シバと出会ったのは、小学5年のときだ。俺のいたクラスにシバが転校してきて。担任が黒板に書いた斯波知久という文字の、「斯波」が「シバ」と読むのだと、あのとき初めて知った。
帰り道が途中まで一緒でいつしか一緒に帰るようになり、シバの両親が帰りが遅いと知り、半ば強引に家に誘うようになった。
一緒にゲームをする相手が欲しかったし、当時ハマっていたバスケ漫画を布教したかったからでもある。
小学校にはバスケ部がなく、バスケをするには昼休みしかない。クラスにはサッカー好きのほうが多かったから、バスケのメンバーを確保することに躍起になっていた。
運動神経のいいシバはその頃から才能が抜きんでていて、中学生になり揃って入ったバスケ部では、一年生で一人だけレギュラーに抜擢された。
一方の俺はというと、高校に入った今でも身長は165cmと小柄で、それを補えるほどにバスケが上手いわけでもない。中学最後の公式戦で一度も試合に出られなかったくらいだ。丸っこい目で小鼻も小さく、女子から『かわいい』や『小動物系』と言われることはあっても、シバのように無口で無愛想でも「かっこいい」と持て囃されるモテメンとは真逆のタイプ。
『なぜお前みたいなやつがシバと友達なんだ』とか、逆に、『よくあんなやつと友達でいられるな』と皮肉を言う部員もいたけど、コンプレックスを刺激されても一緒にいたいくらい、俺はシバといることが好きだった。
試合には高校のスカウト担当者も視察にきているという話だった。当然、シバはバスケの強豪校に行くだろうし、親友でいられるのも中学までだと覚悟していたのだが……。それを待たずにあいつは俺の前からいなくなった。
中3の夏休み明け、「夏休み中に斯波君が転校しました」という担任の説明で、俺はその事実を知ったのだ。
授業が始まってからもそんな昔話を思い出し、悶々と考え込んで授業に集中できないまま、気づけば午前中の授業が終了していた。
「弁当食わねーの?」
前の席の井筒が弁当箱を手に椅子に横座りになり、怪訝そうな顔を向けてくる。
「小田、今日、授業中もずっとぼーっとしてたよな。差されても気づかねーし」
同調したのは俺の隣の席の久我山だ。久我山は俺と同じバスケ部で、井筒はサッカー部。席が近いことで仲良くなり、昼休みはいつも、二人が座る向きを変えて顔を合わせて弁当を食べている。
「ちょっと考え事してて……」
「なになに? もしかして気になる女子でもできた?」
井筒が頬をニヤつかせる。
入学して一カ月が経ち、何組の誰と誰が付き合い始めたとか、誰が誰に告られたとか、そういう話もちらほら耳にするようになった。とは言え「小さくて可愛い」「男子と話してる感じがしない」が女子からの数少ない誉め言葉である俺には、無縁の世界だ。
「そんなんじゃねーよ」
一蹴し、弁当を取り出すために机の横に下げていたリュックを持ち上げる。――と、そのとき。にわかに教室の入り口付近がざわつき始めた。
「え? ちょっとあれって」
「嘘! 1組の長谷川君! 誰? 誰に用があって来たの?」
色めき立った女子の声につられ、他の二人と共に俺も顔を向けた。ドアに手を付き、教室内を見渡していたのはシバだった。
誰かを探すようだった表情が、こちらを向いた途端、ふっと緩む。
そう言えば、長谷川って、シバのことだったな……。
遅れて、今朝知ったばかりのそのことを思い出した。
シバが教室に入ってきて、彼に向けられる女子たちの眼差しが一層キラキラと輝きを増す。そんな視線など全く意識していなさそうな涼しげな顔で近付いて来ると、彼は俺の机の前で足を止めた。俺と井筒と久我山が作る三角形の中心に立った男を、俺以外の二人も呆気に取られて見上げている。
「昼飯、ここで食う?」
「……へ?」
唐突に降ってきた質問に、俺の声が裏返った。
「お前が昼休みに話をしたいって言ったんだろ。お前がここで食うんなら、俺もここで食うけど、いい?」
……いや。「いい?」って……、お前の座る席ねーし……。
確かに昼休みに教室に行くとは言ったが。当然、昼食を食べたあとに行くつもりだった。
想定外の状況に固まり、ただパチパチと瞬きを繰り返していると、背後から鼻にかかった女子の声が聞こえてきた。
「小田君って長谷川君と知り合いだったの?」
俺の後ろの席の御前崎さんだ。
シバが彼女に向かって薄く微笑む。
「小中の同級生。っていうか、俺のこと知ってるの?」
女子とこんなふうににこやかに話すシバを初めて見た。中学までは俺が緩衝材になって、人前では無口なシバと他の人との会話を盛り上げていたから。
「この学年で長谷川君のこと知らない女子はいないでしょ」
近くにいた女子も会話に加わる。
「マジ? こんな当たりのクラスで有名人になれて、超ラッキー」
明るくなったというか……チャラくなった?
