雨に濡れた初恋
2018年7月29日 日曜日
Side林未来
私は信号に立ち止まり、文芸情報誌をめくる手をとめた。
小さな編集プロダクションでアルバイトしている私は、これからランチをとるために行きつけの洋食屋に向かっていた。
ふと横を向くとオフィスビルの入り口ガラス扉に1人の女子高生が映りこんでいる。
白の半袖ブラウスに紺と水色のチェックスカート。
高校を卒業してもうすぐ半年。
そろそろ制服を処分しようと考えていた私は、昨夜、最後にもう1度だけ着ようと思い立ち、今日、職場のローカールームで着替えた。今日、出勤しているのは私だけ。
日曜日の東京オフィス街、片道3車線の大通り。
陽射しが厳しい夏の正午過ぎの歩道。洋食屋に向かう道すがら、文芸情報誌を読みながら歩いても誰かとぶつかる心配はいらない。私だけの青春の着納め。
その代わりに、夏の湿った生ぬるい風が制服のスカートを揺らして逃げていった。
バイトをはじめて約5ヵ月。現在、大学1年生18歳の私は実家から女子大に通いながら教習所に通うための入学金約30万円を稼ぐため夏休みは毎日働いている。
大学に進学させてくれた両親のために、祖母の病院の送り迎えが出来るように免許を取る。
教習所代を出して欲しいとは言えなかった。
私は雑誌から顔をあげ、交差点の歩行者の信号を確認し、足を止めた。
人の気配がしない日曜日のオフィス街は、子供の頃に観たアメリカのSF映画のように、
私だけが世界から取り残されたような感覚になり、ちょっとだけ心細くなる。
でも、今日は違った。
信号待ちの向こう側に、オフィスビルにカメラのレンズを向ける男性がいた。
大きめの黒いリュックを背負った男性は、
生存者1名の私よりも現代建築物がお気に入りのようだ。
レンズの向く先には「オフィスビル 画像」で検索すれば
最初に出てくるような一般的なオフィスビル。
強いて言えば、窓ガラスに映る青空と雲が、
かき氷のブルーハワイとまだらにかかった練乳のように見えるぐらい。
彼にはファインダー越しに、凡人には見えない何かが見えているのかもしれない。
ああそうだ。私も知っている人がいる。学生時代の放課後、私の初恋の彼はいつも首からカメラを提げていた。
ふと、青春の思い出が頭をよぎった。
高校の卒業間近だった。あの日も誰も居ない本館と別館を繋ぐ4階渡り廊下を夕陽が照らしていた。
ずっと片想いだった彼は私の存在には全く気が付かず夕焼け空に向かってシャッターを切り続けていた。
告白するなら、これが最後のチャンスかもしれない。そう思った。
普段はよく可愛い写真部の後輩が居て、私の入る隙などない。
写真部は、彼目当てで入部して女子がいた。
私はそっと立ち止まり、彼にゆっくり近づく。
私は手も足も心も震えて、声を掛けることが出来なかった。
彼を呼びかけようとする言葉は喉に貼り付いて、一言も出てこなかった。
その時、私は悟った。もうこの恋は叶わないって。
でも、もしタイムマシンがあれば、彼に伝えたいことがある。
好きという想いではない。あの時、助けてくれた感謝の気持ちを伝えたい。
それが私の青春の後悔。
Side木立恭介
僕は一眼レフカメラのファインダーを覗くのをやめた。
オフィスビルの窓ガラスに映りこむ夏の青空と細切れの雲に、
思わず頬を緩める。まるで水族館の水槽で漂うクラゲのようだと思った。
大学の写真サークルに所属する僕は「温もりのある休日の東京オフィス街」というテーマの写真を撮っていた。
サークルの先輩の紹介でフリー素材に使うための写真撮影のバイトをしている。
今日はそのニッチなリクエストに答えるために、陽射しが厳しい朝から日曜日のオフィス街を歩き回っていた。
現在、正午過ぎ。街路樹が木陰をつくる歩道には僕以外誰もいない。
これまで撮った写真を確認していると自分の眉根がだんだんと寄っていくのがわかった。
親子連れも恋人達も野良猫もいないこの場所で、温もりを感じさせる写真を撮るのは難題だった。提出期限は10日後。
僕は交差点の赤信号に足をとめる。カメラのファインダー越し、
オフィスビルの窓ガラスに映りこむ細切れの雲の中に、ハート型の雲を見つけた。
ハート型の雲に想いを込めると恋が叶うおまじないがあることを知ったのは、
中学生のとき。当時、気になる女の子がいた。好きとかそんな感情ではない。
「気になる」が一番相応しい。不思議な女の子だった。同学年でクラスメイトにはなったことは1度もないが、いつも1人でいて、ずっと本を読んでいる子だった。
今頃どうしているだろうか?
僕はファインダーを覗くのをやめる。空に浮かぶハート雲を探そうとしたとき、
さっきまで誰もいなかったオフィス街の信号待ちの向こう側に、リュックを背負い、雑誌を立ち読む女子高生を見つけた。それはまるで、タイムマシンで現れたかのように突然現れた。
ふと頭を青春の思い出が頭をかすめる。
僕がずっと気になっていた女の子は、いつも読書をしていた。
休み時間も昼休みも放課後も、廊下を歩くときだって本を読んでいた。
その頃僕は写真部で、首から一眼レフカメラを提げていた。
彼女が映った写真はどれも本を読んでいた。
彼女は校舎内を移動する時、いつもリュックを背負っていた。
周りでは彼女のことを「ニノキン」と呼んでいる人達もいた。
二ノ宮金次郎をもじっているだけなら良いが、漢字に変換すれば「ニノ菌」。
彼女は読書に夢中になると前が見えなくなり、前を行く生徒にぶつかってるシーンを目撃した。
「ニノ菌」にぶつかられたら失恋するという学校の7不思議のひとつにまで数えられるようになり、彼女に対して嫌悪感を抱き、注意する生徒もいたが、彼女は直角になるほど腰を曲げ謝罪するが、結局、卒業するまで、ながら読書をやめることはなかった。
誰かが彼女は、何とかという精神疾患だと言っていたが、僕は熱烈に本が好きな女の子だと思った。
注意しても意味が無い猫のようで、僕は彼女のことが可愛かった。
僕が出来ることは彼女を見つけると背後に立ち、ぶつかりそうな時、彼女のリュックを軽く摘まみ、進行を止め、回避させた。
彼女は僕に止められたことに気が付かずにその場で足踏みを続ける。
彼女が顔を上げた瞬間、僕はそっとその場を離れる。それの繰り返しだった。
まるで親猫が子猫の首を噛んで持ち運ぶみたいに。
話しかければ良かったのかもしれない。でも、出来なかった。
恋愛に興味はないようだったから。
彼女はいつも話しかけるなオーラをまとっていた。
結局1度も話しかけられなかった。
今はどこで何をしているのだろうか?
