった瞬間、2025年の僕は、彩芽のことを知らないと思うから。
部屋に鍵を閉めた時、外は、今にも雨が降り出しそうだった。
東西に約300メートル伸びるカタツムリ商店街の中央あたりには、4人掛けの木製ベンチが3台並んで置かれ、その中心には雨宿りが出来るくらいに大きなシンボルツリーがある。
その向かい側にある雨が避けられるベンチに僕と林さんは腰掛けた。
よくこのベンチに彩芽と座って、商店街で買ったクレープやアイス、たこ焼きを食べた思い出の場所。すべての思い出が消えてしまうのかと思うと心が苦しくなった。思わず泣きそうになる。手で胸を押さえていると林さんが僕の肩にそっと頭をあずけてきた。
少しして林さんがうつろな表情でこちらを見つめる。
「恭介」
僕に向かって林さんが叫んだ。ん?どういうことだ。
「恭介、私、彩芽。森平彩芽。わかる私のこと」
「彩芽なのか」
「うん」
「ここは今、西暦何年?」
「2025年.一週間前、突然、彩芽と2018年の林さんが入れ替わって」
と僕は状況を説明すると
「恭介、林さんのこと絶対に助けてみせるから。信じて待って」と彩芽は強く言った。
でも、僕は正直、もう2018年に戻らないで欲しいと思った。
「恭介に出会えて良かった」そう言った彩芽の頬に涙がこぼれる。
「彩芽、愛してる。過去が変わっても俺は必ず彩芽のことを見つけ出すから」
僕は涙を堪えながら、彩芽とくちびるを重ねた。
最終話 side森平彩芽
目を覚ますと祖母が心配そうに私を見つめていた。
アスファルトの地面に尻もちをついた状態で、祖母に支えられていた。
祖母が、私の頬をハンカチで拭う。
ふと私は、空を見上げる。まだ雨は降っていない。そっか。
2018年、18歳の私も泣いていることに気が付いた。
「離れていても、ずっと一緒だから。たとえ記憶が消えても彩芽のこと見つけ出し、必ず会いに行く」
そう最後に言ってくれた恭介の想いが胸を締め付ける。
「もう大丈夫」そう言うと祖母の表情が安堵に変わる。
「おばあちゃん、2025年の世界線で恭介に会えた。私のことを必ず見つけ出すって、記憶もなくなるのに、どうやって見つけ出すんだろうね」
笑いながら、そう言うと祖母は深くうなずき、「そうだね」と涙ながらに呟いた。
私は、この記憶を持ったまま2025年に戻り、過ごす。
ただタイムリープしていない恭介は違う。
道ですれ違っても、きっと恭介は気が付かない。そんな現実を受け入れられるだろうか。不安にまた胸が締め付けられる。
遠くの方で雷がとどろいた。もう時期、雨が降る。
そうだ。感慨に耽っている場合じゃない。
「お婆ちゃん、何分ぐらい経った?」
「5分も経ってないよ」
「林さんは?」
「私がカフェから出てきたら、サーフボードを持った彼女がリサイクルショップに入って行ったよ」
そう言いながら祖母はリサイクルショップの大きな看板が見える交差点の方を指さした。
店内入口付近の壁には、【どこよりも高価買取】と書かれたリサイクルショップ「restart」の看板。
祖母がいたカフェの斜め向かいに、その店はあった。
店に入るとやけにカップルの比率が高く、小さな子供でも知っている陽気な曲が流れていた。店内を見回す。
賑やかな店内でも、ひと際、浴衣を着た林さんは目立っていた。
林さんの手元にはサーフボードはなく、電化製品を眺めていた。私は少し離れた棚に隠れて、その様子を窺った。査定にでも出しているのだろう。
彼女の未来を知る私は、査定不成立に終わることは知っているのだけれど。
「番号札3番のお客様、査定の方が終わりましたので、1番の買取カウンターまでお越しください」
しばらくして、館内放送が流れ、林さんがカウンターに向かう。
時を同じくして祖母が店内に入って来た。
私は祖母に向かって大きく手を振り、手招きする。
[買取りカウンターはこちらです]と表示されたレジに向かった。
祖母と私は買取カウンターに背を向け、商品を選ぶフリをして林さんと店員の話に聞き耳を立てる。しばらく続いた交渉は、やっぱり折り合いが付かなかったようだった。
浴衣姿の林さんは、自分の背丈よりもはるかに長く3メートルはあるであろうサーフボードを抱えて店を出た。店の壁にサーフボードを立て掛け、入り口付近にあるベンチに腰掛ける。私は、そっとと声を掛けた。
「もしよかったら、そのサーフボード私に売ってくれませんか?」
こちらを向いた林さんは、驚いた表情を作り私と祖母を交互に見やる。
「6万5千円で買い取らせてください」
祖母の援護射撃に林さんが戸惑いの表情を浮かべる。
「あの、もしよかったら向かいのカフェで要相談ということでどうでしょうか?」
