6時にサイカイ橋で。




 昼休みの体育館に、シューズが床を擦る音やボールをつく音、遊びに興じる生徒たちの活気のある声が響く。
 体を動かせば汗をかかずにはいられない季節になってきたせいか、昼休みに体育館を利用する生徒はまばらだ。そんな中、俺も制服のシャツを脱ぎ、Tシャツ姿でシュート練習に励んでいた。
 ドリブルでスクリーンのシバをかわし、3ポイントシュートを放つ。やる気がないのかシバがほとんど動かないせいで体勢が崩れることもなく、放ったシュートはまっすぐに弧を描いてゴールへと吸い込まれた。

「スリーポイント、上手くなったな」

 シバの誉め言葉に、俺は素直に「へへっ」と笑顔を見せた。

「引退した後も、気分転換で昼休みにはシュート練してたからな。身長ないから、ダンクはまだ無理だけど」

 近くにあったボールを拾い上げ、再びシバをドリブルでかわして今度はレイアップシュートを決める。
 転がっていったボールを拾い上げ、フリースローラインにいるシバにパスする。

「久しぶりにダンク見せてよ。今のバスケ部にもできる人いるけど、高さがお前とは全然違うんだよな」

 パスを受け取ったシバが動きを止める。
 一瞬、考え込むようにボールを見つめ、すぐにボールを投げ返してきた。

「無理無理。俺、引退してからずっと、ボールにも触ってねーもん」
「お前の運動神経なら、触ってなくてもダンクくらいできるだろー」
「ダンクくらいって、できない奴が簡単そうに言わない」

 頬を膨らましていた俺は、昨日の母の言葉を思い出し、すぐに頬をへこませた。

「悪い。練習につきあってもらってるだけでも感謝なのにな。オカンにも昨日、お前にはお前の事情があるんだから、無理に誘うなって言われたんだった」
「お母さんに俺のこと話したのか?」

 シバは珍しく驚いた顔をした。

「うん。え? 話しちゃ駄目だった? オカンも妹も、お前に会いたがってたけど」

 昨日の、俺とシバが再会したことをあまり喜んでいなさそうだった母の様子を思い出し、いやでも、本心では会いたがってるに違いないと自分に言い訳する。

「妹がお前を連れて来いってうるさいからさー。試験前で部活休みになったら、うちで一緒に試験勉強しよーぜ」

 以前なら、シバを家に呼ぶのに、緊張したことはなかった。
 今はダンクと同じで、断られるかもという不安が胸をかすめ、無意識にまたシバにパスを投げていた。

「どうせまた、俺にヤマを張ってほしいだけだろ」

 パスを受け取ったシバが、軽く膝を沈め、腕を伸ばしてボールをゴールへと放る。
 一年近くボールに触っていないと言うわりに、そのフォームは現役時代と変わらず美しかった。スポッと小気味よい音だけ立ててボールがゴールネットに吸い込まれる。

「家の人がいいって言うんなら、お邪魔しようかな」
「マジで? やった! お前とやりたいゲームが溜まりまくっててさー」
「試験勉強するんだろ」

 シバが氷の視線で俺を睨む。

「勉強も、する」

 引き攣り気味の笑いで誤魔化し、ボールを拾いに行く。
 そろそろ時間かと思い、体育館の前方の時計を見上げたときだ。

 俺たちがいる場所とは真逆のゴール裏の2階、壁に沿ってぐるりと張り巡らされた通路に、手すりにもたれてこちらを見ている人が目に入った。
 目を留めたのは、その人が明らかにこちらを見ていたからだ。それに細身で眼鏡をかけた見るからに優等生風の生徒で、昼休みに体育館に来なさそうな雰囲気に違和感を覚えた。

「サク。そろそろ時間だろ」

 ステージに置いていた制服シャツを、シバが投げてよこす。
 散らばったボールを集めて倉庫に戻し、再びフロアに戻って来たときには、2階の生徒はいなくなっていた。


 制汗シートでざっと汗を拭い、制服のシャツを羽織ってリュックを肩にかけ、体育館を出る。
 ボタンを止め終えて顔を上げると、運動場が目に入った。百メートル走のラインがきっちりと白く描かれているのは、体育祭が近いからだ。