カシャリ。うつくむ女子高生に向かって素早くフォーカスを合わせ、こっそりシャッターを切った。
僕は何事もなかったように空を見上げ、ハート雲を見つけると
「シャッターチャンスが訪れますように」と絶対に誰にも聞こえない声でつぶやいた。
そして、また向こう通りのオフィスビルの窓に映るハート型の雲にレンズを向けた。
僕は歩行者の信号が青に変わったことを知らせる音楽が流れても、オフィスビルに向かってシャッターを切った。
1枚、2枚、3枚。
数歩下がり、アングルを変えてシャッターを切ろうとしたとき、
ピンク色のハート型の風船が漂っていることに気づいた。
日曜日だから、きっとどこかでオープニングセレモニーでもしているのだろう。
風船を眺めながら、ふと、ひらめいた。
このまま漂えば、風船がビルの窓に映りこむハート雲と同じフレームに収まり、
温もりのある休日の東京オフィス街の写真が撮れるのではないかと。そんな直感がした。
ファインダーを覗きながら、もう数歩下がり、シャッターボタンにのせた人差し指に力を込めようとした瞬間だった。
僕の脇腹にゴツンと何かが当った。直後にバサリと音を立てて、何かが落ちた音がした。
「エッ」と僕が発した声のあとに続いて、「アッ」と女性が発した声がした。
あ、と思ったときにはもう手遅れで、
風船はすでに窓に映るハート雲から離れた場所を漂っていた。
「すいません」
その声のする方に体を向けると僕が胸の前に下したカメラに向かって、もう1度
「すいません」と深く、さっき見かけた女子高生が頭を下げた。
彼女の頭頂部を見ながら、
「いえ、こちらこそ、すいません。こんな所に立っていたから」
と言いながら僕は足元に落ちた雑誌を拾う。
それは文芸紹介雑誌ざった。
手渡そうと頭を上げる女の子の顔を見た瞬間、「えっ」と言葉を発した。
その直後、僕の記憶のアルバムのページが風切る音を立てながら、めくれた。
林未来さん。
まるでタイムマシンでやって来たかのように、あの日のまま制服姿の林さんが目の前に立っていた。いや、ありえない。もしかして・・・・・・そっくりな妹さん?
彼女が僕の顔をじっと見ている。
まるで異星人を見つけたかのように。
でも、こんな偶然起こるんだろうか。
完全に金縛り状態だった。動けない。そして、相変わらずなぜか彼女も僕の顔を見上げたまま動かなかった。
沈黙が流れる。こんな偶然、もう二度と起こらない。それだけはわかった。
何か声を掛けなくては、絶対に後悔する。
「あ、あの」と言いかけた瞬間、
「木立恭介くんですよね」
と林さんは、アスファルトの地面に話しかけるように言った。正直、驚いた。彼女が僕の存在を認識していたことに。
「私、同じ中学、高校の同級生で林未来と言います。あと図書委員で文芸部にも所属していました」
と相変わらず、アスファルトの地面に向かって自己紹介した。
間違いない。やっぱり本人だ。でも、どうして母校の制服姿なのだろう?
「ずっと言えなかったことがあるんです」
そう言った彼女の視線が僕の胸の辺りで止まる。
ずっと言えなかったこととは・・・・・・・なんだろう?。
「あの・・・・・・中1の体育祭の時、助けてくれてありがとうございました」
僕の首の辺りを見ながら彼女が言った。
「えっ」
「借り物競争のとき、眼鏡男子と手を繋いで・・・・・お、覚えてますか?いや、そんなの覚えてないですよね。いいんです、いいんです。気にしないでください」
彼女の視線が僕のあご先に向かって上がりはじめたのに、また地面に向かって下がっていった。
「うん、よく覚えてる。林さんだよね」
中1の体育祭。手を繋いだのが林さんと気が付いたのはゴールテープを切った後の事だった。僕は逃げるようにその場を後にした。
「えっ私のことを知ってくれていたんですか?どうして?たぶん、クラスメイトでも私の名前を知らないと思います」
と林さんは自分のことを過小評価していた。
「ゆ、有名だよ。林さんは読書が好きな女の子として、校内では」
と僕が言うと林さんは悲しそうな表情を浮かべ、俯いた。
「違う、違う。僕は好きだよ。林さんのことが」
と言った後ですぐに誤解を招く発言だと気が付き、訂正する。
「読書が好きな人が好き。言う意味で」と付け加えた。
僕は率直な疑問をぶつけた。
「どうして、林さんは制服を着てるの?」
と僕が言うと彼女の視線が鼻の辺りまで上がり、
「私、あの時のお礼がずっと言いたくて」
と返事が来た。
頭が混乱していた。
どういう意味だろう。
林さんが今日、制服を着ているのは、僕にお礼がしたいから。
一体どういう意味だ。
次の瞬間、
ぎゅるぎゅるぎゅる
と激しく彼女のお腹から鳴った音が、静かなオフィス街に響き渡った。彼女は慌てて雑誌でお腹を押さえた。うつむいている林さんの顔がだんだん赤くなっていく。
こちら側に向いた雑誌の表紙には、チンパンジーが眼鏡を掛けて文庫本を読んでいた。
情報量が過ぎる。僕の頭の情報処理能力が追い付けないでいた
要約すると
林さんが制服を着ると僕のお礼になる。林さんの制服姿を僕が好き。
えっまさか。こっそり、林さんを写真に撮っていたことがバレていた。
誰も居ないオフィス街なら、誰にも気にせず写真が取れますよ。
そういう意味だろうか。背中に汗が伝っていくのがわかった。
「全然、全然いいのに」
「良くないです!」
林さんは顔を真っ赤にしながら、それを否定した。
また沈黙が流れた。それじゃあ1枚だけ。とカメラを構えようとした瞬間
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あの、そのときのお礼に、これからランチおごらせてください」
とオフィス街に響くくらい大きな声で言った。直角に腰が曲がっている。
思いがけない林さんの一言だった。
ええどうなっている?