私がそう言うと林さんは、戸惑いながらも小さく「はい」と頷いた。
信号が変わり、3人で向かいのカフェに向かった。そして、同時にカフェの前で立ち止まり、
3人同時に、あることに気が付いた。
3メートルほどある木の板を小さなカフェに持ち込んでも良い物だろうか。
その時だった。ポツンと私の頬を雨が濡らした。
「あっ雨」林さんが呟く。祖母は店内に入り、店員と話し始めた。
男の店員さんが「サーフボードですね。お預かりします。お好きな席へどうぞ」
と言った後、「僕サーフィンやってるんで」と付け加え、入口付近に立てかけてくれた。
ありがとうございます。助かった。3人同時に頭を下げた。
私達は、リサイクルショップが見える窓際の席を選んだ。
林さんは窓際の座り、私はその隣に座った。
祖母は私の向かい側に座った。
「あの、前にお会いしたことありますよね。1週間前、雨の日にスマホを拾ってくれましたよね」
注文を済ませると林さんが言った。
「覚えてくれてました?」
「はい。とても綺麗な人だったんで」
苦笑いを浮かべる私を祖母が嬉しそうに見ていた。
ふと思った。タイムマシンの発動条件について、
はじめはスマホ、そして、サーフボード。
それを媒介にして私と林さんが接触した瞬間、雷が鳴り、感電するかのようにタイムリープしているような気がした。
「あのーどうしてこのサーフボードが欲しいのですか?」
アイスコーヒーを一口含み、林さんは言った。
正直、その理由は考えていなかった。困った。
祖母に助け舟を出して貰おうと視線を送ると
チョコレートパフェのてっぺんにのっているサクランボのヘタを指でつまみ上げ、
嬉しそうに口の中に入れようとしていた。困った。私はアイスコーヒーをストローでかき混ぜていると
「あなたとリサイクルショップの店員さんの会話のやり取りが良く聞こえて居てね」
と言った祖母は、自分の耳に入った補聴器を指さし林さんに見せた。
「私ね、都内で雑貨屋さんをやってるの。このロングボードっていうの。レトロな感じに
一目惚れしちゃってね。ぜひ、店内にディスプレイしたいなと思ったのよね。駄目かな」
林さんに、イタズラな笑みを向ける。
「いえ、駄目ではないです」
「そう、じゃあそのサーフボード6万5千円で私に売って貰えるかしら」
「はい、お願いします」
交渉成立だ。祖母は私にウインクする。
気が付くと窓の外は本降りになっていた。
「浴衣可愛いですね。もしかしてこれから花火大会ですか?」
「そうです。今朝母には止められたんですけれど、どうしても着たくて」
「もしかして、デートですか?」
私がそう言うと林さんは頬を赤くした。
「いや、デートというか、好きな人に花火大会に誘われて、それで・・・・・・」
そう言って林さんはより赤く頬を染めた。
「へぇー羨ましい。私はまだデートしたことないです」
それは嘘じゃない。私の初デートは21歳の時、恭介だった。
「6年間、片思いでした。正直、付き合えるなんて想像もしていませんでした。
そうだ、この近くで1週間前、偶然再会したんです。そこで彼から告白されました。
私、神奈川県に住んでいて、まさか東京のオフィス街で再会するなんて、でも・・・・・・」
林さんの言葉が途切れる。
「でも何?」
私は疑問符を投げかける。
「告白されたんですが、まだ返事はしていないんです」
私はうなずく。
「まさか私のことが好きだなんて想像もしていなかったし、タイミング悪く、職場の上司から電話が鳴って、私はその場から逃げるように立ち去りました」
「そっか。待ち合わせ場所へ行くことが告白の返事になる訳ですね」
「はい」
「やっぱり、それは林さんの彼への想いが巡り合わせたんですよ」
「えっどうして、私の名前を知っているんですかか?」
しまった。祖母の方を見ると
柄の長いスプーンでチョコレートパフェの底をかいていた。
「リサイクルショップの買取の際に店員さんがそう呼んでいたので」
私はグラスの半分になったアイスコーヒーに話しかけるように言った。
「そ、そうでしたか」
あまり納得していない様子が声色だけでうかがえた。
「私、森平、森平彩芽と言います。で、こちらは私の祖母で」
と改まって自己紹介すると林さんは律義に頭を下げてくれた。
林さんは窓の方に顔を向けたり、壁に掛かった時計を気にしていた。
現在の時刻は11:35
「彼氏さんとは、どこで待ち合わせしているの?」
祖母がホットコーヒーを飲みながら訊いた。
「ここから15分ほどの場所にある洋食屋さんで待ち合わせしています」
「そうですか、せっかくの浴衣が台無しになるので雨が止むまでここに居ませんか?」