「1組の子に聞いたけど、長谷川君、SNSはやってないんでしょ? だったら、ラインのID教えてほしい!」
「あ、私も交換知たい!」
離れた席の女子たちまでもが会話に加わりたそうにそわそわしている。男子は逆に白けた視線を送っていて、完全に悪目立ちしていた。
シバが本気でIDを交換したいのならそれでもいいが。口元だけを和ませた笑顔がどうにも作りものめいて見えて、俺は椅子から腰を上げた。
「ごめん。俺、今日、こいつと話があるから、教室の外で食う」
井筒と久我山にそう告げ、リュックを肩にかけシバのシャツの袖を引っ張る。
「時間なくなるから行くぞ」
「ごめんねー。うちの相方、嫉妬深いもんで」
女子たちに笑顔で手を振り、ふざけたことを言いながらも、シバはおとなしくついて来た。
俺がシバを思いっきり睨み上げたのは、廊下に出て並んで歩き始めてからのことだ。
「せっかく1軍女子たちとID交換できるところだったのにー」
わざとらしく頬を膨らませる男に、ふんと鼻を鳴らした。
「そう言って俺が助けなかったら、困ってたくせに」
今のシバもそうかは自信がない。ただ、俺の知るシバは、特に用件もなく女子に話しかけられたら、決まって助けを求める視線を俺に送ってきていた。
シバがニヤリと口の端を上げる。
「サクちゃんは変わらないね」
サクちゃん――。小学校の頃の愛称を久々に聞いた。
シバが無理をしてるんじゃないかと思った俺の判断は、正しかったということだろうか……。
ただ、一年近く会わなかった間に、シバの外面も内面も随分と変わってしまったことは確かだ。
「お前、どうしたんだよ。バスケ部には入ってないし急にチャラ男になってるし」
「高校デビューってやつ?」
おどけた調子で返すシバに、俺は表情を険しくする。
「バスケやめる必要はなかっただろ」
「ああいう汗臭いのは中学まででいいやと思って」
投げやりに言い、でもその直後、視線を俯かせた横顔は、どこか不安げだった。
「やっぱり……ガッカリした?」
質問を頭の中で反芻する。
同じ学校だったのにシバがバスケ部に入っていなかったことに、ショックを受けているのは事実。けれど――。
「そりゃ、できればまた一緒にバスケやりたかったけど……」
返事を待つ神妙な横顔から視線を逸らし、前を向いた。
「また会えたから。それだけでいい。バスケをしていてもしていなくても、シバはシバだろ」
横顔に視線を感じる。
なんとなく照れくさくて、その表情を確かめることはできなかった。
五月のこの時期、日陰に入れば昼休みに外で弁当を食べられないほどの暑さではない。
体育館の二階にある多目的フロアの下は、壁がなく柱だけで支えられた屋根付きの空間になっている。俺たちはそのピロティで、体育館の壁に背中を預け、隣り合ってコンクリートの床に腰を下ろした。日陰だし、時折り風がそよげば、それなりに涼しい。
俺が尋ねるより先に、シバは言葉を選ぶように訥々と話し始めた。
「中3の夏に両親が離婚したんだ。親権は母親で、今も母親は都内に住んでいる。忙しい人だから離婚と同時に俺は千葉の祖父母の家に預けられたんだ。受験に合わせて住民票だけ都内に移して、今も祖父母の家から通ってる」
「……それで苗字が長谷川……」
「転校の理由を説明しても気を使わせるだけだと思ったから、誰にも挨拶しなかった。両親が離婚したことは俺もそれなりにショックで、理由を聞かれたくなくて……。何も言わずにいなくなって、ごめん」
シバが軽く頭を下げる。
「そう……だったのか……。じゃ、俺も、今度から長谷川って呼んだ方がいいよな?」
「サクは今まで通りシバって呼んで。俺のことシバって呼ぶの、今はサクだけだから」
「じゃあ、今まで通りそう呼ばせてもらう。それより、俺のほうこそ、ごめん」
今度は俺が頭を下げた。
頭を上げた先で、「何が?」という顔と目が合う。
「夏休みに花火に行く約束してただろ? 俺、連絡もせずにすっぽかしたから……」
その瞬間、シバが顔を強張らせたのがわかった。
やはり、シバもそのことは引っかかっていたのだろう。
俺はシバからさりげなく視線を逸らし、話を続けた。
「俺……、実は中体連の決勝の日、帰りに交通事故に遭って、しばらく入院してたんだ……」
中体連の決勝は毎年シバと一緒に行ってる花火の前日だった。
その数日前に、シバから『今年も花火行くよな?』というメッセージが来て、俺は『6時にサイカイ橋で』と待ち合わせの場所と時間を送った。直後に『りょ!』という文字付きのキャラクターが敬礼するスタンプが返されたのが、俺とシバの最後のやりとりになった。
「大きな怪我はなかったけど、頭を打って三日間くらい意識がぼんやりしていた感じで……。退院した後も、スマホを見るのも脳によくないからって親にスマホを取り上げられていたんだ。受験勉強もヤバかったし。1週間くらい経ってようやく返してもらえて、ラインを見て、花火に行く約束をしていたことを思い出した」