駄目だ。林さんと日本語が通じない。
Side 林未来
予想だにしない展開だった。
日曜出勤した誰もいないアルバイト先で、
絶不調のコピー機と格闘していた1時間前の私には、夢にも思わない出来事が起きたのだ。
日曜日のランチタイム。オフィス街で偶然ぶつかってしまった男性が、初恋の木立くんだなんて。「林さんだよね」木立くんは私の名前を知っていてくれた。私は激しく動揺していた。
そして、私の行きつけの洋食屋「ブラインド エッグ」のテーブル席に木立くんと向き合って座っていた。
あまりの緊張に、正直、ここまでの道すがらの記憶がない。
一体私はなんてことをしてしまった。
優しすぎる木立くんのことだから、私の誘いを無下に断れなかったのだろう。
あの時も木立くんは優しかった。
彼との出会いは、中学1年の時の体育祭。
あの日、私は地球から1人取り残された気持ちで広いグラウンドに立っていた。
運動音痴な私は運の要素が強い借り物競争にあてがわれた。
白い紙に書かれたお題は「眼鏡男子と手を繋いでゴールする」だった。
正直、私は、ぜんぜん目立たない文芸部の女子。
クラスの前で固まっていた私に、担任の先生が駆け寄りお題を声に出した。
顔を上げると眼鏡男子は一斉にうつむき、あからさまに拒否反応を示していた。
クラスの半数は眼鏡男子と言うのに。
私はひとりぼっちだった。実際は1分くらいだったかもしれない。でも私は10分以上そこに立たさせれていた感覚だった。消えてしまいたかった。
「誰か行きなさいよ、男子」
「嫌だよ」
そんな声が聞こえてきた。今にも心が潰れそうな、そんな時だった。
「僕で良ければ、一緒に行こう」
次の瞬間、私は手を握られて走り出していた。
「1年3組 木立」とゼッケンに書かれていた眼鏡男子。恥ずかしくてちゃんと顔は見られなかった。
ゴールテープを切り、繋いだ手を離してすぐに彼は走り去って行った。
その日から、私は木立くんにお礼を伝えようと何度も話しかけようとした。
でも、出来なかった。日が経つにつれて、それは恋愛感情へと変わっていった。
木立くんと私は、窓際の4人掛けのテーブル席に向かい合って座った。
テーブルの端に、私は文芸情報誌を置き、木立くんは一眼レフカメラを置いていた。
大きな窓は丁寧に拭かれていて、新鮮な野菜が評判の清潔感が漂う私のお気に入りの店。
店の壁には
「本日のスープ、大根のポタージュ」
と書かれたチョーク文字のブラックボードが掛かっている。
来客を知らせるカウベルの心地よい音。
デミグラスソースのいい匂い。
いつもと何も変わらない。
少しずつ冷静さを取り戻しつつあった。
店員さんに注文を尋ねられ、
「オムライスと本日のスープと野菜セットを2つ下さい」
と答えた。
次の瞬間、私の好きなものを2つ注文してしまっていることに気が付いた。
メニュー表を見ていた木立くんの眉がピクリと動く。
「ごめんなさい。勝手に注文してしまって」
「いえ、大丈夫です」
正直、何を話していいのかわからない。
木立くんも困っているようだ。
彼は手持無沙汰に、何度もおしぼりで手を拭い、グラスの水に口を付けていた。
私は自分の行動に後悔し始めていた。
やっぱり木立くんは優しい人だ。
道でぶつかった相手、同級生だったとはいえ、1度も話したことの無い女子からの食事の誘いを引き受けてくれた。きっと恋人がいるかもしれない。いや、いるに違いない。
傷つけてはいけないと思い、ランチだけならと付き合ってくれたのだろう。
女性に恥をかかせてはいけない。ジェントルマンだ。
私はまた木立くんに助けてもらった。
もし私が逆の立場だったらどうするだろうと考える。
私はきっと断れないくらい必死の表情だったのだろう。
こんな偶然、もう2度と起こらない。
これまで自分から男子に話しかけたことはない。
木立くんに助けてもらったあの日以降、
私は話しかけるタイミングを計り「ちゃんとお礼を言わなければ」と考えていた。
休み時間、放課後。でも、勇気がなく時間だけが過ぎて行った。
彼は困っている人をよく助けていた。
だから彼にとって私は日常の延長線上にあった出来事の1つだったのかもしれない。
でも、私にとってみれば人生最大の出来事。私はいつしか彼に恋をしてしまっていた。
地元の同じ高校に進学した。
彼は眼鏡男子からコンタクトに換えた。私も彼を真似、コンタクトにした。
同じクラスにしてください。恋の神様にお願いをしたけれど、結局、中高6年間、1度も同じクラスになることはなかった。
テーブルにオムライスが運ばれてきた。
たっぷりとかけられたデミソースの甘く濃厚な匂いをまず鼻で味わい、
ふわとろタイプの卵にそっとスプーンを差し入れる。
ひと匙目を口に入れると舌の上で卵とチキンライスとデミソースが絡み合い、
心の中で「美味しい」つぶやく。
そんな私の普段通りになんてことは出来るはずもなく、ただ食べるという行為を続けるだけだった。
ちらりと木立くんの表情を伺うが、ぜんぜん楽しそうじゃない。
むしろ、なんで俺、ここにいるんだ。という表情をオムライスに向けていた。
ますます話しかけられなくなってしまった。
黙々と食べた。味なんてしない。
そして、木立くんに見られていると思うと緊張感が半端ない。
食事は残り3分の1ほどになったときだった。
「この大根のポタージュ、すごくおいしい」
と木立くんが言った。
「そ、そうですね」
ただ、その一言で会話が途切れてしまう。会話はキャッチボールだから。と言った母親の言葉を思い出す。
「イ、イソチオシアネートって聞いたことありますか?」
私の声に少し驚いた彼は首を左右に振る。
「大根の栄養成分で活性酸素を除去したり、がん予防になるんです。でも、興味深いのは、実は大根の中には、イソチオシアネートは存在しないんです。大根の中には、元になる2つの成分が存在して、噛んだり、すり潰す事で細胞が壊れて成分が合わさって、イソチオシアネートを生成するんです」
私は自動読み上げ機みたいに大根の知られざる効能を話した。
木立くんの眉がピクピクと痙攣した。
しまった。
「この大根のポタージュ、すごくおいしい」の問い掛けに、もっともふさわしくない返答をしてしまった。
何言ってんだ私。そんな情報どうでもいいでしょ今。
想像以上に木立くんの引きつる顔。気まずい。
苦笑いを浮かべることしか出来なかった。
黙々と目の前の料理を消化していく。
そして、ちょうどデザートのかぼちゃのロールケーキに手を付けようとしたときだった。
「え、雨?」
私は窓ガラスに雨粒が付いていることに気づいた。
「あ、ほんとだ」
窓の外を見るとさっきまでの青空は無くなり、雨が地面に色を付け始めていた。
私は制服のポケットからスマホを取り出し、天気予報を見た。
「え、嘘。降水確率80% !? 朝は10%の雨予報だったのに!」
私は独り言のように呟いた。
「ちょっと待っていてください。
今のうちに走って職場の置き傘を取って来ます。すぐに戻りますから」
私は席を立った。この空模様は本降りになる予感がした。
「俺なら大丈夫だよ」
と木立くんも席を立ち、私を引きとめようとした。