「そういや体育祭、お前もリレー出るよな? やっぱりアンカーか?」

 俺がふと口にした質問に、シバは面倒くさそうに視線を逸らせた。
 
「いや。俺、執行部で音響係やるから、競技には出ない」
「マジ? 何で?」

 思わず素っ頓狂な声を上げていた。ダンクを断られたとき以上の驚きだ。

「何でそんなもったいないことすんの? 1組、お前が出なくていいくらい猛者揃いなの?」
「グラウンドで汗水垂らすよりはテントの下で執行部に顎で使われるほうがマシだからな。先輩のコネで音響係に入れてもらったんだよ」
「先輩って、転校先の中学の先輩?」
「――いや。俺、今日から昇降口の掃除だから」

 否定の言葉で話を切り上げ、シバは軽く片手を振り、階段の踊り場を兼ねたT字路を昇降口のほうへと直進していく。少し背中を丸め、靴底を擦ったような、だらしない歩き方の後ろ姿を、俺はただ呆然と見送った。

 ……シバ……何でそんな無気力キャラになったんだろ。

 浮かんだ考えを、「斯波君には斯波君の事情があるんだから……」という母の言葉を思い出し、頭から振り払った。
 親が離婚するって、相当ショックなことだ。何もかもやる気を失くしてしまうのも、当然のことに思える。
 
 それにしても、あいつ、知り合いの先輩なんていたんだな……。しかも体育祭の執行部となると、生徒会がメインのはずだ。

 思考を切り替え、教室のある右手の廊下へと足先を向けたところ、目の前に人がいて反射的にビクッと体が震えた。

 立っていたのは、先ほど、体育館の2階から俺たちの練習を見学していた生徒だった。
 目線は俺より少し高いから身長は170cmくらい。近くで見ると透き通るほどに肌が白く、男でも見惚れてしまうほどの整った顔立ちだった。左右対称な杏仁形の目はフレームなし眼鏡と相まって、理知的な雰囲気を醸し出している。目つきの悪いシバとは違う種類の、正統派の美形といった感じ。
 視線を下げると、上履きの爪先は小豆色だった。小豆色は二年生の色だ。

 ……何で1階に2年が……。

 彼が立っているのは1年の教室が並ぶ廊下側だ。そのことを怪訝に思いつつ、彼を避けて先に進もうとしたのだが、すれ違いざまに声がした。

「君が小田朔太郎君か」

 知らない人から名前を言い当てられ、俺は足を止めて振り返った。

 ……この人……会ったことない人だよな?

 これだけの美形なら、一度会っていたら記憶に残っているはずだ。

「そう……です」

 先輩の薄い唇が、わずかに口角を上げる。なんとなく小馬鹿にしたような笑みに思えた。

「知久とは小学校からのつき合いなんだって?」

 無意識に眉間に力が入る。
 俺ではなく、シバの知り合いだった。そのこと以上に『知久』とあいつを下の名前で読んだことに、カッと全身の血が熱くなるような思いだった。

「あいつのこと何にも知らないくせに、バスケの練習につき合わせるなんて、よくそんな残酷なことができるね」
「……それって……どういう意味ですか?」

 感情を押し殺した声で尋ねる。
 薄ら笑いを浮かべたまま、先輩が二歩分の距離を詰めてくる。

「想像する努力をしない人間は無垢とは言えない。ただの無知だよ」

 肩口で囁き、先輩は踵を返した。

「知久の全てを知る覚悟がないなら、これ以上あいつに関わらないで」

 最後にそう言い残し、先輩は2階へと上がって行った。

「……な……なんだよ……」

 掠れた声を出せたのは、予鈴が鳴り、掃除場所に向かう生徒たちで廊下が賑わいだした頃だ。
 踵を返して自分の教室に向かいながら、『この学校に、会いたい人がいたから』というシバの言葉がずっと頭から離れなかった。