スマホを取り上げられたのは不可抗力だが、花火の約束を思い出さなかったのは完全に俺の記憶力の問題だ。頭をぶつけた影響があったと思いたいが、ラインを見たらすぐに思い出せたから、事故のことを全く思い出せないのとは違う。
シバのことを蔑ろにしたと思われても仕方がなかった。
「お前からは花火の日にも何も連絡が入ってなかったから、約束をすっぽかされて怒ってるんだと思ってたんだ。それで余計に連絡しづらくて……。夏休みが終わる頃になって電話してみたけど、電話が繋がらなくなってた。約束すっぽかしたのも、その後すぐに連絡しなかったのも、本当にごめん」
俺はもう一度、深々と頭を下げた。
「あ、いや……」
頭上で声がし、おそるおそる顔を上げる。
目が合う直前で、シバはどこか気まずそうに視線を揺らした。
「実は俺も、あのときはすでに親の離婚の話が出ていて、花火の約束のことは完全に忘れていたんだ。だから橋にも行ってない。俺のほうも、約束をすっぽかした気まずさもあって、転校のことも言えなかった。携帯は、親が離婚するときにそれまで使ってたやつは解約されて……」
シバは嘘を吐くとき、左手の親指と人差し指で下唇を擦る癖がある。
久々にその仕草を見て、嘘を吐く理由は、俺に罪悪感を持たせないためかと思った。
約束を忘れていたことが嘘なのか、他の嘘があるのかはわからない。
シバに隠し事があったとして、無理にそれを聞きたいとは思わなかった。話したくなったときに、話してくれればいい。
「……何も知らなくて、ゴメン。今はその……、色々大丈夫か?」
「ああ。じいちゃんとばあちゃんにはすげーよくしてもらってる。パン買うって言っても毎日弁当まで作ってくれるし」
シバが膝の上の弁当を軽く掲げてみせる。
「そっか……」
そこでようやく、俺は顔の筋肉を緩めた。
シバの家庭があまりうまくいってないことは、子供心に薄々感じていた。両親の離婚は辛かっただろうけど、「じいちゃんとばあちゃんはすげーいい人たち」と言うシバの指先が唇に伸びていないことに、ホッとした。
お弁当のおかずも、冷凍もののレンチンではなく、どれも手が込んでそうに見える。
「でも、千葉に住んでるのに、何でわざわざここを受験したんだ?」
その瞬間、どこか苦しげだったシバの表情が、真剣味を増した気がした。
「この学校に、会いたい人がいたから」
声にも、今までなかった力強さを感じる。
「へ……、へぇー」
間近から向けられる真剣な眼差しに耐えきれず、俺はさりげなく視線を膝の上の弁当へと落とした。
「会いたい人がいた」ってことは、その人がこの学校にいたから受験したってことだよな? 年上の彼女ってこと?
でも、すでに付き合っている相手なら、「彼女がいたから」と説明するのが普通だよな……。ってことは、シバの片思いってこと?
『シバ』と『片思い』。
相容れなさそう二つの単語を頭に浮かべ、弁当箱から卵焼きを拾い上げる。
だしが効いているはずの卵焼きが、今日はあまり味気がしなかった。
横顔に感じていた視線も消え、隣から静かな咀嚼音が聞こえ始める。
シバが転校したのは中3の夏だから、転校先に先輩はいない。
だとしたらうちの中学の先輩? でも、少なくともバスケ部の女子の先輩でこの高校にきた人はいない。人見知りのシバにバスケ部以外で接点のあった先輩がいたとは思えない。
そこまで考え、もう一つ大事なことを思い出した。……そうだ。確かシバは中3のとき……。
相手が井筒や久我山なら、「会いたい人って誰?」と即行で聞いていた。でも、なぜかシバにはそれができなかった。知りたいのに、聞くのが怖い。
あのときもそうだった。だから俺は――。
「……まぁ……。お前なら、絶対にうまくいくから。頑張れや」
卵焼きを頬張ったまま、気のない調子で返す。
相手も知らないのに「絶対にうまくいく」と断言するのは、随分といいかげんな発言だと自分でも思う。
何か別の話題をと頭を巡らせるが、すぐには浮かばない。その隙に、シバからブーメランが飛んでくる。
「サクは? 今はそういう相手はいるの? 彼女とか好きな人とか」
その言葉で、シバの「会いたい人」というのが「そういう相手」だと確定してしまった。知りたいのに、聞きたくなかった事実。
地味にショックを受けていることに、成長のない自分を痛感させられる。
中学の頃と同様に、そのショックは幼なじみが一丁前に恋をして、自分一人がお子様の世界に取り残されていく寂しさだと自分に言い訳した。
「俺は……俺も……、高校で、デビューするんだよ!」
ムキになって言うと、シバが不遜に口元を緩めた。
「ってことは、今はいないってことだな?」
「俺は高校で10センチ背が伸びて、バスケでレギュラーになって彼女もできる予定だから!」
「身長と彼女はともかく、バスケは裏切らねーから。頑張れや」
「なんでバスケだけなんだよ!」
睨みつけながらも、ぎこちなかった空気が昔と同じくだらなさに変わっていて、そのことを心から嬉しく思っていた。