「よくないです。こちらからぶつかっておいて、ランチまで付き合ってもらったうえに、
風邪まで引かれたら、最悪、高価なカメラが壊れでもしたら私、一生後悔しますから。それに絶対に本降りになりますから」
それは本音だった。今でも嫌われているかもしれないのに、カメラまで壊しでもしたら、
初恋の相手に恨まれるのは避けたい。
私はそう告げると降り出した雨の中、走って職場に向かった。
Side木立恭介
僕はテーブルのレモネードのストローに口を付け、窓の外を見つめた。
店から出てきた彼女が、降り出したばかりの雨を気にしながら駆け出す後ろ姿を見送った。
テーブルには、レモネードとアイスティー。
かぼちゃのロールケーキが2つ。
そして、再会のきっかけをくれたグルメ雑誌と一眼レフカメラ。
休日の誰もいないオフィス街で、温もりのある被写体を探していた1時間前の僕には、
夢にも思わない出来事が起きた。
窓の外を見ると彼女が言っていた通りに傘がないと、
駅に着くまでに、びしょ濡れになる雨に変わっていた。
1時間前の青空が嘘のような暗灰色の空を見ていると、
ハート型の雲もハート型の風船も彼女との再会すら、すべて夢で見た光景のように思えてきた。
窓の外は、さっきより雨脚が強くなってきていた。
林さんが言った体育祭での出来事は覚えている。
困っている女の子がいる。俺で良ければ。そんな軽い気持ちだった。
手を繋ぎゴールテープを切った。
女の子を見ると林さんだった。口から心臓が出そうになった。
俺はゴールテープを切るまで手を繋いだ女の子が林さんだとは気が付かなかった。
傘を差しながら小走りで戻って来る林さんをイメージして、レンズを窓に向けた。
カシャリとシャッターを切った瞬間、
大きな雷が鳴り、一瞬店内の明かりが消え、すぐに、また点いた。
林さんのことを想うと胸が高鳴るのはどうしてだろうか。こんな気持ちは初めてだった。
もしかしたら、僕は今まで気が付かなかった。というよりも気づかないフリをしていたのかもしれない。
Side 林未来
私は傘を差しながら、誰もいない休日のオフィス街を
自分の呼吸がうるさいくらいのスピードで走っていた。
予想外れの雨を口実に、私はその場から逃げ出してしまったのかもしれない。
日曜日の昼下がりのオフィス街は、相変わらず誰ともすれ違うことなく、
店を出てから職場に着くまで10分と掛からなかった。
私はまた日曜日の誰もいないオフィス街、傘を差しながら走った。
待っていてくれるだろうか。帰ってしまっているのでは。そんな一抹の不安が頭を横切る。
こちらに向かって歩いている女の子とすれ違う。
オフィス街に似合わないレインコートに長靴を履いた女の子。まるでこのあいにくの雨を楽しんでいるように見えた。
あの角を曲がれば、もうすぐ洋食屋が見える。
「すいません。お待たせしました」
私は息を切らせながら、木立くんに深く頭を下げた。
まだ心臓がドキドキしている。でもそれは、走って来たからだけではないこともわかっている。
「大きな雷だったね。大丈夫だった?」
「あ、はい」
と私は苦笑いを浮かべながら席に腰を下ろし、一気にアイスティーを飲み干した。
とひと口だけかじられているかぼちゃのロールケーキに口を付けた。
雨に体が冷えた私のために、木立くんが注文してくれたホットミルクティーに口を付けた。
こんな素敵な男性の恋人になる人は、一体どんな人だろうと思う。
「あの、今日ずっと訊きたかったんだけど・・・・・・」
と木立くんは頭を掻いた。
「林さんはどうして制服を着てるの?」
そう聞かれるまで私が制服を着ていたことを忘れていた。
「えーとですね」
私の耳が赤くなっていくのが分かった。
「制服を処分する前に、もう1度だけ着たくなりまして、もう制服に心残りはありません。
木立くんにもお礼が言えたので」
と言ってホットミルクティーに口を付ける。
「会話はキャッチボール」と言った母の声が脳裏に響く。
「ちなみに木立くん、制服はもう処分されましたか?」
「いや、たぶんまだ実家のクローゼットの中にあると思うけれど、
あ、俺、大学まで遠かったんで実家を出たんだ。林さんの方は」
「私は実家から通える女子大に進学しました。東京ってやっぱり家賃が高いんですねよ?」
「そうだね。でも、俺が住んでるのは築50年のアパートだから。そうでもない。アルバイト代で払えるくらい」
最後に、木立くんと会話のキャッチボールが出来たことに胸が熱くなる。
「林さん、アルバイトの方、時間大丈夫で?」
木立くんの優しい言葉が、私の夢の時間が終わりを告げた。
しまった。とっくにお昼休みの時間が過ぎていた。
会計を済ませて、店を出ると雨は一段と強くなっていた。
私は木立くんに傘を差しだす。
「ありがとう。林さんが言っていた通り、傘が無かったら風邪を引いちゃったかも」
と微笑む彼。
さっき食事代を払おうとすると「実は僕の方もお礼を言わなければ」と言って
払わせてくれなかった。
「あの、林さんの傘は?」
「あ、しまった。持ってくるの、忘れちゃいました」
「そ、そう」
と木立くんが言葉を発してから少しの間、洋食屋の軒下に並んで雨垂れを見ていた。
「アルバイト先まで送るよ」
と木立くんが私に傘を差し掛ける。
「えっでも」とためらう私。
「駅まで同じ方向なので、どうぞ」
と傘の中に誘われた。
私の夢の時間はまだ終っていないようだった。
予報外れの雨が2人の距離を物理的に縮めてくれていた。
雨が傘に当たる音がしなかったら、きっと私の心臓の音は木立くんに聞こえていたに違いないと思った。
休日のオフィス街。洋食屋を離れるとすぐに人の気配がなくなった。
「私ずっと感謝の言葉を言いたくてそのタイミングを窺っていたんです。
でも、なかなか訪れなくて、その時、木立くんの優しい所をたくさん見ました」
「いや、別に特別なことはしているつもりはないよ。
ただ両親から勉強しろとかは言われたことはないんだけれど、困っている人がいたら、自分が出来る範囲で助けてあげないさいって言われていて」
やっぱりこの人を好きになって良かったと思う。
「実は、僕が写真をはじめたきっかけは、林さんがくれたんだ」
木立くんは正面を向いたまま、はにかんで言った。
「え」
と思わず私は声を発した。
「中学に入学してすぐの頃、俺は友人らに誘われて写真部の体験入部に参加した。
先輩から一眼レフカメラの撮り方を一通り教わり、中庭の廊下に向かってシャッターを切った。そして、撮ったフィルム写真を暗室で印画紙にプリントする作業を見せてもらった。
その日、撮った写真に偶然写っていたのが、林さんだった。渡り廊下で本を読みながら歩く林さん。まるで映画のワンシーンのような素敵な構図だった。
その写真は、入部したものだけが貰えることになっていて、俺は入部した。その写真欲しさに。結局、他の友達は写真部には入部せず、林さんが写った写真欲しさの俺だけが入部を決めた。これが林さんとの出会いであり、写真をはじめたきっかけ」
私の頭の中が混乱していた。知らなかった。
誰もいないオフィス街。大きな木の傍で林くんが足を止めた。
そして、私の目を見つめながら言った。
「もしよかったら、来週の花火大会、一緒に行きませんか?」