「でも彼が心配するかも。あの私、あの日、緊張しすぎて、連絡先訊くの忘れてしまって」
私は席を立とうとする林さんの太ももの上に手を乗せる。そして、
「雨の中、あれを持って歩くんですか?」
私は入り口付近に立てかけられたサーフボードを指さした。
「ちょっとくらい遅刻したくらいで怒り出すような男なら別れた方がいいです。心に余裕がない男はダメです」
と祖母が言う。
「そ、そうですか」
と言った林さんの表情は冴えない。
雨が一段ときつく降り始めてきた。
林さんの表情は暗くなる一方で、一刻でも早く恭介に会いたい気持ちに、心が締め付けられる。でも、林さんの命を助けられるのは、私と祖母しかいない。
「実は手相を見るのが得意なんです」
と私は口から出まかせを言った。林さんの手を取り、
「神秘十字線と言って、この運命線と知能線を結ぶ横線に縦線が交差して十字になっている人は、運命の人を探し出す力があるとされているの」
と適当なことを言った。恭介にこの手相があることを私は知っている。
「私には無いですね」と林さんは自分の手相を覗き込んだ時だった。
ふと視線を感じると店に見覚えのある人物が入店して来た。
恭介。思わず、心の中で名前を呼んだ。首から一眼レフを下げていた。
こちらを窺いながら席に着いた。
私は勘が働いた。
「あの、さっきから向こうにいる男子、林さんのことをチラチラとみているけれど、お知合いですか?」
私は助け舟を出す。
林さんは顔を向ける。
「木立くん」と声を漏らした。
私は席を立ち、彼を手招きする。
「どうぞ、どうぞお座りになって」と祖母が恭介に隣の席を促す。
彼を林さんの対面に座らせた。
「もしかして、この彼が噂の初デートの相手ですね」
と私は冷やかすように林さんに言うと、顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。
「すいません。お邪魔でしたら、すぐに席を移動しますんで」
と居心地悪そうに恭介が言った。
「彩芽ちゃーん」と遠くの席から声がした。
祖母だった。私はすぐに勘が働き、祖母が座る席に移動した。
「お婆ちゃん、素敵な彼氏でしょ」
祖母に彼氏を紹介することが出来て良かった。
窓の外は一段と激しく雨が降っていた。
ふと恭介がいる方に視線を向けると2人が手招きしていた。
無事、告白の返事は出来たようだった。
「この間、公園のベンチでお会いしましたよね?」
「あ、はい」
「告白の方はどうでしたか?」
この展開は予定外だった。すっかり忘れていた。
「これも偶然ですか」と林さんは驚きの表情を見せる。
「それより彼氏さん手相を見せて貰えますか?」
恭介は私に手のひらを差し出した。
「ほら、林さん、彼、神秘十字線あります」
「その手相があったら、どうなんですか?」
「運命の人を手繰り寄せる力がある人らしいです。でも私にはありません」
林さんが残念そうに言った。
「どれどれ、林さんの手相見せてみて」
恭介は林さんの手相を見つめる。
「ありがとう、お婆ちゃん」
私は祖母にだけ聞こえるように、言った。
祖母は私を見ながら何度も頷いた。
18歳の恭平を見納める。
本当にありがとう。もう1度、祖母に合わせてくれて。
「森平さん、手相見せて貰っていいですか?」
林さんが私の手に触れる。
「すごい、すごい、木立くんと同じ手相がある」
と言った林さんの屈託のない笑顔を見て、この人なら恭介と幸せになれると心から思った。
「お2人さん、こっち向いて」
斜め向かいの席に座る恭介が一眼レフカメラのファインダーを覗いていた。
林さんは私の手を触れながら優しい笑顔を作る。
恭介がシャッターを切った瞬間、雷鳴がとどろき、林さんが「きゃ」と悲鳴を上げた声だけが私の意識に届いた。店内の明かりが一瞬暗くなる。そして、私の意識が薄れていくのがわかった。
意識の遠くから心地よい音がする。
まるで小鳥がさえずるように雨音が聞こえる。
私はゆっくりと目を開ける。見覚えがある風景が視界に広がる。
私は今、レイングッツショップ「今日は雨曜日」の店内の椅子に座っていた。
私が2025年を離れたのは、たった8日間。世の中の出来事なんて大して変わっていない。
でも、私は自分の過去を変えてしまった。
正直、どれだけ私の未来が変っているのか想像もつかなかった。
正直、怖かった。私の知らない人が、私のことを知っている世界線。
ひとつだけ確かなこと。それは、もう木立恭介は私の恋人ではないこと。
受け入れるのは時間が掛かりそうだった。上手く対応できないとこれからの人生に差支えがでそうなので、とりあえず、スマホの電源を落とした。