私は今、何が起こったのか理解するのに時間が掛かりそうだった。
一気に耳が熱を帯びていくのがわかった。
「ど、どうして私が木立くんと一緒に花火大会へ行く理由はなんですか?」
木立くんの表情が険しくなる。
「好きだから」
「えっ」
「林さんのことが好きだから。今日まで、林さんと再会するまで自分の気持ちに気がつかなかった。迷惑かな?」
少しの間、私の鼓膜には傘に当たる雨音だけが響いた。
遠くの空がピカッと光り、数秒後に雷が鳴った。
作者からのお願い。
決して、「8日目のタイムマシン」は読まないで下さい。
2018年7月29日 日曜日
Side林未来
私は信号に立ち止まり、文芸情報誌をめくる手をとめた。
小さな編集プロダクションでアルバイトしている私は、これからランチをとるために行きつけの洋食屋に向かっていた。
ふと横を向くとオフィスビルの入り口ガラス扉に1人の女子高生が映りこんでいる。
白の半袖ブラウスに紺と水色のチェックスカート。
高校を卒業してもうすぐ半年。
そろそろ制服を処分しようと考えていた私は、昨夜、最後にもう1度だけ着ようと思い立ち、今日、職場のローカールームで着替えた。今日、出勤しているのは私だけ。
日曜日の東京オフィス街、片道3車線の大通り。
陽射しが厳しい夏の正午過ぎの歩道。洋食屋に向かう道すがら、文芸情報誌を読みながら歩いても誰かとぶつかる心配はいらない。私だけの青春の着納め。
その代わりに、夏の湿った生ぬるい風が制服のスカートを揺らして逃げていった。
バイトをはじめて約5ヵ月。現在、大学1年生18歳の私は実家から女子大に通いながら教習所に通うための入学金約30万円を稼ぐため夏休みは毎日働いている。
大学に進学させてくれた両親のために、祖母の病院の送り迎えが出来るように免許を取る。
教習所代を出して欲しいとは言えなかった。
私は雑誌から顔をあげ、交差点の歩行者の信号を確認し、足を止めた。
人の気配がしない日曜日のオフィス街は、子供の頃に観たアメリカのSF映画のように、
私だけが世界から取り残されたような感覚になり、ちょっとだけ心細くなる。
でも、今日は違った。
信号待ちの向こう側に、オフィスビルにカメラのレンズを向ける男性がいた。
大きめの黒いリュックを背負った男性は、
生存者1名の私よりも現代建築物がお気に入りのようだ。
レンズの向く先には「オフィスビル 画像」で検索すれば
最初に出てくるような一般的なオフィスビル。
強いて言えば、窓ガラスに映る青空と雲が、
かき氷のブルーハワイとまだらにかかった練乳のように見えるぐらい。
彼にはファインダー越しに、凡人には見えない何かが見えているのかもしれない。
ああそうだ。私も知っている人がいる。学生時代の放課後、私の初恋の彼はいつも首からカメラを提げていた。
ふと、青春の思い出が頭をよぎった。
高校の卒業間近だった。あの日も誰も居ない本館と別館を繋ぐ4階渡り廊下を夕陽が照らしていた。
ずっと片想いだった彼は私の存在には全く気が付かず夕焼け空に向かってシャッターを切り続けていた。
告白するなら、これが最後のチャンスかもしれない。そう思った。
普段はよく可愛い写真部の後輩が居て、私の入る隙などない。
写真部は、彼目当てで入部して女子がいた。
私はそっと立ち止まり、彼にゆっくり近づく。
私は手も足も心も震えて、声を掛けることが出来なかった。
彼を呼びかけようとする言葉は喉に貼り付いて、一言も出てこなかった。
その時、私は悟った。もうこの恋は叶わないって。
でも、もしタイムマシンがあれば、彼に伝えたいことがある。
好きという想いではない。あの時、助けてくれた感謝の気持ちを伝えたい。
それが私の青春の後悔。
Side木立恭介
僕は一眼レフカメラのファインダーを覗くのをやめた。
オフィスビルの窓ガラスに映りこむ夏の青空と細切れの雲に、
思わず頬を緩める。まるで水族館の水槽で漂うクラゲのようだと思った。
大学の写真サークルに所属する僕は「温もりのある休日の東京オフィス街」というテーマの写真を撮っていた。
サークルの先輩の紹介でフリー素材に使うための写真撮影のバイトをしている。
今日はそのニッチなリクエストに答えるために、陽射しが厳しい朝から日曜日のオフィス街を歩き回っていた。
現在、正午過ぎ。街路樹が木陰をつくる歩道には僕以外誰もいない。
これまで撮った写真を確認していると自分の眉根がだんだんと寄っていくのがわかった。
親子連れも恋人達も野良猫もいないこの場所で、温もりを感じさせる写真を撮るのは難題だった。提出期限は10日後。
僕は交差点の赤信号に足をとめる。カメラのファインダー越し、
オフィスビルの窓ガラスに映りこむ細切れの雲の中に、ハート型の雲を見つけた。
ハート型の雲に想いを込めると恋が叶うおまじないがあることを知ったのは、
中学生のとき。当時、気になる女の子がいた。好きとかそんな感情ではない。
「気になる」が一番相応しい。不思議な女の子だった。同学年でクラスメイトにはなったことは1度もないが、いつも1人でいて、ずっと本を読んでいる子だった。
今頃どうしているだろうか?
僕はファインダーを覗くのをやめる。空に浮かぶハート雲を探そうとしたとき、
さっきまで誰もいなかったオフィス街の信号待ちの向こう側に、リュックを背負い、雑誌を立ち読む女子高生を見つけた。それはまるで、タイムマシンで現れたかのように突然現れた。
ふと頭を青春の思い出が頭をかすめる。
僕がずっと気になっていた女の子は、いつも読書をしていた。
休み時間も昼休みも放課後も、廊下を歩くときだって本を読んでいた。
その頃僕は写真部で、首から一眼レフカメラを提げていた。
彼女が映った写真はどれも本を読んでいた。
彼女は校舎内を移動する時、いつもリュックを背負っていた。
周りでは彼女のことを「ニノキン」と呼んでいる人達もいた。
二ノ宮金次郎をもじっているだけなら良いが、漢字に変換すれば「ニノ菌」。
彼女は読書に夢中になると前が見えなくなり、前を行く生徒にぶつかってるシーンを目撃した。
「ニノ菌」にぶつかられたら失恋するという学校の7不思議のひとつにまで数えられるようになり、彼女に対して嫌悪感を抱き、注意する生徒もいたが、彼女は直角になるほど腰を曲げ謝罪するが、結局、卒業するまで、ながら読書をやめることはなかった。
誰かが彼女は、何とかという精神疾患だと言っていたが、僕は熱烈に本が好きな女の子だと思った。
注意しても意味が無い猫のようで、僕は彼女のことが可愛かった。
僕が出来ることは彼女を見つけると背後に立ち、ぶつかりそうな時、彼女のリュックを軽く摘まみ、進行を止め、回避させた。
彼女は僕に止められたことに気が付かずにその場で足踏みを続ける。
彼女が顔を上げた瞬間、僕はそっとその場を離れる。それの繰り返しだった。
まるで親猫が子猫の首を噛んで持ち運ぶみたいに。
話しかければ良かったのかもしれない。でも、出来なかった。
恋愛に興味はないようだったから。
彼女はいつも話しかけるなオーラをまとっていた。
結局1度も話しかけられなかった。
今はどこで何をしているのだろうか?
カシャリ。うつくむ女子高生に向かって素早くフォーカスを合わせ、こっそりシャッターを切った。
僕は何事もなかったように空を見上げ、ハート雲を見つけると
「シャッターチャンスが訪れますように」と絶対に誰にも聞こえない声でつぶやいた。
そして、また向こう通りのオフィスビルの窓に映るハート型の雲にレンズを向けた。
僕は歩行者の信号が青に変わったことを知らせる音楽が流れても、オフィスビルに向かってシャッターを切った。
1枚、2枚、3枚。
数歩下がり、アングルを変えてシャッターを切ろうとしたとき、
ピンク色のハート型の風船が漂っていることに気づいた。
日曜日だから、きっとどこかでオープニングセレモニーでもしているのだろう。
風船を眺めながら、ふと、ひらめいた。
このまま漂えば、風船がビルの窓に映りこむハート雲と同じフレームに収まり、
温もりのある休日の東京オフィス街の写真が撮れるのではないかと。そんな直感がした。
ファインダーを覗きながら、もう数歩下がり、シャッターボタンにのせた人差し指に力を込めようとした瞬間だった。
僕の脇腹にゴツンと何かが当った。直後にバサリと音を立てて、何かが落ちた音がした。
「エッ」と僕が発した声のあとに続いて、「アッ」と女性が発した声がした。
あ、と思ったときにはもう手遅れで、
風船はすでに窓に映るハート雲から離れた場所を漂っていた。
「すいません」
その声のする方に体を向けると僕が胸の前に下したカメラに向かって、もう1度
「すいません」と深く、さっき見かけた女子高生が頭を下げた。
彼女の頭頂部を見ながら、
「いえ、こちらこそ、すいません。こんな所に立っていたから」
と言いながら僕は足元に落ちた雑誌を拾う。
それは文芸紹介雑誌ざった。
手渡そうと頭を上げる女の子の顔を見た瞬間、「えっ」と言葉を発した。
その直後、僕の記憶のアルバムのページが風切る音を立てながら、めくれた。
林未来さん。
まるでタイムマシンでやって来たかのように、あの日のまま制服姿の林さんが目の前に立っていた。いや、ありえない。もしかして・・・・・・そっくりな妹さん?
彼女が僕の顔をじっと見ている。
まるで異星人を見つけたかのように。
でも、こんな偶然起こるんだろうか。
完全に金縛り状態だった。動けない。そして、相変わらずなぜか彼女も僕の顔を見上げたまま動かなかった。
沈黙が流れる。こんな偶然、もう二度と起こらない。それだけはわかった。
何か声を掛けなくては、絶対に後悔する。
「あ、あの」と言いかけた瞬間、
「木立恭介くんですよね」
と林さんは、アスファルトの地面に話しかけるように言った。正直、驚いた。彼女が僕の存在を認識していたことに。
「私、同じ中学、高校の同級生で林未来と言います。あと図書委員で文芸部にも所属していました」
と相変わらず、アスファルトの地面に向かって自己紹介した。
間違いない。やっぱり本人だ。でも、どうして母校の制服姿なのだろう?
「ずっと言えなかったことがあるんです」
そう言った彼女の視線が僕の胸の辺りで止まる。
ずっと言えなかったこととは・・・・・・・なんだろう?。
「あの・・・・・・中1の体育祭の時、助けてくれてありがとうございました」
僕の首の辺りを見ながら彼女が言った。
「えっ」
「借り物競争のとき、眼鏡男子と手を繋いで・・・・・お、覚えてますか?いや、そんなの覚えてないですよね。いいんです、いいんです。気にしないでください」
彼女の視線が僕のあご先に向かって上がりはじめたのに、また地面に向かって下がっていった。
「うん、よく覚えてる。林さんだよね」
中1の体育祭。手を繋いだのが林さんと気が付いたのはゴールテープを切った後の事だった。僕は逃げるようにその場を後にした。
「えっ私のことを知ってくれていたんですか?どうして?たぶん、クラスメイトでも私の名前を知らないと思います」
と林さんは自分のことを過小評価していた。
「ゆ、有名だよ。林さんは読書が好きな女の子として、校内では」
と僕が言うと林さんは悲しそうな表情を浮かべ、俯いた。
「違う、違う。僕は好きだよ。林さんのことが」
と言った後ですぐに誤解を招く発言だと気が付き、訂正する。
「読書が好きな人が好き。言う意味で」と付け加えた。
僕は率直な疑問をぶつけた。
「どうして、林さんは制服を着てるの?」
と僕が言うと彼女の視線が鼻の辺りまで上がり、
「私、あの時のお礼がずっと言いたくて」
と返事が来た。
頭が混乱していた。
どういう意味だろう。
林さんが今日、制服を着ているのは、僕にお礼がしたいから。
一体どういう意味だ。
次の瞬間、
ぎゅるぎゅるぎゅる
と激しく彼女のお腹から鳴った音が、静かなオフィス街に響き渡った。彼女は慌てて雑誌でお腹を押さえた。うつむいている林さんの顔がだんだん赤くなっていく。
こちら側に向いた雑誌の表紙には、チンパンジーが眼鏡を掛けて文庫本を読んでいた。
情報量が過ぎる。僕の頭の情報処理能力が追い付けないでいた
要約すると
林さんが制服を着ると僕のお礼になる。林さんの制服姿を僕が好き。
えっまさか。こっそり、林さんを写真に撮っていたことがバレていた。
誰も居ないオフィス街なら、誰にも気にせず写真が取れますよ。
そういう意味だろうか。背中に汗が伝っていくのがわかった。
「全然、全然いいのに」
「良くないです!」
林さんは顔を真っ赤にしながら、それを否定した。
また沈黙が流れた。それじゃあ1枚だけ。とカメラを構えようとした瞬間
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あの、そのときのお礼に、これからランチおごらせてください」
とオフィス街に響くくらい大きな声で言った。直角に腰が曲がっている。
思いがけない林さんの一言だった。
ええどうなっている?