少しずつ順応していこうと決めた。壁掛けの時計を見る。もうすぐお昼の12時。
あっ。思わず声が漏れた。
店の端に、見覚えのあるものが立てかけられていた。
それは祖母が購入してくれたサーフボードだった。
そして、1枚の写真が飾られてある。そこには2018年、18歳だった頃の私と林さんが笑顔で映っていた。もちろん、その写真を撮ったのは恭介だ。
記憶は書き換えられていない。ありがとう、お婆ちゃん。
店の1階は店舗と置くには小さなキッチン、トイレ、風呂。
2階がダイニングキッチンと寝室と物置という間取り。
今日、お店は休みにしようと思う。私は2階へ上がり、テレビを点けた。スポーツコーナーで、ドジャーズの大谷が四年連続40号のホームランを打っていた。
「次の話題です。昨日発表がありました第173回芥川賞、直木賞の結果「受賞者なし」のという発表に書店業界も衝撃がまだ収まらないようです。その様子をお伝えします」
女性アナウンサーが興奮気味に伝える。
「芥川賞候補に挙がった1人、林未来さんのインタビューをどうぞ」
次の瞬間、私はテレビの前へ駆け出した。私が知っている18歳の林さんが7年の時を経て画面越しに再会した。
良かった、良かった。林さんの素敵な未来に思わず涙が溢れる。
店の呼び鈴が鳴った。宅配便だろうか。階段を駆け下りドアを開けると見覚えある女性が立っていた。
「お久しぶりです」
と言った彼女は、あの日と同じように浴衣を着ている。
「中へどうぞ」
「ありがとうございます」
私の頭の中は混乱していた。数分前はまだ幼さが残った女の子から立派な女性に変貌した林さんが目の前にいる。頭を整理する必要があった。
「今日、ここに来たのは、おばあさまに頼まれていたからです。記憶が足りない部分を埋めてあげて欲しいって。もちろん、了承しました。あなたは私の命の恩人ですから」
林さんはそう言ってニッコリと微笑む。その笑顔は7年経っても変わらず可愛い。
恭介が好きなるのもわかった。
「あの、とても言いにくいのですが、恭介さんの記憶の中に彩芽さんはいません」
「それは理解しています。あの林さんはタイムリープした記憶は残っているんですか?」
「はい。ただこの事実を知っているのは私と彩芽さんのおばあさまの二人だけです。
7年前のあの日、大きな雷が鳴ったあと急に彩芽さんが余所余所しくなってまるで、この場所に突然連れてこられたかのように。その瞬間、状況を悟りました。こちらに戻って来た彩芽さんの記憶は消えていることに」
「そうでしたか。あの・・・・・・恭介、いえ、木立さんは今、お元気で過ごしていますか?」
「はい」
林さんが満面の笑顔で答える。それは良かった。
「本当に彩芽さんには感謝しかありません。命を助けてくれ、そして、恭介さんと付き合うことが出来た。でも・・・・・・」と声のトーンが少し下がる。
「でも、なんですか?」
「でも、恭介さんとの交際期間は3年で終わります。これは仕方ないです。誰のせいでもないです」
「そ、そうですよね」と私は愛想笑いを作るが何て言葉を返せば良いか見つからないでいた。
しばらくこの店に雨の音だけが響いた。
「ある日、素敵なお店を見つけた。一緒に行こう」と恭介さんに誘われて来たのが、この店でした。その時、私の恋はもうすぐ終わるんだと思いました」
林さんは窓の外をじっと見つめながら言った。
「え、それはどういうことでしょうか?」
私には、まったく意味が分からなかった。
「やっぱり運命の人はいるんだなって。彩芽さんなら仕方ないって、思いました」
私なら?
「えっと、つまり・・・・・・今、恭介は、」
「彩芽さん、あなたが恭介さんの恋人です」
え!
思わず、店内に私の感嘆の声が響き渡る。
「彩芽さん、またこの店に伺います。今日、これから青空写生クラブが午後からありまして、それでは。あ、そうだそうだ。おばあさまも毎週参加されていますよ」
と林さんが矢継ぎ早に言った。
「ええ、祖母は生きてるんですか?」
「もちろん、えっもしかしてタイムリープしなければ・・・・・・」
「はい。私が大学2年生の時に」
「だからですね。おばあさま、ものすごく食事に気を付けています」
そう言った林さんは、笑いながらドアを開けて帰って行った。
窓の外は、すっかり雨は上がり、青空が広がっていた。
この1週間、とにかく色んなことがあり、疲れてしまった。
スマホの電源を入れると間もなくして、着信音が店に響く。
「もしもし彩芽、電話の電源が切れてたみたいだけど大丈夫?」
私は必死で涙をこらえながら返答した。
「恭介、私、大丈夫じゃないかも」
終