駄目だ。林さんと日本語が通じない。
Side 林未来
予想だにしない展開だった。
日曜出勤した誰もいないアルバイト先で、
絶不調のコピー機と格闘していた1時間前の私には、夢にも思わない出来事が起きたのだ。
日曜日のランチタイム。オフィス街で偶然ぶつかってしまった男性が、初恋の木立くんだなんて。「林さんだよね」木立くんは私の名前を知っていてくれた。私は激しく動揺していた。
そして、私の行きつけの洋食屋「ブラインド エッグ」のテーブル席に木立くんと向き合って座っていた。
あまりの緊張に、正直、ここまでの道すがらの記憶がない。
一体私はなんてことをしてしまった。
優しすぎる木立くんのことだから、私の誘いを無下に断れなかったのだろう。
あの時も木立くんは優しかった。
彼との出会いは、中学1年の時の体育祭。
あの日、私は地球から1人取り残された気持ちで広いグラウンドに立っていた。
運動音痴な私は運の要素が強い借り物競争にあてがわれた。
白い紙に書かれたお題は「眼鏡男子と手を繋いでゴールする」だった。
正直、私は、ぜんぜん目立たない文芸部の女子。
クラスの前で固まっていた私に、担任の先生が駆け寄りお題を声に出した。
顔を上げると眼鏡男子は一斉にうつむき、あからさまに拒否反応を示していた。
クラスの半数は眼鏡男子と言うのに。
私はひとりぼっちだった。実際は1分くらいだったかもしれない。でも私は10分以上そこに立たさせれていた感覚だった。消えてしまいたかった。
「誰か行きなさいよ、男子」
「嫌だよ」
そんな声が聞こえてきた。今にも心が潰れそうな、そんな時だった。
「僕で良ければ、一緒に行こう」
次の瞬間、私は手を握られて走り出していた。
「1年3組 木立」とゼッケンに書かれていた眼鏡男子。恥ずかしくてちゃんと顔は見られなかった。
ゴールテープを切り、繋いだ手を離してすぐに彼は走り去って行った。
その日から、私は木立くんにお礼を伝えようと何度も話しかけようとした。
でも、出来なかった。日が経つにつれて、それは恋愛感情へと変わっていった。
木立くんと私は、窓際の4人掛けのテーブル席に向かい合って座った。
テーブルの端に、私は文芸情報誌を置き、木立くんは一眼レフカメラを置いていた。
大きな窓は丁寧に拭かれていて、新鮮な野菜が評判の清潔感が漂う私のお気に入りの店。
店の壁には
「本日のスープ、大根のポタージュ」
と書かれたチョーク文字のブラックボードが掛かっている。
来客を知らせるカウベルの心地よい音。
デミグラスソースのいい匂い。
いつもと何も変わらない。
少しずつ冷静さを取り戻しつつあった。
店員さんに注文を尋ねられ、
「オムライスと本日のスープと野菜セットを2つ下さい」
と答えた。
次の瞬間、私の好きなものを2つ注文してしまっていることに気が付いた。
メニュー表を見ていた木立くんの眉がピクリと動く。
「ごめんなさい。勝手に注文してしまって」
「いえ、大丈夫です」
正直、何を話していいのかわからない。
木立くんも困っているようだ。
彼は手持無沙汰に、何度もおしぼりで手を拭い、グラスの水に口を付けていた。
私は自分の行動に後悔し始めていた。
やっぱり木立くんは優しい人だ。
道でぶつかった相手、同級生だったとはいえ、1度も話したことの無い女子からの食事の誘いを引き受けてくれた。きっと恋人がいるかもしれない。いや、いるに違いない。
傷つけてはいけないと思い、ランチだけならと付き合ってくれたのだろう。
女性に恥をかかせてはいけない。ジェントルマンだ。
私はまた木立くんに助けてもらった。
もし私が逆の立場だったらどうするだろうと考える。
私はきっと断れないくらい必死の表情だったのだろう。
こんな偶然、もう2度と起こらない。
これまで自分から男子に話しかけたことはない。
木立くんに助けてもらったあの日以降、
私は話しかけるタイミングを計り「ちゃんとお礼を言わなければ」と考えていた。
休み時間、放課後。でも、勇気がなく時間だけが過ぎて行った。
彼は困っている人をよく助けていた。
だから彼にとって私は日常の延長線上にあった出来事の1つだったのかもしれない。
でも、私にとってみれば人生最大の出来事。私はいつしか彼に恋をしてしまっていた。
地元の同じ高校に進学した。
彼は眼鏡男子からコンタクトに換えた。私も彼を真似、コンタクトにした。
同じクラスにしてください。恋の神様にお願いをしたけれど、結局、中高6年間、1度も同じクラスになることはなかった。
テーブルにオムライスが運ばれてきた。
たっぷりとかけられたデミソースの甘く濃厚な匂いをまず鼻で味わい、
ふわとろタイプの卵にそっとスプーンを差し入れる。
ひと匙目を口に入れると舌の上で卵とチキンライスとデミソースが絡み合い、
心の中で「美味しい」つぶやく。
そんな私の普段通りになんてことは出来るはずもなく、ただ食べるという行為を続けるだけだった。
ちらりと木立くんの表情を伺うが、ぜんぜん楽しそうじゃない。
むしろ、なんで俺、ここにいるんだ。という表情をオムライスに向けていた。
ますます話しかけられなくなってしまった。
黙々と食べた。味なんてしない。
そして、木立くんに見られていると思うと緊張感が半端ない。
食事は残り3分の1ほどになったときだった。
「この大根のポタージュ、すごくおいしい」
と木立くんが言った。
「そ、そうですね」
ただ、その一言で会話が途切れてしまう。会話はキャッチボールだから。と言った母親の言葉を思い出す。
「イ、イソチオシアネートって聞いたことありますか?」
私の声に少し驚いた彼は首を左右に振る。
「大根の栄養成分で活性酸素を除去したり、がん予防になるんです。でも、興味深いのは、実は大根の中には、イソチオシアネートは存在しないんです。大根の中には、元になる2つの成分が存在して、噛んだり、すり潰す事で細胞が壊れて成分が合わさって、イソチオシアネートを生成するんです」
私は自動読み上げ機みたいに大根の知られざる効能を話した。
木立くんの眉がピクピクと痙攣した。
しまった。
「この大根のポタージュ、すごくおいしい」の問い掛けに、もっともふさわしくない返答をしてしまった。
何言ってんだ私。そんな情報どうでもいいでしょ今。
想像以上に木立くんの引きつる顔。気まずい。
苦笑いを浮かべることしか出来なかった。
黙々と目の前の料理を消化していく。
そして、ちょうどデザートのかぼちゃのロールケーキに手を付けようとしたときだった。
「え、雨?」
私は窓ガラスに雨粒が付いていることに気づいた。
「あ、ほんとだ」
窓の外を見るとさっきまでの青空は無くなり、雨が地面に色を付け始めていた。
私は制服のポケットからスマホを取り出し、天気予報を見た。
「え、嘘。降水確率80% !? 朝は10%の雨予報だったのに!」
私は独り言のように呟いた。
「ちょっと待っていてください。
今のうちに走って職場の置き傘を取って来ます。すぐに戻りますから」
私は席を立った。この空模様は本降りになる予感がした。
「俺なら大丈夫だよ」
と木立くんも席を立ち、私を引きとめようとした。
「よくないです。こちらからぶつかっておいて、ランチまで付き合ってもらったうえに、
風邪まで引かれたら、最悪、高価なカメラが壊れでもしたら私、一生後悔しますから。それに絶対に本降りになりますから」
それは本音だった。今でも嫌われているかもしれないのに、カメラまで壊しでもしたら、
初恋の相手に恨まれるのは避けたい。
私はそう告げると降り出した雨の中、走って職場に向かった。
Side木立恭介
僕はテーブルのレモネードのストローに口を付け、窓の外を見つめた。
店から出てきた彼女が、降り出したばかりの雨を気にしながら駆け出す後ろ姿を見送った。
テーブルには、レモネードとアイスティー。
かぼちゃのロールケーキが2つ。
そして、再会のきっかけをくれたグルメ雑誌と一眼レフカメラ。
休日の誰もいないオフィス街で、温もりのある被写体を探していた1時間前の僕には、
夢にも思わない出来事が起きた。
窓の外を見ると彼女が言っていた通りに傘がないと、
駅に着くまでに、びしょ濡れになる雨に変わっていた。
1時間前の青空が嘘のような暗灰色の空を見ていると、
ハート型の雲もハート型の風船も彼女との再会すら、すべて夢で見た光景のように思えてきた。
窓の外は、さっきより雨脚が強くなってきていた。
林さんが言った体育祭での出来事は覚えている。
困っている女の子がいる。俺で良ければ。そんな軽い気持ちだった。
手を繋ぎゴールテープを切った。
女の子を見ると林さんだった。口から心臓が出そうになった。
俺はゴールテープを切るまで手を繋いだ女の子が林さんだとは気が付かなかった。
傘を差しながら小走りで戻って来る林さんをイメージして、レンズを窓に向けた。
カシャリとシャッターを切った瞬間、
大きな雷が鳴り、一瞬店内の明かりが消え、すぐに、また点いた。
林さんのことを想うと胸が高鳴るのはどうしてだろうか。こんな気持ちは初めてだった。
もしかしたら、僕は今まで気が付かなかった。というよりも気づかないフリをしていたのかもしれない。
Side 林未来
私は傘を差しながら、誰もいない休日のオフィス街を
自分の呼吸がうるさいくらいのスピードで走っていた。
予想外れの雨を口実に、私はその場から逃げ出してしまったのかもしれない。
日曜日の昼下がりのオフィス街は、相変わらず誰ともすれ違うことなく、
店を出てから職場に着くまで10分と掛からなかった。
私はまた日曜日の誰もいないオフィス街、傘を差しながら走った。
待っていてくれるだろうか。帰ってしまっているのでは。そんな一抹の不安が頭を横切る。
こちらに向かって歩いている女の子とすれ違う。
オフィス街に似合わないレインコートに長靴を履いた女の子。まるでこのあいにくの雨を楽しんでいるように見えた。
あの角を曲がれば、もうすぐ洋食屋が見える。
「すいません。お待たせしました」
私は息を切らせながら、木立くんに深く頭を下げた。
まだ心臓がドキドキしている。でもそれは、走って来たからだけではないこともわかっている。
「大きな雷だったね。大丈夫だった?」
「あ、はい」
と私は苦笑いを浮かべながら席に腰を下ろし、一気にアイスティーを飲み干した。
とひと口だけかじられているかぼちゃのロールケーキに口を付けた。
雨に体が冷えた私のために、木立くんが注文してくれたホットミルクティーに口を付けた。
こんな素敵な男性の恋人になる人は、一体どんな人だろうと思う。
「あの、今日ずっと訊きたかったんだけど・・・・・・」
と木立くんは頭を掻いた。
「林さんはどうして制服を着てるの?」
そう聞かれるまで私が制服を着ていたことを忘れていた。
「えーとですね」
私の耳が赤くなっていくのが分かった。
「制服を処分する前に、もう1度だけ着たくなりまして、もう制服に心残りはありません。
木立くんにもお礼が言えたので」
と言ってホットミルクティーに口を付ける。
「会話はキャッチボール」と言った母の声が脳裏に響く。
「ちなみに木立くん、制服はもう処分されましたか?」
「いや、たぶんまだ実家のクローゼットの中にあると思うけれど、
あ、俺、大学まで遠かったんで実家を出たんだ。林さんの方は」
「私は実家から通える女子大に進学しました。東京ってやっぱり家賃が高いんですねよ?」
「そうだね。でも、俺が住んでるのは築50年のアパートだから。そうでもない。アルバイト代で払えるくらい」
最後に、木立くんと会話のキャッチボールが出来たことに胸が熱くなる。
「林さん、アルバイトの方、時間大丈夫で?」
木立くんの優しい言葉が、私の夢の時間が終わりを告げた。
しまった。とっくにお昼休みの時間が過ぎていた。
会計を済ませて、店を出ると雨は一段と強くなっていた。
私は木立くんに傘を差しだす。
「ありがとう。林さんが言っていた通り、傘が無かったら風邪を引いちゃったかも」
と微笑む彼。
さっき食事代を払おうとすると「実は僕の方もお礼を言わなければ」と言って
払わせてくれなかった。
「あの、林さんの傘は?」
「あ、しまった。持ってくるの、忘れちゃいました」
「そ、そう」
と木立くんが言葉を発してから少しの間、洋食屋の軒下に並んで雨垂れを見ていた。
「アルバイト先まで送るよ」
と木立くんが私に傘を差し掛ける。
「えっでも」とためらう私。
「駅まで同じ方向なので、どうぞ」
と傘の中に誘われた。
私の夢の時間はまだ終っていないようだった。
予報外れの雨が2人の距離を物理的に縮めてくれていた。
雨が傘に当たる音がしなかったら、きっと私の心臓の音は木立くんに聞こえていたに違いないと思った。
休日のオフィス街。洋食屋を離れるとすぐに人の気配がなくなった。
「私ずっと感謝の言葉を言いたくてそのタイミングを窺っていたんです。
でも、なかなか訪れなくて、その時、木立くんの優しい所をたくさん見ました」
「いや、別に特別なことはしているつもりはないよ。
ただ両親から勉強しろとかは言われたことはないんだけれど、困っている人がいたら、自分が出来る範囲で助けてあげないさいって言われていて」
やっぱりこの人を好きになって良かったと思う。
「実は、僕が写真をはじめたきっかけは、林さんがくれたんだ」
木立くんは正面を向いたまま、はにかんで言った。
「え」
と思わず私は声を発した。
「中学に入学してすぐの頃、俺は友人らに誘われて写真部の体験入部に参加した。
先輩から一眼レフカメラの撮り方を一通り教わり、中庭の廊下に向かってシャッターを切った。そして、撮ったフィルム写真を暗室で印画紙にプリントする作業を見せてもらった。
その日、撮った写真に偶然写っていたのが、林さんだった。渡り廊下で本を読みながら歩く林さん。まるで映画のワンシーンのような素敵な構図だった。
その写真は、入部したものだけが貰えることになっていて、俺は入部した。その写真欲しさに。結局、他の友達は写真部には入部せず、林さんが写った写真欲しさの俺だけが入部を決めた。これが林さんとの出会いであり、写真をはじめたきっかけ」
私の頭の中が混乱していた。知らなかった。
誰もいないオフィス街。大きな木の傍で林くんが足を止めた。
そして、私の目を見つめながら言った。
「もしよかったら、来週の花火大会、一緒に行きませんか?」
私は今、何が起こったのか理解するのに時間が掛かりそうだった。
一気に耳が熱を帯びていくのがわかった。
「ど、どうして私が木立くんと一緒に花火大会へ行く理由はなんですか?」
木立くんの表情が険しくなる。
「好きだから」
「えっ」
「林さんのことが好きだから。今日まで、林さんと再会するまで自分の気持ちに気がつかなかった。迷惑かな?」
少しの間、私の鼓膜には傘に当たる雨音だけが響いた。
遠くの空がピカッと光り、数秒後に雷が鳴った。
作者からのお願い。
決して、「8日目のタイムマシン」は読まないで下さい。
